溶けゆく氷 その3
橙と紫の混じる空と日の隠れない夜、空の色を吸い込み同じく色を変えた湯は、二人を虜にして離さない。かれこれ浸かり始めて一時間、故郷のことや生業のこと、趣味や興味のことに、カラスと意志を伝えあう能力のこと。たまに例のごとく考古学マシンガントークが炸裂しつつ、二人は会話に夢中になっている。久しぶりの本格的な入浴、今までなかなか出来なかった最高の寛ぎに時間を忘れてしまう。
「あっづ〜〜〜い!!!」
逆上せて草の上に横になっているコマー。タオル姿のまま四肢を広げた身体からは湯気が上がっている。
「ほら、水飲みな。」
クラーカが水を差し出す。少し戻ったところの小川で汲んでおいたものだ。幸いこの島には小川が多く、躊躇することなく分け与えるほど飲み水には余裕がある。それにしても、大の大人のあられも無い姿に「ああはなりたくないね」とつくづく思うのであった。
水を飲み干してもまだ起き上がらないコマーを横目に夕食のため魚を釣る。あの様子では彼女の分も用意してやらないといけないだろう。もし擬似餌でなく本物の餌を使っていたら餌代をあとで請求するところ。アーサーは食べ途中の鱈の身を咥えたまま器用に海鳥たちを追い払っている。
「クラーカちゃ〜ん!」
相変わらず寝たまま身動きもせずに呼びかけてくる。
「ちょっとあっちの方で水浴びしてくる〜!」
そう言うと返事も待たずに立ち上がり、フラフラと歩いていく。
「アーサー、心配だからついて行ってあげて。」
アーサーは任せてと言うかのように軽く一鳴きして、コマーの元にぱたぱたと飛んでいった。
思えばアーサーすらそばにいない、本当に一人きりの時間はかなり久しぶりだった。もっとも、見えないくらい距離が離れても意思疎通する能力は途切れず、意図的にオンオフの切り替えをしなければ本当の本当に一人きりにはなれない。昔からずっとその点が不思議だった。一般的に魔法は発動する本人が対象を視認しているか、もしくは魔法具のように物体それ自体に効果を固定するかでしか発動できないはずである。ただでさえ常に形状が変化し、代謝をするが故に体内の組成が一定でない生物には固定できないため、意思疎通の能力は後者でもないといえる。となると考えられるのは、効果対象の選択が一般的な魔法と著しく異なる方法をとっているか、そもそも魔法ではない何か別の原理で発動しているかのふたつの可能性。
前者の「対象選択」説の方がまだ現実的に思える。せっかく時間があるので、実験をしてみようと思い立った。釣りをしている周りを飛んでいる海鳥たち、ちょうど隣に佇んで釣った鱈を狙っているツノメドリの一種であろう鳥で試してみることにした。
食べやすそうな大きさに切った鱈の身をポンと投げてやると、素早くキャッチして勢いよく食べた。それを数度くり返すと、警戒心が薄まったのか近寄っては来るが意思疎通はできそうにない。どうやら餌付け程度ではダメなようだ。かといって他に手段もないので諦めることにした。最後の一切れを海へ思い切り投げ込むと、その個体含めた鳥たちで競争が始まった。次からはこうやって海鳥を追い払うのも有効かもしれない。
思えばアーサーと通じ合えるようになったのもいつの間にかだった。近所の林で仲良くなって、その後たびたび家に遊びに来るようになったこと、最終的に一緒に暮らすようになったことは覚えているが、詳しい経緯は覚えていない。意思疎通の条件である、「主従関係」とは何なのか、そもそもただ親から伝え聞いただけの能力の詳細がちゃんと正しいのか、考えれば考えるほど分からないことだらけだ。混乱してきたので一先ずこのことは忘れて、投げた分を取り返すように鱈を釣ることに集中する。
「はぁ〜〜……」
その頃、コマーは小川でくつろいでいる。冷たく澄んだ水に浸かり、火照った身体を存分に冷ましている。温泉の時と違い全身から気が抜けた体勢で、無防備極まりない。生物として種が違うため恥ずかしくも感じなさそうなアーサーですら心做しか視線を逸らしているように見える。
「アーサーちゃ〜ん」
体を冷やすことから興味が移ったのか、どこかご機嫌に話しかけてくる。
「クァ?」
「ふふっ、それはなんて言ってるのかな〜?」
まるでテレパシーでもするみたいに両手をかざして念じている。腕でタオルがめくれ上がりそうで危なっかしい。
「カァー」
「やっぱわかんないか〜」
一体何をしてるんだか、と言ったつもりだった。そんな一朝一夕にできるようになるなら動物と話せる人はもっと居るはずだ。実際、クラーカと地元の村の他にできる人を見たことがない。
「あ、身体拭くタオルないじゃん……」
コマーが冷えて濡れた体のままテントまで戻れば、まずとてつもなく寒い事は確実。下手をしたら風邪をひく可能性だってある。アーサーもこの呟きに冷や汗をかかされつつ、何故か離れていても使える能力で、クラーカにタオルと着替えの用意を要請する。返事は、「コマーの分の鱈、鳥に食わせてやろっかな……」だった。