第55話 撃沈
「それじゃあ次の我儘は何だ?」
嘘の恋人関係を始めたのは、空がこれ以上嫌がらせを受けない為だ。
葵は「やりたい事」と言ったものの、真っ当な我儘ではない。
だからこそ次を催促すれば、こてんと無垢な表情で首を傾げられた。
「はえ?」
「我儘は一回だけっていった覚えは無いぞ。だからほら、次だ」
「い、いいんですか?」
「勿論。でも、流石にさっきのような提案は辞めてくれ」
「りょーかいです。そうですねぇ……」
先程と同じく、葵が悩み始める。
今度はそう長い間思考せず、ぽんと彼女が両手を合わせた。
「名前で呼んでくださいな」
「…………一応聞くけど、何で?」
「これから付き合ってると周りに見せつけるんです。なのに名字で私を呼ぶのは変じゃないですか?」
「なら外だけで呼べばいいだろ」
「咄嗟に使い分けなきゃいけないなら、日頃から名前で呼んでる方が神経使わなくていいと思うんですけど」
「……確かに」
噓ではあるが恋人として振る舞うのだから、名前で呼ばなければ違和感がある。
それに、普段から名前で呼んでいる方が慣れるというのも理解出来た。
反論が思いつかず唸ると、葵が瞳に期待を込めて空を見つめる。
「そういう事で、さあ呼んでください!」
「分かった。いくぞ――」
出来る限り葵を甘えさせると誓ったのだ。
嘘の恋人役だからと提案されたものの、彼女が名前で呼ばれたがっているのは間違いない。
覚悟を決めて深呼吸し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「葵」
女性を名前で呼ぶ事など、今まで一度も無かった。
凄まじい羞恥が空を襲い、頬が一気に熱くなる。
すぐに顔を逸らそうと思ったのだが、それよりも早く葵が俯いた。
「…………」
「え、あ、もしかして嫌だったか? すまん」
全く反応しなかったので、実際に呼ばれると考えが変わったのかもしれない。
焦りが胸を満たすものの、かと言ってどうする事も出来ず、取り敢えず謝罪した。
しかし葵は顔を俯けたまま、僅かに首を振る。
「や、じゃないです。でも、その、ちょっと待ってください……」
「り、了解」
どうやら、空の心配は無用だったらしい。
とはいえ未だに葵は顔を上げていないので、訳が分からず彼女を眺めるだけに留めた。
暫くして、葵はゆっくりと顔を上げる。
何故かほんのりと顔を赤らめており、あまりの可愛らしさに心臓の鼓動が跳ねた。
「もう大丈夫です。すみません」
「なら良いんだけど……」
必死に心臓の鼓動を抑えつつ、葵が元に戻ってくれた事に安堵の溜息をつく。
そうして一段落つくと、ふと空の頭に一つの閃きがよぎった。
「そうだ。俺が葵を名前で呼ぶ事にしたんだし、葵も『先輩』呼びを辞めて俺を名前で呼んでくれよ」
「うえっ!? な、何でですか!?」
「そりゃあずっと『先輩』だと親しくないと思われるからだろ」
素っ頓狂な声を上げて目を白黒させる葵へと、名前呼びをする羞恥を押し込め呆れ気味に説明した。
空の説得に使われた言葉をほぼそのまま返しただけなのだが、彼女は戸惑ったように視線をさ迷わせ始める。
「えー、あー、そ、そうですか? で、でも、年上の人は『せんぱい』と呼ぶべきでしょう?」
「和泉は晶を名前で呼んでるだろうが」
「……そうでした」
葵が失敗したという風に顔を曇らせた。
空としては晶と朝陽のやり取りを見ているからこその提案なのだが、もしかすると葵は抵抗があるのかもしれない。
「別に、無理強いするつもりはないんだ。葵が嫌なら今まで通りでいいけど」
「嫌という訳じゃないんです。でも、その、ですね……」
「ああ、そうだ。勿論、俺は年下に名前で呼ばれても気にしないからな。呼び捨てでも全然良いぞ」
戸惑いの表情を浮かべる葵へ、心配する必要などないと細かく説明した。
初対面かつ年下にいきなり名前呼びされると流石に苛立つが、葵相手にそんな感情が沸き上がる訳がない。
これで葵の心配は何も無くなると思ったのだが、何故か彼女はそわそわと体を揺らした。
「せんぱいはそうかもしれませんが、私は覚悟が出来てないんですよぉ……」
「俺だって覚悟なんて無かったけど、ちゃんと葵を名前で呼んだんだぞ? 今だって違和感が凄いんだ」
相手には強要しておいて、自分は逃げるような事など葵がするはずがない。
憮然とした態度で反論すれば、葵が「うっ」と言葉を喉に詰まらせる。
「という訳で、名前で呼ぶならお互いにしないとな。ほら、葵」
「うぅ……」
「葵」
「わ、分かりましたよ! 呼べばいいんでしょう、呼べば!」
葵が自棄になったような声を上げ、空を睨んだ。
嫌々名前で呼ぶ訳ではないらしいが、どうして睨まれているのか分からない。
それでも美しい蒼の瞳は潤んでおり、迫力など全く無いのだが。
「いきますよ? ホントに良いんですね?」
「おう。どんとこい」
準備は出来ていると胸を張れば、葵が意を決したように口を開く。
「空、さん」
初めての女性からの名前呼びに、葵らしい「さん」を付けた呼び方に、心臓が壊れそうなほど脈打ち始める。
空から求めたはずなのに名前呼びをされた衝撃が大きすぎて、何も言葉を発せなかった。
ぼうっと葵の姿を眺めていると、彼女が一瞬で頬を真っ赤に染めて勢い良く回れ右をする。
「あぁぁぁ……。うあぁぁぁ……」
空に背中を向けた葵が、ソファの手すりに顔を押し当てて呻き声を上げた。
こんな態度を取られれば、女性の機微に疎い空でも彼女が照れているのが分かる。
初めて見る葵の羞恥に悶える姿に、全く心臓が落ち着かない。
それどころか、勝手に頬が緩んでしまう。
(何か、いいな。こういうの)
噓の関係を確実なものとする為に、名前で呼ぶようにした。
そこに甘い感情は無いはずなのに、今まで以上に親しくなった気がして、胸の鼓動も頬の緩みも直らない。
葵が空に背を向けなければ、だらしのない顔を見られていただろう。
顔を揉んで表情を解していると、葵がゆっくりとソファの手すりから顔を上げた。
上目遣いで空を見つめる瞳は潤み切っており、金糸から僅かに覗く耳には朱色が灯っている。
「その、私の方は勘弁してください。お願いします……」
「…………分かった」
正直なところ、残念な気持ちはある。
けれど毎回葵に名前を呼ばれていたら、彼女はずっと照れたままだろう。
空も何とか普段通りの表情を取り繕ったが、もう一度呼ばれたらあっという間に崩壊するはずだ。
お互いの為にと頷けば、葵は再び空から顔を背け、今度は両手で頬を挟み込む。
「むりぃ……。はずかしぃ……。ぎゃくはそうぞうしてなかったぁ……」
空に聞こえないように呟いたのかもしれないが、まだ気が動転しているのかバッチリ聞こえてしまっていた。
もしかすると、葵は振り回されるのが苦手なのかもしれない。
約一ヶ月顔を合わせている葵の新しい一面に、空の心臓はとくとくと早い鼓動を刻み続けているのだった。




