第28話 背もたれ
葵と朝陽が高校に入学してから、数日が経った。
今日は休日であり、バイトは夕方からなので昼過ぎに葵が空の家に来ている。
ラフなワンピースとロングスカートは、いつもの明るい葵の印象を清楚なものに変えていた。
(ホント、何でも似合うな)
隣の家に遊びに行くだけなのだ。おめかしなどしなくて良い。
それでも気を抜けば眺めてしまいそうになるくらい、葵の姿は可愛らしかった。
とはいえ感想を口にするつもりなどなく、彼女の姿を眺めつつ二人分のコップと飲み物をキッチンから持って来る。
いつもなら「私がします!」と言いそうなものだが、葵はソファに凭れてぐったりとしていた。
「今日はお疲れだな。昨日は元気だった気がするけど、今日は何かあったのか?」
「あ、飲み物ありがとうございます。……何かあったか、と聞かれたら何もないと答えるのが正しいんでしょうね」
「何だよそのすっげぇ微妙な言い回し。とにかく、疲れてはいるんだな」
「そりゃあ学校で気を遣い続けてるんですから、疲れもしますよ。なので今日は電池切れです」
はあ、と溜息をついて葵が天井を見上げる。
普段なら澄んでいる蒼の瞳が今は曇っていた。
今日は学校が無いので、気分が上向きにならないらしい。
「そういう事か。有名人は大変だな」
「別に有名人になりたくてなった訳じゃないんですがねぇ。ああもうホントに鬱陶しい」
空がテーブルに置いたお茶を葵がコップに注ぎ、一気飲みする。
テーブルにコップを勢い良く置く仕草が、疲れきった社会人女性をイメージさせた。
「そりゃあ私は周りなんてどうでもいいですが、騒ぎを起こしたい訳でもないんですよ。なのにあいつらと来たら」
「朝比奈が露骨に距離を取らないから、どうしても擦り寄って来てしまうと」
「なーにが『先輩と仲良くなれていいな。私にも紹介して!』ですか。知ったこっちゃねーですよ」
「……どこも似たようなものなんだな」
四月二日に空と晶が経験した事を、葵は現在進行形で体験しているらしい。
あの時の面倒臭さは空にもよく分かるので、窘める事は出来なかった。
そんな葵は相当ご立腹のようで、先程からかなり口が悪くなっている。
「それ以外は? 嫌がらせとか受けてないか?」
「今のところは何にもナシですね。なのでむかつきはしますが、実害は無いから放っておくつもりです」
「なら良かった」
「全然良くないですよ! ……ああもう、こんな愚痴を言いに来た訳じゃなかったんです。すみません、せんぱい」
ある程度鬱憤を吐き出して落ち着いたのか、葵が頭を下げた。
空よりも葵の方が苦労をすると分かっていたし、愚痴であっても本音で話してくれるのは嬉しい。
頬を緩ませつつ、首を横に振る。
「謝らなくていいって。朝比奈には毎日晩飯を作ってもらってるからな。愚痴くらい、いくらでも聞くぞ」
「……本当に、せんぱいは」
気にしなくてもいいと言っても、空が必ず気にすると葵は分かっている。
その証拠に、彼女の顔には呆れがほんの少しだけ混じった歓喜の笑みが浮かんでいた。
その笑みが悪戯っぽいものに変わった事で、空の背中をひやりとしたものが撫でる。
「折角ですし、愚痴を聞くんじゃなくて別の事をして欲しいです」
「……内容による」
「そんなに警戒しないでくださいよ。せんぱいに殆ど迷惑は掛けませんから」
「だから内容を言えっての。勿体ぶられると怖いんだが」
「しょうがないですねぇ。では遠慮なく言わせてもらうと、横になりたいです」
葵の口から出た言葉は、予想していた以上に簡単な事だった。
しかし、簡単だからこそ空の胸に不安が沸き上がる。
「もしかして、体調が悪かったりするか?」
「いえ。疲れてはいますが、体調は万全ですよ。というか、体調が悪いままここに来たらせんぱいに迷惑を掛けるじゃないですか。そんな事しません」
「そ、そうか。まあ体調が悪い時も一言くらい言えよ。欲しい物とか買って来るから」
困った時はお互い様だ。外に出歩けない程に体調が悪いなら、隣に住んでいる空が手を貸すべきだろう。
今回は違うようだが、葵のこの様子だと本当に体調が悪い時は一人で抱え込みそうな気がする。
先に手を打っておくと、青空よりも澄んだ蒼の瞳が見開かれ、それから細まった。
可愛らしい顔立ちに浮かんだ微笑は、写真に撮りたいくらい純粋な喜びに溢れている。
「ありがとうございます。万が一の時は頼りにさせてもらいますね」
「そうしてくれ」
「で、話を戻しますが、単に横になってのんびりしたいんですよ。今日はゲームの気分じゃないので」
「…………まあ、それくらいならいいけど」
横になりたいのなら、自分の家に帰って寛ぐのが一番良いはずだ。
しかしあえてお願いしたという事は、空の家でゆっくりしたいのだろう。
野暮な質問を飲み込んで承諾すると、葵は嬉しそうに表情を緩めた。
「ありがとうございます! それじゃあ失礼しますね!」
「うん? 失礼するってどういう事だ?」
「そんなの、こういう事に決まってるじゃないですか」
にんまりと笑った葵が、ソファの端に座っていた空へと距離を詰める。
ふわりと香った甘い匂いに、心臓の鼓動を乱された。
必死に鼓動を抑えていると、葵が空に背を向けて更に距離を詰めてくる。
あっという間にお互いの距離がゼロとなり、葵が空の肩に背中を預け、寄り掛かる形になった。
当然ながら一つのソファに今の空と葵が収まるはずがなく、彼女の足が手すりからはみ出している。
だらしのない体勢ではあるが、ロングスカートから見える真っ白な足が妙に艶めかしくて、空の目を惹き付ける。
「最高の背もたれです。足を伸ばせる点も評価ポイントですね!」
「……横になりたいんじゃなかったのか?」
あまりにも無防備な態度に、必死に抑えていた心臓の鼓動が再び騒ぎ出した。
葵の方から空の顔が見えないのは、唯一の救いと言える。
熱くなっている頬を見られずに済んでいるのだから。
口先だけは平静を取り繕って質問すれば、葵の体が笑うように震えた。
「そうしたかったんですが、せんぱいが座れなくなるので諦めました」
「その結果、俺を背もたれにしたと」
「ですです。休日くらい、いいじゃないですか。私だって偶にはだらけたいんですー」
だらけるならせめて自分の部屋でしてくれ、と言いたくはある。
けれど、ここまで無防備な姿を見せてくれるのは信頼の証だ。
あるいは、空に寄り掛かる程に疲れているのかもしれない。
何にせよ、一度許可したのだから止めろとは言えなかった。
「分かったよ。好きにしてくれ」
「ありがとうございます! じゃあ充電させてもらいますね!」
はしゃいだ声を上げた葵だが、それ以降は黙り込んで大人しくなった。
寛げるならそれでいいと、彼女を放置してスマホを弄る。
部屋が静寂に包まれたものの、決して気まずくはない。
強いて困る点を挙げるならば、肩から伝わる体温や甘い匂いが、すぐ傍に葵が居るという事を空に意識させているくらいだろう。
「すぅ……」
葵に寄り掛かられてどれほど経っただろうか。
いつの間にか、隣から静かな寝息が聞こえていた。
寝られる程に寛いでくれた嬉しさと、男のすぐ隣で寝てしまう無防備さに頭を抱えたくなる気持ちが混ざり合う。
「……ま、でも、こんな日も悪くないな」
最終的に空の頬が緩み、温かく静かな空気を堪能するのだった。




