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第64話 追い込み

「よし。それじゃあ夕方まで、葵の分からない所を教えるか」

「よろしくお願いします!」


 ご褒美を約束したからか、葵が今日一番のやる気を見せる。

 テーブルの反対側からノートを覗き込もうとした所で、彼女がこてんと首を傾げた。


「そっちからだと見辛くないですか?」

「見辛いけど仕方ないだろ。何とかするさ」

「何とかって……。無理するくらいならこっちに来ればいいでしょう?」

「え゛」


 呆れ気味の苦笑を零した葵が、小さく手招きする。

 狭いテーブルではないので空が隣に行っても十分なスペースはあるものの、距離が近くなり過ぎる。

 何度か彼女の頭を撫でる為に近付いた事があるので今更戸惑うのもどうかと思うが、何も感じないのは無理だ。

 固まる空を見て何を思ったのか、葵が小さな唇を尖らせる。


「そんなに嫌そうな顔しなくてもいいじゃないですか」

「嫌って訳じゃないけど」

「ならこっちに来てくださいな。避けられてるみたいでちょっと悲しいです」

「……教科書とかノートを見る時に、下手すると腕とか当たるぞ?」

「今更そんな事気にしてるんですか? その程度じゃ怒らないですって」


 恥ずかしくはあるが思い切って注意すると、呆れたと言わんばかりに肩を竦められた。

 とんとんとテーブルを叩いて催促されたので、覚悟を決めて葵の傍に行く。

 彼女の教科書等を覗き込まなければいけないので、ソファの端に居るいつもと違って腕や足が触れてしまいそうな距離だ。

 甘い香りが鼻を掠め、空の心臓を虐める。


「さてと、お願いしますね。せんぱい!」


 テスト終わりのご褒美の方に意識が集中しているからか、葵はいつも通りの溌剌はつらつとした反応だ。

 空だけが彼女の存在を強く認識しているみたいで、何故だか無性に恥ずかしくなる。

 しかし逃げられないどころか、これから暫く彼女とこの距離で過ごさなければならない。

 葵の勉強以外の事に意識を持って行っては駄目だと自らに言い聞かせ、頷きを返す。


「……ああ」


 それから葵の勉強を見たが、時折柔らかい腕や太腿が空の体に触れるせいで、内心ではずっと落ち着かないのだった。





「はひぃ……。私なりに頑張りはしましたが、やっぱり疲れますねぇ……」


 葵の勉強を一先ず見終わったところで、彼女がカーペットに倒れ込んだ。

 ようやく甘い匂いや柔らかな感触、すぐ傍にあった整い過ぎている顔から離れられると、安堵に胸を撫で下ろす。


「俺だって長時間勉強するのはそれなりに疲れるし、仕方ないさ。ここまで良く頑張ったな」

「ありがとうございます……。これを晩ご飯の後もするんでしょう? 分かってはいましたけど、苦行ですね」

「晩飯の後はちょっとだけだ。既に結構な時間勉強してるし、根を詰めすぎるのも良くない」

「……助かります」


 追い込みをするとは言ったが、寝るまで勉強漬けにさせるつもりはない。

 力の入っていない声を漏らして寝転ぶ姿は、言葉通り疲労が色濃く見える。

 

「お疲れさん。俺は晩飯の買い物に行ってくるよ。葵は飯が出来るまで休憩してていいからな」

「すみません。ホントは付いて行ったりお手伝いしたいんですけど、今日と明日はお願いします」


 この週末の追い込みで葵がかなり疲れるだろうと事前に予測しており、今日と明日は空が晩飯を作る。

 葵が気に病まないようにとフォローを入れれば、ふにゃっと力の抜けた微笑が返ってきた。

 いつもと違った笑みも可愛らしいなと思いつつ、玄関に向かう。


「あいよ。それじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。気を付けてくださいね」


 葵に家の鍵を渡してから、何度か彼女を残してバイトに行く事があった。

 その度にお決まりの台詞を口にし、これまたお決まりの台詞が返ってくる。

 家族ではない人に送り出されるのは未だに慣れないが、今回も空の胸が温かくなった。

 とはいえ今までと違って葵は玄関まで見送りにきておらず、未だにリビングのカーペットに寝転んでいるのだが。

 疲れ切っても声だけは空に届けた葵にくすりと笑みを零し、彼女が喜ぶ晩飯を作ろうと意気込むのだった。





 晩飯を摂り終えた後は、もう一度追い込みだ。とはいえ宣言通り何時間も勉強はしない。

 今回は葵の勉強を見ながら空も自分の勉強をしていると、あっという間に時間が経った。

 解放感からか葵が思い切り伸びをしたので、強調された胸から慌てて目を逸らす。


「んー! 何とか乗り切れたー!」

「ホントお疲れ様だ。後は好きに息抜きしてくれ」

「はーい。あ゛ー、肩が凝ってるぅ……」

「すげー声出したな」


 美少女の口から出たとは思えない低い声に、苦笑を零した。

 引きはしないものの、やはり相当疲れたのだろう。

 ゲームをする気分ではないようで、肩を揉んだり腰を触ったりしている。


「体中バッキバキなんですから、仕方ないじゃないですか。あー、ホントに酷い」

「……そんなに酷いなら、肩くらい揉むぞ?」


 いくら葵がやる気を出したとはいえ、長時間勉強させたのは空だ。無理をさせ過ぎたかもしれない。

 だからこそ空に出来る事はないかと考え、つい有り得ない考えを口にしてしまった。

 一瞬で頭が冷え、思い切り首を振る。


「今のナシ! すまん、変な事言った!」

「そんなに慌てなくても、私を思っての発言だって分かってますよ。……にしても肩揉みですか」


 どうやら葵は空の発言に悪感情を抱いていないらしく、苦笑が返ってきた。

 その後彼女は考え込み始めたが、「そうだ」という声と共に顔を上げて空を見つめる。

 美しい蒼の瞳には、期待が秘められていた。


「折角ですし、せんぱいさえ良ければ肩を揉んでくれませんか?」

「ま、マジで言ってんのか? 葵の肩に触れるんだぞ?」

「触れないと揉めないんですが。というか、言いだした側が戸惑わないでくださいよ」

「いや、その、すまん。……ホントに良いのか?」


 勉強を教える為に隣に並ぶのと、肩を揉むのは全く違う。

 念には念を入れて尋ねれば、迷う素振りすら見せずに頷かれた。


「はい。折角ですし、ソファでゆっくりしながら揉んでいただけると嬉しいです」

「場所が変わるだけだし、別にいいけど」

「ありがとうございます!」


 肩とはいえ男に思い切り触られるのに、葵は満面の笑みを浮かべている。

 喜んでいるのならこれでいいはずだと自らを納得させ、ソファに座った葵の後ろに回り込む。

 覚悟を決めて彼女の肩を少しだけ揉むと、ぴくりと体が跳ねた。


「んっ……」

「い、嫌だったか?」

「嫌じゃありませんよ。誰かに肩を揉まれるのが初めてで、ちょっとくすぐったかっただけです」

「そうか。なら続けるぞ?」

「遠慮なくどーぞ」


 少し弾んだ声色での返事からすると、相当気に入ったようだ。

 体の力を抜いてリラックスしてくれるのは良いものの、反対に空は全くリラックス出来ない。


(何だよこのうっすい肩。ちょっと固いけど、力を入れたら折れそうだ)


 女性という存在を掌からこれでもかと感じ、どくどくと心臓が暴れる。

 ここで動揺したら恥ずかし過ぎるので必死に感情を抑え込んだ。

 そのままゆっくり肩を揉み続けると、葵が大きな溜息をつく。


「はぁ……。ちょっと、これは、堪らないですねぇ……」

「そんなにか?」

「はい。控えめに言って最高です。毎日してもらいたいくらいですよ」

「毎日って、そんなに肩が凝るような事してるか?」


 葵はほぼ毎日ゲームしているが、そこまで肩は凝らない気がする。

 原因が気になって尋ねれば、葵が僅かだが空へと顔を向けた。

 羞恥が混じったような視線と赤らんだ頬に、何故だか背中に冷や汗が流れる。


「……えっち」

「は!? な、何で!?」


 決して変な話題ではなかったはずだ。

 素っ頓狂な声を上げて問い詰めると、葵が小悪魔のような笑顔を浮かべる。


「肩が凝る原因、何だと思います? ヒントは男性に無くて、女性にあるものですよ。ま、一部の女性は例外ですが」

「………………誠に申し訳ございませんでした」


 特大のヒントにすぐ正解を察し、誠心誠意謝罪した。

 葵のような素晴らしい物を持っていると、さぞかし凝るのだろう。

 元々葵の後ろに立っていたせいで、つい母性の塊を見下ろす形で視線を向けてしまう。

 肌色の素晴らしい谷間と水色の布地が視界に入ってきたので、慌てて視線を外した。

 

「ふふ。私の大変さを分かってくれたら、それでいいですよ」

「いいのか?」

「はい。でも、せんぱいの気が済まないなら、このまま肩を揉んでくださいな♪」


 どう考えても発言が駄目だったし、下手をすると空の視線がバレていた可能性がある。

 嫌われる可能性すらあったのだが、あっさり許されただけでなく、まだ肩に触れていいらしい。


「……葵が満足するまで揉ませてもらうよ」


 邪な感情を頭から追い出し、無心で肩を揉むのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今更戸惑うのもどうかと思うが。たぶん皆思ってるな。一緒にいる時間は多いけど、基本的に近くで好き勝手してる時間ばかりだからすぐそばにいるのは照れるのかな?  避けられてるみたいでちょっと。…
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