第78話 たった一人だけの特別
「何、を……?」
突然膝枕される形になり、頭が真っ白になる。
そんな空の頭で理解出来るのは、後頭部の凄まじく柔らかい感触と、葵が慈しむような笑みを見せている事だけだ。
「せんぱいへのお礼って言ったじゃないですか」
「お礼を言うべきなのは俺の方だと思うんだが」
そもそも空のご褒美という名目で話したのだし、そんな面白くない話を葵は聞いてくれた。
それだけでなく、彼女は空の境遇に怒り、今の生活が続いて欲しいと思ってくれているのだから、間違いなく空の方が感謝するべきだろう。
けれど反論に葵は柔らかい微笑を浮かべ、頭を抑えてくる。
強い力ではないが有無を言わせない何かのせいで、体を起こす事が出来ない。
「じゃあせんぱいを癒す為、でどうでしょうか?」
「癒すも何も、傷付いてなんかないぞ?」
「それはせんぱいが傷付く事に慣れてしまっただけです。諦めた、と言った方が良いのかもしれません」
「…………仕方がないだろ。誰も助けてくれなかったんだから」
虐められるのも、教師や両親が寄り添ってくれなかった事も仕方がない。
彼等がそういう人間ならば、孤独の苦しさや誰にも頼れない寂しさは、捨てなければならないのだ。
諦観と共に呟けば、葵の瞳が悲しみの色を帯びる。
「そう、ですね。今までのせんぱいは、そう生きるしかなかった。でも、今は違うじゃないですか」
「……それは」
「せんぱいの考え方では、私に甘えられない事も、頼れない事も分かってます。私が、そうでしたから」
「ごめん、な」
葵は空を恩人と言ってくれたが、やはり一人で頑張るのは辛かったのだろう。
膝枕されたままではあるが心からの謝罪をすると、葵がゆっくりと首を横に振った。
「謝らないでくださいよ。せんぱいのお陰で私は強くなれたって言ったでしょう?」
曇りのない笑顔が、優しく空の頭を撫でる指使いが、今は空を苦しめる。
唇を引き結んで沸き上がる感情を堪えた。
「それに、せんぱいは私を甘やかしてくれてます。せんぱいが甘やかし過ぎて、我儘になっちゃったんですからね?」
「今までの事なんて我儘でも何でもない。葵はもっと甘えていいんだぞ?」
過ちは償わなければならない。勿論、それだけの為に葵を甘やかしている訳ではないが、出来る限りの事はすべきだろう。
彼女が空を必要としなくなるまで。彼女が空と同じ考えを辞め、空以外の人に甘えられるようになるまで。
励ましの言葉を送ったようで、けれども実際は懇願をすれば、葵がむっと唇を尖らせた。
「私だけじゃあ不公平です。せんぱいも私に甘えてください」
「俺はいいんだ」
「よくないです。……同じ考えを持つ者同士なら、お互いを例外として甘えられると思いませんか?」
「例外、か?」
空は未だに誰かに甘えるのを忌避している。他人を信じる事を避けていると言ってもいい。
勿論それは友人である晶や朝陽も同じであり、嫌がらせの件を除いて自ら頼る事は殆ど無かった。
なにせ空は前向きな発言をしておきながら、頭の片隅には裏切られたり離れるかもしれないという疑念をいつも抱いているのだから。
唯一の例外は葵だろう。彼女の押しの強さに負けて、家に入らせたり晩飯を任せている。
それでも空の方から甘える事はほぼ無いのだが。
この考え方はこれからも変えられないと思っていたのに、葵の言葉が胸に響いた。
「はい。私はせんぱいだけに甘えられるようになりました。だから、せんぱいも私にだけは遠慮せずに甘えていいんです」
「でも、俺は――」
どうしても、他人に甘えられない。甘え方が分からない。甘えるのが怖い。
分からないのなら、怖いのなら、一人で何でもすればいい。生きて行けばいい。
やんわりと首を振れば、葵が仕方ないなぁという風に笑った。
「分かってます。せんぱいにあれこれ言っても、絶対納得しないって事くらい。なので、私が強引に甘やかします」
そう言って葵は空の頭を抱え込む。
空の視界が真っ暗になり、柔らかい感触と甘い匂いに包まれた。
膝と母性の塊に挟まれて、身動きが取れなくなってしまう。
「私達は親に見捨てられて、一人で何とかしようとここまで来ました。そんな私達だからこそ、お互いの辛さが分かると思うんです」
「あお、い」
「辛さが分かっているんです。絶対にせんぱいを一人になんてしませんよ。だから、私の前でだけは弱さを吐き出していいんです」
「……っ」
優しさに満ちた甘い声が、空の心を乱す。
誰にも頼らないと固く誓った想いがあっさりと壊れ、目の奥が痛くなった。
葵にバレる訳にはいかないと、ほんの少しだけ彼女に身を寄せる。
「……辛かったよ。苦しかったんだ。教師にも親にも頼れなくて、必死に耐えるしかなかった」
「はい」
「いじめはどんどん酷くなって、運動着や教科書が無くなる事も多かった。どうしようもないから買ってくれっていったら、怒られたんだ」
「せんぱいが怒られる理由なんてありませんよ」
「俺に残されたのは勉強だけだったから頑張ったけど、クラスメイトには『勉強しか取り柄がない』って馬鹿にされた」
「勉強が出来るのは凄い事なんですよ。せんぱいは誇っていいんです」
「誰も信用出来なくなって、そんな状態でこっちに来て、これまでの態度じゃ駄目だって、誰にも目を付けられないような立場を目指したんだ」
「私が壊しちゃいましたけど、せんぱいが頑張った事、知ってますよ。身だしなみにもすっごく気を付けてますよね」
口にしたところでどうにもならない思いを、葵は全て受け入れてくれる。
その嬉しさに、頬から何かが流れて止まらない。
「親も、教師も、クラスメイトも、友達も、ホントは誰一人信用してない。でも、何よりも俺自身を信用出来ないんだ」
「それは、どうしてですか?」
「一人で何でも出来るようになるって決意しながら、親の金でここに居させてもらってる。……結局、俺の決意は子供の我儘なんだよ。あいつらが言ったように、俺は逃げたんだ」
どれだけ努力しようと、親の力が無ければ空は生きていけない。
空の中学時代を誰も知らない場所へ行きたいと思ったのは、確かに逃げなのだ。
そんな状態で吠えようとも、何の説得力も無い。
だからこそ空は空自身を嫌い、疎む。
悔しさと情けなさに奥歯を噛み締めれば、細い指先が空の頭を撫でた。
「それは私も一緒です。私だって、親のお金で生きていますから。でも、そんなの知らんぷりしておけばいいんですよ。それにせんぱいは逃げたんじゃなくて、敵になるような人を見限ったんです」
「……え?」
有り得ない言葉を聞いた気がして、呆けた声が出てしまった。
体を硬直させる空の頭を、葵はゆっくりと撫で続ける。
「子供が一人では生きていけない事なんて親は知ってるはずです。なのに私達を見捨てたんですから、遠慮なく見限った上でお金を受け取ればいいと思いませんか?」
「それで、いいのか?」
空の頭に無かった考えに、思考が働かない。
ぼんやりとしたまま問い掛ければ「いいと思いますよ」とあっけらかんとした声が返ってきた。
「せんぱいはあれこれ気にし過ぎです。まあ、私が気にしなさ過ぎというのはあるでしょうけど」
「葵は、強いな」
ある意味で強か、ある意味で我儘な葵の考えに、尊敬の念すら抱く。
思わず小さく笑えば、くしゃりと髪を撫でられた。
「そんな事ありません。もし私が強いように見えるのなら、それはせんぱいが私を支えてくれているからです」
「そう、なのか?」
「はい。せんぱいの考えに私は救われました。だから、せんぱいは救われるべきなんです。いえ、救われなければいけません。それをするのが私じゃダメですか? たった一人の例外に、させてくれませんか?」
僅かに声が震えたので、今までのように空が頼らないと思っているのかもしれない。
だがここまで弱さを見せ、受け入れられたのだ。たった一人になら、甘えても許されるのではないか。
そう思った途端に歓喜が胸を満たし、再び目から何かが流れ出す。
「…………なあ。今日を乗り越えたご褒美の、二つ目をもらっていいか?」
「勿論いいですよ」
「じゃあ、少しだけ、このままで居させてくれ」
これまでの空ならば、絶対にしなかった行為。
しかし、この行為で葵への返答にはなったはずだ。
空の予想通り、安堵と喜びが混じった笑い声が聞こえてくる。
「ふふっ。少しと言わず、気の済むまでここに居てください」
「あり、がとう」
誰かに受け入れてもらえる事が嬉しくて、葵という温かい存在が傍に居てくれる事が嬉しくて。
葵にしがみついて、涙を流し続けるのだった。




