第七話 霊脈
新矢志輝がローションまみれになる少し前。
新矢志輝達の通う霜枝高校。そこから西南方向に五キロ程進んだ所にある森林のある地点、立ち入り禁止の看板が立て掛けられた獣道の奥へと、白髪の少年と朱い少女が分け入っていく。
「一ヶ月ぶりですね。部長。」
白髪の少年、土御門有雪は朱い少女に投げ掛ける。
「えぇ。本当なら半月に一回はこれやらなきゃいけないんだけどね。あの一件の後始末を色々してたからできなかったかなぁ、熊でも住み着いてたらどうしようかしらねぇ。」
クスクス、と愛らしい笑みで逢魔坂朱理が話す。
霜原森林公園。
普段は、市内有数の都市公園として、表向きは市によって経営されており、子供が遊ぶための遊具やハイキングコースなどが整備され、夏にはバードウォッチングや陶芸教室なども開かれている人気スポットだ。
中でも取り分け繁盛しているのがBBQセンターであり、予約制で自分で買ってきたものを好きに焼くというもので、夏になると何十人もの観光客で賑わっている。
近年少子化の影響で観光客は年々へるばかりだが、それに真っ向から抗ってレジャー施設を建設することで盛り返そうとしており、現在計画を推し進めている最中らしい。
ただし、これはあくまで表向きの話。
実際は、この霜枝市周辺一体を不規則にうねる二つの霊脈がぶつかる隣接地であり、ここら一体の土地の状態を測る地脈の観測上である。
そも霊脈とは、大地を流れる霊的・魔術的な力の奔流のことである。
もっと端的にするならば、地下或いは地上付近を流れる魔力の川といってもいいだろう。
殆どの魔術師はこの地脈から魔力を汲み上げられる最適な地点に工房をはって拠点とし、日々神秘の研究に勤しんでいる。
この霊脈の魔力の流れは、その土地の属性や状態に起因し日々変化したりしていなかったりする。しかし、大体はいつも一定で変わると言っても、それこそ川のなかに小指大の渦ができるとかそんな程度のモノであり、それこそ地震が起こるくらいのものでないと大して変化は見られない。
この性質を利用し、陰陽道における風水では、土地の状態を霊脈の状態を利用して分析している。
今日、逢魔坂達が行おうとしていることも一緒だ。
土地の霊脈の状態を半月毎ここへ来て記録する。
記録して得たデータを"陰陽連"へ送る。
それがこの土地の管理者としての、逢魔坂家の責務だ。
───────が、しかし、この逢魔坂朱理という少女はそれをちょくちょくサボっている。
理由は明白、めんどうくさい───────だけではもちろんない。逢魔坂の所にはそれなりの頻度で厄介事が流れ込んでくるため、それに関する始末に追われて出来ないことは多々ある。
が、この少女はそのどさくさに紛れてサボタージュをしまくるため陰陽連も頭を掲げている。
土御門が、逢魔坂の持っているアタッシュケースを一瞥する。
「今日はいつになく気合いが入っていますね。」
アタッシュケースの中身は、霊脈観測用に調整された魔力計測用例装だ。
いつもは精密計測用の魔術例装は持ってこずフリースタイルで判断するのだが、今回は珍しく律儀に持ってきている。
専用の魔術例装を使わず、魔術師の感性のみで計測するのは本来有り得ない。
それは単純に正確性の問題で、霊脈観測例装を使うのと使わないのとでは天と地ほどの差があり、しばしば顕微鏡と肉眼に例えられる。
そのため一流の人間ですら使う人間の割合が多い。
使用しなくても肉眼で事足りるのは逢魔坂のような一部の怪物くらいだろう。
そんな逢魔坂が使うということは、どれだけ本気なのかが伺える。
「前回はサボっちゃったからねぇ。前回の分の元を取らなきゃいけないし、それに手早く済ませたい。周囲のデータから一ヶ月前の状態を推測する解析には普通一時間くらい使っちゃうけど、私なら十分ですませられる。」
本来一時間かかる作業をたった十分で終わらせられるとは、風水を専門とする土御門だからこそ、その異常っぷりがわかる。
「さっさと済ませちゃって、後でレストランでもいっちゃいましょう。今日は私がおごってあげるわ。」
「マジっすか!?部っ長太っ腹ぁ!」
土御門は、目を輝かせながら手でゴマをする。
「さて、そろそろよ。」
道無き山道、横は渓流。
川のせせらぎが聳える木々へと溶けていく。
こう見ると、森も街も大して変わらない。ただ緑か灰色か、それだけの違い。
人の寝床か獣の住処か、その違い。
───────ガサリと真横の茂みが動く。
この森の住む一人、いや一匹のようだ。
客人か、侵入者か見極めに来たのだろう。
しかし、一向に出てくる気配がない。
恐らくはその異様な三つの気配を感じとり、半月毎にやって来る人間と直感したのだろう。あの者達は強大な力を持っている。下手に刺激しない方が得策だろうと、本能が訴えたのだ。
二つの影は、どんどんと奥へと進んでいく。
この森の深淵へ、脈動する星の息吹の淵叢へ。
「ここよ。」
朱い少女が立ち止まる。
二つの霊脈の隣接地。星の息吹が湧き上がる『点穴』と呼ばれる力の噴出点。
ここは謂わばパワースポットであり、魔術師にとっては理想的な霊場とされる。
それを裏付けるように、ここら一体は草木が一つも生えていない。
えらく殺風景な聖域だなと、土御門は思った。
普段は霊脈の計測は逢魔坂一人で行っているので、ここに来るのは始めてだ。
今日なぜ自分達が呼ばれたのか。その真意を掴めずにいた。
逢魔坂がアタッシュケースを地面に置き、その口を開ける。するとその中に手を伸ばし、何やらガチャガチャといじり始めた。
土御門はそこから目をそらす。
中身は見るな、との事である。
魔術師は己が秘法を明かすことを蛇蝎の如く忌み嫌う。勿論普段は寛大な逢魔坂もそこは譲れない。それも土御門は察しており暗黙の了解として気を配っている。
これが同業者同士のビジネスエチケットだ。
「さぁ、始めるわよ。とっとと終わらせて新矢クンの情けない姿を、服に忍ばせておいた盗聴用例装で、美味しい焼き肉を食べながら実況しましょう。
───────と、その前に。」
逢魔坂は自分達が来た方向の道を見やる。
「分かってるわよね。土御門君。」
「えぇ、まさか俺達が呼ばれた理由って…」
───────ギュン、と何かが一直線にこちらへ向かって突っ込んできた。
細長い、黒い影。
獣ではない。
獣はあんな動きはしないし、第一空は飛ばないだろう。
黒い影は、まるで生きているかのように駆動し針のように細く縦に引き伸ばされ、逢魔坂目掛けて一直線に飛んでいく。その尖った先にあるものは、彼女の心臓。
5m、4m、3m、2m、1m───────
鋭く尖った針のような切っ先が、彼女の心臓を刺し貫き胸を抉るその直前───────数cm程離れたところで、黒い影が停止した。
───────黒い靄のカーテンだった。
黒と言っても、この黒い影のようなどす黒いものではなく、夜の空を濡らす漆黒だった。
"闇夜"が、不粋な影の魍魎を拘束していた。
「やっぱりね。」
逢魔坂が呟く。
「あんた達を連れてきて正解だったわ。」
次の瞬間、細長い針のような黒い影は消え失せ、そこには小柄な少女が済まし顔で立っていた。
黒いロシア帽に黒い厚着、黒いミニスカートに黒いストッキングを着こなして、全身が黒に包まれている。
その姿は、その質素な佇まいも合間って黒百合を連想させた。
名を、化野舞夜。
オカルト研究部の書記であり、逢魔坂の秘書。
化野家。名門中の名門とされる魔術の家系に生まれ、次期当主として期待されている才女。
普段は闇に溶け込む姿隠しの魔術で逢魔坂の影に隠れている。
「姿隠しの精度、前より格段に良くなってるわ。」
「あ、ぁ…ありがとう御座います。毎晩ひ、ひっしに…練習しまして…」
少し吃り口調で、俯きながら礼の言葉を紡ぐ。
相変わらずの人見知り。根暗極まれし陰女である。
しかし、その顔はほころんでいる。彼女にとって逢魔坂は師も同然であり、振り向いて欲しい対象なのだ。
「───────でも、まだまだね。」
ぴしゃりと朱い少女が冷徹に批評する。
うぅ…と黒い少女は口ごもる。俯き気味の彼女の目線はさらに下がっていく。
「像はしっかり隠蔽されているけど、"熱"がまだね。それじゃあサーモグラフィーに引っ掛かる。体温も隠蔽できるようにしなさい。そうね、自分から滲み出るもの全てを引き留めるような感じでやってみるといいわ。」
周りを囲まれている。
そんな戦地の只中で彼女は的確に魔術の講義をしている。それは少し抜けすぎているのではと思う程に。
おいおい、と土御門は視線を一瞬逢魔坂に向けると、直後とんでもないものを見る。
逢魔坂がその白き手を伸ばし、その細い指を化野の美麗な丸顔に滑らし、そっと頬を撫で上げる。
「大丈夫よ。私の言うことは絶対だから。私の言うことを聞いていればすぐに一流に成れる。あなたから何もかもを奪おうとしている妹から何もかもを守ることができる。」
まるで幼子に言い聞かせるように、安心させるように、濡れるような夜色の髪を撫でながら、朱い少女は黒い少女に先程とはうって違う優しい母性溢れるトーンで言葉を投げ掛ける。
みるみると黒い少女の表情が緩んでいき、乙女のそれに変わっていく。
化野の眼と逢魔坂の眼が交差する。
やってるなぁ…
まぁいつもの事だが。
なのだが───────
土御門はぐるりと辺りを見渡す。
木々の隙間から、無数の血走った眼光が覗く。
俺達が只者ではないと見切っているのか、今は此方のでかたを伺って手を出しては来ないが、この探り合いに痺れを切らし始めておりキィ…キィ…と奇怪な咆哮をあげて威嚇してくる。
こんな状況でやるかねぇ!普通!
さしもの土御門も、魑魅魍魎の群れに囲まれている最中に行われる洗脳行為には驚愕せざるをえない。
逢魔坂の顔が化野に迫る。
二人の唇が、捕食者と被捕食者のように重なり合って…
───────その次の瞬間、化野がすぐさま向き直り、怪異の群を睨み付ける。
その直後、シュウという空気が抜けるような音と共に、彼女から伸びる影から突如として煙が噴き出す。
先程の槍状の怪異を拘束した闇夜のごとき黒煙だった。
怪異達の声にならない慟哭が、森全土に響き渡る。
なんて醜悪な大合唱。
四方八方から来る金切り音に、土御門は思わず耳を押さえる。
木々の茂みから、薄く透き通った白い影が飛び出す。
それが戦いの合図だ。
隠れていた怪異達が一斉に此方に襲いかかってきた。
無数の眼球が全身に張り付いた不定形の怪物。
ゆらゆらと蜃気楼のように揺れる青白い影。
獣を象った赤黒い靄。
何十匹もの奇怪な蟲の集団
その全てが、醜い穢れの群だった。
おぞましき魑魅魍魎の津波。
常人が飲み込まれればひとたまりもない。おびただしい数の怪異の群れに血を吸い尽くされ骨まで喰われ、原型がなくなるどころか跡形もなくなり肉片骨片だけの無惨なカスになってしまうだろう。
───────勿論、それは常人であればの話。
羽虫が蜘蛛の糸に絡め取られるように、怪魔の軍団が化野が放った黒煙の中で立ち止まり、突如として悶絶し始める。
金切り声をあげのたうち回るもの。
ねっとりと纏わりつく黒煙を必死に振りほどこうと踠くもの。
ソレらがどれだけ抗おうとも、その力で押し合おうとも、この呪いの燻しは振りきれまい。
彼女が敵と認識した存在にのみ殺到するこの黒煙は、音もなくすさまじい速度で対象を包み込み、触れたものに纏わりつき気体にあるまじき粘りで拘束し、空間に作用して魔力や呪力、酸素などの"それが生きるために必要な要素"の供給を遮断し、密閉状態にする。
これだけでも十二分に強力だが、この黒煙の成分にも仕掛けがある。
この黒煙に拘束されたものは、勿論の事、脱出、もしくは振りほどこうと抵抗するだろう。そして当然のように体力を消耗させるはずだ。
体力が消耗すれば次はどうする。
勿論、回復しようとするだろう。
人間や動物などの生き物ならば酸素を取り込もうとし、怪異やその他霊的存在は魔力などのエネルギーを取り込もうとするはずだ。
そこが落とし穴だ。
この黒煙の効果のよってそれらは遮断させられる。
その代わりに、この黒煙に含まれるある"成分"を取り込んでしまう。
ある存在にとっては免疫のようなものであるその成分は、彼等にとっては猛毒でしかない。
取り込んだ結果、成分はその者の基をズタズタにし、命の器を崩壊させる。
なんと凶悪か。
人も霊も、この世に自らの証を残そうと踠き苦しんでいる点では同じだ。
肉を持ち生きているか、記録として生きているか、その違い。
その一途な思いを逆撫でするかのような所業。
生きようとあがけばあがく程沈んでいく。
闇夜に落ちていく。
生物も怪異も例外なく、その黒煙の餌食になる。
ならば───────
───────それを正面から打ち砕くのは、それ以上の異常である。
じり、じり、と煙の中で此方へと向かってくる影がある。
それはゆっくりと着実に、悠然と雄大に、黒煙を押し退け確実に此方に近づいてきていた。
「どうやら、大ボスの登場ね。」
逢魔坂が期待を含んだ笑みを浮かべる。
直後、凄まじい衝撃波が、けたたましい轟音とともに打ち放たれ、粘っこい黒煙を豪快に吹き飛ばした。
邪魔くさい煙が消え、ソレがその巨体を顕にする。
グルル、と喉をならす声。
ソレの口からは白い唾液がずるりと垂れて、地面に汚ならしい音を立てて着地する。
黒ずんだ灰色の肌。体毛はなく、四つん這いの四足歩行型。
イメージとしては、コウモリが翼と体毛を失いライオンのような四足歩行フォルムになったような獣。
眼窩は体や頭のサイズとは不釣り合いなほど大きい。
発生してからそれほど月日はかかってはなく、まだカタチが整っていない魍魎であることが分かる。
威嚇として開かれた口には、無数の黒い牙が生えている。
その一つ一つが生き物のようにモゾモゾと蠢き、ガチガチとぶつかり合いせめぎあう。
全く、不可思議で不気味だ。
肉々しい柔軟な質感をしていそうなのに、牙同士が衝突すると、まるで金属同士を打ち付けるかのような硬質な音が鳴る。
その牙は、通常の物理の内にはいないらしい。
ゴクリ、と黒い少女は唾を飲み込む。
手を翳し、さらに内側から魔力を汲み上げる。
吹き飛ばされ周囲に散った黒煙が、再びより集まって目の前に迫る怪物に殺到する。
しかし、怪物はその歩みを止めない。
黒煙が通じない。
そればかりか、心なしか怪物の動きが先刻より機敏になっているような気がする。
後退し、先程のこの怪物の様子から、一体どのような特性を持っているのかを推察する。
怪物の咆哮に黒煙を霧散させる効果があるのは理解した。
だったら黒煙の密度を濃くし、呼吸器系に損傷させればいい。
問題は、どうして黒煙のなかを悠々と歩けているかだ。
黒煙の成分を、或いはそのものを弾く外郭、もしくは生得領域を纏っているのか。
黒煙を純粋な膂力で押し退け、成分に抗う耐性があるのか。
或いは、その全てか。
尚も、彼女は勝機をこじ開けるために考察する。
意識、脳内の神経を全てあの怪物の攻略に集中させる。
───────それが、彼女の抜け目だった。
ぐあっと、彼女の周囲に影が立ち上がる。
先刻より塞き止めていた怪異たち。
その中でも一際強力な個体が、"成分"で殺しきれず生き残り、黒煙が晴れた後も息を潜め彼女が意識をそらす瞬間を見計らっていたのだ。
油断していたところを打つ。
その程度の知能は持っているらしい。
───────しかし、それを甘んじて受ける程、化野舞夜は三流ではない。
「…っ…くッッッッ!」
───────瞬速の反応。
咄嗟に黒煙を周囲にぶちまける。
黒い津波が唸りをあげて怪異たちを包み込む。
再び苦しみ出す魑魅魍魎。
土御門も逢魔坂もいつの間にか姿を消している。恐らく黒煙に紛れて戦線を離脱したのだろう。
これで仲間の身を案ずる心配はない。心置きなく暴れられる。
もう出し惜しみはしない。
今度こそ殺しきる。
黒い少女の魔術が、また一段と唸りをあげる。
───────と、その時、化野舞夜は"怪物"が此方へ向かってニタリと嗤っていることに、漸く気づいたのだった。
◇
木々の間を縫うように、白髪の少年が無風の藪のなかを駆け抜ける。
土御門有雪は黒煙に紛れて戦線から離脱していた。
幸い、囲んできた怪異の集団の厚みは薄く、怯んだ隙にするりと突破できた。
では黒煙はどうしたか。
あれは魔術のランクとしては低いので、魔力避けの護符で簡単に凌ぐことができる。あの怪異達は、所詮低級なので、このレベルでも壊滅してしまう。徒党を組んでもそれは同じ。まぁ、一体だけ"大物"が混じっていたが。
兎に角、ここまで来れば一安心だ。
魍魎の群はあの黒煙で一斉にスタンしていた。あの"大物"も化野の方に注意がいっていたため感知はされなかった。いや、単純に見逃されたといった方が正しいか。
ともあれ、周囲に怪異の気配はない。
ようやっと、物寂しい冬の山を堪能できるというものだ。
逢魔坂はあの様子だと大丈夫だろう。何しろ、例え化野がやられても、我らが部長がいる。よほどのことがない限り俺がいなくても大丈夫だろう。
いや、逆に俺がいた方が邪魔かもしれない。
後方支援担当の金魚の糞は、早々前線から引き下がるのが得策だ。
「それにしても…結構湧いてたな。」
湧いていたというのは勿論怪異や悪霊のこと。
今までで始めてみる怪異悪霊の大量発生。
恐らく霊脈に何らかの異常が見られたのだろう。
土地のバランスが崩れ、そういったものが発生しやすい土壌が出来てしまったのだ。
恐らく最近騒霊現象が度々報告されるのも、この歪みが原因だろう。
ある一点で起きた歪みが波のように、絹に垂らされた染みのように、呪波汚染が周囲へと波及していく。
特に爆心地がここ、二つの別々のところから根を張ってきた霊脈と霊脈、全く属性特性の違う土地同士がぶつかり合う場所なのだから、面倒なことにならないといいが。
「───────と、こっちもなかなかウカウカさせて貰えないらしいな。」
半身を捻って後ろを見やる。
遠ざかっていく風景の中に、変わらない影が二つある。それらは徐々に徐々に大きくなっていく。
何かが追ってきているのは明白だった。
先刻の怪異の群の生き残りか、それとも途中で拾ってきたか。
薄い自我は薄い自我を通して、大きな共同体を作り上げる。
成る程。と、土御門は呟く。
この森は既に、奴らのテリトリーとして機能しているようだ。時間をかけて緻密に張り巡らされた感知網は、そう簡単に逃してはくれないらしい。
なら、こちらも受けて立つまでだ。
土御門は自信たっぷりに、今まで何十人何百人もの乙女を落としたその尊顔に、笑みを張り付ける。
二つの怪は、更に速度を上げてこちらに追い付かんと後方二十メートルほどから迫ってくる。
魔力を生み出す回路を焼ききれる寸前まで回し、脚力を限界まで強化している。
それなのにも拘らず、あんな怪異の中では決して速い方ではないであろうあの程度の雑魚二匹に、あと数秒ほどで追い付かれそうなのを見るに、我ながら本当に二流だなと少し辟易する。
そう、土御門有雪は陰陽師としては二流だ。
魔力の量や質は並の術師よりかは優るものの、一流には及ばない。
土御門家はその名の通り、彼の伝説の陰陽師を輩出した名門中の名門なれば、全盛過ぎし現代であってもたった一人で一部門を任される程の高名にして強大な陰陽師が闊歩している魔境であることは必定。
有雪などの半端者は押し潰され沈んでいくのみだ。
───────が、それでも彼は才人としてその頭角を現している。
それ即ち、彼は他の分野に誇れるものがあるということだ。
東洋、特に日本に古くから根差している魔術は、西洋の文化圏の研究者気質なそれと比べて極めて実戦的な趣向が強い。
それ故に、術師は戦闘能力以外のステータスが蔑ろにされていることが少なくない。
そんな中で、有雪は研究者として若くして成果を納めるに至った。
研究畑の人間は有雪以外にも少なくはないが、みな四十を過ぎた頃に漸く芽が見えてくるばかりで、弱冠十五歳にして特許の連続取得という二十年ぶりの快挙を成し遂げたこの少年は、正に天才といっていいものだった。
少年は研究や博士として優れていた。
しかも、元来のプレイボーイな体質であるからか、その中でも取り分け"使い魔や生物を扱うこと"に秀でていた。
その研究によって培った成果を、戦闘に転用するに至るにはさほど時はかからなかった。
「まぁ、お前らの相手は。こいつらで十分だ。」
土御門は、ポケットから竹管を取り出す。
竹管にあるコルクのような蓋を開ける。
きゅぽん、と、シャンパンを開けたような音。
すると、ごく静かな動作で、二匹の怪異にその"中身"をむけた。
「───────殺せ。」
普段の陽気さからは想像もつかないような、冷たく鋭い一声が白髪の少年から放たれた。
───────直後、二つの小さな影が、弾丸のような速度で竹管から飛び出し、二匹の怪異へ迷いなく真っ向から向かっていく。
がなるような二つの断末魔。
飛び出した土御門の使い魔は、あれよという間に怪異をその俊足で翻弄し、その矮躯からは想像も出来ない殺傷能力で瞬時に解体し八つ裂きにする。
ボトボトボトと、怪異の、怪異だったものの肉片が地面に落ちる。
ほんの刹那の一時だった。
焼けるような音と共に、怪異の残骸が灰となり消えていく。
自然の営みの中で産まれる歪みであろうと自然から産み落とされたものということは変わらない。最後はマナへと拡散し霊子の霧絵となって元へと還っていく。
これぞ帰化/循環の理である。
一仕事追えた二対の使い魔が、怪異だったモノの血なのかすら分からない青い体液の飛沫を上げながら、猛スピードで中空を駆け抜け土御門の手に纏わりつく。
「お~よしよし、よくやったな~」
土御門は二匹の使い魔を撫でる。
竹管から出てきたのが容易に想像できるような小さな体に、見るものを魅了する純白の毛並み。
管狐。
それは、小さな白い狐だった。
長野を初めとした中部地方や、東日本にも一部伝わっている降霊術。
今でこそ妖怪伝承とされ、様々な怪奇譚でコンテンツとされ消費されているが、元は修験道の山伏が修行を終えたとき、その山伏の官位を発令する山から授けられるものであった。
しかし、近年の日本の魔術世界において山岳信仰と別れて独自の降霊術・召喚術として浸透していき、独自の進化分化の路を辿り陳腐化、めっきり衰退している。
今は殆ど使われておらず、少数の家がおまけとしてで伝える程度である。
土御門はそこに目を付けた。自身の構築した魔術理論での再解釈により、オリジナルの原理を持つ『陰陽道の管狐』の術式を開発した。
「ふ~。いっちょあがり。か、まぁ試運転だったがパフォーマンス的にはいいだろう。」
管狐が戻った竹管に、コルク栓の蓋をする。
一先ず、戦闘の終了に安堵する。
自分のような人間が前線に出されるのは気だるいものだが、同時に気軽なものでもある。
危なくなったら逃げればいい、どうせこっちには強い強い仲間がいるのだから。
───────その直後、世界をかち割るかのごとき爆音が轟いた。
◇
化野は怪物に近づきすぎた。
近づきすぎたと言っても、彼女と怪物の間は十メートル以上も離れている。
黒煙の中でも機敏に動き始めたとはいえ、怪物が彼女の元に辿り着き直接惨殺するには、疾って二秒、三枚に愚すのにさらに一秒かかってしまう。
あっさり距離を取られその間に対策されて、負けるのは自明の理だ。
では何故、その様な不利な状況でこの怪物はああも自信の勝利を確信したかのように嗤っていられるのだろうか。
それは、この状況から目の前の化野を殺せる武器があるからに他ならない。
化野舞夜は怪物の体が一回り大きくなっていることに気づく。
次の一瞬で、あの黒い牙から先刻防いだ槍状の黒い怪異を連想する。確かアレもあの黒い牙のように、生物のごとき動きでその形状を変化させていた。
怪物の体はさらに膨らんで、化野はその姿から吹き矢を連想した。
黒い牙、中空を穿つようにして飛ぶ槍の怪異、生物的な生々しいうねり、そして吹き矢───────
黒い少女の脳内で、落ちものパズルの連鎖のように様々な欠片がガチガチガチとあるべきところに填まっていく。
突如、怪物のからだの膨張が止まる。
───────気づいたときにはもう遅かった。
暴!という凄まじい破裂音。
数十発もの大なり小なり様々な大きさの黒い牙が、黒い散弾の嵐となって黒い少女に襲いかかる。
黒煙を怪異の群に重点的に当てていたのも災いし、咄嗟に黒煙の壁を幾重にも重ねても音速を越える槍の勢いは収まらず、呆気なく突き破られてしまう。
体の芯に響くほどの重い音が、混雑して木霊する。
肩口に一発、頬を二発、太腿を三発が掠め、右脇腹と右胸、溝をそれぞれ一発ずつ三発が命中する。
最小の弾丸は拳銃を遠くから打たれたのとさほど変わらず、大きめの弾丸は大口径の対物ライフルに相当する。
黒煙で多少弱められたからといって、直撃すればただではすまない。
常人ではミンチ一択だ。
黒い少女が吹き飛ばされる。
悲鳴すらない。
三メートルほど中空を舞った後、大木にぶつかり地面にうつ伏せに倒れ込む。
「あ…う…」
少女の息はまだ絶えていない。
しかし───────
「がァ…ハぁ…あァ」
ぬっと、巨大な影が倒れ伏した彼女を覆う。
山の湿気た土の匂いが鼻をくすぐる。
すぐ頭上で聞こえる荒々しい息遣い。
きっと私を食べたくてしょうがないのだ。
魔術師の肉体は、霊的な蓄えが豊富なフルコースだ。
自分という怪物をさらに上の次元へと進ませることができる、極上の糧なのだ。
べちょり、と、必死に上を見ようと前を向いた顔の前に、白い粘液が着地する。
弱肉強食───────自然界の絶対法則。
どっちが喰うか喰われるかそれは残酷なまでに明らかだった。
怪物がガパリとその巨大な口を開ける。
射出したはずの黒い牙は、もう既に生え変わり始めていた。相変わらず生物のようにグルグルとうねっている。
これに貫かれれば、ある意味死ぬことよりも恐ろしい。
怪物は勝ち誇る。
そうだ。俺が喰らう側なのだ。
俺がこの山の主なのだと。
見よ!我が威容。
山を飲み込む蛇蝎の帝王。
未熟も未熟な輩など、恐れるに足りん!
「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」
雲なき空を見て、山中に響く雄叫びを上げた。
───────と、最後の最後に獣らしく油断したのが、この怪物の敗因だった。
「ガッッッ───────」
怪物の雄叫びが止まる。
その巨身に纏わりつく何らかの"力"が、怪物を押さえつけて離さない。
黒煙だ。
化野が操っていた黒煙が、大蛇のごときうねりとなって怪物に絡まり強烈な力で押さえつけていた。
「───────!」
怪物がより一層強い力で煙の大蛇による拘束を解こうとする。
しかし、幾度も煙を押し返そうとすれども黒煙は更なる厚みを以て強度を増し、一向に自由は得られない。
喉笛を押さえつけられているため空気を取り込むことが出来ずにいるようで、得意の魔力霧散の咆哮も黒牙の射出も叶わず、苦しそうに踠いている。
地に伏し自由を奪われた苦痛に這いずり回る怪物を、小さな影が覆う。
黒いロシア帽に黒い厚着、黒のミニスカートに黒のストッキング、闇夜に溶け込める程に全身に黒を纏ったその姿は、黒い百合を連想させる。
先刻、九発もの必滅の凶弾に倒れたはずの少女が、化野舞夜が立っていた───────