第57話 模様替え
「ふわぁ……」
冬の気配はとっくに消え去り、かといって夏のように暑くはない素晴らしく過ごしやすい昼下がり。
空はソファに寝転びつつ、思い切り欠伸をした。
昨日とは打って変わって何もする事がないからこその怠惰の時間は、何物にも代えがたい。
バイトの時間まで惰眠を貪ろうかと思って目を閉じようとした瞬間、空のスマホが震えた。
『今からせんぱいの家に行って良いですか?』
空と葵は毎日顔を合わせているせいか、スマホで連絡を取る事があまり無い。
なので珍しいなと思いつつも、彼女も暇だったのだろうと判断して指を動かす。
『いいぞ』
『ありがとうございます!』
余程暇だったのか、すぐさま返事が来て隣の家の扉が開く音がした。
鍵を持っているのだから勝手に入って来ると思ったのだが、空の予想に反して呼び鈴が鳴る。
ソファから動かずにいると何度も呼び鈴を鳴らされたので、溜息をついて玄関に向かった。
扉を開ければ、今日も今日とて眩しい笑顔を浮かべた葵が居る。
「こんにちは、せんぱい!」
「おう、こんにちは」
取り敢えずの挨拶を交わし、リビングへ戻った。
先程とは違ってソファに凭れつつ、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「鍵を渡してるんだし、わざわざ鳴らさなくていいんだぞ?」
「え? いやぁ、流石にそれはせんぱいに悪いかなと思いまして」
「悪いも何も、俺の居ない時に家に入れるようにしたんだぞ。居る時も勝手に入っていいって」
鍵を使うのをバイト中のみと限定したつもりはない。
こういう時だけどうして遠慮するのかと苦笑を落とせば、葵が様子を窺うように上目遣いで空を見つめる。
「せんぱいが寝てる間に家に入っちゃうかもしれないですよ?」
「別にそれくらいならいいぞ。勝手にゲームしててもいいし」
葵の家には物がないので、暇潰しの為に空の家に来たいのだろう。
起きた時に家族ではない人が空の家に居るのは、凄まじい違和感があるはずだ。
しかし、その可能性すらも頭に入れて鍵を渡したのだから、空が起きる前に家に来たとしても怒るつもりはない。
肩を竦めて許可すると、整った顔が歓喜に彩られた。
「じ、じゃあ明日から好きなタイミングで来ますからね! やっぱり駄目はナシですよ!」
「はいはい。分かった分かった」
念を押す葵に律儀なものだと小さく笑みを落とす。
彼女は余程嬉しかったようで、満面の笑みを浮かべていた。
「さーて! こうしちゃいられません! 家から色々持って来ないと!」
「……物を持って来ても良いとは言ったけど、やり過ぎるなよ?」
私物を持って来る気満々の葵に、頬を引き攣らせながら釘を刺した。
すると彼女は僅かに唇を尖らせる。
「分かってますよぅ。というかやり過ぎるくらいの物が私の家に無いの、知ってるでしょうに」
「ま、そうだな。じゃあ好きにしてくれ。俺はのんびりしてるよ」
「はーい」
呑気な声を出しつつ玄関に向かう葵を見送り、ソファに凭れた。
空は私物を置く事を許可したが、手伝うのは違う気がする。
欠伸を嚙み殺しつつ、当初の予定通りのんびりとした時間を過ごすのだった。
バイトを終えて家に帰れば、リビングからぱたぱたとスリッパの音が聞こえてくる。
すぐに葵が姿を現し、柔和な表情を見せた。
「おかえりなさい、せんぱい!」
「……ただいま」
家主が外に出ていたのだから、家に居る人が迎えの言葉を放つのはおかしな事ではない。
しかし誰かに迎えられるのがこれ程までに温かいものだと実感し、頬を緩ませる。
この笑顔を帰った瞬間に見られるのだから、葵に鍵を渡して正解だった。
「もうすぐご飯出来ますからね。せんぱいは座って待っててください」
「あいよ。いつもありがとな」
葵が晩飯を作ってくれるのは厚意からであり、当たり前だと思ってはいない。
リビングに戻りつつ日頃のお礼を口にすれば、キッチンに向かった葵が照れくさそうに淡く穏やかな笑みを浮かべる。
「いえいえ。キッチンを使わせてもらってますし、お礼を言うのは私の方ですよ」
「そう言えば、俺が居ない時にこっちのキッチンを使うのって初めてだったな」
「はい。とはいえ使ったのが初めてって訳じゃないですし、何の問題も無かったです」
「そこは心配してない。味も滅茶苦茶美味くなってるしな」
「えへへ……。ありがとうございますぅ……」
ストレートに褒められて余程嬉しかったのか、葵がふにゃっと蕩けた笑みを見せた。
無防備な笑みに心臓の鼓動を早めつつ、自室で着替えてリビングに戻る。
ちょうど葵が料理を運び終わったので、すぐに食べ始めた。
「にしても、意外と物を持って来なかったよな」
リビングを見渡すが、昨日から大幅に変わった所はない。
強いて挙げるのなら、葵の家にあったクッションが追加されているのと、見慣れない小さな棚が増えているくらいだろうか。
棚には箱のようなものが置いてあり、中身が見えなかった。
「言ったでしょう? 元々私の家に物があんまり無いって。大幅に変える事なんて出来ませんよ」
「みたいだな。……因みに、あの棚には何が入ってるんだ?」
「えー? 知りたいですか?」
悪戯っぽい笑顔を浮かべて、葵が空を見つめる。
藪蛇だった事を悟り、勢い良く首を横に振った。
「いや、やっぱいい」
「そこですぐに否定されると、ちょっと傷付きますね」
「俺にどうしろと……。教えてくれって言ったら教えてくれるのか?」
「はい。というか別に隠す必要もないので言いますが、あの中は私の部屋着と下着が入ってますね」
「ごふっ!?」
さらりと告げられた言葉があまりに衝撃的で、思い切り咽てしまった。
何とか息を整え、炙られたように熱い頬を無視して葵を問い詰める。
「な、何て物を置いてんだ!」
「だってせんぱいの家で汗を流すのに、着替えが無いと不便じゃないですか」
「だからって男の家に置いて良い物じゃないだろ!」
「リビングに放り出してる訳じゃないですし、別に良いと思うんですけど。棚が邪魔というなら話は別ですが」
「邪魔じゃないけどさぁ……」
空の家で汗を流すのだから、着ていた服をもう一度着たくないという気持ちは分かる。
しかし、まさか下着や着替えを用意するとは思わなかった。
空を警戒していないのか、それとも空に見られる覚悟をした上で棚を置いたのか、淡い微笑からは読み取れない。
がしがしと髪を掻きつつ溜息をつけば、葵が何故か僅かに頬を染める。
「ならいいですよね。……それと漁ってもいいですけど、見るだけにしておいてくださいね?」
「誰が漁るか! 絶対触らないからな!」
再びの爆弾発言に、悲鳴のような声を上げてしまった。
棚の存在を忘れようと、晩飯を摂る事に集中する。
鍵を渡した事でこんな誘惑をされるなど思っておらず、ひっそりと溜息をつくのだった。




