第63話 やる気を出させる為に
葵のお陰で五月は特に問題なく過ごし、週末となった。
この二日間はバイトを休んでおり、葵のテスト勉強に付き合うつもりだ。
当然ながら勉強は夜からではなく、昼から行っている。
「こんな時間から勉強するなんて、受験以来ですよぉ……」
「そりゃあそうだろうな。ほら、取り敢えず今は手を動かせ手を」
葵の勉強に付き合う事にしたし、分からない所があれば答えるとは言った。
しかし初めから全てを答えてしまえば、彼女の為にならない。
心を鬼にして作業を促せば、露骨に顔を顰められたものの、ゆっくりと手を動かし始める。
「はーい……」
「俺はさっさと自分の分を終わらせるから、まずは暗記系から勉強してくれ。こういうのはひたすら書くのが一番だからな」
「うへぇ……。こう、楽に覚える方法とか無いですかね」
「無いな。むしろ集中しないといつまで経っても覚えられないぞ」
「……現実は非情ですね」
空が甘い考えを断ち切った事で、葵が苦虫を嚙み潰したような顔になった。
とはいえ赤点近くという自覚があるからか、それとも空が傍で勉強しているからか、素直に集中し始める。
残念ながらそれも長くは続かず、一時間程度で音を上げた。
「う゛あ゛ぁぁぁ……。漢字が、私の頭をかき回すぅ……。あと英語も残ってるのにぃ……」
「もうちょっとで国語は終わるんだろ? ならあと英語だけ頑張れ。終わったら休憩するから」
「き、休憩ですか。じゃあもうちょっとだけ、頑張ってみます」
「その意気だ」
僅かながら元気が戻ったようで、葵がのろのろと手を動かし始める。
それから約一時間後。暗記系を終えた葵は、ばたりと机に突っ伏した。
「も―無理。頭から煙出そう」
「お疲れ様だ。約束通り休憩するぞ」
「やったぁ……」
覇気のない喜びの声に苦笑を零しつつ、キッチンに向かう。
飲み物とお菓子を持ってくると、虚ろだった蒼の瞳に生気が宿った。
「長時間の勉強はメリハリを付けないとな。ほら」
「チョコレートだぁ……。はー、生き返るぅ」
頭を酷使した後はやはり糖分だ。
葵が満面の笑みを浮かべているので、相当辛かったのだろう。
チョコレートの小包を纏めて開け、一気に口の中に放り込むのはいかがなものかと突っ込みたくなる。
けれど頬を膨らませてもごもごと口を動かす姿は、悔しい事に可愛らしい。
「にしても、やっぱり一夜漬け――この場合は二夜漬けか?――は辛そうだな」
「はい。自業自得ではあるんですけど、やっぱり辛いです」
空ですら一日中勉強するのは辛いのだ。
あまり勉強をしない葵には無理のある行動だろう。例え、それが自分の為であっても。
だからこそ彼女は文句を言ったり逃げたりしていないが、このまま続けるのも良くない気がする。
「うーん。赤点を回避する為ってだけだとやる気出ないよな」
「赤点回避の為に付き合ってもらってるんですから、やる気が出ないとか言える立場じゃないですよ」
「でも、実際そうだろ? 怒るつもりはないから、正直に言ってくれ」
「…………それはその、はい」
空の予想通り、葵が気まずそうな顔で小さく頷いた。
別段我儘とは思わないし、むしろ正直に言ってくれる方が有難い。
失望されないかと不安を抱えているだろう葵に、微笑を向ける。
「なら、何とかしてやる気を出させないとな」
「す、すみません」
「謝らなくていいって。そうだなぁ……」
やる気を出させるのに一番良い方法は、やはりご褒美がある事だろうか。
とはいえ、葵が喜ぶ事など思いつかない。
強いて挙げるのならば、以前のように一緒に外出するくらいか。
「テストが終わったらまた一緒に買い物に行くとか、どうだ?」
「それは嬉しいんですけど、別に買い物が好きとかじゃないですからね?」
「そうか、難しいもんだな」
どうやら、空の案は葵のやる気を出すには至らなかったらしい。
顎に手を当てて考え続けるが、良い案が思いつかず頭を勢いよく振る。
「うん、分からん。だから、葵の言う事を何でも一回聞くのはどうだ?」
いくらほぼ毎日夜遅くまで一緒に居たとしても、趣味趣向の全てを分かってはいないのだ。
素直に諦めて内容を葵に委ねれば、彼女の表情が固まった。
完全な無表情のまま口を開く姿を見て、何故だか背中に冷や汗が流れる。
「ホントに何でもですか?」
「いやまあ何でもとは言ったけど、俺に出来そうにない要求は辞めてくれると助かる。あくまで常識の範囲でだ」
「常識の範囲なら良いんですね?」
「お、おう、そうだな」
少々強引な提案をする時はあるが、葵は空が本気で嫌がる事はしない。
だからこそ「何でも」と言ったのだが、もしかすると間違ったのかもしれない。
しかし、今更発言を取り消すのは不可能だ。
妙な圧を発している葵の言葉に頷けば、蒼の瞳の奥に炎が灯った。
「なら、やります。二日間頑張れば良いんでしょう? やってやりますよ」
「……やる気を出してくれたのはいいんだけど、俺に何をさせるつもりなんだ?」
「それは秘密です。というかやって欲しい事が多すぎて、まだ決めてません」
「そんなに多いのか……」
どうやら、空の提案は想像以上に葵のやる気を引き出したらしい。
やって欲しい事が多いのは不安だが、面倒な事にはならないだろう。
苦笑を零す空とは反対に、葵が頬を蕩けさせ、だらしのない笑みを浮かべる。
「ふへへ、何してもらおっかなー。あれとか、あれとか。あれもいいなぁー。ふへっ」
「……俺、大丈夫だよな?」
今度はもう少しご褒美に縛りを付けようと思うのだった。




