第61話 不安を残しつつも
「はむっ、むぐっ……。む゛ー」
空のクラスで葵がひと悶着起こした後、いつもの四人で食堂に向かった。
そして現在、葵は苛立ちをぶつけるように、唸りつつも黙々と昼食を摂っている。
露骨に不機嫌な葵の様子を見て、晶と朝陽が不安げな顔つきになった。
「朝比奈さん機嫌悪くない? 何かあったっけ?」
「あの最悪な先輩が逃げてからは機嫌が良くなったと思ったんだけど……」
「どうせ教室での悪口を思い出してむかついてんだろ。もう終わった事なんだし、機嫌直せって」
「ん゛ー!」
絶対に嫌だと言うように、食べながら葵が抗議の声を上げた。
しっかり口の中を空にした後、ようやく彼女が言葉を紡ぐ。
「だって、あんなにせんぱいを馬鹿にしたんですよ? 思い出したらホントむかついてきちゃいました」
「取り敢えず一段落したんだし、それでいいじゃないか」
「ヤです。……でも、あのクソが居ない時に怒ってもしょうがないので、流石にこれ以上はやめときます。すみません」
「謝る必要なんかないって。ホントありがとな」
葵とクラスメイト達が一触即発の空気になるまで、空はあえて何も話さなかった。
彼女と事前に打ち合わせしたからなのだが、そもそも空が一人で葵と付き合っていると説明したところで、誰も納得しないと判断したからだ。
あの男子生徒の言う通り、情けない先輩だなと内心で苦笑しつつ、謝罪の言葉を送る。
すると葵は勢い良く首を振った。
「いえいえ。私がやるって言った事なので、せんぱいが謝る必要なんかありません」
「そう言えばさっきは名前で呼んでたのに、今は『せんぱい』」呼びなんだね?」
「そ、それは、名前で呼ばないと付き合ってる感が出せないかなーって思ったからで、今は、その……」
教室で名前呼びをした際は堂々としていたのに、朝陽に指摘されただけで葵が頬をうっすらと赤くする。
どうやら、あの場では羞恥が顔に出ないように抑え込んでいたらしい。
葵が珍しく照れたからか、朝陽が良い玩具を見つけたかのような笑みになる。
朝陽の隣の晶もにやにやとした笑みを浮かべているので、面白がっているのが丸わかりだ。
「へぇー。呼ばないの?」
「……それは、ちょっと」
「皇先輩、もしかして名前で呼ばれたくなかったりします?」
このまま葵を弄っても黙り込むと思ったのか、朝陽が標的を変えた。
ちらりと葵に視線をいただいたが、隠すようなことでもないのでさらりと告げる。
「いや、別に。というか俺だって名前で呼ぶように言ったんだぞ。駄目だったけど」
「せんぱい!? 何をバラしちゃってるんですか!?」
「駄目だったんだ。どうして?」
「えと、その、ですね」
晶が彼にしては珍しい満面の笑みを浮かべているので、かなり機嫌が良いのだろう。
当然ながら、その理由は葵が露骨に慌てているからだ。
普段なら軽く流しそうな葵だが、晶と朝陽に全く対処出来ていない。
「皇先輩って、葵ちゃんを名前で呼んでますよね?」
「ああ。名字で呼ぶと、変に勘違いする輩が居そうだって話になってな」
「なのに朝比奈さんは空を名前で呼ばないと」
「それって変じゃない? ねえ葵ちゃん?」
「……ぅ」
友人とその彼氏から弄られ、葵がたじろいだ。
じっと四つの目に見つめられていた葵だが、それでも空の名前は呼べないらしい。
両手で頬を挟み「んあ゛ー!」と変な声を上げた。
「いつか! いつかちゃんと呼びますから!」
「という事らしい。あんまり弄らないでやってくれ」
「はいはい、分かったよ」
「了解でーす」
あくまでも嘘の関係なので、葵の言う「いつか」は来ないかもしれない。
そう思うと少しだけ寂しくはあるが、催促出来る訳もなく胸に渦巻く気持ちを抑え込んだ。
「ま、何にせよこれで一安心かな?」
「晶の言う通り暫くは安心だと思うけど、楽観視はすべきじゃないな」
「そうなんですか? 結構しっかり釘を刺したはずなんですけど……」
まだ足りなかったかと、ある程度落ち着いた葵が今度は溜息をついた。
彼女のせいではないと、柔らかな笑みを向けて励ます。
「それは効いてるから、すぐに行動は起こさないと思う。でも爆発する危険はあるから、対策は今まで通り継続だな」
「……まあ、確かに念には念を入れておいた方がいいね」
嫌がらせをしていたクラスメイト達と空は、明確に敵対したのだ。
これからあえて彼等を苛立たせるつもりはないものの、何もしてこないと思うのは甘い考えだろう。
「それと俺が悪目立ちするのは変わらないから、結局は嫌がらせが再開するかもしれない。それと、あいつら以外も注意しておくべきだな」
「どうしてですか? もう皇先輩は葵ちゃんと――」
「友達以上の関係だな。……ま、それならそれで『なんであいつが朝比奈と付き合ってんだよ』って逆恨みが発生するんだ。二人は身に覚えが無いか?」
残念ながら、空と葵では容姿が釣り合わない。
そうなると、今度は空が葵と付き合っている事に対して嫉妬される事になる。
晶は分かっていそうだが、朝陽がきょとんとしているのは葵と同じく見目麗しいからだろう。
とはいえ晶も中性的な見た目で空よりも整っており、朝陽が何も恨みを受けていないとは思えなかった。
空の予想通り、質問を受けて二人が遠い目をする。
「あったねぇ。『お前のような女々しい奴が、何で和泉と付き合ってんだ』とか『幼馴染だからって調子に乗りやがって』とか言われた」
「私も『あんたみたいな体の弱い奴が、立花くんと付き合うなんて』とか言われたなぁ。懐かしー」
既に二人は悪意を乗り越えており、だからこそ笑い話で済ませている。
問題は、今回の件で全て終わったと思っていた葵だ。
浮かない顔をしているので、気落ちする必要はないと肘で小突いた。
彼女は驚いたように目を見開き、空を見つめる。
「そういう事だ。結局誰かが文句は言うだろうけど、俺としては前の立場よりずっとマシなんだ。それは間違いなく葵のお陰なんだぞ」
「それに皇先輩に何かあったら、今度は堂々と文句が言えるよ」
「むしろ、次こそは全力で喧嘩売ってもいいかもね」
事態が好転したのは、葵の提案があったからだ。
三人共が励ましの言葉を送れば、葵の顔からようやく負の感情が抜ける。
「そうですね! 今度は容赦なくいきます!」
「その意気だ。よし、そろそろ行くか」
「だね。ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでしたー!」
話を纏めて食堂を出る。
人が多い所であえて葵と親密な会話をしたからか、羨望や嫉妬の視線を受けても、疑いの目で見られる事は無かった。




