第八話 襲撃 ①
彼女は、化野舞夜は確かに絶命の凶弾をその身に受けたはずだった。
肩口に一発、頬を二発、太腿を三発が掠め、右脇腹と右胸、溝をそれぞれ一発ずつ三発が命中している。
常人では挽肉になっているところだ。如何な魔術師と言えど全身を粉砕され、ましてや化野の様な華奢な少女では原型すら保っていないはず。
にも拘らず、黒い少女のその可憐さを存分に醸し出す肢体は一切欠損しておらず、ばかりかその全身に纏った黒ずくめすら多少泥を被っているだけで、黒い城塞と見舞うほどの堅牢さは全くといっていい程損なわれていない。
───────彼女は、無傷だった。
そんな彼女の姿を怪物の瞳が写す。
怪物は、絶望していた。
黒牙が直撃する直前、怪物は見えなかった。彼女の影から得体の知れない"何か"飛び出し、彼女に絡み付き身を呈して攻撃を庇ったのを。
怪物にとっては、己の渾身の攻撃が防がれたのと同然。プライドはズタズタだ。さらに、先刻までは対応できていた筈の黒煙に絡めとられて動きを完全に封じられている。
この時点で漸く怪物は命の危険を感じとり始めたのだった。
煙細工。
それが化野がもっとも得意とする魔術で、この黒煙を自在に動かしている原理の正体の名だ。
従来の気流操作を始め、気体の粘性や密度などの様々な物性のパラメーターを弄り加工し、そのまま固定化させるといったものも可能な、化野家オリジナルの術式。
火や風など、陽性の属性を発現しやすい化野家が秘する三つの家伝の一つで、化野舞夜が最も得意とする魔術。
今までは黒煙の気流を操っていたに過ぎない。その真価は気体の精密調整。黒煙の粘性と密度を高め煙の鎖で絡めとったのだ。
蛇に巻き付かれ絞められている鳥のように、底無し沼に嵌まって暴れまわる人間のように、死ぬのは御免とばかりに何度も何度も身体のあちこちを地面に打ち付けて、怪物はみっともなくのたうち回る。
いくら怪物であろうが、この搦め手の前には無力。
先程までの、互いを探り合いながら行われる互角の死闘は何だったのだろう。この闘争の一部始終を見ていた者ならそう呟くだろう。
今や一方が一方の生殺与奪を握っている。
元より、少しでも隙を見せれば一方的な戦いになりかねない程の、絶妙な均衡により成り立っていたものだ。
初めからこうなることは誰しも予見されていたのだ。
だから逢魔坂朱理は彼女に全て任せたのだ。
それでも怪物は止まらない。
不意に、怪物が一時的に黒煙を押し退け、大口を開ける。
"叫び"で魔力と黒煙を霧散させようという魂胆らしい。この状態になっても、未だ勝ち筋を手繰り寄せようと奮闘する様は正しく野生。元々、森に生きる動物の流した血の呪が発端となって発生した存在だ。霊脈の変質の影響を受け、動物の腐敗した死骸を食い荒らす魔物に成り果てようと、野生の本能は名残として残っている。そう簡単には失われない。
喉の奥に魔力が集まっていく。
しかし、それを潰すように怪物の口内へ黒煙が流し込まれる。
黒煙で魔力を取り込むことも阻害され、頼みの綱が無慈悲におとされる。
いよいよ怪物からは希望が消え始める。
焦燥と悔しさで怪物は本格的に暴れ始めた。
ふぅぅぅ、ふうぃぃぅ。と、猛獣のように唸る、がなる。
されど堕ちていく。
ものの数十秒でその勢いが落ちてきた。
衰弱してきたのか、猛獣の如き激しさは次第に収まり、祭りかと見舞う程騒々しかった身体を打ち付ける音の頻度は減り、ついに反撃の狼煙を上げることもなく怪物は力尽きたように動かなくなった。
森にはまた静けさが舞い戻った。
彼女に仇なすものはもういない。
ほぅ、と、そよ風が辺りの木々を揺らし、彼女の頬をそっと嘗める。何年も忘れていたような久しぶりの感触に、日常に引き戻される。漸く死闘が終わったのだと、大いなる安堵が少女の全身に浸透していく。
ぽつりと、残されたのは彼女一人。
緊張からの解放からか、僅かに魔術を緩めた───────その瞬間だった。
背後に、いた。
何が?
誰が?
そんなの決まっている。
黒煙の効力が弱まる瞬間まで、ヤツは待っていた
人間誰しもが持つ、終戦の安堵。勝利の余韻。
魔術という行為は、絶対的な全能感と極限の集中によって成り立っている。修練ならいざ知らず、戦闘なら尚更である。
緊張から平静の急降下は、心身に大きな隙を生む。まさに寝首をかくには絶好の機会だ。
(まさか…これを狙って───────)
怪物が大木のごとき巨腕を振り上げる。
黒煙の毒性によるものか、その腕は未だ麻痺していて僅かに痙攣している。しかし、それでも慢心して強化を解いた少女の五体を引き裂くのには十分すぎる過剰戦力だ。
咄嗟に黒煙を使って防御しようとしたが、もう遅い。精神的にも肉体的にも疲労していた彼女は、一度緊張を解いたときに集中も切らしてしまった。魔術には極限の集中が必要とされる。この一瞬で再度集中し直すならまだしも、そこから術式で黒煙を集めて防ぐには短すぎる。
時速数百キロで襲い掛かる剛腕の薙ぎ払いは、至近距離にいる彼女には目視で捉えることすら叶わない。
化野舞夜の頭蓋骨を覆う程のサイズを誇る怪物の腕が、彼女の顔面を抉り飛ばすその瞬間───────
世界をかち割るかのごとき轟音が、彼女と怪物を突き抜けた。
◇
暗い。
周囲はただひたすらに暗黒で、五感で得られる情報は己の足音のみ。
昏い。
心に直接黒い風呂敷を被せたような、六感で得られる不安感は氷のように全身に張りつめていく。
明かり一つない廃坑と化した地下道を、朱い少女が我が物顔で歩いている。
ろくに整備されていない正真正銘の石の道であるからか、自らの足が地面を踏みしめる度に、カツーン、カツーンと、甲高い音がその革靴の裏から滑りでる。泡のごとく生まれた音は、壁にぶつかりながら奥へ続く闇へと誘われ、吸い込まれるようにして消えていく。
自らの息づかいが、渦を描きながら排水溝に流れていく水のように思えた。
目は魔力で強化しており、暗闇でも視界は良好。
しかしそれでも、奥へと誘う暗黒からは何も見ることは叶わない。
まるで横向きの奈落だ。
歩いているように見えて、実は墜ちているのではないかと錯覚してしまう。
それ程までに濃い闇だった。
騙し絵のような感覚が、この闇に生々しさを与える。
何らかの意思を感じさせる。
天井まで覆う程の大蛇が、何人も飲み込むその大口を開けて待っているかのような、そんな非日常を予感させる。
いや、既に大蛇の腹の中なのかもしれない。天井から時折滴り落ちる水滴は胃液で、この妙な蒸し暑さは大蛇の体温。
もう既にこの世ならざる異常識の手に落ちてしまっているかのような、そんなどこか生々しい不気味なインスピレーションが働いてしまう。
それもそうだ。この山一体、取り分けこの廃坑は漂っている陰の気が強すぎる。常人なら"嫌な感じ"と思うだけだが、彼女の様に霊的な感受性が常人よりも強い人間にとっては、怨念に満たされた下水管なのだ。
肩まで浸かってしまっていて、次第に足も浮くようになっていって、今にも溺れてしまいそうな感覚。
だが、ちゃんとした精神的な防壁を張る術を持つ彼女にとってはどうということはない。浅瀬を渡るようなものだ。まぁ、実際には浅瀬を渡っても溺れることはあるわけだが。
この恐ろしい霊洞を平然とした顔で歩くことが出きるのが、この少女の強さを表すと同時に、どことない異常さも醸し出しているのだった。
「やっぱり、あの子を連れてこなくて正解だった。私より遥かに霊的な感受性が高いあの子じゃもうダウンしてるでしょうね。
しっかし───────」
ずい、と彼女は周囲を一瞥する。
何の変哲もない炭鉱の壁、石を削っているためかごつごつした岩場のようでもある。
一般人なら岩の模様が人の顔に見えるだとか、人が人柱として埋まってるだとかで盛り上がるだけに留まるが───────
「壁にも地面にも空気にも、はたまた山そのものにも、百年以上たった今でもへばりついてるだなんて、やっぱりワケアリ物件のなかでも筋金入りの陰湿さね、ここは。」
怨念。
へばりついているもの。
ここら一帯は昔は鉱山が多くあり、炭鉱がよく非公認で作られていた。
非公認であるからか、坑夫への扱いは酷いもので数々の陰謀や悲劇が起こったらしい。
この山もその悲劇の産物の一つ。
その犠牲者たちの残留思念が、壁やら地中やら床やらにへばりついているらしかった。
そういった思念などがある種の魔力を帯びて暴走したのが幽霊や亡霊とも言われているのだが、今回はその心配はないようだ。
怨念観光を続けていく内に、開けたところへ出た。
ここが、この山で最も霊脈のパイプラインに最も近い場所。
先程の、星の息吹が吹き出す"点穴"の地点よりさらに奥に進むと突入する炭坑を、更に奥深く潜ることでことで行ける場所。
化野の戦闘中、点穴から溢れる魔力の波長を計ったが、霊脈を流れる魔力の質に異常はなかった。だが、それだとあそこまで魔力の凝り───────魑魅魍魎が溢れるのはおかしい。では霊脈根底になにかがあるのだと悟った彼女は、この地点に赴いたのだった。
周囲はかなり高い濃度の魔力に満たされていた。
自らの精製した魔力で外部の魔力の抵抗ができる魔術師でなくては、気圧の変化で耳鳴りが起こるように、体調に何らかの影響を及ぼしていただろう。
血管から血漿が組織液として細胞に滲み出るように、この空間は霊脈のパイプラインから染み出てきた魔力が滞留している。極端に魔力濃度が高いのはこの為だ。
それ故、ここ一帯は怪異の類いは寄り付かない一種の天然の結界と化している。
地下空洞故か、その風景は壮絶の一言、こちらの方が聖域といってもいいほどだ。だがまぁ、逢魔坂は眼球を魔力で強化し暗視を行っているからこの地下空洞を見渡せるのであって、常人にはただの漆黒に過ぎないのであるが。
この絶景も、ここで起こった凄惨な所業も、この地下空洞ごと歴史の闇に葬られ、一般社会には流布していない。運良く脱走できた者の証言が都市伝説として一部残っている程度だ。
現代ではこの朱い少女含めた一部の人間だけが知っている。
ところで、逢魔坂の家は代々ここら一帯を管理してきた一族らしい。
秘密裏に非公認の鉱山を開くことなど、それなりの権力者でなくては不可能であるが…
逢魔坂が足を止める。
先客がいた。
こちらに背を向けた、真っ黒な女だった。
黒い女物の革ジャン、下は女物の黒いレザーパンツに同じく黒い革靴、肌が見えている筈のところは全て黒い包帯が巻かれており、肌の色さえわからない。
その濃さ重さ足るや、じっと見ていれば吸い込まれてしまうのではないか。
締め付けるような着こなしは、肉体の曲線美を余すことなく強調し、男女問わず周囲の視線を根こそぎ奪い去るほどのモノだ。
視線を吸い付ける、人工的に作られたある種の魅了だった。
逢魔坂はわざと焦点をその女からずらす。
見る者の視線を吸い付けるこの女のような服装には気をつけなくてはならない。
ここは本来一般人が立ち寄れる場所ではない。故にこの女が間違いなくこちら側の存在ということは明らかだ。ならば、こういった視覚的な錯覚や印象を用いて意識を引きずり込み、自分に有利に進める状態に持っていったり精神に干渉してこようとする可能性を考えるのが定石だろう。
下手を打ちたくはない。
逢魔坂は警戒しながら、黒い女の背を見やる。
「あなたは?」
と、逢魔坂は平然とした態度で投げ掛ける。
「平静を装っているわけではない。かといって慢心しているわけではなく警戒も怠っていない。不思議だな君は。」
黒ずくめの女は、関心の意を滲ませそう言うと、ぐるり、と振り返った。
常人ならば誰もが思わず目を剥いただろう。
女は面を被っていた。
白くのっぺりとした輪郭に、怒っているのか、哀しんでいるのか、怒っているのか、感情が判然としない、若しくは多くの属性をその内に孕んでいるかのような表情。
泥眼と呼ばれる女面だった。
目に白はなく、唯ひたすらに暗闇が覗く。
何を見据えるのかどころか、見据える眼球すらない一見不気味な面。
「ふん、地上の怪異なら私じゃないぞ?
もともと燻っていた奴らが、霊脈の変化で飛び起きたってだけの話だ。」
面から声が滑り出す。
被り物をしているからか、くぐもっているが、まだ若い艶のある声だ。
「話をそらしたって無駄よ。あんたが霊脈を刺激して起こしたことなんだから。」
逢魔坂が腰に手をあて、怪訝そうな顔で黒い女を見やる。
鋭利な翡翠色の視線は、黒い女の面のその奥まで捉えているかの様に冷ややかだった。
「なんでもかんでも繋げられるのは勘弁だ。」
黒い女は面を押さえ、頭をふる。どうやら本気で嫌がってるらしかった。
「霊地ってのは季節や気候の変化に左右されやすい。繊細なところは一度の落雷くらいで変質する。
私との因果はない。一ヶ月前からここは無法地帯だよ。寧ろ今は落ち着いてきている方だと思うがね。
───────普通はそうならないように、"こう"なる前から管理者が霊脈に結界を張って清めておくんだがね。」
「さぁ、なんのことやら。」
逢魔坂が堂々とはぐらかす。
余裕の笑みは崩さない。
そんな逢魔坂の様子を、黒い女は怪訝そうに見る。
「余裕だな。まるでここに何者かがいることが最初からわかってたみたいに。」
「当たり前でしょ。」
そういって逢魔坂はポケットからなにかを取り出す。
紅い宝石のようなものだった。
指でつまみ黒い女に見せつけるように空に掲げる。
突如、宝石が紅く光始めた。
魔力を込めたからだろう。逢魔坂の魔力を帯びた宝石は、まるで焔を閉じ込めた琥珀のように煌々と輝いていた。
それだけではない。黒い女のポケットからも、同様の紅い光が淡く漏れていた。
「ほぅ、これはこれは。索敵用の結界すら張ってないのにどうやって私の侵入を察知したか。
───────なるほど、共鳴か。チッ、相変わらず逢魔坂は抜かりないな。セキュリティーの核はお前だったか。それでこの宝石の意味。は、まんまと誘い込まれていたというわけか。」
「まぁね。」
逢魔坂は子供っぽく答える。
「どうやらお互い、二流だったみたいね。」
沈黙。
この空洞にも風は吹くのだろうか。二つの影の間を生暖かい風が舐めるように吹き抜ける。
「なら、次に私が取る手段も分かっているのだろう?」
女の語気が変わる。
重みも変わる。
面で見えないが、その顔はさぞ身の毛もよだつ形相をしていたに違いない。
「ええ、そうね。このまま逃がすわけにはいかない。その気持ちの悪い仮面ひっぺがして身ぐるみ剥がしてあげる。」
真正面から、逢魔坂が挑発する。
黒い女の魔力が上昇する。
「その発言、そっくりそのままお返ししよう。何せ私たちは同じ二流だ。
同じなんだよ。
その意味は───────安心しろ、すぐに分かる。」
ぬらり、と女の周囲に何かの影が立ち上る。
一つだけではない。
連鎖反応のように次々と立ち始め、空間を占領してゆく。
骸骨だった。
子供大人多種多様なサイズの骸骨たちが、まるで糸で繋がれている操り人形のように暗闇に蠢いている。
恐らく、元々はここで眠っていた怨念燻るまつろわぬ者達なのだろう。人体模型ならば詰まっている筈の内蔵の部分には、この地下空洞のものと思われる土が詰まっていた。
西洋の死霊術に良く似ているが、遺物に残った死者の妄念を利用する手法はあくまで骨組み。
その実態は土や石などの無機物を材料として作製し、術式を刻んで自在に操る非生物兵士、即ちカバラにおけるゴーレムに近い。
ガシャガシャという骨の鳴る音は、亡者の笑い声か。
今こうしている間にもどんどん増えていく。
広大だった筈の地下空洞は、たちまち影の使徒達に埋め尽くされてしまった。
正しく四面楚歌。
逢魔坂は数十体の骨兵ひしめく地獄の坩堝の中にいた。
「どうやらお互い、嵌める気だったらしい。」
白い骨の海の向こう。
黒い女が不適に笑う。
「先程、刺激といったな。あれは違う。この霊脈はとっくにいつでも活性化してもおかしくない状態だったんだよ。私はそれをほんの少し後押ししただけだ。それに、君、ここの霊脈の点検サボってたろ。」
「───────。」
「───────知ってるだろ?魔術の世界は自己責任だ。」
どん!と、空を裂く衝撃。
黒い女が人智を越えた壮絶の跳躍で、逢魔坂とそれを取り囲む骸骨の群れを飛び越えた音だった。
逢魔坂は自身の遥か上空で弧を描く女を、鳥をも射殺しそうな冷徹な眼差しで捉え、攻勢の隙をうかがっている。
しかし、彼女を取り囲む骨兵達がそれを許さない。
骨兵達が、ジリジリと威嚇の体勢をとりながらにじりより、彼女の追跡を拒む。
ガシャガシャと体が鳴る音だけが彼女を取り囲む。
「逃げる気?」
「君と直接やりあうなんてバカな真似はしないさ。それに、もともとこの戦いに意味はない。ほんの少し、お前の目をそらさせれさえすればそれでいい。じゃあさよなら。私も暇ではないのでね。
骨兵達、あとは宜しく頼むよ。」
黒い女の命令に呼応するように、骨兵達の魔力が更に高まる。
そんな世にも奇妙な怪異の群れを、逢魔坂は冷徹に一瞥する。
「なるほどね、詰まってる土は内蔵の代わり、本質は骨を組み上げた反魂による人造人間。元ネタは、西行法師といったところかしら。」
「ッ───────流石、というべきか。ここまで見通してくるとはな。
───────なら、こういうのはどうかな?」
ジュゥと、目に見えないナニカが骨兵達から立ち昇る。
次の瞬間、大気中で燃える隕石のような鋭い光がゆらりと生じ逢魔坂の網膜を貫く。更に次の一瞬には、幻想的な青白い炎が骨の中から覗く土から湧き水のように吹き出ていた。
時間差はあれど、一体また一体と発火しあっという間に全ての骨の使い魔達が蒼炎に包まれた。
実際の炎と同じく超高温である訳ではない。しかし、洞窟の気温が急激に上昇していくのを感じる。近くにいるだけでも、肌が焼けるようだ。
この青白い炎は呪いだ。
恨みだ。
執着だ。
骨を焼き焦がすほどの───────間違いなく自らに向けられている呪いであると、逢魔坂は確信した。
「は、こいつら、想像以上だ。どうやらお前にかなり恨みがあるようだな。恨み骨髄。先達の業、というやつか。」
「まあ簡単にいえば、かまってちゃんってことね。まったく。迷惑だわ。」
「長い歳月を経て洗練した術式と、ここの豊富な魔力あってようやく引き出せた焔。死して尚残った、魂すらも焦がす妄執の具現。それをこうも一蹴されてしまうと、この亡者達も報われぬというもの。
───────なら少しでもそれに貢献するのも、主の役目だとは思わないか?」
「───────どういう腹積もりかしら?」
「報復は肉体だけでなく心でも構わない。
魔術師とって弟子とは、己が先導者であり大切な家族のようなものだろう。師弟を越えた更に深く特別な関係ならなおさらだ。
───────地上にいるお前の弟子。この山の主とやりあっているらしいが?はてさて中々倒れんな。」
「───────。」
「は!少しはましな顔になったんじゃあないのか!」
黒い女が手を翳す、全骨兵に号令をかけたようだ。
この朱い女の肉体を殺せと。
我は朱い女の精神を殺すと。
全方位から押し寄せる骨の雪崩が、逢魔坂を覆い隠した。
◇
黒を纏った少女は、突如前方から殴りかかってきた暴風に拐われ、気づいたときには、後方に広がっていた鬱蒼と茂る樹海に投げ出されていた。
すぐさま術式を起動し、全身を泡のように黒煙で包み込む。衝撃から最低限身を守るためだ。化野舞夜は、これをほぼ反射のレベルで一瞬の間にやって見せた。
それが功を成したのか、二、三回ほど木にぶつかりへし折りながらも無傷で胴体着地に成功した。
一瞬、自らを見下ろす木々を眺め、自身が生還したことを実感する。しかし、安堵の感情が沸き上がる前に戦闘中であることを思い出し、すぐさま蛇のように跳ね起きる。
急に飛び上がったことで、圧迫された胸からくる衝撃に一瞬悶えながらもグッと堪え飲み込み、怪物がいる筈の方向を見やる。
衝撃は完全とは言わずとも黒煙で吸収しているので、背中を打ち付けた後に起きるあの喉の奥から込み上げるような咳もない。
まだまだ十分戦える。
気を引き締め、反撃を迎え撃つ準備をする。
どう来るか、どう出るか、数秒ほど思案する。
───────が、訪れたのは静寂のみ。
怪物が襲ってくる気配はない。
また油断を誘っているとも思い、黒煙を自身の周りに散布し臨戦態勢をとり、恐る恐る樹海から出ようと試みる。
「───────。」
慎重、緊張、踏み出す一歩。
一瞬という時間が普段の何倍にも感じられる。
視界を覆う景色が、焼けた飴のように延びていく。
しかし、それも単なる錯覚。いや願望だ、戦いを忌避する感性が"気のせい"として視界を歪めているに過ぎない。
一歩、一歩、また一歩と樹海の外の光が近付く。
完全に視界が光に包まれる。
景色が開けていく、と同時のことだった。
ぐちゃり───────と、自身のすぐ後ろになにかが落ちてきた。
肩と首元に僅かに感じた飛沫のような感覚に、反射的に後ろを向く。
赤黒い肉塊のようなグロテスクな何かがそこに落ちていた。
生物の欠損した腕のようにも見えるその何かは、少し灰色の部分も混ざっている。
黒い少女は全てを察して向き直った。
───────あった。
何がって、決まっている。
怪物、いやこの山の主の───────だった死骸だ。
内部から破裂したのか、腕や足だと分かるものはあれど大体が完全に原型は留めてはいない。肉塊がとっちらかっているだけの鮮血の風景だった。
黒煙の膨張による爆発。
黒煙を怪物の体内に流し込んでいる間、標準密度を高め体内で圧縮していた。
ある種の錬金術である状態変化を行い、黒煙は液状化し怪物の体内を周り蝕み始めた。
液体を一瞬で気体に変える瞬間錬成。
それを怪物の攻撃が当たる刹那の間に行い、急激に膨張した体積に耐えられず怪物は爆裂四散した。
待っていたのは怪物だけではない。
化野もまた、怪物が自身の隙をついて向かってくることを待っていたのだ。
まるで弓を引き、獲物めがけて一気に解放するように。
ジュウと、怪物だったものが崩れ始める。
これが怪異の運命なのだ。
怪物は、未だ空の半ばを揺蕩う日の光に照らされながら、灰となり通り風に吹かれて消えていった。
土地の変質に引っ張られて穢れと化してしまってはいたが、それでもこの山を長く護ってきた土地神のようなものではあったのだ。
例えいなくなろうとも、またその座に別の霊的存在が納まるのだろう。
因果は巡るのだ。
少女の心にはある種の無常感が漂っていた。
それも通り風と共に峠の奥へと消えていく。
逢魔坂の後を追おうと、霊洞の方に体を向けたその時だった。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、
不意に耳に飛び込んできた拍手音。
すぐさま音のする方向へ目を向ける。
思わず目を剥いた。
道なき木々の間から、見知らぬ人物が拍手をしながら此方に歩いてきたのだ。
不気味な風貌だった。
全身ぴっしりと密着した黒い布に包まれ、腕や足や胸、右肩から左脇腹に掛けて袈裟懸けに黒い包帯が巻き付いている。体格的には女性のようで、巻き付いた包帯やタイツのような生地がそのボディラインを最大限に強調していた。
最も、それだけではない。
黒い女は、不気味な仮面をしていた。
笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。どちらともとれるく曖昧な表情。泥眼と呼ばれる能面の一種であることはそういったものに疎い化野にはわからなかった。
パン、と突如その手が止まる。
一際大きな拍手をしたきり、その手は二度と拍子を刻まなかった。
一瞬、されど無限とも思える静寂が、二者の間を突き抜けた。
貌の無い顔と睨み合う。
能面の丁度目があるであろう部分には、そこの見えない闇が二つ。見ているだけで吸い込まれそうだ。
視覚を通して相手の意識を乱そうとする類いのモノなのだろう。生憎、その手は通じない。
より一層眼光を尖らせる。
その程度では目眩ましにもならないぞという意思表示。
火花の散るような敵意を示す化野を見て、黒い女は「ほう、」と声を溢す。
「いやぁ、素晴らしい。流石は名門、化野家のご令嬢だ。変質して弱体化したとはいえ土地神に等しい怪異をその歳で祓ってしまうとは。」
「皮肉は結構ですよ。黒ずくめの人。」
「おいおい、黒ずくめはお互い様じゃないか。」
黒い女は包帯で巻かれた手を上げる。
「まぁ自分でもこんな身なりはどうかと思ってるんだ。
扱う宗派の術式の事情でね、これ着てるほうが安定するし都合がいいんだ。最初は際どすぎて破廉恥だとも思ってたんだが、まあこればっかりは仕方ない。意外となれるもんだぜ。これ。」
黒い女は自らのに躯体を見せびらかすように、腕を大きく広げる。たなびく包帯も合間って、鳥というより蝙蝠に近い印象を受けた。
ちらりと、霊洞のある方向に目を向ける。
師匠は、逢魔坂は今頃どうしているのだろうか。霊脈の変質の確認と、その歪みの修正をしに行ったのだろう。
しかし長い炭坑を通るとはいえど、もうそろそろ出てくる頃合いな筈だ。流石に遅すぎやしないか。
と、ここで化野はあることに気付く。
霊洞周辺の魔力が、通常よりも明らかに乱れていたからだ。
水に立った波が、わずかな隙間から出てきて押し広がっているような感覚。ある種の波動が洞窟の奥から発生しているのがわかった。
化野は魔力、術式の制御に冠して魔術師としての基礎的な水準が高いからか見逃されがちだが、出力はあまり高くはなく大きな流れを作るのはあまり向いてない。しかしその分、精密操作や感知に非常に長けており、気流操作もその一環。
魔力の波長に見られる一定の法則や、個性も肌感覚で掴むことが出来る。
だからこそ、この洞窟から回折してくるこの魔力が、一つ一つ違う波長の魔力の鬩ぎ合いであることも理解した。
大抵、このような状態になるのは───────
「おっと、師匠が心配かい?」
黒い女は、化野の視線からその心情を見透かしたようだった。
化野は向き直り、その不気味な面と再度睨み合う。
「お~怖い怖い。君の師匠がどうしてるかって?
今頃、準備しておいた術式で作った人骨ゴーレム、ざっと九十体くらいと洞窟の奥で仲良く戯れてるよ。
まぁ、そう睨むな。安心しろ、死ぬことはないだろうさ。あんな手の込んだ結界作れるくらいの腕があるんだったら、あの程度でくたばることはないだろうよ。それに───────」
黒い女の白い仮面が此方を捉える。
品定めされている。
蛇のように鋭く、そしていやらしい舐めとるような視線を嫌でも感じた。
さぁ目の前の食材をどう料理するか。
眼前のごちそうをどう食していくか。
食べ方は。順番は。
少し牙をたて毒を数ミリ注入しただけで人を殺せる喰人蛇。
そんな怪物に全身に縛られるように絡めとられて、生殺与奪を握られながら生身の肌の上をなぶられるように這われるが如き不快感。
相対してるだけで、術中に嵌まっていると錯覚してしまうかのような生暖かい敵意が自身を包み込んでいた。
少女は、漸く気付く。
既に自身が、敵対者から恰好の獲物に成り下がっていることに。
「それに───────自分自身を先に心配した方がいいんじゃないのかな?お嬢さん。」
黒い女が嘯く。
その顔が嗤っているということは、仮面越しからでもわかった。
バチッっという火花の散るような音。
冬の日にドアノブを触ったときに起こる静電気、それを何百倍にも増幅したかのような轟音だった。
気のせいではない。
女の体は、ただでさへ黒曜石のように鋭い衣服が霞むほどに黒い電気を纏っていた。
バチッバチッと、黒雷は激しく波打つ。
これは、帯電というより、纏雷といった方が正しい。
黒い肢体を這うように駆け巡る黒い雷。
火花を散らす度に、もう既に五体を大気ごと引き裂かれているのではないかと錯覚する。余りにも鋭すぎて斬られたことにも気付けないという刀なら聞いたことがあるが、よもやこの稲妻もその類いのものではないか。
そんな錯覚が頭をよぎった。
触れたものを決してタダでは返さない、それ程までに凶悪な何かを感じ取っていたのだ。
───────不意に、女の纏っていた黒雷が近くの草に飛び移る。
ぼう、と突如その草木から青い炎が立ち昇り、一瞬の間に周辺の芝生へ伝播し、布に水が染み込んでいくように燃え広がった。
僅かな時間しか持続しないようで、範囲は起点となった草木からは半径一メートルも行かない。炎は溶けるように消え、草木が生い茂っていた地面は完全に炭化していた。
化野はすぐさま黒煙の防壁を展開し、とり黒い女を警戒心のこもった目で睨む。
臨戦態勢。
はっきり言ってこの戦いはかなり不利だ。
先ほどの戦いでかなり消耗してしまっていることに加えて、単純に向こうに地力で負けている。
それに、一応ここは逢魔坂の土地。
この女はわざわざ敵陣に乗り込んでいる訳だから、恐らく不足な事態を含めて様々な保険をかけてきているだろう。どんな手札を隠し持っているか全く分からない。
先刻の怪物を屠った黒煙の爆弾は見抜かれているだろう。
草木を焼き払ったあの蒼炎を発生させる黒雷が、いったいどの様な性質を隠し持っているのかも分からない。
目的が何かすらも不明だ。
あれもこれも分からない。
ないないづくしだ。
───────ギチリ、と奥歯を噛む。覚悟を決めた顔だった。
分からない。ならば───────
「先程、準備していたといいましたね。私たちのことをよく知っているようですが、一体いつから霊脈を?」
少しでも相手から情報を引き出す。
「はっ。私から情報を引き出そうって魂胆か?まぁ、いいさ。乗ってやるよ。
伝手でね、昔から逢魔坂の悪い噂は聞いてる。割かし強力な土地を持っているってのはすぐ想像がつく。そうと仮定してしまえばあとは足だけで掴めるもんだぜ、意外とな。
後はいろいろ仕掛けを見つけていけばいい。
時間はかかったがぁ、人払いってのは一度見破られたら意味がねぇ。見つけてしまえばこっちのもんさ。索敵もねぇずさんさだったもんだから易々と入れちまった。まぁ、それが罠だって気付けなかったのは我ながら笑い草だったが───────どうやら不服そうだな。
わざわざベラベラ話してやってんのにその顔はないだろう。」
「いつからここでこそこそやってたのかを聞いてるんです。」
思わず少し強い口調で言う。
「あ~そうだったな。
あ?おいおい。"こいつおしゃべりだな"みたいな顔しやがって。悪いな、いつもの癖だ。
外部の人間とは、いつも話がそれないようにしているんだが、我ながら結構な悪癖だな。職業病といってもいいのかもしれない。」
「は、はぁ………!ッとにかく!これ以上の勝手はさせません。どうぞご退去を。」
不思議と女の独特なペースに飲み込まれそうになり、慌てていつもの調子を取り戻す。
「おいおい、理由は聞かなくて良いのかいお嬢さん。まぁいいさ。どうせ適当な嘘で誤魔化すつもりだったんだ。悪いな、動機。それだけは言えない。
───────さぁ、じゃあそろそろ殺し合いといくか。」
「───────。」
何も言えなかった。
目的も不明、身の上も分からない。
ただ、恐らく相手もそれ相応の理由があってこんな大それたことをしたに違いない。
何ヵ月、もしくは一年以上もの下準備をしてなければ、並の魔術師ではここまでの芸当を行うことはできない。
まぁ、この目の前に立ちはだかる女魔術師が並みかどうかは分からないが、それなりに魔術の研鑽を積んだのだろうということは、実際にその殺意を当てられヒリつく自分自身の肌が教えてくれる。
如何なる向かい風をも意に返さぬだろう超然とした佇まい、隠された霊脈を見つける嗅覚、逢魔坂を迎え撃つ為に一ヶ月も前から偵察している用意周到さ、罠に嵌まろうと逆に押し止めれる手腕、何よりその魔力操作の美しさが何よりもの証明だ。
魔術師とは無駄を嫌うものだ。
厳密には、魔術という無駄以外の全ての無駄という無駄を省ける存在こそが、魔術師としての理想系だと、逢魔坂は言った。
正しく、この女はそれを体現しているだろう人間だった。
自分の未熟な目で判断するのは危険かもしれない。
だけども、少なくとも自分の眼にはそう見えた。
───────だから、それに応えるために、自分は、
私は───────
「煙細工、再起動。
魔力回路───────完全励起。
呪詛障気、賦活。
決めました───────受けて立ちます!」
珍しく、喉の奥から声を絞り出して宣言する。
喋ることも、大声を出すこともまだ慣れない。
だが、今はただ、これでいい。
「はっ!そうこなくっちゃ!」
黒い女の躰を這う黒雷が増殖する。
プラナリアの体が、千切れてもその断面からまた新たな体が生えてきて二体に増えるように、雷が千切れては増え、引き裂かれては増えを繰り返し、黒雷と蒼い火花の鎧を形成している。
その火花が百花繚乱のごとく狂い咲き、黒い稲妻が根を広げたのが戦いの合図だった。