第51話 二人の出会い
「「……」」
葵と電車に乗って家の近くまで来たが、彼女は一言も言葉を発していない。
それどころか、途中までの怒りが嘘のように肩を落とし、顔を俯けている。
空はというと、思い出したくもない葵の元クラスメイトだろう彼女達への苛立ちを消化するのが精一杯だった。
しかし、ここまで来れば頭も冷える。
「さてと、それじゃあスーパーに寄って帰るか。今日は休みだし、俺に作らせてくれよ」
重苦しい空気を吹き飛ばすように、意識して明るい声を発した。
基本的に、葵は空が休みの日であっても晩飯を作ろうとする。
最終的には空の飯を葵が食べたい気分かどうかで決まるのだが、先程の出来事の後で作ってもらうつもりはない。
いつもであれば悩みだす葵は、ただ首を振るだけだ。
「……その、私はご飯、いらないです。なので、せんぱいだけ、食べてください」
空に元気を与えてくれる声のはずが、今は全く感情が乗っていない。
おそらく食欲が無いのだろう。だからこそ、ここで葵を一人にさせるのは危険だ。
そうなれば昔の空のように、ひたすらに自己嫌悪してしまう。
「生憎と、一緒に食べるのが当たり前になってるんだよ。だから朝比奈の分も作るからな」
「お腹、空いてません」
「それでも、何か腹に詰め込んどけ。ハイ決定、スーパーに行くぞー」
普段であれば絶対に葵を先導などしない。
けれど今の葵には必要な事だと、手首を掴んで歩き出す。
初めて掴んだ彼女の手首は、空の指が回ってしまう程に細い。
後で誠心誠意謝ろうと決意しつつ、ちらりと後ろを見る。
「…………」
振り払われるかもしれないと思っていたが、葵は抵抗する意思すら見せず連れられるがままになっていた。
そのまま葵と共に晩飯の買い物を済ませ、お互いの家に帰ってくる。
出来る事ならこのまま空の家に来て欲しいが、買った服を片付けたり外行きの服を着替えたいだろう。
そう思って葵の腕から手を離すものの、そのまま逃がす訳にはいかないと、唇を尖らせて彼女を見つめる。
「そっちで休憩しててもいいけど、飯の時間には来い。来なかったら出て来るまで呼び鈴を鳴らすからな」
心の中で何様のつもりだと冷静な空が囁くが、決して表情にも行動にも表さない。
流石に文句の一つでも飛んで来ると思ったのだが、葵は俯いたままだ。
「それじゃあ、また後でな」
「……どうして、ですか?」
家に入ろうとした空へと、困惑に染まった声が届いた。
首を傾げつつ葵へ視線を向ければ、暫くぶりに整った顔が上を向いているのが見える。
「どうして何も聞かないんですか? せんぱいなら気付いてますよね?」
「ちょうど一年くらい前に会った事だろ? それがどうした?」
既に、空は葵と初めて会った時の事を鮮明に思い出している。
しかし、葵の許可も取らずに踏み込むつもりはない。
再び首を傾げると、潤んだ蒼色の瞳が大きく見開かれた。
「どうした、って……。髪の色を変えてましたし、金づるだった子なんですよ? 一緒に居るのが嫌じゃないんですか?」
「はぁ? 俺は『容姿だけで人を選り好みはしない』って言ったよな?」
葵が明るい美少女であっても、いつかのように暗めの地味な少女であっても、それだけで拒絶する事はない。
だからこそ打算がありつつも再会した際に葵と一緒に行動したし、今も彼女の発言に異を唱えている。
そもそも、葵が何をそんなに不安がっているのか分からない。
腕を組み、身を縮こまらせている少女を見据える。
「それに性格もだ。流石にさっきの奴らと同じだったら考えるけど、朝比奈は違うんだろ?」
「それは、勿論です」
「なら一緒に居ても嫌じゃないし、朝比奈には悪いけど昔の事が分かってすっきりしたくらいだ」
どうして葵が空を『恩人』と言っているのか、それが全て解決した。
切っ掛けは最悪だったが、思い出した事は後悔していない。
葵の不安を吹き飛ばすようにきっぱりと告げれば、小さな唇が感情を抑えるように歪んだ。
「……後で、行きます」
「おう。待ってるからな」
先程よりも前向きな発言に笑みを作り、葵が家に入って行くのを見送る。
その後空も自分の家に入り、着替え等を済ませてソファに凭れた。
「朝比奈があの時の子だったとはなぁ……。そりゃあ気付かない訳だ」
目を閉じ、約一年前の夜を思い返す。
とっくに日が暮れ、高校生であっても補導されそうな時間帯。
にも関わらず実家から駅まで街の中を歩いていた空のすぐ側を、数人の女子が早歩きで通り過ぎる。
『あははっ。あの顔見た? ウケるー!』
『見た見た! 最高だったよ!』
『お金を出すのを渋ったし、私が狙ってたのを奪ったんだから、いい気味よ』
けらけらと耳障りな笑い声が、先程まで実家に居たせいで苛立っていた空の神経をざわめかせた。
とはいえ彼女達は赤の他人だし、突っかかった所で何の意味も無い。
首を振って先程の存在を脳から消そうとするが、何となく気になって彼女達が歩いてきた方を目指す。
すると、一人の少女が警察と話をしていた。
『それで、さっきの子達を脅してこんな夜遅くまで遊びに付き合わせてたんだよね?』
『だから違います! むしろ私の方が連れ回されてたんです!』
『さっきの子達はあんなに怯えてたのに?』
『あれは怯えてたんじゃなくて――』
『あー、ハイハイ。言い訳はいいから、ちょっと一緒に来てもらうよ。君みたいな見た目だからって騙せると思わないでね』
どうやら警察は目の前の少女の言葉を聞くつもりなど無いらしい。
面倒臭そうな顔をしながら呆れた風な声を響かせ、彼女へと距離を詰める。
面と向かって話している人の言葉すら信用しない警察の態度に、目元を黒髪で隠していても少女が絶望の表情を浮かべたのが分かった。
その姿が約二年前の空の姿と重なり、考えるよりも先に二人へと歩いていく。
『こんな所に居たのか。毎日毎日夜遊びしやがって』
明らかに親しい間柄だと言葉で警察に示すように、けれど少しだけ苛立ちを声に込めた。
少女がきょとんとした顔をしつつ黒髪越しに視線を空へ向けたので、話を合わせて欲しいという願いを込めて彼女をジッと見つめる。
すると気持ちが通じたのか、少女が露骨に唇を尖らせた。
『……私がどこで何しようとお兄ちゃんには関係ないでしょ。ほっといて』
『生憎と、そういう訳にもいかないんだよ。ほら、帰るぞ』
内心で謝罪しつつ、少女へと手を差し出す。
まだ茶番を続けなければと視線で訴えると、彼女は空の手を無視して腕を組み、そっぽを向いた。
『嫌。帰るなら一人で帰って』
『一人で帰ったら父さんと母さんに怒られるんだよ。勘弁してくれ』
『そんなの知った事じゃない!』
『あー、君達兄妹みたいだし、そういうのは家に帰ってからやってくれ。ここで騒ぐと二人共交番に連れてくよ』
空と少女の茶番を聞いていられなくなったのか、警察が呆れ気味に脅しをかけてきた。
その言葉を待っていたとばかりに、少女が一瞬だけ体を跳ねさせ、それから肩を震わせる。
『それは……』
『すみません、ご迷惑をお掛けしました。すぐ帰ります』
頭を下げて表面上だけの謝罪をし、少女を警察から引き剥がした。
暫く歩いたところで、後ろを付いてきている彼女へと振り返る。
『変な事を言って悪かったな』
『いえ、その、凄く助かりました。交番に連れてかれるのは、流石にまずいので』
どうやら少女は怒っていないらしい。
深く頭を下げた彼女は、先程まで一緒に行動していた人達に逃げられたショックを未だに引き摺っているようで、力なく項垂れている。
黒髪をセミロングに伸ばしているだけでなく、髪で目元を隠した少女――朝比奈葵。
これが、空と葵の最初の出会いだった。




