第72話 庇ってくれたお礼に
スーパーでステーキを買って、家に帰ってきた。
「さてと。お腹空いちゃいましたし、早速作りますね」
「葵が空腹を我慢出来るなら、風呂に入ってからでいいぞ。というか俺が入りたい」
学校で頭を洗ったりタオルを濡らして軽く体を拭いたとはいえ、まだ汚れが残っているはずだ。
葵は足元が軽く濡れただけだが、こんな体で晩飯にありつきたくはないだろう。
しかし空の提案に葵が小さく首を振る。
「私は足を洗うだけで済みましたし、大丈夫です。なのでせんぱいがお風呂に入っている間に作っちゃいますね」
「じゃあ風呂から上がったら手伝うよ」
「手伝いなんて気にせず、一番頑張った人はゆっくりお風呂に入ってくださいな」
「……分かったよ。ありがとな」
これまで、バイトが休みの時は空が出来る限り料理するようにしていた。
しかし今日は意地でも空に料理させないつもりらしい。
微笑の奥の強い意志を感じ取り、諦めてお礼を告げた。
風呂のスイッチを入れてリビングに戻って来ると、葵がキッチンから顔を出す。
可愛らしい顔立ちは、期待と不安に彩られていた。
「その、私が料理するご褒美をもらいたいんですが、ダメ、ですかね……?」
「なーんかロクでもない事考えてるんだろうけど、取り敢えず言ってみろ」
空に手伝わせないようにしておきながら、ご褒美を要求する。
少々理不尽ではあるし、内容が気になるものの、出来る限り我儘を聞くと決めたのだ。
一応承諾すると、葵がおずおずと話し始める。
「私って、せんぱいが家に居る時は自分の家のお風呂に入ってるじゃないですか。でも、流石にこの時間から移動するのは面倒なんですよね」
「だから俺の家で風呂に入りたいと」
「です。ぶっちゃけ、せんぱいが居ない間に使わせてもらってますし、今更せんぱいが居ても変わらないと思うんですけど」
「ふむ……」
元々は空が居る時に葵が風呂に入ると、万が一が起きるかもしれないと思っての条件だった。
けれど彼女に手を出すつもりはないし、晩飯を終えて家に帰り、風呂を終えてから空の家に戻るのは確かに手間だ。
既に葵が空の家の風呂を使うようになって約二ヶ月経っているし、ここで意地を張っても仕方がないと思いなおす。
「分かった、いいぞ。これからも俺が居る時に使っていいからな」
「ほ、ホントですか!? いいんですね!?」
「よくよく考えたら、神経質になり過ぎてたしな。でも、男の家って事は忘れるなよ?」
「忘れませんって。ありがとうございます!」
一応釘を刺したものの、満面の笑みを浮かべる葵に効果があったのか分からない。
キッチンに戻った葵に苦笑を落とし、着替えを取りに自室へと向かうのだった。
ステーキで腹を膨らませ、幸福感に浸りたくなるがぐっと堪えて片付けを終えた。
ソファに凭れて体の力を抜けば、葵が視界の端にある棚を漁りだす。
中に何が入っているかは教えられているので、慌てて首を捻った。
「それじゃあお風呂に入ってきますね」
「ああ。ゆっくりしてこい」
「はーい」
間延びした声を漏らし、葵が風呂場に向かう。
扉の閉まる音がしてからそれほど間を置かず、シャワーの音が聞こえてきた。
異性が同じ家の中でシャワーを浴びているという事実を実感し、頬がじわりと熱を持つ。
「俺が居ない時はいつもこんな感じなんだろうし、緊張してどうする」
多少は空を警戒してくれているとは思うが、それでも葵からすれば空の家の風呂に入るのは慣れているのだ。
ならば空が変に意識する訳にはいかないと、無心を心掛ける。
しかし聞こえてくる水音を妙に意識してしまい、全く落ち着かない。
「ああもう。退避だ退避」
ソファから立ち上がり、自室へ向かう。
扉を閉めれば、完全に音が聞こえなくなった。
更なる対策の為にベッドへ寝転び、イヤホンをしてスマホを弄る。
暫くすると、空の部屋の扉が開く音が僅かに聞こえた。
「こっちに居たんですね、珍しい」
「まあ、そういう時もあるだろ」
イヤホンを耳から外して、露骨に誤魔化す。
特に気にしていないのか、葵が微笑を浮かべつつ近付いてきて、ベッドの端に腰掛けた。
空の足元だったので、慌てて壁際へと両足をずらす。
髪や肌の手入れをしていたはずなので、風呂から上がったばかりではないはずだ。
それでも僅かに上気した頬が色っぽく、空の心臓がどくりと跳ねる。
「事情聴取とかされましたし、もしかしてお疲れですか?」
「多少は疲れたけど、それなら葵も一緒だろ」
「あはは、確かに。でも、せんぱいと私では明確に違う所がありますよ」
「違う所?」
クラスが違うはの当然だが、葵はそんな事を言いたい訳ではないだろう。
不思議に思って首を傾げれば、彼女がふわりと柔らかい笑みを浮かべる。
「はい。私を庇って水に濡れた事です。あの時はごたごたしてたのであっさり終わらせましたけど、改めてありがとうございました」
「元々庇うって話だったからな。お礼なんていいさ」
女性を守るのは当たり前だし、事前にそうすると話していたのだ。
何度も感謝の言葉を送られる程ではない。
しかし葵は違うのか、眩しいものを見るように目を細める。
「それでも言わせてください――って言うと堂々巡りになるので、これはせんぱいへのお返しです」
葵がそう言って空との距離を詰めた。
彼女特有の甘い香りと、シャボンの香りが空の鼻腔を掠める。
一気に心臓の鼓動が早くなり、彼女から逃げるべく枕に乗せていた頭を僅かに上げた。
「な、何するんだよ」
「まあまあ、ジッとしててくださいな」
空の警戒心を、慈愛の笑みが解す。
様子を窺っていると、頭に手が置かれた。
真っ白い指先が、ゆっくりと空の髪を撫でる。
「本当にありがとうございました。それと、お疲れ様でした」
「……何で頭を撫でられてるんだ?」
他人に頭を撫でられたのは、これが初めてだ。
年下の後輩に撫でられたという羞恥が沸き上がるのと同時に、心地良い感覚が胸を満たす。
気付けば、頭を再び枕に置いていた。
「ようやく解決したので、せんぱいを労おうかと。せんぱいはすっごく心が強いですけど、何も感じなかった訳じゃないでしょう?」
「まあ、そうだな」
嫌がらせを受けた際の感情の止め方を知っていたので、あまり動じはしなかった。
それでも、負の感情が無かった訳ではないのだ。
ぽつりと呟くと、葵がほんの少しだけ悲しみを混ぜた微笑を落とす。
「なら、こういう時くらい甘えてくださいよ。少しくらい辛かったって言っていいじゃないですか」
「終わった事だろうが。だから何も言わない」
嫌がらせをされている最中ですら弱音を吐かなかったのだ。今更弱音を吐くのもおかしな話だろう。
けれど、空の頭を撫でる優しい手つきが、空と葵の間に張った薄い壁を壊す。
「……でも、折角なら、もう少し撫でてもらおうかな」
「ふふっ、素直じゃないですねぇ」
「悪いかよ」
「まさか。ぜんぜん悪くないですよ」
楽し気に、嬉しそうに笑う葵から視線を外し、スマホを眺める。
細い指先は、それでも空の頭を撫でていた。




