第54話 わがまま
「それで、もう大丈夫か?」
葵のこれまでを聞き、彼女を見捨てる訳がないと伝えたが、不安が完全に消えたのか分からない。
念の為に問い掛ければ、葵が柔らかく破顔して頷いた。
「はい。大丈夫です。あんな奴らの言葉を気にしたりしません」
「そっか。なら、そんな朝比奈に伝えたい事があるんだ」
「な、何ですか改まって」
普段では有り得ない言葉を口にしたからか、葵が僅かな警戒を滲ませて空を見つめる。
言い方が悪かったかと苦笑しつつ、小さく深呼吸して覚悟を決めた。
ゆっくりと葵の頭に手を伸ばすと彼女は少しだけ目を大きくしたが、何の抵抗もせず空の手を受け入れる。
「頑張ったな、朝比奈」
葵が空の言葉を受けて変わろうとしてから、彼女は誰からも認められなかった。
ならば言葉を送った者として、変えてしまった者として、努力を褒めなければ。
ましてや、ほぼ同じ考えをしているのだ。空が褒めなくてどうするというのか。
罪悪感が空の胸を苛むが無視して葵の頭を撫でれば、澄んだ蒼色の瞳が揺れた。
「…………はい。がんばり、ました」
「でも、朝比奈はもう一人じゃない。だから、俺にくらい甘えてくれよ。誰にも頼らないようにって言った俺が言うのも何だけどな」
悲しい決意をさせてしまった空だからこそ、葵を支えなければならない。
既に彼女には空以外にも朝陽や晶という友人が居るが、誰よりも空がやるべきだろう。
勿論、彼女が望むのならばであり、無理強いするつもりもない。
肩を竦めながら苦笑すると、葵が困ったように眉根を寄せる。
「もうせんぱいには十分甘えてますよ。料理教えてもらいましたし、私のせいで嫌がらせを受けてますし」
「そのくらい何でもないって前々から言ってるだろうが。気にするなって」
「あ、ちょ、もう。髪が乱れちゃいますよ」
いつまで経っても気にする葵を叱るように少し乱暴に金糸を撫でた。
窘めるような言葉を発した葵だが口元が緩んでおり、空の手から逃げる仕草すら見せていない。
十分葵の髪を乱した後に手で整え終えるまで、彼女はされるがままだった。
「…………その。本当に、いいんですか?」
「何がだ?」
ぽつりと呟かれた言葉に首を捻れば、葵が期待と不安を込めた瞳で空を見つめる。
「もっと頼って、甘えて、いいんですか?」
「いいって言っただろ? 遠慮すんな」
「でも、私って口が悪いですし、結構面倒臭いですよ?」
「口が悪いのはとっくの昔に知ってるし、面倒臭い所も知ってる。まさか、隠してるつもりだったのか?」
「い、いや、まあ、隠してはいませんけど……」
偶に美少女の口から出るとは思えない言葉を発してしまうし、舌打ちもする。
強引に晩飯を作る約束を取り付けたり、押しが強すぎる所も知っている。
それを分かった上で、空は彼女を甘えさせると誓った。
改めて口にされて気まずそうに顔を顰める葵が可愛らしくて、小さな笑みを零す。
「だから、もっと甘えろ。我儘だって言ってくれ。これは、俺が離れるかもしれないって疑った朝比奈へのおしおきでもあるんだ」
「ふ、ふふっ。いつもと逆ですね。…………分かり、ました。ありがとうございます、せんぱい」
ようやく完全に胸のつっかえが取れたのか、葵は晴れやかな笑顔を見せた。
もう大丈夫だと確信し、彼女の頭から手を離す。
名残惜しそうな目をされたが、慰めるのは終わりだ。
「じゃあまずは最初の我儘を言ってくれ」
「い、今すぐにですか?」
「おう。明らかに無茶なものじゃなければいいぞ」
「とは言っても、特に思いつかないんですよね。うーん……」
葵が顎に手を当てて考え始める。
ジッと暫く放っておいたが、何かを思いついたようで彼女が「それなら」と声を発した。
「せんぱいって嫌がらせされてるじゃないですか。ゴールデンウィーク前とか脅されましたし」
「そうだな。何も対策しなかったら相変わらず嫌がらせされるか、悪化するんじゃないか?」
「それって、せんぱいが私と友達だからだと思うんですよ。なのに私がせんぱいとだけ仲良くするから、目の敵にされるんです」
「そりゃあそうだけど、まさかこれから他の人とも仲良くするつもりか?」
空の為に葵が他の人と交流するのは、我儘でも何でもない。むしろ、彼女を縛る事になってしまう。
不安に思って眉を下げれば、葵は迷う素振りすら見せずに首を振る。
「そんな事しませんよ、面倒臭い。それよりも、良い方法があるんです」
「…………その方法は?」
葵が何かとんでもない事を言おうとしている気がして、背筋がぞくりと震えた。
言わせては駄目だと心の片隅で思いつつも先を促すと、葵は妙に眩しい笑顔を浮かべた。
「私とせんぱいが、もっと親しい間柄になればいいんです。具体的には――恋人、とか」
「は?」
全く考えていなかった提案に、頭の中が真っ白になる。
ゆっくりと思考を回転させていくうちに、自らを蔑ろにする葵の発言に怒りが沸き上がってきた。
それが表情に出ていたのか、彼女が慌てたように手をぱたぱたと振る。
「勿論、嘘の関係ですよ。自分を犠牲にするつもりもないですし、私がやりたいからやってるだけです」
「それって全然我儘じゃないだろうが」
「我儘ですよ。嫌がらせを辞めさせる為とはいえ、せんぱいの大切な人の場所を嘘で固めてしまうんですから」
蒼色の瞳は真っ直ぐに空を見つめており、使命感や悲壮感は見えない。
柔らかい微笑を浮かべている事からも、本当にやりたい事をやっているのだろう。
嫌がらせがなくなるのは嬉しいが、そう簡単に頷けはしない。
「駄目だ」
「どうしてですか? せんぱいと友達以上になれば、私が特別扱いしてもおかしくありませんよ? それにもっとせんぱいの味方が出来ます」
「でも、朝比奈が誰とも付き合えなくなるだろうが」
「せんぱいを放って誰かと付き合うとか、絶対に有り得ないです」
「いや、それでも――」
「ああもう分かりました。それじゃあ嫌がらせが無くなって、せんぱいの安全が確認出来るまで。それでどうでしょうか?」
「……」
首を縦に振らない空の姿にじれったくなったのか、葵が期限を設定した。
それでも決して唇を開かない空へと、彼女が手を差し出す。
「せんぱい。私と付き合ってくれませんか?」
普通の友人よりも親しい人からの、空を助ける為の告白。
我儘という名目の、葵が優しいからこその提案。
それを否定してしまえば、先程の「甘えてくれ」という言葉が嘘だったと証明する事になる。
空の発言が、こんな結果を招くとは思わなかった。
(店長が言ってた案ってこれだったのかもな……)
嫌がらせをされた当初、バイト先の店長である勝が言っていた解決策。
空と親しいどころか、他の人と明らかに違う特別扱いをしている葵だからこそ言える提案。
詳細は告げられなかったが、ほぼ間違いないだろう。
結局葵の押しの強さに負けてしまう情けなさと悔しさに奥歯を噛み締め、ゆっくりと口を開く。
「後悔、しないか?」
「絶対にしません。私は私のやりたいように、せんぱいにだけ我儘を言っているので」
「……………………分かった。それじゃあ、よろしく頼む」
眩し過ぎる笑顔に胸を痛めつつも、葵の手を握る。
嘘で塗り固められた恋人関係が始まるのだった。




