第77話 空の中学時代
「今更だけど、俺が虐められてたのは言ったよな?」
随分前に伝えた事を改めて口にすれば、隣に居る葵の顔が僅かに曇った。
「はい。詳しい内容とかは知らないですけど」
「時期は中学二年生になったばっかりだな。内容は普通の虐めだぞ。靴に画鋲を仕込まれたり、クラスで無視されたり、運動着を隠されたり、机に落書きされたり。ああ、いきなり水を掛けられた事もあったっけ」
言葉にした事で数年前の苦しい時期を思い出し、胸がズキリと痛む。
表に出さないように気を付けて微笑を浮かべれば、葵が空のシャツの裾を掴んだ。
澄んだ蒼の瞳が、泣きそうに揺れている。
「それは普通じゃありません。普通と思っちゃダメなんです」
「そう、だな。ありがとう」
空が考えつつも決して思わなかった言葉を口にされ、僅かに胸が軽くなった。
「それで、原因は何ですか?」
「…………分からない」
「分からない?」
「ああ。いきなりクラスで俺の無視が始まって、それから誰に何を聞いても答えてくれなかったんだ」
あの時の事は、今でも思い出せる。
教室に挨拶の声を響かせても、誰も返事をしてくれない。
クラスメイトに話し掛けても、まるで空が居ないような態度を取る。
唐突に始まった無視に、最初は頭が真っ白になった。
「今でも、何で虐められたのか分からない。何も、悪い事はしてなかったはずなのにな」
決して、他人に迷惑を掛けるような事はしていなかったはずだ。
なのに、何故か突然空が虐めの標的にされてしまった。
実は誰かに恨みを持たれていたのか、それとも空がクラスに受け入れられない何かを持っていたのか、単なる気まぐれで標的にされたのか。
胸に諦観を抱いて肩を竦めれば、葵が驚きに目を見開いた。
「そんな無茶苦茶な話って、あるんですか?」
「まあ、あるんだろうさ。所詮他人の心が変わる時なんて一瞬だし、何が切っ掛けなんて分からないんだから」
前日まで仲良くしていたクラスメイトが無視するのだ。
そんな状況で他人を信じられる訳がない。
葵とて友人だった人物から裏切られた経験があるので、否定出来ないはずだ。
それでも悔しさを滲ませており、納得出来ないようだが。
「そう、かもしれませんね。因みに、担任の先生には伝えたんですか? そこまで酷い虐めなら、何かしてくれると思うんですが」
「伝えたよ。『お前が何か悪い事をしたから、そういう事をされたんじゃないか』だってさ」
「な――」
「後は『遊びの延長だろうから、お前が神経質になってるだけだ』とも言われたな」
「ふ、ふざけてます! それが先生の態度なんですか!?」
葵が声を荒げ、形の良い眉を吊り上げる。
当時の空と全く同じ感情を抱いてくれた事に、頬が緩んだ。
「それが俺の担任の先生だったんだよ。結局、話はそれで終わった」
「生徒を何だと思ってるんですか!」
「さあな。今になって思えば、自分の受け持ったクラスで虐めがあるなんて認めたくなかったんじゃないか?」
虐めがあれば対応に追われるし、最悪の場合教師の評価が下がるのかもしれない。
だからこそ、虐めがあるという現状を受け入れる訳にはいかなかったのだろう。
フォローにもならないフォローをすれば、葵が拳を握り込んだ。
「そんなの……。そんなのって……!」
「何にせよ、教師は信用出来ない。だから両親に相談したんだよ」
「……その、結果は?」
空が一人暮らしをしている事からして、何となく答えを察しているのだろう。
曇った顔には、空を気遣う色が浮かんでいた。
「その前に、俺の両親ってワーカーホリックなんだよな」
「は、はぁ」
突然話題を変えた事で、葵が怪訝な顔になる。
申し訳ないとは思うが、説明しておかないと何が何だか分からなくなるだろう。
「で、二人共滅茶苦茶優秀らしくて、息が合ったから結婚したんだとさ」
「それは良かった、んでしょうか?」
「両親からすれば良かったんだろうな。問題は、息子にも同じくらいの能力を期待したんだ」
「勉強はまあ、せんぱいなら問題ないとしても、別の所でもですか? ……もしかして」
空の話を虐めに繋げた葵が、顔を青くした。
「多分、正解だ。『虐められるような問題のある息子に育てた覚えはない』って怒られたよ。どっちも殆ど家に居なかったくせにな」
仕事が忙しいからと、物心ついた時にはあまり両親と顔を合わせていなかった。
小学生に上がった頃には、数日両親の顔を見なかった事もある程だ。
晩飯の為の金を用意してくれたので、育てたというのは間違っていないのだろう。
それで納得出来るかは別の話だが。
「怒られた後は『自分で解決しろ』って言われて丸投げだ。流石に辛くて泣きついたら『弱い息子に構っている程暇じゃない』って見捨てられた」
「それが親のやる事ですか!?」
「こう言うのも何だが、葵も似たようなものだろ? 子供を見捨てる親は居るんだよ」
空と葵では環境が違うので、一概に同じとは言えない。
けれども、親という存在が絶対的な味方でない事は共通している。
諭すように告げれば、葵が俯いて歯噛みした。
「……そう、ですね」
「何にせよ、信用出来る人が俺の周りに居なかった。だから誰も信用しないように、頼らないようになりたかったんだ」
「だから、せんぱいはあの時私にあんな事を言ったんですね」
約一年前に葵へ伝えた言葉は、空の目指すものだった。
今でも抱いた思いは出来る限り変えないつもりだし、あんな決意をしなければ空の心は壊れていただろう。
しかし葵に空の意見を押し付けた事だけは、間違っていたと断言出来る。
だからこそ、彼女の力にならなければと内心で改めて決意した。
「ああ。そして俺は両親に見捨てられてから二年生の終わりまで、酷くなる虐めに耐え続けた」
「三年生の頃は、どうしてたんですか?」
「俺が周りを無視してたな。新しいクラスメイトも俺が虐められてたのを知ってたのか、誰も話し掛けて来なかった」
誰も信用出来ないのだ。わざわざクラスメイトと仲良くする理由が無い。
唯一の救いは、三年生になると虐めが止んだ事だろうか。
だからといって二年生の頃のクラスメイトを許すつもりはないのだが。
「そのまま高校入試になってな。あの学校に居る奴等が誰も居ない場所に行きたかったんだ」
「だからこっちに来たんですね」
「ああ。両親に無理言ってな」
「……酷い親でしたけど、あっさり許してくれたんですね」
意外に思ったのか、葵が首を斜めにした。
しかし、両親の思考を考えればおかしな事ではない。
肩を竦め、許してくれた理由を述べる。
「既に俺は見捨てられてたからな。ホント、あっさりしてたよ。『虐めに屈して逃げた息子の顔なんて見たくない』って言われたけどな」
「誰も知り合いが居ない場所に行くのが逃げなんですか!?」
「両親はそう判断したんだ。で、これ以上迷惑を掛けない事を一人暮らしの条件に出された。あの二人は金だけ用意して、俺に関する事に何一つ首を突っ込みたくないんだよ」
「…………待ってください。じゃあ、今回の件はかなりヤバかったんじゃないですか?」
顎に手を当てて考え込んでいた葵が、今回両親が来た理由について察した。
既に終わった事なので、心配する必要はないと微笑を浮かべる
「小言を言われただけだから、大丈夫だ。嫌がらせに関してはもう終わった事だしな」
「なら良かったです。……引っ越したりとか、しませんよね?」
「するか。実家に戻るのなんて勘弁だよ。あっちもそんな事は望んでないだろうし」
実家に戻るのは、年に一度の空の状況を教える時だけで十分だ。
今年は戻らなくていいだろうし、去年はその時に葵に会ったのだから、凄まじい偶然と言える。
空の言葉に、葵が胸を撫で下ろす。
「なら、良かったです。今の生活は凄く幸せですから」
「俺もだよ。……こんなに穏やかな生活が出来るなんて、思ってなかった」
中学時代とは違い、仲の良い友人が居る。
こうして話を聞いてくれる人が居る。
それがどれだけ有難い存在なのか、空には痛い程に分かるのだ。
くすりと笑みを零してソファに凭れる。
すると、何故か葵が大きく深呼吸した。
「せんぱいの事、話してくれてありがとうございました。……これは、そのお礼です」
葵が空の頭へと手を伸ばす。
以前ベッドでした時のように頭を撫でるのかと思ったのだが、思い切り引っ張られた。
「うわっ!?」
驚きに声を上げただけで対応が出来ず、彼女の方へと体を傾ける。
押し倒してしまうかと思ったのだが、柔らかいものに頭を乗せられたのだった。




