第52話 少女を変えた瞬間
『それじゃあな。もう警察に捕まるなよ』
既に少女はトラブルから解放されており、一緒に居る理由は無い。
彼女から目を離して駅に向かおうとすれば『あの!』と困惑を滲ませた声が届いた。
無視するのも気分が悪いので、首だけで振り返る。
『どうして助けてくれたんですか?』
『俺がやりたかったから。それだけだ』
周囲の人達が見て見ぬフリをし、目の前の大人すらまともに取り合ってくれない。
そんな状況が以前の空に似ていたからなど、少女に伝えても迷惑だろう。
恩を売るつもりはないと短い言葉で示して歩き出す。
すると、何故か少女が後ろからついてきて横に並んだ。
『な、何かお礼をしたいんですけど』
『お礼なんていい。俺がやりたかったからだって言っただろうが』
『でも――』
『……ああもう。それじゃあ俺の質問に一つだけ答えてくれ』
泣きそうに声を震わせる少女を拒絶出来なくて、がしがしと頭を掻きつつ妥協案を出す。
普通に考えれば警戒されそうなものだが、窮地を救ったからか素直に頷かれた。
『分かりました』
『ちょっと前に、俺の横をクソむかつく笑い声を上げながら逃げて行った奴ら。多分あいつらが友達だったんだろうけど、何であんな奴らと一緒に居たんだ?』
『…………逃げ出せると、忘れられると、思ったからです』
痛みを押し込めるような沈んだ声色からして、あの女子達以外の問題を抱えているのだろう。
初対面の、しかも名前も知らない少女の事情に首を突っ込んでいいはずがない。
なので、空が知っている情報を元に予想を立てつつ肩を竦める。
『それで金づるになって、しかも色恋沙汰を起こしたのか?』
『な、何で知ってるんですか?』
『逃げて行った奴らが楽しそうに話してた』
表情に僅かだが警戒の色を滲ませた少女へと、肩を竦めて無実だと告げた。
彼女としても有り得る話だと思ったようで、空への警戒を無くしてがっくりと肩を落とす。
『そう、ですか……。あの、色恋沙汰に関しては何もしてません。むしろ、告白されて断ったくらいです』
『へぇ。あっちはそれで納得してないみたいだったが?』
『私が好かれてた事そのものが気に食わなかったみたいです。好きで告白された訳じゃないんですけど、いつの間にか恨まれちゃってました』
『女の世界は面倒臭いな』
話を聞いた限りだと、少女に非は無い。しかし、それだけでは納得しないのが女子のようだ。
男は男で面倒臭いので、もしかするとあまり変わらないのかもしれないが。
『ま、それならそれで色恋沙汰は別として、金は?』
『……最初は、普通に遊んでただけなんですよ』
脈絡の無さそうな話が少女の口から出たが、決して誤魔化している訳ではないのだろう。
目線だけで話の続きを促せば、彼女は顔を僅かに俯けて口を開く。
『でも、私がお金に困っていない事に気が付いて。それから少しずつ、お金をせがまれ始めました』
『喜んでお金を渡してたのか?』
『いいえ。でも、そうしないと一緒に居てあげないって言われて。私には皆しかいなかったので、そのまま――』
『金づるになってたと』
『はい。利用されるだけ利用されて、最後は見回りをしている警察の前で脅されたと騒いで逃げられました』
『……』
おそらく相当簡略化して事情を話してくれたのだろうが、それでも一応状況は理解出来た。
しかし、全く彼女の気持ちに同感出来ない。
それどころか、しゅんと肩を落としてただ落ち込んでいるだけの少女に、苛立ちすら沸き上がってくる。
『……はじめから、ぜんぶ、まちがってたんでしょうか』
途方に暮れたような声に、空の何かが切れた。
『君がどういう問題を抱えているのか分からない。それでも――』
空の言葉は少女に届かないのかもしれない。
勝手な事を言うな、と彼女が怒る可能性もある。
空と少女では、これまで置かれていた環境が違うのだから。
けれど、言わずにはいられない。
『金を要求してくる奴に縋るのはおかしいだろ。あんな奴ら放っておけばいい』
『で、でも、皆に見捨てられたら学校でも一人になっちゃいます』
『別にいいだろうが。一人になって何が困るんだよ』
『…………え?』
空の言葉が全く理解出来なかったかのように、少女が呆けたような声を上げた。
苛立ちを抑え込む為に溜息を落とし、固まる彼女へと声を放つ。
『足元を見て来る奴なんて相手にしても何の得も無い。時間の無駄だ』
『それで相手にしなかったら、いじめられるかもしれないんですよ?』
『それがどうした。そんなのは無視するか、全力で仕返しすればいい』
空は仕返し出来る環境ではなかったが、それくらいの意気込みを持たなければ駄目だ。
言い聞かせるように告げると、少女の顔が曇る。
『そ、そんなの……』
『出来ないかもしれないな。ならせめて、努力する事を忘れるな』
『努力、ですか?』
『ああ。あんな奴らに縋らなくても良いような強い心を、誰にも頼らなくてもいいような力を、いつか付けられるように。…………いつか、自分に自信が持てるように』
それは空の心からの願いであり、未だに叶っていない願いでもある。
傷付いて項垂れていても、誰も助けてはくれないのだ。
ならば、自分で何とかしなければならない。
口に出す事で改めて決意すると、少女が長い前髪越しに空を見つめている事に気が付いた。
勝手に上から目線で語っていたと今更ながらに自覚し、頬が熱を持つ。
『ま、まあ、俺はそうしてるってだけだ。あれこれ言って悪かったな』
『…………凄い、です』
引かれると思ったのだが、少女は感動にか声を震わせた。
驚いて固まる空へと、彼女が僅かに距離を詰める。
『私も大学生になったら、貴方のように強くなれるでしょうか?』
『私も? 俺は高校生だぞ。しかも一年生なんだが』
大人びた人だと思われているなら嬉しいが、もしかすると空の顔が老けていて、年齢よりも上に見られたのかもしれない。
流石に老け顔だとは思わないものの、空の主観でしかないので少しだけショックだ。
顔を顰めながら学年を告げれば、少女の顔がしまったという風な表情に彩られた。
『ひ、一つ上だったんですね。すみませんすみません。大人だなぁ、って思ったので』
『……ならいいけど』
どうやら、空は老け顔ではなかったらしい。
ホッと溜息をつけば、少女も咳払いして空気を元に戻す。
『それで、ですね。私がもっと頑張れば、あんな奴らに頼らなくても良くなれば、貴方に近付けますか?』
『俺を目標にされても困る。俺だって、努力し続けてるんだからな』
『そう、なんですね』
小さな唇が初めて柔らかい微笑の形を作った。
そのお陰で彼女の纏う沈んだ空気が少しだけ軽くなる。
『なら、まずは頑張ってみようと思います』
『その意気だ。……着いたか。ここまで付き合ってくれてありがとな』
話が一段落した所で、駅に辿り着いた。
空がほぼ足を止めなかったせいで少女に付いて来させてしまったが、本来であればすぐ家に帰らせるべきだった。
謝罪の意味も込めて感謝の言葉を送れば、少女が何度も首を横に振る。
『お礼なんて言わないでください。私の方こそ、ありがとうございました』
少女の顔には警察と揉めていた時の絶望も、少し前までの落ち込みようも見えない。
もう彼女は大丈夫だろうと、視線を外して改札口へと向かおうとする。
すると少し前にも聞いた『あの!』という声が耳に届いた。
ほんの僅かに振り向けば、少女が何かを決意した表情で空を見つめている。
『お名前を教えてくれませんか?』
『こんな夜遅くに外に出てる高校生の名前なんて聞くな。それじゃあな』
空が彼女を助けたのは、自己満足でしかない。
それに、空が住んでいるマンションはここから離れている。
もう二度と会う事のない人に名前を教えても無駄だろう。
やんわりと拒否の意を示し、再び視線を外して少女と離れる。
彼女が怒るのか悲しむのか分からないのが怖くて、一切後ろは振り返らない。
『本当に、本当にありがとうございました!』
後ろの人混みから届くはずなど無いのに、確かに少女の声が聞こえたのだった。




