3. 好きなこと
「あの、彼方さん?」
「…………」
「他にやること無いんですかね?」
「無い」
「そうですか……」
土曜日の午後。
午前授業を終えた二人は家で彼方特製あんかけ焼きそばを食べてから部屋の掃除をした。
偶然にもどちらのクラスも宿題がほとんど出ておらず、予習するにしても土曜だからまだ早い。
つまりはやることが無くなってしまったわけだ。
そこでガムテープで強引に補修したソファーに優斗が何となく座っていたら、彼方が隣に座って来てしかも頭を優斗の肩に預けて来た。
「(前と同じなのに全然ちげぇ)」
今と似たような体勢は以前にも公園で経験済みだ。
その時は彼方が体を押し付けるかのようにくっついて来ていたの比べて、今回は優斗と僅かに触れるかどうかといった距離感。
つまり遠慮や恥じらいに近い何かがあるのだ。
女の子の感触ではなく、心が伝わって来る。
「(なんだよこの気持ちは)」
単純にぎゅっとくっつかれた方が性欲を我慢すれば良いだけなので耐え方はシンプルだった。
でもこうして心を寄せられるとどうして良いか分からず戸惑ってしまう。
とても心地良いのに、こそばゆくて居心地が悪い。
そんな不思議な感覚に優斗は焦っていた。
それゆえ強引に話題を捻り出して会話をすることで気分を変えようとした。
「そういえばこのソファー買い替えた方が良いんじゃないのか?」
「このままで良い」
「でもガムテープの隙間から中身が出て来そうになっちゃってるぞ」
「じゃあ補修してくれる?」
「買った方が良いよ」
「このままで良い」
彼方は時々こうして頑固になる。
そしてそれはほぼ優斗に関することだ。
このソファーは優斗が不器用ながら彼方のために直してくれたもの。
だからその想い出を捨てたくはないのかもしれない。
あるいは両親との想い出の品であるため捨てたくはないのかもしれない。
「(両親……か)」
果たして今の彼方に両親のことを聞いても良いものなのだろうか。
その判断がまだつかない。
せめて彼方からポロリと両親の話題が出れば聞いてみようと思えるのだが。
本当は何も聞かずにそっとしてあげたい。
でもそういうわけにはいかないのだ。
お金がどうなっているのか。
何かあった時に警察や病院にお世話になれるのか。
そして『祝死』という最悪の落書きをしたものは誰なのか。
放置したら後々問題に発展しそうな懸案事項だらけだった。
彼方の今後のためにも早めに確認しておきたい。
「(ここで止まったらダメってことだよな)」
ならば優斗がやるべきことはただ一つだ。
彼方の心を今以上に回復させて辛い話を相談出来るようになってもらう。
そして相談してもらえる自分になれるように努力する。
「(やっぱり彼方の趣味を見つけないと)」
こうして何もせずに穏やかな時間を過ごすのも良いけれど、楽しい事を追い求めて行動する方が彼方にとって良い筈だ。
八割くらいは今の気恥ずかしい状況から抜け出すための方便である。
「なぁ彼方、前に好きなことを聞いたの覚えてるか?」
「うん」
「本当に家事以外に何も無いのか?」
「う~ん……」
即答せずに考えてくれた。
以前と違って思考がはっきりしている今ならば何か思い出すかもしれない。
しかし彼方は予想外の行動に出た。
「か、彼方?」
彼方は優斗の肩に預けていた頭を返してもらい、優斗の握った右拳を両手で優しく包み込んだ。
そしてそれをゆっくりと持ち上げて開かせ、自らの左頬に押し当てた。
「彼方!?」
「温かい……」
それはこっちの台詞だ、と優斗は反射的に言いそうになる。
柔らかで温かい頬の感触が手のひらに伝わって来るからだ。
これまで彼方の体の色々なところに触れたけれど、顔に密着する程に触れたのは初めてだった。
女の子にとっての顔は胸や腰回りなどと同等の聖域であると優斗は思っていたので、イケナイことをしているかのような感覚でこれまた焦ることになる。
緊張で手のひらに汗がにじんでしまわないようにと必死に耐える。
そんな優斗に向けて彼方は先程の質問の答えを返した。
「これが好き」
「え?」
「篠ヶ瀬君と一緒のあったかい時間が好き」
「…………」
そうしてほんのりと微笑んだ。
ああ、愛おしい。
優斗の胸に湧き上がった感情はとてもシンプルなものだった。
あまりの愛おしさゆえに幸せにし尽くしてあげたいと心からそう思った。
『優斗が幸せにしてあげたいと思える人にいつかきっと会えるわ』
『その人と一緒に幸せになってね』
ズキリと胸が痛む。
久しぶりに思い出した母親の言葉が、まるで背中を押してくれているかのように感じる。
しかし母親の言葉を思い出してしまったがゆえに、雰囲気に呑まれていた心が冷静さを取り戻してしまった。
そして軽口を叩いて誤魔化してしまう。
「ダメだよ彼方。男って馬鹿だからそんなこと言ったら勘違いしちゃうぞ」
優斗は分かっていなかった。
今の彼方がどれほど危険であるかを。
その程度の誤魔化しが通用する相手ではないのだと。
「勘違いしてくれるの?」
「!?」
勘違いするの?
勘違いしたの?
ではない。
勘違いしてくれるの?
してくれる、つまりした方が嬉しいというニュアンスだ。
なんて分析するフリをしてパニックを抑えるのに必死だった。
彼方は変わらず優斗の右手を頬にあてたまま、真っすぐに優斗を見つめている。
優斗は彼方の言葉に驚き彼方の目を真っすぐに見つめている。
もしここで彼方が目を閉じたら、優斗はもう逃げられない。
「(違う違う違う違う! 彼方には他意はないんだ。彼方は俺に恩を感じてるだけでそういうんじゃないんだ!)」
優斗がヘタレだったとしても、心の中でどれだけ言い訳をしても、ここまで場がお膳立てされていれば答えを出すしかない。
しかし優斗がその答えを決める前に、彼方はゆっくりと目を閉じる。
空気に呑まれた優斗の体は勝手に動き、そして……
「…………すぅすぅ」
こてんと小さく首を傾げ、優斗の手のひらを枕にして彼方は寝息を立てる。
「ラブコメじゃねーか」
彼方にその気が無かったことに安心したような残念なような。
優斗は彼方が寝やすいようにと右手をソファーの背もたれの部分へと動かす。
そして深呼吸して精神を落ち着かせようとする。
しかしスヤスヤと気持ち良さそうに眠る彼方の顔を見ると胸のドキドキは全く治まらないのであった。




