第20話 これまでと違う場所で
「……ホントに行かなきゃならないのか」
バイトを終えて家に帰り、誰も居ないリビングで独り言ちる。
今までは空の家で晩飯を摂っていたが、今日からは違うのだ。
いくら友人とはいえ、女性の家に上がるのは緊張する。
どくどくと心臓の鼓動が弾むが、ぼうっとしていても始まらない。
覚悟を決めて葵の家へと向かう。
「はーい。ちょっと待ってくださいねー」
インターホンを押すと、鉄の扉越しに華やかな声が聞こえた。
すぐに扉が開き、柔らかく笑んだ葵が姿を見せる。
「時間通りですね。さあどうぞ」
「……お邪魔します」
空を自らの家に招くのに、相変わらず抵抗はないらしい。
くるりと背を向けた葵の後ろを付いて行くようにして、彼女の家に入る。
「何にもない所ですが、ゆっくりしてくださいね」
葵が苦笑しながらキッチンへ向かったので、空はリビングへと向かった。
女子であれば様々な小物を置いていると思ったのだが、想像以上に何もない。
カーテンやカーペットがあるのは当たり前として、他の家具はソファにテーブルくらいだ。テレビすら存在しない。
それでも、妙に甘い匂いが女性の部屋だというのを無理矢理空に実感させる。
おそらくソファに座るべきなのだろうが、本当に座っていいのか分からず立ち尽くす。
「遠慮しないでくださいよ。女の子って部屋では無いので、多少は寛ぎやすいと思いますし」
「分かった。じゃあお言葉に甘えて」
キッチンから空の様子を窺っていた葵が、くすくすと軽い笑い声を漏らした。
しかし、笑い声の中には僅かな諦観が混じっていた気がする。
突っ込むべきではないと割り切り、ソファへ腰を下ろした。
「もうすぐ出来るので、ちょっと待っててくださいねー」
「なら、食器とか運ぼうか?」
「私一人で大丈夫です。学校とバイトでお疲れの人にお手伝いさせるつもりはありませんよ」
「……さんきゅ」
空への気遣いに溢れた言葉に、胸にじわりと温かいものが沸き上がる。
手伝いが断られたので仕方なくスマホを見て時間を潰していると、晩飯がテーブルに並べられた。
「さあ、食べましょうか」
「だな。いただきます」
「いただきます」
二人同時に手を合わせ、晩飯にありつく。
今日はハンバーグで、見た限りではしっかり焼けている。
思い切りかぶりつけば、じゅわっと肉汁が飛び出してきた。
「ん、美味い」
「初日の野菜炒めぶりに一人で料理しましたけど、成功して良かったです。せんぱいの教えの賜物ですね」
「俺が教えたからじゃないと思うけど、成功して良かったよ」
そもそも葵が失敗する可能性は低かったが、彼女が満足しているならそれでいい。
絶品のハンバーグに舌鼓を打ちつつ、世間話に花を咲かせる。
「帰りながら晶に連絡を取って口裏合わせしたけど、オッケーだとさ」
「私も一応朝陽に確認してみましたが、喜んでだそうです」
空と葵は、晶と朝陽のカップルの友人として知り合った、と明日から周囲に説明するのだ。
流石に本人達の確認は取らなければいけない。
葵も同じ考えだったらしく、何も言っていないのに行動が合った事にくすぐったさを覚える。
「晶はげんなりしてたけどな。気持ちは分かるけど、下手をすると晶が明日から荒れるからホントに怖い」
「荒れる、ですか?」
「ああ。晶って中性的な見た目だろ? それで舐めて掛かったり容姿を揶揄ったりすると、滅茶苦茶怒るんだよ」
おそらく、自らの容姿がコンプレックスなのだろう。
空は晶の見た目を全く気にしなかったが、一年生の頃はそれで晶が揉めた事がある。
今回も下手をすると同じようになるし、もっと状況が悪くなるかもしれない。
「それに合わせて和泉だ。晶の性格上、和泉の話になると間違いなく不機嫌になる」
「立花先輩って朝陽をすっごく大切にしてますからねぇ。接点を持とうとする男子は全力で撃退しそうです」
今日の二人のやりとりで、お互いにかなりの愛情を持っているのが分かった。
周囲には付き合っていると説明するだろうが、それでも接点を持とうとする人は現れるだろう。
晶はそれなりに容姿が整っているものの、朝陽とは釣り合わないと馬鹿にする人が出て来るかもしれない。
そうなれば、地獄が顕現してしまう。
葵もその光景が想像出来たようで、乾いた笑みを零していた。
「何もない事を祈るしかないな」
「ですねぇ。私の方も色々と大変ですし、明日は疲れそうです」
「後輩二人が先輩二人としか親しくなろうとしない、だもんな。そっちも相当荒れるだろうな」
「荒れる要素しかないですからね。後悔はしてないですけど」
肩を竦める葵からは、言葉の通り後悔など感じられない。
ほぼ間違いなく浮いてしまうが、全く気にしないのだろう。
だが、それはそれで問題がある。
「流石に無いと思うが、初っ端から周りと壁を作るなよ。ある程度は仲良くしておいた方がいいぞ」
「分かってますって。私だって自分から敵を作りたくはありません。面倒ですし、コミュニケーションは最低限取るつもりですよ」
「ならよし。俺達が居るとしても、いじめられるのは辛いからな」
女子の面倒臭さを分かっている葵ならば、いきなり周囲と壁を作る事はないだろう。
とはいえあくまで彼女の方から距離を取らないだけであり、コミュニケーションを取る価値すらないと判断する可能性もあるのだが。
一先ずは大丈夫だと、ホッと胸を撫で下ろして一息つく。
会話が途切れたので飯に集中しようとするが、葵が「あの」と顔色を窺うような声を発した。
「嫌だったら答えなくていいんですが、もしかしてせんぱいっていじめられてましたか?」
「……どうしてそう思うんだ?」
一応の断りを入れつつも、葵が踏み込んで来る。
ある意味無遠慮な発言だが、何か考えがあるのだろう。怒るつもりはないものの、びくりと体が跳ねてしまった。
ちらりと様子を窺えば、形の良い眉が申し訳なさで歪んでおり、馬鹿にするような雰囲気はない。
沸き上がった僅かな安堵で動揺を押し殺す。
「さっきの言葉にすっごく実感がこもってたので。それと、以前から妙に周りとの関係を気にしてますし」
「ま、そうだな。いじめられてたよ」
詳細は流石に話さないが、事実は隠さず口にした。
葵ならば、例え空がいじめられていたとしても関係を変えないと思ったから。
予想であれば悲しそうな顔をすると思ったのだが、何故か彼女は悲しさの中に歓喜の混ざった笑みを浮かべた。
「せんぱい、手を出してください」
「何でだよ」
「何でもです。悪いようにはしませんから」
「……分かったよ」
頭に疑問符を浮かべつつも、葵へ左手を伸ばす。
大きくないテーブルなので、空が身を乗り出せば彼女の手に触れられそうだ。
流石にそんな事はしないものの、宙に伸ばし続けるのは疲れるので皿の間に腕を置く。
すると彼女は箸を置き、両手で空の左手を包み込んだ。
空の手とは全く違う、柔らかく細い手。
その感触にどくりと心臓が跳ねる。
「お、おい、食事中に何するんだ?」
「……」
空の言葉に反応せず、葵が顔を俯けて空の手を握り続ける。
それが何故だか必死に見えて、空を励ましているように見えて。
葵の手を振り払う事が出来ない。
「…………はい。ばっちりです」
暫くすると、葵が優しく目を細めながら空の手を解放した。
何があっても空の味方だと態度で示されたようで、歓喜が胸に沸き上がる。
それ以上に彼女の笑顔が美しくて、すっと目を逸らした。
「そうか。何というか、ありがとな」
「いえいえ」
気まずいという程重くなく、かといって普段通りの会話もできそうにない空気の中、箸を動かす空達だった。




