第36話 悪化する嫌がらせ
四月も第三週となった月曜日。
今日も今日とて葵と登校し、上履きに履き替えようとする。
最近まで無意識に履き替えていたが、空の置かれている状況を忘れてはならない。
念の為に上履きを傾ければ、踵の部分に画鋲が滑り落ちてくる。
「おー。二回目か」
一度嫌がらせをした際に空が全く相手にしなかったので、嫌がらせをする価値がないと判断してくれれば良かった。
しかし、どうやら空の考えは甘かったらしい。
素早く周囲に目を向ければ、数人の男子が妙に早歩きで遠ざかっていくのが見える。
「顔が見れたら良かったんだけどなぁ。そう簡単にはいかないか」
明らかに怪しかったが、今からでは何もかも遅いと素直に諦め、溜息をついた。
引き留めたとしても離れて行った男子達が犯人とは限らないし、惚けられればそれまでなのだから。
画鋲を取り出して一応上履きを覗き込み、何も仕掛けられていないのを確認して履き替える。
葵の学年の下駄箱がある場所へ向かうと、既に彼女は上履きに履き替えて待っていた。
「……何か、遅くないですか?」
「偶々だよ、偶々。早く着いて待ってろって言わないでくれよ?」
探るようなじとりとした目を向けられて、胸がひやりとする。
しかし何とか取り繕って答えれば、葵が怪訝な顔をしつつも首を横に振った。
「そんな事無茶苦茶な事を言う訳ないじゃないですか。……でも」
「ならよし、ほら行くぞ」
強引に会話を切って足を動かし始める。
流石に教室まで見送るつもりはないので、葵とはもうすぐお別れだ。
それでも葵は決して一人で教室に向かおうとしないし、空も当たり前のように彼女と些細な待ち合わせをしている。
画鋲を上履きに仕込まれたからか、葵が一緒に居てくれる事が嬉しくて、小さく笑みを零すのだった。
そうして月曜日は朝に画鋲を仕込まれただけで済んだが、嫌がらせは次の日も起こった。
勿論、一度引っ掛かった罠に二度嵌る程甘くはないので、痛い思いはせずに済んでいる。
このまま画鋲程度で終わってくれと思いながら普段通り過ごしていたが、平日最後の日の午後。体育の前に着替えようとした際、異常に気が付いた。
「…………ない」
普段教科書等を入れる鞄とは別の、運動着を入れる鞄にそれが入っていない。
家に忘れたかと一瞬だけ考えたが、空は寝る前に明日の準備を済ませ、念の為に確認を取っているのだ。忘れはしない。
とはいえ人の記憶に絶対はなく、本当に忘れた可能性もある。
「……………………」
どうしたものかと逡巡しているうちに、着替えを終えたクラスメイト達が更衣室から出始める。
出来る限り顔を動かさず彼等へ視線を送っていると、いつも空の陰口を叩いている男子の一人が空へと顔を向けた。
「ハッ」
明らかに人を馬鹿にしたような、普通では有り得ない笑み。
その笑みを向けられて、すぐに空の考えは纏まった。
「晶。ちょっと教室戻る」
「何かあったの?」
「運動着を教室に忘れたかもしれないんだ。探してくる」
「……そう。じゃあ僕はのんびり着替えてるよ」
「分かった」
傍から見れば、至って普通の会話だっただろう。
けれど晶の瞳は全く笑っていないし、言外に『空の鞄を見張っておく』と言ってくれた。
短い言葉で察してくれる友人に目だけで感謝を伝え、更衣室を出る。
すると先程空へ意地の悪い笑みを向けた男子を含めた、いつも空に陰口を叩いているグループがすぐ近くに居た。
彼等から視線を外して歩き出すと小さな嘲笑が耳に届いたが、完全に無視だ。
休憩時間は僅かしかないので、構っている暇などない。
すぐに目的の場所へ辿り着き、目の前の人物に話し掛ける。
「すみません、運動着って買えますか!?」
空が向かったのは教室ではなく売店だ。文具を買う人が居るため休憩時間も開いている。
また、嫌がらせが始まった時から財布は肌身離さず持ち歩いているし、こういうアクシデントが起きるかもしれないと思い、財布の中に金を多めに入れていた。
時間が無いので早口で頼み込めば、売店の店員が気乗りしなさそうに口を開く。
「少しだけなら余ってるよ。まさか忘れたから買うのかい?」
「あはは。そんな感じにしておいてください」
事情があると笑いながら仄めかすと、店員の顔が気遣わし気なものに変わった。
売ってくれなかったらどうしようかと思っていたが、店員はすぐに運動着を持ってきてくれる。
「ほら。もう取られないように気を付けな。安い買い物じゃないんだからさ」
「ホント、安くはないですね。ありがとうございます」
空は自分で使う金が欲しいからバイトをしている。
それでも、こんな事の為にバイトをしている訳ではないのだ。
とはいえこのタイミングで買わなければ授業で晒し者になるだけだし、駄々を捏ねてはいられない。
店員の心遣いに感謝を示し、急いで更衣室へ戻る。
中に入ると、すぐに授業が始まるというのに晶が居た。
「まさか、ずっと見張っててくれたのか?」
「僕はゆっくり着替えてただけだよ。そこに空が戻ってきたんだ」
言外に頼まれはしたが、決して恩を売るつもりは無い。
晶の態度からその想いを察し、今度は大きく頭を下げた。
「すまん。本当にありがとう」
「お礼を言われる筋合いなんてないよ。ほら急いで」
「ああ」
急いで新品の運動着を着込んでいく。
古い運動着の行方は気になるものの、既に諦めた。
この手の紛失は無惨な姿になって返ってくるか、そもそも見つからないのだから。
今度から教室で席を離れる際は気を付けなければと、気を引き締める。
「……空。流石に今回の件は許せないんだけど」
「俺が運動着を忘れただけって言っただろ。……朝比奈や和泉には内緒にしといてくれ」
「でも――」
「頼む、晶」
陰口を叩かれるだけでなく、画鋲という悪戯だけでなく、遂に金銭が発生する問題になってしまった。
だからこそ空と二人の間での事にすべきではないという、晶の気持ちも分かる。
それでも後輩に心配を掛けさせたくないし、空の為に怒って欲しくもないのだ。
手を動かしながらで申し訳ないと思いつつも懇願すれば、晶の顔が悔しそうに歪む。
「…………分かった」
「さんきゅ」
短く感謝を伝えると同時に着替えが終わった。
晶と共に集合場所へ向かえば、ちょうど授業開始のチャイムが鳴る。
間に合って良かったと安堵に胸を撫で下ろしつつ、周囲を窺った。
どうやら空の運動着は女子にバレないように隠したらしく、クラスの約半分はギリギリに来た空と晶をちらりと見ただけだ。
男子はというと、女子のような反応をする人や気まずそうに視線を逸らす人が大半だ。
視線を逸らした人の中には、一年生の頃に空とクラスメイトだった男子も居る。
(そういう事か。晶が居てくれるだけマシだな)
晶以外のクラスメイトが空の味方をしてくれるとは最初から思っていない。
そんな期待はするだけ無駄だし、そもそも空はクラスメイトの役に立つような事などしていないのだから。
それでもクラスメイトに対しての感情が無くなっていく自覚を持ちながら、ちらりと空の運動着を隠したであろう男子生徒の居るグループへ視線を向ける。
彼等のほぼ全員が驚愕を顔に張り付けているのを見て、ほんの少しだけ唇の端を釣り上げた。
(お前等の思い通りなんてならないっての)
内心で冷笑を浴びせつつ、彼等から視線を外すのだった。




