第56話 我儘は続く
長話をしていた事で良い時間になっており、照れている葵を放っておいて晩飯の調理に取り掛かった。
元々彼女に作らせるつもりはなかったので、空一人で大丈夫だろう。
そう思ったのだが、すぐに葵が近付いてきた。
「お手伝いします」
「特に必要な事もないし、葵はゆっくりしててくれ」
今日は鳥の照り焼きを作るつもりなので、大した手間は要らない。
リビングに戻るように促せば、反論出来ないと悟ったのか葵がすごすごと退散する。
「うぅ……。明日は私が作りますね……」
「すまんがよろしく頼む」
もうバイト終わりに葵の作った晩飯を摂るのが当たり前になっているのだ。
素直に厚意に甘えれば、彼女が体の前で両拳を握り込む。
「まっかせてください! でも、今日だって何もしない訳にはいかないです。皿を運んだりはしますからね」
「分かったよ。その時は呼ぶからな」
「らじゃです!」
決して空一人に全部任せるつもりはないらしい。
嬉しそうに笑う葵の顔には、少し前までの不安など見る影もない。
リビングのソファに座った彼女のいつも通りの雰囲気に小さな笑みを零す。
(でも、偽の恋人かぁ……。その割には本当の恋人らしい事をしてるけど)
安堵に胸を温めながら手を動かしていると、ふと今の状況がどれだけおかしいのか、改めて自覚してしまった。
名前で呼び合う仲は確かに親しい者が行うものだ。
一応、お互いに許可していれば、友人同士で呼び合ってもおかしくはない。
しかし当然のように一緒に晩飯を摂るのは、どう考えても恋人が行う事だ。
ましてや、空と葵はお互いの家を行き来している。
そんな事が出来るのは、恋人以外に幼馴染くらいだろう。
(まぁ、俺と葵をあの二人と同列には語れないけど)
あちらは本当の幼馴染であり、本当の恋人だ。
偽の恋人である空と葵と比べるだけでも失礼だろう。
とはいえ空と葵は偽の恋人という割にお互いに悪感情はなく、むしろお互いが相手の事を心配しているのだが。
だからこそ葵に申し訳ないが、彼女の我儘ならば仕方ない。
何が我儘なのかと肩を竦め、リビングを覗き込む。
「そろそろ出来るから、運ぶの手伝ってくれ」
「はーい!」
溌剌とした声を響かせ、葵が華やかな笑顔を浮かべるのだった。
「んー! 明日が休みなので、存分に遊べますねぇ……」
「だからって日付が変わるまで遊ぶやつがいるか」
思い切り背伸びをして母性の塊を強調させる葵へと、呆れ気味に声を掛けた。
普段ならば日付が変わる前に葵を帰すのだが、今日は「早く寝る必要ないですし、いいですよね?」と言われてしまったのだ。
いくら葵の我儘を受け止めるとは言ったものの、彼女を堕落させるつもりはない。
とはいえゴールデンウィークだからこそという話だったので、仕方なく許可した。
「いやー、だってこういうのって悪い事してるみたいで楽しいじゃないですか。ちょっとしたお泊りみたいな感じもしますし」
「普段から遅くまで俺の家に居るけどな」
「そういう突っ込みは野暮ですよ、もう」
葵が唇を尖らせて、拗ねたようにそっぽを向く。
本気で怒っていないので放っておくと、彼女は立ち上がらずソファに思い切り凭れた。
「あー、何かドッと疲れが襲ってきました。動きたくないです」
「帰れ。帰って風呂入って寝ろ」
甘えてくれるのは嬉しいが、流石にこのまま過ごさせるのは良くない。
心を鬼にして素っ気なく告げると、心底不満そうな「えー」という声が返ってきた。
「恋人に冷たすぎませんかー?」
「偽のだろうが。ほんの数秒外に出るのを渋るんじゃない」
「でも本当に動きたくないんですもん」
駄々を捏ねる子供のように、葵がゆっくりと首を振る。
その姿が可愛いと思ってしまい、悔しさを感じつつも表情は顰める。
「そのまま寝たらどうするんだよ」
「別にそれはそれでいいんじゃないでしょうか。せんぱいの家で昼寝した事もありますし、今更だと思うんですけど」
「じゃあ、風呂に入らず寝るのはアリなのか?」
「……それはまあ、ちょっと嫌ですね」
葵が一瞬で渋面を作ったので、風呂に入らず寝るのは許せないのだろう。
これで葵を家に帰せると思ったのだが、彼女は良い事を思いついたという風に唇の端を釣り上げた。
「折角なので、せんぱいの家で風呂に入る許可をくれませんか? 移動しなくて良いので滅茶苦茶楽なんですけど」
「どうでしょうかも何も却下だ」
「つーめーたーいーでーすー」
「冷たくない。一般常識を述べただけだ」
いくらお互いに悪感情がない偽の恋人でも、深夜まで遊んでいても、妥協してはいけない所がある。
決して表情を緩めず葵を見つめ続けると、彼女の頬がぷくりと膨らむ。
「う゛ー」
「唸っても駄目だからな」
「じゃあここから動きません。せんぱいは私を動かせますか?」
「……出来ないんだよなぁ」
別段、空は筋肉がある訳ではない。
葵は華奢なので軽い方だとは思うが、持ち運ぶのは不可能だ。
そうなると彼女を引き摺る事になるが、流石にそれは無情過ぎる。
どうしたものかと途方に暮れれば、葵が小悪魔のような笑顔を浮かべた。
「という訳で、せんぱいの家でお風呂に入る許可をくださいな。それと泊まる許可も」
「しれっと要求が増えてるじゃねえか!」
既に葵は空の家から出るつもりが無いらしい。
鋭い突っ込みを入れるが、彼女は知らんぷりだ。
既に手は尽きたものの、かといってこればかりは流されては駄目な気がする。
「葵、頼むよ。流石にそれは許可出来ないって」
「むぅ……。分かりましたよぉ……」
流石に我儘が過ぎたと思ったようで、葵が渋々ながら立ち上がった。
玄関に向かう彼女を追い、扉が閉まるまで見送ろうとする。
「明日はバイトですよね?」
「ああ。いつもの時間にお邪魔させてもらうよ」
「それなんですが、ちょっと提案がありまして」
「どうせロクでもない事だろ。何だ?」
やけににやっとした笑顔を浮かべているので、明らかに普通の提案ではない。
頬を引き攣らせながら尋ねれば、葵が心外だという風に腰に手を当てた。
「失礼な。きちんとお互いに益のある提案ですよ」
「その言葉は大抵信用出来ないんだよ。それで?」
「せんぱいの家の鍵をいただけないでしょうか」
「…………理由は?」
空の予想通り、どう考えても普通ではない提案だった。
とはいえ吸い込まれそうな程に綺麗な瞳は真っ直ぐに空を見ているので、単なる我儘ではないのだろう。
だからこそ却下せず理由を尋ねれば、葵は目を逸らさずに言葉を紡ぐ。
「私の家は何も無くて、晩ご飯が終わったらせんぱいの家に移動するじゃないですか」
「そうだな。で、それからは自由行動だ」
「でも、よくよく考えたらそれって無駄だと思うんですよね。せんぱいの家で待っていたら、移動の時間が無くなるじゃないですか」
「……そうだけど」
葵の家に入るようになって約一ヶ月経ったが、晩飯の時しか入らないからか、未だにあまり寛げない。
それに彼女の言葉も一理あり、移動が無くなるのは大賛成だ。
渋々ながらも頷くと、空の不安を見抜いたのか葵が勢い良く頭を下げる。
「悪い事も勝手な事もしませんし、せんぱいの部屋にも入りません。なので、家に入る許可をください」
以前、風呂に入ろうとした際に葵を疑ったからか、彼女の声からは必死さが伺えた。
空の事を考えての提案を断れるはずもなく、がしがしと頭を掻いて溜息を落とす。
「分かったよ。ほら、鍵だ」
靴箱に置いてあるスペアの鍵を取り出し、葵に差し出した。
あっさり許可が出るとは思わなかったのか、蒼色の瞳が大きく見開かれる。
「え、いいんですか?」
「今更葵が何かするとは思ってないからな。……それと、まあ、多少物を置いたり、俺が居ない時に汗を流すくらいはしていいぞ」
鍵を渡すのだから、これから葵が空の家で過ごす時間が増える。
ならば、彼女の過ごしやすいように部屋を変えるべきだろう。
また、絶対に手は出さないが、空が居る時に風呂に入るのは無防備過ぎる。
先程我儘を却下したお詫びに妥協案を口にすれば、彼女の顔が歓喜に彩られた。
「そこまでしていいんですか!?」
「でも、必ず家には帰る事。守れるか?」
「もっちろんです! これ、大事にしますね!」
絶対に無くさないと示すように、葵が空の家の鍵を抱き締める。
とろりと幸せが滲み出て生まれたようなはにかみが可愛らしくて、空の心臓が跳ねた。
「そうしてくれ。それじゃあおやすみ、葵」
「おやすみなさい、せんぱい!」
先程までのだらけっぷりが嘘のように、葵がきびきびとした動きで玄関の扉を開ける。
現金なものだと苦笑しつつ、手を振って別れたのだった。




