第三十話 浅影邸奪還作戦 ③
『──祐治。お前は我が家の星だ。月代分家の当代として、鳴上を支えるんだぞ』
他人の期待に応える、というのは、いつも行っている作業だ。
苦痛であったことも、重荷であったこともない。
──ただ、何かが足りない。何か大切なことを忘れている。いつも、そんな気がしていた。
◇
漆黒に染まった短剣が、大気を引き裂きながら振り下ろされる。
魔力で限界まで切れ味を『強化』され、更に黒雷を纏わせているのだ。上忍の桁違いの膂力で振るわれれば、たとえ大岩であろうとも、濡れ紙のように両断せしめるに違いない。
「ぐっ───」
狐面、渾身の一撃。
さっきまでとは、重みがまるで違う。感情が乗っている斬撃だ。
ナイフの刀身が、ぎりぎりと軋む。
「新矢志輝、お前は何故ここまで戦える!」
狐面が叫ぶ。
「俺と同じだと言ったな。……赤の他人の家に、命を張るまでの価値を感じていると言うのか!」
痺れる前に手首をしならせ、短剣を受け流す。
「あぁ……そうだ!」
今度は、志輝が振り下ろす番であった。
金属同士が打ち合う鈍い音が、林の中を響き渡る。
「ふざけてても、瑠鋳子の騎士を任された身だからな。浅影家の期待に応えてやりてぇのさ」
打ち合いながら、思い出す。
瑠鋳子や屋敷の者達との、短くも濃密な一時を。そして、先刻の瑠鋳子との問答も。
「ここまでの……因果も……あるしな!」
両者は距離を取ると、互いに得物を向け合った。
志輝は、饒舌に語り続ける。
「それに俺は……瑠鋳子に覚悟を聞いて、そんで応えられちまったんだ」
志輝と瑠鋳子との間で交わされた、覚悟を示す問答。
『──私は……最後まで戦う。だって私は、浅影家当主なんだから……!』
昨日見せた、全てを薙ぎ倒す女帝としての、威容とはまた違う。
決して強さを取り繕わず、されど己の弱さをグッと飲み込んだ、間違いなく勇姿と言える表情。
「言葉はともかく、あんな顔を魅せられちまったら、途中で投げ出すなんざ出来ねぇよ。少なくとも、俺は俺がそんな奴じゃないと信じてる。だから、瑠鋳子の思いには応えてやりてぇし───」
ナイフの切っ先を、狐面に向ける。
「──そんな俺を信じてる……俺の心も、裏切りたくないんだよ」
「恥ずいこと言わせんな」と頭を搔きながら、志輝は締め括る。
「ああっ……まどろっこしいな! なにに引っ掛かってンのか知らねぇけどさ────」
再度、ナイフをゆるりと構える。
「やるせねぇモンがあるなら、こっちでケリつけるしかねぇだろ、最初から」
「……確かに、そうだね。愚問だったよ。退屈だったろう」
「そうでもないぜ。おかげで、だいぶ気持ちに整理がついた。……これで、心置き無く殺り合える」
そう言うや否や、ほんの一瞬で狐面との距離を詰め寄った。
「しア───!」
油断必死の至近距離。
少し手を伸ばせば、相手の喉元に簡単に届いてしまう、命よりも僅かな間隙。
そこで繰り広げられるは、超高速の剣戟であった。
「おおおおおおおお!」
唸り声を上げながら、絶えず技を繰り出す狐面。
ただ無言のままに、剣戟を捌き続ける新矢志輝。
ほんの数秒足らずに凝縮された極限の時間、両者は人間の限界をも越えて凌ぎを削る。
十合、二十合、三十合、五十合───百を超えて、打ち合いは計測不能域へと至る。その果てに、一際激しい火花を散らすと、両者は弾かれたように距離を取った。
体勢を立て直す隙すら与えず、狐面が右の短剣を凄まじい回転を与えて投擲してくる。
紙一重で避けると、短剣は空中を大きく旋回し、ちょうど志輝の身体を双剣で挟む位置となった。
「うっ……ぐ─────」
呻きを上げながら、志輝が硬直する。筋肉が、痙攣しているようであった。
狐面の短剣は、意味もなく二振りあったわけではない。
二振りで、一対であった。
短剣同士で魔力を循環させ、魔術的な電場を形成している。
標的が双剣の間に入った瞬間、一気に繋がりを強めて、黒雷の魔力で感電させる術式であった。
電撃の出力は、動きを一時的に制限する程度であり、志輝の命に届くことはない。しかし、黒雷は正確に志輝の運動神経を麻痺させており、指の一本すら言うことを聞かなかった。
これが、鳴上月代祐治という術師の真価であった。
彼の魔力量は、月代一族の中では特段秀でている部類には入らない。
それどころか、"小嚢"と揶揄されることもあった。
術師とは独立した、二つ以上の物品同士で魔力を同調・循環させる。そして双剣に限り、それを実践レベルで扱える。その魔力運用の緻密さを評価され、上忍として花開いたのだった。
そしてその術式は、電気を通じさせるだけには留まらない。
短剣は中空で急激なターンをかけると、回転しながら対の短剣の元へと向かい────
「俺の、勝ちだ────」
鼻をくすぐる、空気の焦げた匂い。
すぐ側まで、死が迫ってくるのを感じる。
こういう時程、強く生を実感できる。
──だが、ここで死ぬのは性に合わない。
全身から全霊の力を絞り出し、ある一点を『眼』で捉える。
「な─────」
バキリ、と存在そのものが砕ける音なき音が、周囲の空間一体に波及していく。
突如として、志輝の自由を奪っていた電撃の網が、双剣を繋ぐ魔力の経路ごと千切れた。
そのまま回転し、帰ってきた短剣を万物の『壊れやすい所』に沿って切り裂く。短剣は、施されていた術式ごと真っ二つに断ち切られ、終ぞ志輝の首を両断するには至らない。
からん、と蝋の翼を失ったギリシャの英雄の如く、短剣だったモノが地に墜ちる。
土の上に転がったときには、それは武器としての意味を殺された、ただ黒いだけの鉄屑だった。
「……噛み切った……のか─────」
「歯応えは、イマイチだったな」
志輝が、白い歯を剥き出しにして、にっと笑う。
何ということはない。
存在のカタチを視覚化する『眼』で、双剣を繋ぐ黒雷の綻びを観測し、何とか噛み千切ったのだ。
「ク────」
狐面が後退る。
それを見て、志輝がゆるりとナイフを構えた。
「──決着、つけようぜ」
そう言うや否や、志輝はナイフを逆手に持ち替え、狐面に肉薄する。
狐面は、無言のままに短剣を振り抜き────
「──────!」
二つの影が、再びかち合った───その刹那の出来事である。
志輝は、振り下ろされた短剣の『無常』を視る。黒い罅にも、壊死した血管にも映るそれに、するりと右のナイフを滑らせると、流れるような神速で真上に突き上げた。
この時点で、狐面の短剣は両方とも両断され、武器としての意味が殺された状態にある。
しかし、武器は何も双剣だけだとは決まっていないのだ。
短剣を振り下ろしたのとは逆───空である筈の左手に握られているのは、忍ばせていた暗器。
がら空きとなった志輝の胸元へと、凶刃を突き入れる───と、その直前。志輝もまた、もう片方の手で狐面の腕を横から掴み、関節の弱い方向へぐいと捻ると、突き放すように逸らした。
柳生新陰流の『無刀取り』に近い技術だが、志輝にはその心得がある。
頭上に掲げたナイフを落とし、左手で掴む。更に踏み込むと、すれ違いざまに振り抜いた。
「うぐっ」
志輝の真後ろで、小さく呻いたのは、狐面───鳴上月代祐治。
次の瞬間、彼の肩口から、勢いよく血が吹き出した。
彼の身体は、左脇腹から右肩にかけて、袈裟懸けに切り裂かれていた。
「なんてザマだ……」
祐治はそう呟くと、ぱっくりと開いた肩の傷を押さえた。
「情けを、かけられるとは、ね……」
心臓と大動脈は外している。
右肺の中心部は断ち切っていない。
肝臓周辺は掠めるに留めている。
「侍じゃねぇんだから、ンなの気にするもんじゃねぇだろ」
流石の手際である。
人や魔を殺す術に長けているのなら、一線を侵さぬよう加減することも出来るということだ。
「……つっても、早く手当てしなきゃ、普通に死んじまうぜ」
「舐めないで……欲しいな。俺たちは、そんなにヤワじゃない……」
「それは、どっちだ。"上"か"下"か?」
「そんなの……どっちもに決まってるだろう……鳴上家、万歳……ってね」
祐治が、木に寄り掛かる。
「往けよ、急いでいるんだろう? 余計なことに時間を使わせてしまったね、謝罪する」
狐面の言葉を聞いて、志輝は小さく笑う。
「俺の有り様は、そんなに滑稽か?」
「いや……久し振りに、良い殺し合いが出来たなと思って。……それで謝られるんだから、ちょっとおかしくってさ」
「君は、殺し合いに愉悦を見出だす変態なのかな」
「まさか……だいぶ誤解してんぞ、お前。何事も、楽しんだもん勝ちだろ?」
じゃあな、と言い、志輝は林を後にする。
帰る先は勿論、浅影瑠鋳子を置いている小屋だ。
「……おいおい」
林の外には、見慣れた少女の姿があった。
浅影瑠鋳子が出迎えていた。
彼女の横には、伊妻も立っている。どうやら、意識が戻ったようだ。
「随分と、お楽しみだったみたいね……護衛対象の私に断りもしないで」
瑠鋳子が、眉を顰めながら言う。
「悪い。出来るだけ俺の方に誘導したつもりだったんだが」
「アイツらが、アンタをスルーして小屋に来ていたらどうしてたの?」
「その時はその時だ。責任持って俺がお前らを守るつもりだった」
それを聞いて、瑠鋳子は何とも言えないような表情を浮かべると、ぷいと顔を背けた。
「傷はないか、新矢」
伊妻だった。
相変わらずの、深い海を連想させる低音ボイス。
多分、俺よりも低い。
「あぁ。体力は思ったより削られたが、無傷の完勝だ。……まぁ、経歴には瑕が付きそうだがな」
わりと冗談にならない冗談を言って、歩いてきた道を見返す。
木々に埋もれて、狐面の姿はもう見れない。しかし、僅かながら気配を感じた。
良かった……一先ず死んではいないようだ。
「そこは安心して。どんだけ衰退しても、浅影の山は上質な霊地なんだから。魔術師だったら、そう簡単にはくたばらないわ」
次に、伊妻に質問する。
「アンタも、もう動いて大丈夫なのか」
「霖雨の気まぐれのおかげでな、この通りだ」
伊妻が、腕を浅く広げる。
無駄に胸元を開いているのが癪に障るが、それ以外は今朝と同じ様相であった。
「それじゃあ往くわよ。霖雨が鳴上の当主代理なら、あの子を説得すれば他の奴らも撤退させることが出来る筈。今、屋敷で何が起こっているかは分からないけど、もう時間がない」
瑠鋳子が、くるりと背を向け、歩きだす。
そのまま振り返らずに言った。
「何でこんな馬鹿やったのか、問い詰めてやるんだから」
少女の拳は、震えている。
怒りか、悲しみか───それとも寂しさか。
今の志輝には、判別しかねる所である。
ただ、その感情が並々ならぬ濫觴から来るものであることだけは、確かだった。
「あぁ、そうだ」
ズカズカと歩く少女へ、問い掛ける。
「なによ」
少女は、今度こそ振り返った。
「神殿にいくなら、ちょっとだけ寄り道させてもらえるか?」
志輝は、悪戯っぽく人差し指を立てた。
◇
「楽しんだもん勝ちか……なら、俺は完敗だな」
敗北した狐面───鳴上月代祐治は、木に凭れたまま、去り行く志輝の後ろ姿を眺めていた。
疲労からか、足から崩れ落ち、ずるずると地面にへたり込む。
衝撃で傷口が痛み、軽く呻く。傷は浅いところは浅く、深いところはしっかりと深い。
魔術師であることも計算して、生かさず殺さずの戦闘不能を狙っていたのだ。
新矢志輝の技能の高さを、つくづく思い知らされる。
しばらくすると、横に誰かが座り込んだのが分かった。天狗面───鳴上風雅院菊楽であった。
「来ていたのか……アイツらを追わないんだな」
「あぁ……ここで無理に戦えば、新矢志輝も今度こそ、我らを始末せざるを得なくなるだろう。冬驟斎殿からは、戦力を削ぐことを重視しろと命じられている。他にも、貫地谷や尾花もいるのだ。我らは無闇に命を投げ捨てず、精々奴らの甘さに乗じて、戦況の変化に備えておく方が賢明だろう」
菊楽はそう宣うと、志輝に蹴り砕かれた箇所をさすりながら、祐治の肩にそっと手を置いた。
パリパリ、と静電気のような魔力が傷口に浸透していき、周辺の細胞を活性化させていく。
生体電流に干渉し、免疫や治癒力を高め、傷の修復を早める典型的な回復術式。鳴上家に限らず、浅影を源流とする家系では、その魔術の特性上、電気治療に近い形を取るものが多かった。
医術の心得がある者なら、この時点で祐治の傷からの出血が止まっていることに気づくだろう。
断面が非常に整っていることも寄与しているが、大部分は今の治癒魔術による結果であった。
「面は外すな。魔術を増幅させる効果もある」
「お前、他人を治すのは下手だと言っていただろう」
最も基本的な『強化』であっても、自分にかけるのと他者にかけるのとでは、術者の適正がはっきりと出るところであり、ほとんどの魔術師は他者への『強化』を苦手としている。
治癒のようなやや複雑な魔術ともなれば、その適正格差は更に如実に現れることになる。
「他人を治すことが得意なら、自分を治すことはより得意だというのは、自明だろう」
あくまで、菊楽個人の魔術師観である。
修練次第で、自己より他者治癒の方が秀でている、チグハグな術師も存在するかもしれない。
「他の奴らは?」
「お前が熱くなっている内に、ある程度治療した。あの分だと、数日もあれば回復するだろう」
「熱くなってるって、俺がか?」
「お前にしては、珍しい」
「……そうだな。全力を尽くしたし、組織からの使命は可能な限り全うした。冬驟斎の爺さんからの命令通り、敵対勢力の戦力はしっかり削った。けど───」
祐治は、天を仰ぐ。
星一つ見えない、美しい曇天であった。
「──なんか、落ち込んでるんだ。任務は果たしたし、勝たなくても良かった戦いだった。なのに、負けてしまった事実だけが、頭の中で反芻している。……俺は、新矢志輝に勝ちたかったのかなぁ」
はぁ、というくぐもった溜め息が、狐の面を震わせた。
「お前、自分で自分に何を望んでいた? 他人の期待に応えるのとは、別にな」
「自分で自分に……?」
はっとして、菊楽の方を向く。
まだ、自分に期待していたと言うことに。
「アイツに勝てるって……俺は、まだ俺に期待していたのか」
魔術回路の量が乏しいという理不尽で、昔から様々なことを制限されてきた。普通ならば、なんの問題もない魔術式も、魔力生成量の低さから満足に行使できなかった。
そういった才能の軋轢に揉まれていく内に、俺はいつしか自分に期待することが出来なくなっていったのだ。必死に磨き上げた、魔力の運用技術の精度を買われ、上忍としての位を勝ち取った後でも尚、誰かから受けた必要最低限の期待に応えるばかりで、俺は俺に期待することをしなかった。
けど、それが欺瞞だったとしたら。自分に期待できなくなったのではない。期待することから逃げていただけだったのだとしたら。組織に尽くすことに価値を見出だすのも、自分自身に向き合うことから逃げる為の、無意識の代替行為でしかなかったのだとしたら。
怖じ気づいているだけだ、という先刻の新矢志輝の言葉は、案外芯を食っていたのかもしれない。
「そうか、そういうことだったのか。……情けないな。手加減されて負けたことより、こっちの方がよっぽどだ。こんなことにすら、気づいていなかったなんてね」
敗北した自分に失望したことで、自分が存外自分に期待していたことに、ようやく気づけた。
「なにも、恥じる必要はない。いつ、どんな気づきを得るかなど、人の数だけ異なるものだ」
祐治は、林の外に消えていく志輝へ、小さく礼を言った。
「ありがとう。大切なことに気づかせてくれて…………あと───楽しかった」
笑みはなくとも、その顔は清々しく、狐面は静かに眠りについたのだった。
◇
屋敷は、鳴上の手に落ちていた。
拘束された女中や術師は、全員が南東の一室に押し込められ、結界により身動きが取れないでいる。
最初の襲撃から既に一時間以上、部屋は過密状態だ。
ほとんどの女中達は、抵抗することすら出来ずに捕縛され、浅影が擁する術師達も、しばらくは応戦していたが、鳴上勢力の非常なる人質戦略により、次々と投降していった。まだ何人かは、屋敷内のどこかに潜伏を決め込み、下忍達が血眼になって捜索している。
しかし、この分では、見つかってしまうのも時間の問題であろう。
班長として投降を選んだ嘴見は、畳の上で己が無力さを噛み締めながら、部下達を宥めていた。
「───」
不意に、袖を引っ張られる。
隣に座っていた、女中の一人であった。
「私たち、これからどうなってしまうのでしょうか……」
女中が嘴見に尋ねる。この類いの質問をされるのは、これで十回目だ。
未来そのものに怯えているような、不安げな表情。
無理もない。
その女中は、まだ十にも満たない少女なのだ。名前も素顔も知らぬ怪しげな者達が、自らの日常に土足で踏み入り蹂躙してくれば、自然とそのような顔にもなるだろう。
嘴見は、腹の奥底から沸き上がる憤りをぐっと堪えると、女中の頭を優しく撫でて言った。
「大丈夫だよ。大人しくしておけば、あいつらだって手は出してこないさ」
一人以外は、だが。
「アタシらはここで、瑠鋳子ちゃん達が助けにきてくれるのを待とう。瑠鋳子ちゃんや新矢さんが来てくれたら、あんな奴ら、ちょちょいのちょいで瞬殺だよ」
そう言いながらも、嘴見は女中から目を逸らしている。
希望を語っているのか、それとも騙っているだけなのか。
自分の言葉に、一番勇気付けられているのは、他でもない自分なのではないか。
最悪な未来を想像しない為の、単なる自己暗示でしかないのではないか。
「だから……信じようよ」
捲れ上がる欺瞞を必死で張り直し、嘴見は班長としての威厳を強く保とうとした。
「他の人達は、大丈夫かな?」
部屋に張られた結界は強力無比。
魔術に疎い女中達では、とてもじゃないが脱出できそうにない。
「瀬名さんも、つ、連れていかれたし……美紀ちゃんも……いないし、みんな……どうなって───」
「はは、それなら心配には及ばないよ。瀬名さんは班長だからさ、たぶん交渉しに行ったんだよ───私たちをここから出すためにね。それに、あの人はアタシよりも度胸がある人だから……きっと大丈夫。美紀子ちゃんも、確かに心配だけど、あの子は逃げ足も早いし、かくれんぼも得意だからね」
「気づいたら、すぐサボってますもんね」
「ははは、そうだね」
女中の言った通り、瀬名は上忍を名乗る男に連れ出されていた。
交渉しに向かったと言ったが、あれは方便だ。
これ程の力の差があるのだ。自分達にそんなことが出来るわけがない。
屈辱と怒りを抑えながら思う。
あの男の目は、愉悦と支配───そして、肉欲に歪んていた。
奴は部屋にやってくるなり、まず班長を呼びつけた。部屋にいた班長は、自分と瀬名、そして静音の三人だけ。自分達は名前を聞かれると、部屋の端に並ばせられた。男は、まるで品定めでもするように自分達の身体を睨め回すと、瀬名を部屋の外に連れ出した。
全身が総毛立つような嫌悪感に襲われたのは、その時が人生で初めてである。
現在、瀬名がどのような状況に置かれているかは、知る由もないし───想像したくもなかった。
「ねぇ、ちょっと」
嘴見が呼んだのは、同期であり同じ班長の静音。
「どうされました?」
「瀬名が連れていかれたろ。もし、アイツが瀬名で満足しなかったら────」
自分の尊厳を踏みにじられるなど、御免だ。
好きでもない人間と交わるなど、想像もしたくない。
けど────
「そん時はアタシが行く」
大切な友達が……家族が、同じ目に遭うのも想像したくない。
「そんな───」
「アンタは、気負わなくていい。全部私の勝手だからさ」
喉の震えを抑えて言いきった、その時であった。
結界が弱まり、部屋の襖が豪快に開かれた。
◇
嘴見達が隔離されている部屋から、およそ五十メートル程離れた廊下である。
女忍が一人、周囲を舐めるように見渡しながら、廊下を歩いている。
体格こそ小柄だが、肉質は豊満。何よりその相好は、国宝級の彫刻家が、幾度その魂を注いでも作れぬであろう、至高と称しても過言ではない、超常的な美貌をしていた。
気配を溶け込ませず街中を歩こうものなら、周囲の視線を一瞬にして奪い尽くしてしまうだろう。
その佇まいですら、人々の理性を溶かす艶かしさを醸し出していたる。
しかし、彼女の纏う女性としての色気は、高貴な淑女としてのそれではない。
寧ろその逆───男を誑かし、破滅へと誘う毒婦のモノだ。
彼女の服装は、色合いこそ他の忍とは大きく違いはないが、全体的に露出が多くなっており、肩から先を大胆に露出した着流し風の装いに、腰まで深く切れ込んだ短い衣を下に纏っていた。
彼女が歩く度に覗かせる白い太腿は、何とも扇情的であった。
そんな容姿とは対照的に、頭の後ろには、人間とは思えぬ容貌をした能面が貼り付けられている。
能楽では知らない者などいない、真蛇と呼ばれる面であった。
蠱惑と鷹揚、披瀝と韜晦、絢爛と頽唐。相克する諸性が、渾然一体となった人物であった。
「おい」
そんな彼女に、話しかける声がある。
高圧的な男のものだ。しかし、肝心な声の主がどこにもいない。
気配そのものは、すぐ近くにあるというのに。
「なぁ~に、〝つっちー〟。相変わらず、気配を消すのはピカイチね」
「嫌みか? あと、その呼び方はやめてもらおう。任務中だぞ」
「そう。……じゃあ、壌さんでいい?」
女忍が首を傾げると、ふわり、とポニーテールが揺れた。
「それもヤメロ……何か違う意味に捉えられかねん」
「え~。別に大丈夫っしょ。いつもみたいに、気配を消していればいいじゃん?」
声の主を探さぬまま、彼女は会話を続ける。
まるでそれが、ごく当たり前の事実であるかのように。
男は憎々しげに唸ると、用件を話し始めた。
「……どうやら、祐治の班がやられたらしい。やった奴は、例の新矢志輝だとのことだ」
「死んじゃった?」
「いや、全員戦闘不能らしいが、祐治以外は命に別状はないらしい」
「以外は?」
女忍は、怪訝そうに尋ねる。
「ああ。下忍達のほとんどが、足か肩の腱を切られるかして軽症。……が、祐治だけは、右肩から左脇腹までバッサリだとよ。それでも重要な器官は無事と言うんだから、あいつは相当運が良いんだろうな」
「ふぅん。……相手方は、かなりのヤリ手ってことか~」
まるで他人事かとばかりに、単調な返ししかしない女忍。
同じ上忍が二人も沈んだというのに、彼女の注目は寧ろ、沈めた新矢志輝の方に向いている。
見えざる男もまた、それがごく普通のことであるかのように、話を続けた。
「俺は、新矢志輝の抹殺に向かう。……祐治は、剣術ならば鳴上の中でも随一。それを真正面からの斬り合いで打ち負かせる傑物など、放置しておくだけでも危険極まりない……もし貫地谷まで落ちれば、こちらの勝率は一気に下落するだろう。相手が消耗している内に、手早く始末する……!」
「そ。勝手にすれば」
女忍は心底どうでも良さそうに、手でジェスチャーを送る。
「では灯李。お前は、これからどうする。まだ女中どもを探す気か?」
「かくれんぼ、好きなの知ってるでしょう?」
「だが、あの放蕩は───萬次郎はどうしておくつもりだ。俺よりも奴のことをよく知っているだろう。あの男を放っておけば、今に女中どもに手を出し始めるぞ」
「でしょうね。あのスケベ兄の事だから、今頃何人か連れ込んでヤってるんじゃない?」
萬次郎は、同じ上忍であり、実兄であり、筋金入りの銅鑼である。
彼に関する悪い噂は絶えない───というか、絶え間ない。
分家の隔たりを問わず、鳴上家の使用人の悉くに手を出したとか、彼の分家である尾花家が隠し持っていた極秘資金を、全額賭けと酒に使ってしまったとか、色々である。
これらの所業も、彼のやらかしのほんの一部であり、余罪も未遂も数えたらきりがない。
それでも、彼に物申せる人間は、片手で数えるくらいだ。
鳴上家は元来、完全実力主義を謳っている。力なき者には、声を上げる権利すら与えられない。実力も実績も破格である以上、上忍である彼の行いには、誰もが目をつぶるしかなかったのである。
そして今や、その摂理は浅影本家にすら根を伸ばしている。
戦う力を持たない女中は、彼にとっては垂涎の的。
彼女達が助かるには、己の身を差し出す以外にないだろう。
──だが萬次郎という男は、女使いがとにかく荒いことでも有名だ。
男に免疫のない浅影の人間が彼の相手をすれば、精神に深い傷を負うことになる。
「──それって、めっちゃ刺激的じゃない?」
歌うように、灯李と呼ばれた女忍は、両手を重ねた。
「……お前に聞くのが間違いだったよ」
「なんで? 弱かったら、強い人には逆らえない。好き勝手されちゃう……あぁ、な~んて情熱的!」
灯李は、恍惚とした表情を浮かべながら、わざとらしく腰を振っている。
常人であろうとなかろうと理解できない彼女の感性に、半ばうんざりしながらも男は続けた。
「お前は好くても、俺達は困る。今後、浅影の管理をしていく上で、なるべく不信感や反抗心を抱かれるような真似はしたくないんだ。これは人情とかじゃなくてな」
「それなら、もう意味ないでしょ。私たちが土足で入ってきた時点で、とっくに浅影の連中は不信感も反抗心もマックスになってるの。……まぁ、でもいいわよ。あのエロ兄貴は、私が適当に相手をして発散させておくから、壌さんは新矢志輝の方をよろしく」
静寂───返事は帰ってこない。
僅かにでも掴みかけていた男の気配も、煙のように消えている。
寂しいことに、どうやら自分は用済みらしかった。
「なぁ~んだ。もう少し、お喋りしていたかったんだけどな~」
その時であった。
「え?」
窓の外───数十メートル程先。ちょうど、女中達を閉じ込めている部屋の、すぐ近くである。
「──蛍?」
通常、蛍がよく見られるのは、五月から七月頃。
冬になると活動量は著しく少なくなり、人目には先ずつかなくなる。
だから本来、正しく自然の摂理の赴くままに生きれば、冬の大地に蛍が舞うなど、あり得ないことなのである。
しかし灯李の目には、空中を漂う光の玉が映っている。
それも、一つや二つではない。
無数の青白い光の玉が、まるで戯れるように、結界周囲を行き交っていたのである。
「あれれ~これ相当マズくない?」
ようやく、事態が傾いたことを察知し、その中心へ向かおうと足を踏み出した───その時だった。
「ぁ……」
喉から、肺から、腹から、すうっと息が抜けていくのを感じた。
その横顔に、思わず見蕩れてしまっていたからだ。
驚きで息が詰まるなんて事はよくあるが、その逆は初めてだ。
「キレイ……」
女忍の視線の先には、天使がいる。
白く、逞しい天使である。
ふと空を見上げると、案の定、空一面の曇天だ。
「月は見れない……ってことは、自分で奪りに行くしかないか」
一人の女になった灯李は、庭を走る土御門有雪を眺め、うっとりと微笑んだのだった。
◇
真冬の床は、何故こうも冷たいのだろうか。
組み伏せられ、今にも犯されそうな状況で、ふと瀬名は思う。
萬次郎に指名された瀬名は、とある一室に半ば強引に連れ込まれた。
強引とは言っても、腕力によるものではない。
ついてこい。さもなくば───という無言の圧力に屈したのである。
『──ねぇ、取引しようよ』
部屋に入るなり、着物を全て脱がされると、そんなことを言われた。
目を合わせたくもなかった。
必死で潜った闇の中で、荒い息遣いと、全身を舐め回されるような視線を感じた。
『一つ提案があるんだ。……聞いてくれるかい?』
彼の声は、さして強くもないと言うのに、思わず頷いてしまう程の圧を放っていた。
『ありがとう。君は、ちゃんと躾がなされているんだね』
ぽん、と頭を撫でられる感触が、ここまで嫌悪と恐怖を呼び起こすものなのか。
男の発言も尋常ではない。
内蔵が捩り上がりそうな恐怖を、班長としての矜持で堪えながら、男の『提案』とやらを聞いた。
『君らは今、鳴上家に占領されてるわけ。支配されている側が、支配している側に逆らえるわけないのは分かるでしょ? でさ、俺……ちょっとムラついてきちゃったんだよねぇ。だから、俺と遊んで欲しいんだけど……良いかな』
あまりにも、滅茶苦茶すぎる提案だった。
「そしたら……どうなるっていうの?」と、声を震わせながらも返すと、男は快く言った。
『そしたら、他の女中には手を出さないよ』
男との経験がない自分でも、何を言っているのかは分かった。
つまりは、夜伽の相手をしろとの事だった。
自分がそうすれば、他の女中達には、少なくとも同様の行為は行わないと。
呆れ返る程に、あまりにも信用し難い提案であった。
そも、彼は自分で発言していたではないか。
支配されている側は、支配している側には逆らえないと。
ならば、たとえここで身を捧げたところで、彼が約束を守る保証はない。
『じゃあ、ちょっとチュートリアル……イってみようか』
視界が、反転する。
気づいた時には、床に押し倒されていた。
両手は片手で抑えつけられている。
「どうするんだい、瀬名ちゃん? もう我慢できなくなりそうなんだけど……もっと従順な子を連れてきた方がいいのかな?」
──そして今に至る。
「……」
ずい、と猛獣の如き男が自分の顔を覗き込む。
両手が痛い。
恐怖で、手足に力が入らない。
それでも涙を堪えながら、必死で男の顔を睨み付ける。
「決心……したのかな?」
自分が身を差し出せば、少なくとも皆の貞操は守れる。
(この男が、約束を守るのなら)
他の全員をこの男の悪意から救うことが出来る。
(この男が、それで満足してくれるのなら)
そも、幼い少女を人柱にしようとしている身だ。自分だけ平和にとは、虫が良すぎるのではないか。
(この男が、これ以上傷つけないのなら)
そうだ。これは必要な犠牲なのだ。自分一人が苦しめば、それで丸く収まる……絶対に!
(私の心が、壊れないのなら)
自分は今すぐ、この男の狂気の情欲を受け入れるべきなのだ────
「……分かった。提案を受けるよ。貧相な身体だけど、どうぞお好きに使ってください」
ここは、皆が閉じ込められている部屋から、少なくとも六部屋以上は離れている。
──よかった。
多少声が漏れても、部屋にいる子達に聞こえる可能性はないだろう。
初めては、かなり痛いと聞く。……というかそもそも、好きでもない相手だ。まず気持ちよくなんかなる筈がない。
それでも───そんな思いをするのが自分だけならば、それだけで救われる気がした。
「それじゃあ早速────」
「──ゴメンやけどさぁ。もう一人、連れてきてくれへん……?」
もう一人、男の声があった。
「え……」
廊下の方を見ると、能面を被った男が一人、こちらを覗いていた。
「そんなの自分でしろよ。俺は今お取り込み中だぞ?」
「分かっとるわ。せやけど、結界弱めるには上忍じゃないとアカンやん」
「俺がそれしろってのか? もちろん、なんか用意してんだろな」
嫌な汗が、額のすぐ横を通り抜けていった。
「そこは、そら……まぁ……ほら、なんでもエエやんけ!」
「ちょ……ちょっと」
「お前、昔っからそうだよな。そうやってすぐボカシやがる───なんだい……瀬名ちゃん?」
景色が遠ざかってく最中、瀬名は言い放った。
「二人とも、やります……!」
「はぁい?」
「だから……二人とも、私が相手をするって言ってんの……分かる⁉」
恥ずかしさなど、焦りでとっくに吹き飛んでいる。
犠牲者だけは、どうにかして自分だけに留めなくてはならない。
「へぇ。俺たち二人の相手を……? 君に務まるのかな?」
萬次郎が、ニヤニヤと嗤いながら尋ねる。
「そ……そんなの……! 口でも手でも……なんでもあるじゃない……! いい? 私にだったら乱暴でもなんでもすれば良いよ。アンタらの……きったない欲望でもぶつけたらいい! もし一回で足らないって言うなら、何回だってしてあげる……!」
声を震わせ、上ずらせ、それでも必死に懇願する。
「けどね……これだけは絶対に約束して。他の子達には、手を出さないで……!」
萬次郎は、しばしの沈黙の後、もう一人の忍へ言った。
「……ふぅん。だってさ。どう思うよ」
「最高。こんな啖呵切れる女久し振りやわ。勿論、言ったからには口……使ってくれんと困るでぇ」
もう一人の忍が、床を鳴らしながらにじり寄ってくる。
大丈夫。すぐに終わる。
そう考えるだけのたったの一秒が、今は無限にも思うほど長かった。
「おお! やっぱり若いと張りが違うな」
そう宣いながら、萬次郎は瀬名の果実を乱暴に掴んだ。
「いっ……ぁ……」
痛みで、図らずとも呻きが漏れる。それすらも、萬次郎達は愉しんでいるようであった。
「へへへ……気持ちよかったら、我慢しなくてもいいんだよ」
そんなわけがない。
胸が引き攣り、指が食い込み、薄布越しの摩擦が痛みだけを刻んでくる。
それでも、何でもして良いと啖呵を切った手前、拒絶するわけにはいかない。
男二人による凌辱を、必死で堪え忍ぶ。
目蓋が熱を帯びていくのを感じながら、早くこの時間が過ぎ去ることを祈った。
「俺も混ぜろや」
「あっ─────」
足首を掴まれる。ぐい、と強引に持ち上げられ、痛みと羞恥で声が漏れる。
股座にかかる、生暖かい吐息。
内腿をなぞるように、膝から鼠径部にかけて異質な感触が登ってくる。
何をされているかなど、考えるまでもない。
萬次郎の方も、双丘を弄びながら腹部へと顔を埋める。臍の周りにくすぐったさを感じて視線を下げると、円を描くように蠢く薄紅色の影が、ぬらぬらと光っていた。
それは、丹田の上で踊るように翻ると、やがて下腹部から胸元へ、ゆっくりと這い上がっていく。
「ひ……んっ」
「ははは、声可愛いね」
肌の上を駆け抜けていく不快感と刺激で、独りでに身体が波打つ。
まるで味見だ。今の瀬名は、二匹の獰猛な獣に補食されかけている、哀れな小動物でしかない。
いや───それを言うなら、人柱か。
女を労る気など、さらさらないといった、自分本意な愛撫だった。
触れられて声が漏れるのは、ねぶられて四肢が波打つのは、決して快感を得ているからではない。
身体が、刺激に反応しているだけだ。
ごく自然な、生理現象なのだ。
そんなことは、自分が一番分かっているというのに────
こんな奴らの愛撫に反応している自己嫌悪と、そんな自分を見透かしたように嘲る二人への怒りで、心が滅茶苦茶になりそうだった。
男達の情欲は留まることを知らず、更なる深部へと分け入っていく。
瀬名の脇や首筋を一通り堪能すると、とうとう下着の上から汚ならしく秘所を舐めずり始めた。
「あ……く、う……っ……は、ぁ……!」
気持ち悪い。
穢らわしい。
悍ましい。
痛い。
悔しい。
恥ずかしい。
情けない。
逃げたい。
消えてしまいたい。
──どうか、私だけにしてください。
「ヨシ。じゃあボチボチ……お待ちかねの、男女のまぐわいと行こか」
「結構濡れてるな……そんなによかったかい……?」
よくなんかあるか、ただの防衛反応だ───と言い返す勇気は、最早ない。
「一気にいくぞ────」
男達の手が、とうとう最後の一枚にかかる。
萬次郎はブラのホックを、もう一人は腰の紐へと指をかける。
劣情の赴くまま、下着は勢いよくずり下げられ────
「うわああああああああああああああ!」
悲鳴とも咆哮とも取れる叫びを上げて、何者かが部屋の外から強襲する。
突然の凶刃に反応できたのは、萬次郎ただ一人。
餌食になったのは、もう一人の方だった。
背中を刺された忍を片手で伏せさせるのと、この暴挙の犯人をストレートで蹴り飛ばすのは、ほとんど同時であった。
大きく呻いた小さな影は、床を跳ねながら転がっていき、やがて壁に激突した。
なけなしの認識阻害の魔術が解かれ、犯人の姿が明かされる。
怒りに満ちた眼差しが、萬次郎を穿っていた。
瀬名は、その人物をよく知っている───否、知っていなければならない人物だった。
「美紀子ちゃん……⁉」
少し長いおかっぱの、小柄の少女だった。
浅影瑠鋳子が復帰したとき、唯一反意を示した女中であった。
恐らく、屋敷に張り巡らせた幻術───その、霊符を用いて姿を消していたのだ。
そし彼女は、ここまでずっと潜伏していたのだった。
「瀬名さんに……触るなァ!」
美紀子が、鳴くように叫ぶ。
「う、ううぅ……」
「『強化』して止血しておけ。……くそっ、ガキが────」
萬次郎の殺意が、美紀子に向く。
まずい、と直感した瀬名は、その時には叫んでいた。
「ダメ……逃げて────」
全てが、遅すぎた。
萬次郎は一瞬で少女との距離を詰めると、首を掴んで片手で持ち上げた。
「う……カハッ……!」
「非道いじゃないか……俺の愉しみを邪魔するなんてさ。余計なタスクを増やすんじゃないよ……!」
萬次郎───この男、自分の仲間が重傷を負ったというのに、まるで意に返さない。
そればかりか、タスク扱いしている始末だ。
「下忍でも、殺意マシマシの一般人くらい、簡単に気取れる。アイツは、そこの女に意識を割きすぎたこともあるが……魔術で眩ませられたら、まぁこんなもんだよな。だ~がっ───!」
絞め付ける力が、一段と強くなる。
美紀子は呻きすら上げられなくなっていった。
「残念だったなァ……上忍にそんな小手先は通じねぇんだ───よ!」
「やめてください‼」
投げ飛ばされる直前、瀬名は声を張り上げた。
「ああ?!」
萬次郎が振り向く。絞め付ける力が弱まり、美紀子は辛うじて気道を確保する。
「身内がとんだ失礼をしました……謝罪します! 何でもします! ですから、命だけは────」
「……うるせーな」
ぽい、と投げ捨てるように、萬次郎は少女を床へと落とす。
首を絞められた影響か、床に落下した衝撃か、意識が朦朧としているようであった。
「懇願しなくても殺しゃしねぇよ……ただ、台無しにしてくれた責任はとってもらうぜ」
そう言うと、萬次郎は床に倒れている美紀子を組み伏せる。
激しい運動によって乱れていた少女の着物を、上忍としての万力でビリビリと破っていく。
まずい、と瀬名は本能レベルで直感した。
この男は───萬次郎は、美紀子にまで手を出すつもりなのだ。
「やめてください! 責任は私がとります! お願いします! お願いしますから!」
「うるっせぇなクソアマ! お前も……後でしっかり犯してやるんだから、大人しくしとけよ……!」
男の手は止まらない。
無抵抗なのを良いことに、ほとんど裸になるまで身ぐるみを剥がすと、興奮気味に脚を広げた。
「へへ……ガキの身体も中々だな」
「やめて……」
「美紀子ちゃん……だっけ、俺の邪魔をしたんだから……ちゃんと満足させてくれよな」
虚ろな瞳で天井を眺める美紀子に、萬次郎が気さくに話しかける。
美紀子が、穢される。
あれだけ守ろうとしたものが、壊されてしまう。
そう確信した瞬間、胸の奥深くから、得たいの知れないどす黒い感情が、どっと噴き出した。
自身が凌辱されても尚、決して抱かなかったその感情の名は───
「殺して、やる……!」
──純粋な、殺意であった。
「……?」
萬次郎は、自身に向けられた壮絶な殺気を、一瞬で感知した。
そして高揚しだしたのだ。
「……おお、いいねぇ瀬名ちゃん! そういうの待ってたんだよ……!」
彼の眼は、再び瀬名へと釘付けになった。
「普通のなんて気持ちよくない! 命を奪い合うような……そんな刺激的なヤツを求めてたんだよ俺はァ! 従順なコを相手にすんのは……もう飽きちゃったからさァ───!」
萬次郎が、大きく両手を広げた───その時であった。
「──なら、俺が相手してやるよ」
知らない声であった。
また別の忍かと身構えたが、どうやら事実は違っていた。
それは───彼は、天神様のようであった。
「ゴハッッ…………!!!」
振り返ろうとした萬次郎の躯体が、宙を舞う。
あれだけ忌々しく、あれだけ殺したいと思っていた男の身体は、突然の乱入者の拳を食らって、あっさりと吹き飛んでいった。
正拳は萬次郎の頬を捉えていたのか、白い歯が二本、中空に弾けた。
「テ、テ……メェ……えええっっ……! テメェえええええええええええええええええ……!!!」
白い少年だった。
まるで、彼の周囲にだけ雪が降っているかのような、たまさか、そんな光景を幻視してしまう。
それ程までに、美しい白髪をしていた。
「怪我はない?」
少年は、片膝を突くと、優しく瀬名に尋ねる。
どうやら、敵ではないらしい。
身長が高い。恐らくだが、六尺は優に越えているのではないか。
肌は滑らかな乳白で、瞳は黒曜石にも見紛った。
あまりに整った容姿に、思わず見蕩とれてしまっていた。
「うっ……うん……はい……!」
我に返ると、辿々しく返事をする。
「遅くなってごめんね……怖かったよね。……あの子を連れてすぐにここを離れて」
「で……でも、どこに───」
「もとの部屋。大丈夫……玲奈ちゃんが皆を解放してくれたよ」
その名前を聞いて、泣きそうになった。
仔社玲奈。
長期任務により三日前から出張していたが、ようやく帰ってきたのだ。
「えっと……あなたの、名前は……?」
少年に名前を尋ねた瞬間、バチン、と黒い火花が散った。
「おいテメェ! いきなり殴りかかってきやがって……なんのつもりだこの野郎ォ!」
萬次郎が、ゆっくりと立ち上がりながら、少年に向かって叫ぶ。
その激情に呼応するように、彼の魔力も苛烈さを増していく───ように見えたが、その覇気に比して漏出する魔力は極端に少ない。
理屈を探る為、少年は男を観察する。
よく見れば、彼の腕や胸元───露出している肌部分に、黒い光が稲妻上に浮き出ている。
一瞬、魔術回路か呪印かとも思ったが、肌の上を忙しなく蠢いている様子を見て、すぐにその考えを捨てた。理屈としては、前者は神経系に連動している為、複雑怪奇に変形することはまずあり得ず、後者は入れ墨に例えた方が分かりやすい。肌の変化ならまだしも、入れ墨そのものが動くことはない。
呪術的な手段によって、黒雷を体内に展開している。
それが現時点での少年の推測だ。我ながら粗野な考察だと、少年は心の中で自嘲する。
「お前の方こそ、この人達をどうするつもりだったんだよ……この野郎……!」
しかし、少年は特に臆することもなく、荒々しく男に言い返した。
「そんなの俺の勝手だろうがよ。良い女が家族のためにと、自分から身体を差し出してきたんだ。思いっきり貪り尽くしてやるのが、礼儀ってもんだろうが……!」
「礼儀を語るんなら、女の子泣かしてんじゃねぇよ! ……小せぇ男だな」
「あぁ?!」
「大体、順序が逆だろクズ野郎……! 身体よりも、先に心だろうが」
少年は、親指で心臓がある場所を二回叩く。
「権力だか暴力だか、どんな力を濫用ったかは知らねぇけど。身体じゃねぇ……先に奪うのは心だ。それも出来ねぇなら、男名乗んなこのビッチ野郎!」
──股を開かせるのは、先にまず心を開かせてから。
それが、少年の女性に対する姿勢であった。
「~~~~! お、お前はっ……なんだァ!」
ひどく狼狽しながら、萬次郎が問いただす。
白髪の少年は、形の良い唇をたわませながら言った。
「土御門有雪───しがない元天才陰陽師さ」
ギュン、と小さな白い影が、線となって萬次郎に迫る。
腐っても流石は上忍か、弾丸のようなソレの突進を避けると、倒れていた美紀子の方へと走る。
この期に及んで、この男は人質を取ろうとしているのだ。
しかし、土御門もそれは想定済みであった。
回り込むように、もう一匹が萬次郎と美紀子の間に滑り込み、立ち塞がったのである。
「チッ────」
白い影の正体は、小さな小さな狐であった。
「くだしょうか……珍しいモン持ってんじゃねぇか!」
くだしょうや飯綱、オサキなど、名前は地域によって様々だが、土御門がかつて所属していた組織では『管狐』と呼称している。
前後から挟み込むように、二匹の管狐が萬次郎に襲いかかる。
両方とも、ギュルギュルと凄まじい速度で回転し、意思を持ったチャクラムの如く、飛翔する。
「うおォ……!」
萬次郎は、人体ではあり得ぬ不自然な挙動と速度で、二匹の追撃を躱した。
ボクシングにおける、スリッピング・アウェーに似た技術であるが、土御門の目には空中で身体を捻ったようにしか見えなかった。
「危ねぇな────」
管狐の尾は、自身の魔力を込めることで、しなやかさを保ったまま硬化する特性を持つ。最大硬化時の強度は、モース硬度をして鋼鉄を遥かに凌駕し、金剛石すら切り裂く威力となる。如何に萬次郎が、上忍として鍛え上げた肉体を、更に魔術で『強化』していようとも、管狐の尻尾による斬撃が直撃すれば、真っ二つに寸断されてしまう筈だった。
萬次郎は確かに、管狐の尾撃をその身で受けた───そして、受け流したのだ。
「聞いてた通り……確かに、上忍達はヤベェな……!」
上忍は別格だと黒須からは念押しされていたが、実際に戦ってみると改めて実感する。
自分が今、一つの組織の最高戦力と殺り合っているという事実に。
その本質が魔術ではなく、別の分野にあることに。
確かに魔術も強力だ。恐らく今の回避は、何かしらの術式が一枚噛んでいる。たかが地面を蹴って得た回転力だけで受け流せる程、管狐は遅くない。
だが、やはりと言うべきか、最終的に帰着するのは体術であった。
魔術によって補助していても、実際に動かしているのは萬次郎自身の肉体だ。
肉体が未熟ならば、術式に身体が追い付かず自滅している筈。
今見せたような動きを易々と成立させられるのも、その驚異的な身体性能あってのものだ。
「オイオイ……!」
萬次郎が猛禽の如く飛び掛かる。
手の振り、足の回転、関節の弛緩と緊張───やはり、どれも人体では不自然な挙動だ。
初見の見立て通り、魔術で身体動作を補助していると見て良い。
「くっ────」
萬次郎が放った回し蹴りを、左の腕で受ける。
少し痺れたが、戦闘に支障が出る程の威力ではない。
体内に限定しているからだろう。
触れられるだけで一発アウトじゃないのは、正直ありがたい。
が、しかし──────
「誰から聞いたかは知らないけどさ……」
「ゴフッッ」
腕で受けた方とは逆の脇腹に、衝撃と痛みが走る。
回し蹴りが、右脇腹に撃ち込まれたのだ。
一瞬前に、左から回し蹴りを入れられたばかりにも関わらず、蹴りを受けてからほとんど同時に、反対側からも更に回し蹴りを食らうとは。
この男は、腕から反作用を得てすぐ様身を捻ると、素早く逆脚で蹴りを繰り出していたのだ。
「そいつも、お前も、随分と節穴みたいだね…………はは、とってもやりやすいよォ!」
吹き飛ばされ、床を転がってく土御門へ、男は嫌みたっぷりに煽る。
急所に近い箇所を蹴られ、上手く立ち上がれない。
普通ならば、絶望的な状況と形容した方が良いのだが、それでも土御門は余裕を崩さなかった。
より正確に言えば、崩さないというより、崩せない。
女の前では、最後まで格好つけていたい───それが、土御門有雪という漢なのだ。
「お前も相当だぜ。ぶっ殺し合いの最中に────ラジオ体操なんかやりやがってさ」
「は───」
土御門のひょうきんな返しに、萬次郎は笑いかけ───そして気づいた。
自身の身体が、横向きにグニャリと曲がっていることに。
──視界だ。
傾いていた視界に身体を合わせたことにより、引き起こった異常だった。
(だが何故……いや。俺は一体、いつから狂っていた……?)
必死で海馬に探りを入れる。身体制御術式で直接弄れるのは、せいぜい末梢神経全般。筋肉の動きは強化できても、思考までは最適化できない。
しかし、今もじんじんと蝕む顎の痛みから、萬次郎は即座に思い出す。
一番最初の、土御門の不意打ち───あの強烈な正拳を受けた時、一瞬だけ視界が歪んだのを。
あの時か───
そう確信した瞬間、土御門の飛び蹴りが、がら空きだった胴体に炸裂した。
「ゴボッッ!」
今度は、萬次郎が吹っ飛ぶ番だった。
(なんつー蹴りだ……馬に蹴られた方がまだマシだぞこりゃあ!)
臓腑が土塊のように瓦解していく感覚。人間の飛び蹴りとは到底思えない衝撃。
「グフッ」
壁に背と頭を打ち付け、くぐもった呻きを上げる。
それでも倒れない。
充血した目で、土御門の姿を睨めつける。
「どうやら、脳ミソが揺れちまってたみたいですなぁ。だがこれで、あんたの術式は大体分かったぜ。動きの最適化と、肉体に課されている限界の解除……あとは、肉体に特定の動きを強制する……とかか? あれだけ滅茶苦茶な動きを成立させるには、それくらいやんなきゃ無理だ。……まぁそれも大分無茶だが、魔術は肉体を媒体にしたものが最も効率が良いって聞くし、理にかなってはいるんだろうな」
上忍の目が僅かに泳いだのを、陰陽師は見逃さなかった。
「……だったら何だよ」
「あんたに勝つよってこと」
「いいじゃない……やれるもんならさ。───その首、次の一撃でへし折ってやるよ」
萬次郎は、吼えるように答えた。
「いいのか?」
静寂。
土御門の発言の意図が読めない。
「は? いいのかって────」
「俺の方ばっか見てさ」
音。
何かが迫ってくる音。
それは、風が哭いているようで、儚げな────
(後ろか……!)
バコォッ! と、背後の壁が勢いよく爆ぜる。
撒き散らされた漆喰の破片と、莫大な風圧に打たれながら、壁を突き破ってきたモノを見た。
白頭に漆黒の羽を広げた、大型の怪鳥───空の王者とも名高い、鷲であった。
「クソォ────」
回避が遅れる。
鷲の体当たりにではない。それに纏わりついている空気の鎧にだ。魔術的な作用によって周囲の空気を圧縮しているのだろう。見かけより攻撃範囲が広い。
これでは、ダンプと変わらない。
現代の式神が、これ程の力を発揮するとは、にわかに信じがたい。
すぐ横を、鷲が突き抜けていく。時速数百キロメートルで叩きつけられる圧縮空気の重みは、萬次郎の肉体を容赦なく押し潰していく。
半身が、メキメキと破壊されていくのを感じる。
へし折れた肋骨が肺に突き刺さり、口から赤が零れた。
「ぐ……ふぐぅぅぉぉおお……オォ!」
部屋の中を跳ねながら、全身を至るところに打ち付ける。
しかし、萬次郎は気絶には至らない。
魔術の影響もあるが、上忍としての意地のようにも見えた。
「ダメだぜ。女のケツを追っかけても……自分の後ろをとられたら」
「っ────!」
土御門の挑発に激昂し、術式の出力を最大にする。
肉眼では線にしか見えない速度で、部屋中を跳ね回る。
これから浅影瑠鋳子達と戦わなくてはならないと言うのに、こんな奴に全力を出す羽目になるとは。
萬次郎は屈辱に歯噛みしながら、標的を翻弄し尽くせんと周囲を旋回する。
どうやら、土御門の姓を名乗るこの陰陽師には、萬次郎の動きは捉えきれてはいないようだった。辺りを見渡しながら、自身の周囲に式神を寄せている。
それを見て、男は呵呵大笑した。
「ハハハハハハハハハハハハハハ! とれるもんなら……とってみろよォ!」
土御門に接近する。
一瞬であった。
コンマ一秒程度の僅かな狭間で、萬次郎は管狐を二匹とも蹴り飛ばす。
「な───」
それに驚いた土御門の意識の隙を縫い、鷲を手刀で地面に叩きつける。
身ぐるみは完全に剥がした。
後は、丸裸になった無力な術師をいたぶるだけだ。
「が……!」
土御門が呻く。
背後から、両足で蹴り飛ばされたのだ。
常人ならば背骨がへし折れているところだが、天性の強靭さで耐え抜く。
ならばと、萬次郎は全方位から次々と追撃をかける。
まずは初撃の意趣返しとして、顔面に殴打。次に、怯んだところを溝に肘撃ち。うずくまって無防備となった肩へ、斧のように踵を振り下ろし───と、その一撃が別の何かに阻まれた。
腕。
(山勘で防いだか……)
土御門はそのまま振り返り、逆の腕で空中の萬次郎に殴りかかる。
「おっと」
萬次郎は空中で脚を伸ばすと、振るわれた拳に足先を着け、とん、と土御門を飛び越えた。
「えらく芸達者じゃねぇk───ぼふぇ!」
言いきる前に、顔面にキックが繰り出される。
情けない呻きを上げても尚、この少年は倒れない───倒れることを知らない。
体勢を立て直しながら部屋の角に向かうと、壁に背を預ける。
するり、と両手を上げる。
白旗を上げたわけではない。
(誘ってんのか……?)
萬次郎の予想通り、土御門は「かかってこい」とばかりに、指先をくいくいと動かした。
「いいぜ……! 上等だァ!」
萬次郎は床に転がっていた瀕死の下忍へと手を伸ばし、背中に刺さっている包丁を抜き取る。
びしゃん、と付着していた血液を振り払うと、真横に走り出した。
まるで扇風機のように、床をかけ、天井をかけ、螺旋を描きながら土御門へ迫り来る。
最早、人間どころか生物の領域すら超過している、変則機動。
尋常ではない身体能力を以て、陰陽師へ肉薄する。
「何だそりゃァ⁈」
これでは、ホラー映画や脱出モノに出てくる、巨大殺人ファンではないか。
土御門がいるのは部屋の角。近づけば近づく程、逃げ場は削られる。
「くそっ───」
速い。
駿い。
疾い。
『強化』している目でも追い付けない。
死の旋風は収束していき、やがて回転槍となった。
あれ程の高速でナイフを振るわれれば、一たまりもない。
だが、間を潜り抜けると言うのも、この速度では現実的ではない。
タイミングを掴んで、カウンターを決めるしか───
「──────!」
全身という全身の、至るところを貫く上忍の殺気。
どこからでも、何としてでも、土御門有雪を撃滅せんとする殺意を、真っ向から当てられた。
たったそれだけで、土御門は「無理だ」と確信し、身を竦ませてしまったのだ。
「もらったァ!」
滑り込むように、土御門の喉元へ包丁が立てられ───
「伏せて!」
見知った声を聞き、すぐに身を屈める。次の瞬間、頭上を何かが過ぎ去った。
人間の頭部程のサイズもある、鋭利な鉄の塊であった。
「うおおおぉ!」
突如出現した脅威を避けたことで体勢を崩した萬次郎は、天井と壁に激突し床へと落下していく。
迫ってくる床。
無機質なその風景へ、より無骨な物体が差し込まれる。
「いィ⁉」
斧であった。
「あうおおおおおおおおお!」
斧を跨いで両手を床につく。
バキバキという指の異音と痛みを無視し、必死で勢いを殺す。
斧が持ち上がると同時、床を全霊で突き放して避けた。
「誰だテ───」
ずん、と下半身に深い痛みと衝撃が走る。
股間を蹴り上げられたのだ。
術式の影響で、痛みにはある程度慣れている。常人ならば悶絶する損傷でも、倒れることはない。
だが今ので、確実に二つの内どちらかが潰れた。
許すまじ。
カウンターを決めてやる。
殺す。
殺す。
殺す。
「──コロス!」
体力気力魔力、全身の筋肉と神経系を総動員して振りかぶり────
「あ─────」
まるで、脳が爆弾になったかのようであった。
途轍もない衝撃が、頭部に走った。
それは正に、雷に打たれたような────
自分が誰に敗北したかも理解せぬまま、鳴上尾花萬次郎の意識はブラックアウトしていった。




