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シキノシカイ 一境界事変一  作者: 忘れ去られた林檎
第一章 空洞境界
23/25

第二十三話 先触れ

「しっかし、お前も運がいいよなぁ。ヤツに目をつけられて生き残ってんだからさ。」


 目の前の黒い大蛇が、巨大な口を端まで裂けさせ邪悪に嗤う。

 大蛇が息づく度に、粘ばついた生暖かい空気が当たり一面を侵食していく。腐卵臭にも似た、刺すような悪臭が鼻腔の奥へとへばりつき、形容しがたい不快感に思わずえずきそうになる。

 異様。こんな巨大な蛇など、現実には存在しないし物理的に存在し得ない。

 威容。その巨躯は圧巻で、時代と土地が違っていれば、神として崇められていたことだろう。

 新矢志輝は、大蛇の気迫に若干押されながらも、毅然とした姿勢を崩さない。鋭い眼差しのまま、下から突き上げるように大蛇を睨めつけている。その眼光は、さながらナイフの切っ先だ。


「ハハハハハ! 睨まれただけで、真っ二つにされちまいそうだ。よほど機嫌が悪いと見える。」 


 大蛇が、その巨躯を津波のようにくねらせながら、くつくつと嗤う。

 頭の先から尾の先まで、全ての動きが気色悪い。

 新矢志輝は苛立ちを覚えながらも、あくまで冷静に目の前の大蛇に問うた。


「ここはどこだよ。まさか、お前の腹の中ってわけでもねぇだろ?」


 冗談のつもりで言っておいて何だが、あり得なくもない話だなと、新矢志輝は思った。

 魔術の世界において、人間の体内はある種の異界であるとされる。

 或いは、小宇宙(ミクロコスモス)とも。

 人間とは、一人一人が小さな宇宙であり、大宇宙である本物の宇宙と常に影響し合っている。人間の在り方が宇宙を決定し、宇宙の異変が人体に様々な影響を与える。

 魔術理論・万物照応。

 本当に人間が宇宙に影響を与えているのかは、我々人類の矮小な技術では知る由もない。しかし、魔術師達はそういう考えの元、魔術を実践しているのだ。

 ならば、体内に宇宙にも匹敵する空間を創れてしまっても不思議ではない。

 

「ははは。流石に、そこまで大それちゃあいないよ。俺は結局、人間としての身体を捨てて、十何年という時間を準備に費やしてきただけの、ただの凡人だからな。素の俺だったら、お前を始末するどころか、まともに生命活動を続けることすらできねぇ。」


 一瞬だけ、男の声に翳りが見えた。

 当のご本人も、自身の身体については思うところがありそうだ。


「当てが外れたな、新矢志輝。だが、筋は良かった。外側の世界の理を、人間の内側に閉じ込めるってのは良くあるが、呪術も似たような理屈だ。」


 獰猛な様相とは裏腹に、つらつらと述べられる言葉は極めて理性的だった。

 土御門によれば、呪術とは単に呪いを扱うという分野ではないそうだが、ハッキリ言ってそんなことには一ミリも興味がない。

 新矢志輝は、調子が狂うとばかりに頭をかきむしると、破るように言った。


「ペラペラしゃべるんだったら、よく分かんねぇ魔術の講義よりも、お前の復讐とやらについて語ってくんねぇか?」


 釘を刺した新矢志輝に対し、大蛇は軽く笑うと、


「まぁそう言うな。俺がうっかり、計画の根幹をぽろっと溢しちまうかもしんねぇだろ?」


 と、おどけた調子で言ってきた。


「確かにな。昨日の戦いも、お前が勝ち誇って手の内を晒したから、勝てたようなものだ。」

「か~ 皮肉が上手いねぇ」


 冷静に、昨日の戦いを振り返る。

 目の前の大蛇───もとい蛇男の主な戦い方は、自律行動する大量の黒蛇による人海戦術と、巨体を活かした質量攻撃だ。

 黒蛇は、本物の蛇を呪術的に改造した使い魔で、一匹一匹は実際の蛇より少し強い程度だが、それらが一つの意思に統率されて襲ってくれば、紛れもない驚異となる。

 ある意味で、新矢志輝にとって天敵と言ってもいい。

 ナイフ一本に対し、黒蛇は恐らく数万以上。たとえ新矢志輝が、尋常ならざる殺戮技巧を修めていようとも、四方八方から自在に飛び掛かる幾万もの軍勢には、後手に回らざるを得ない。

 これが、浅影瑠鋳子ならば話は違ってくる。

 彼女ならば、魔術的な事象への対抗策も多く持っている筈。実際、彼女が放った浄化の概念を帯びた矢は、黒蛇を支配魔術の呪縛から解き放ち、無力化させていた。その他にも、あの強力な炎の矢ならば物理的に一網打尽に出来るだろう。

 詠唱や魔力消費といった制約はあるにせよ、そうした意味で浅影瑠鋳子という魔術師は、この黒蛇に対する明確なカウンター足り得た。

 しかし、そんな彼女の力を以てしても、あの蛇男を打倒するには至らなかった。

 蛇男は、隠し球として『強制』の魔眼を使ってきたのだ。効果は暗示そのもので、「動くな」と念じれば『動きたくなくなる』といった感じだ。

 性能としては、それほど強力とは言えないと新矢志輝は思う。

 一般人が喰らえば、数十秒程度は行動不能に陥るだろう。かかりやすい人間ならば、もしかすると一分以上は持っていかれるかもしれない。しかし、生命活動までは干渉できないし、新矢志輝のように暗示に耐性がある人間や、外部からの魔術的な干渉に抗える魔術師なら、さもありなん。行動を封じることが出来ても、数秒程度が関の山であろう。

 たった数秒。だが、ハイレベルな戦闘においては、その数秒が永遠とも言える長丁場だ。

 自分なら、一秒もあれば鬼神であっても七度は殺せる。と、新矢志輝は思う。

 それが数倍であるなら、言うに及ばず。

 自分達は、その大きな隙を突かれ、今際の際まで追い詰められてしまったのだった。

 浅影瑠鋳子の機転により、何とか窮地を切り抜けたが、引き換えに大きく消耗してしまった。

 地力で上回られている以上、明確な対抗策がなければ同じことの繰り返しだ。圧倒的な物量をいかして、徐々にすり潰されるのがオチだった。

 そこで、蛇男の言葉から弱点と成り得るものを推測し、土壇場で大博打を打ったのだった。


「蛇と大地の親和性。俺が明かした断片的な情報から、俺が蛇の属性を利用して土地から魔力を汲み上げていることに気づいた。そして、浅影瑠鋳子に結界を弄らせて土地との繋がりを断たせ、土地を傷つけずに俺を葬る。いやぁ、こいつは見事だったぜ。ハッキリ言って完敗だったよ。そして何より、カッコ良かった」


 大蛇の返答は、意外なものだった。


「買い被りすぎだ」


 新矢志輝は、慎んで返した。


「一人で十分と啖呵を切ったクセして、結局アイツが居なかったら俺は負けていたんだ」


 少■は、苦笑いをしながら、


「───悔しいね」


 と、たった一言だけ呟いた。

 案外、ごく普通の感性も持ち合わせているんだと、男は思った。


(その気になれば、土地ごと俺をぶっ殺せただろうに………)


 そして、憎々しげに己の中で呟いたのだった。

 

「───もう一度訊きたいんだがよ、お前は何のために戦ってるんだ? 新矢志輝。」


 男が問う。

 そして、新矢志輝が口を開く。


「境界を侵し、正常な世界を蝕むモノを、俺は赦さない。それが俺の、戦う理由って奴だ。そして浅影家(ここ)じゃあ、俺は浅影瑠鋳子アイツのボディーガード。アイツを守るのが俺の責務だ。一度背負った以上、それを手放すのはありえない(・・・・・)。まぁ不本意だったし、最初は乗り気じゃなかったが───今は、悪くない気分だ。」


 少■は、ぶっきらぼうに言った。


「絆されたか。」


 男が、親しげに言う。


「俺としたことが、そうかもな。」


 新矢志輝が、自嘲気味に笑う。

 それとは対称的に、大蛇の笑みは輝きに満ちていた。

 まるで、その答えを待っていたかのように。

 

「だったら話は早いぜ。お前、こっちにつけよ。」


 大蛇の予想外な提案に、呆気にとられる。

 しかし、すぐさま冷静さを取り戻すと、大蛇に問い返した。


「その心は? まさか、自分達の狙いは浅影瑠鋳子じゃない、なんて言わねぇだろうな。」

「くくく…そのまさかさ。」


 大蛇の真意を読み取ろうとして、あることに気づく。

 そういえば、蛇男は浅影への復讐を謳ってはいたが、当主の命を奪うとまでは言っていなかった。

 ただ、浅影が積み重ねてきた歴史を、全てぶち壊すと。


『言ったでしょ。たった一家だけ、死体がなくて回収できなかった魔術があるって。 蛇草家。そいつが使ってる術式は、そこの家系由来のものよ。』


 目の前の大蛇は、蛇草家の人間であることは確定。

 というか、使い魔に蛇を使っている時点で、ある程度予測はしていた。


『蛇草家の没落を期に、浅影の現状の打開と、さらなる繁栄の為、雁崎の提案を元に、とある魔術の実験と事業を秘密裏に行った。』


 彼女の言葉からすると、蛇草家が没落に至った何かがあって、それが復讐の理由に関わってくる?


 (いや───それも違うな)


 そのときの彼女の口振りからすると、没落はあくまで神秘の衰退によるもの。

 この男の憎しみの源泉は、恐らく別のところにある筈だ。


「よいしょっと」


 大蛇の額の部分が、グロテスクな音を鳴らしながら盛り上がる。

 どす黒い肉塊のようなそれは、泡立つように膨張した後、細かく流動しながら人型に収まった。

 

「改めて、昨日ぶりだな。」


 ()が、含みを持たせて言う。

 その堀の深い顔を拝むのは、実に数時間ぶりか。

 褐色に寄った滑らかな肌。

 荒んだような白髪。

 細く引き締まった身体は、絶妙な色気がある。

 右の眼窩には黒い瞳が、左には濁った緑色の瞳が、それぞれ嵌まっていた。

 昨日戦った、男の姿がそこにはあった。


     ◇


 今、浅影瑠鋳子(わたし)がいるのは浅影邸のとある一室。浅影の調律師である伊妻梨阿の調律部屋だった。

 伊妻梨阿の部屋は全部で三つある。

 寝床のある個人部屋。

 調律に必要な薬品や器具を保管している倉庫。

 術師の調律を行う調律部屋。

 個人部屋は隣にあるのだが、倉庫と調律部屋は二重に繋がっている。最初に調律部屋に入って、そこから更に奥へと続く扉に入った先に倉庫がある。

 鼻腔をつつく薬品の匂いも、倉庫から漂ってくるものだった。半開きの扉の奥には、幾つもの棚がずらりと並ぶ如何にもな光景があり、試験管やビーカーなどの近代的な器具や、壺や瓶のような古風なものまで隙間なく埋まっていた。 

 良く言えばレトロ、悪く言うなら古臭いと言った感じだ。日本なら、魔術なんてこんなものだろう。

 伊妻は、また新たな薬品が入った小瓶を複数持って扉から出てきた。


「───それじゃあ、とっとと始めるか。」

「ええ。」

 

 伊妻による、私の『相伝呪刻』の調律が始まる。

 魔術における調律とは主に、魔術師の肉体を楽器と見立てたとき、その魔術回路(はいせん)の不調を修理したり調整したりする行為のことだ。大抵の場合、音叉や魔術薬を利用した簡易的な儀礼として行われる。

 魔術回路は非常に繊細な器官である為、負担の掛かる儀式を終えた後などは、必ずと言って良いほど調律が必要になってくる。

 そして、調律師が重宝される最大の要因が『相伝呪刻』だ。

 浅影の魔術師達にとって今まで積み重ねてきた歴史せいかそのものであり、命よりも大切な次代に受け継ぐべき(のろ)いである。

 浅影が保有している『相伝呪刻』は全部で八つ。それぞれが物質的な魔術刻印という形で、各家系の当主達によって管理されている。また、経路(パス)を繋ぐことで『力』を限定的に共有することが出来る。

 元は一つであったが、古き神の一部故に極めて強大な呪力を帯びていた為、負担を減らすことを目的として分割した。しかし、それでも一つ一つが強力な呪体。定期的に調律師の手を借りなくては維持できない。

 それに、私の肉体には『相伝呪刻』が浅影と珠毀のと合わせて二つあるのだ。単純な負担も二倍。

 つまるところ、私や他の六家の当主達にとって、伊妻家とは魔術師としての生命線そのものなのだ。  

 伊妻家の当主は自分で刻印を調律できるが、他の七家の当主はそうはいかない。その為、伊妻家から選定された七人が、それぞれの家系に派遣される。

 当主が変われば、場合によっては担当から外されることもある。

 七年前、私に刻印が移植されたタイミングで、彼女が新しく担当として派遣されてきたのだった。


「寒いかもしれないが、我慢してくれ。」

 

 今の私は、銭湯にいたときと同じく裸である。

 調律とは一種の集団儀式である為、上手く同調できるよう術者同士で体温を伝えやすくしておくのだ。  

 私は、大量の呪印が刻まれた円形の陣の中に入り、その中心地に正座をして背筋を伸ばした。


「痛いぞ」

 

 伊妻は私の背中に手を添えると、自身の魔術回路を私の魔術回路に繋げてきた。


「───がぁ、く…うぅ」

 

 強烈な刺激で、肩がぴくんと波打つ。

 他者から魔術回路を接続されることは、一見、非常に危険なことのように思われるが、実際は接続される側に主導権がある為、悪意を持った魔術師に無理矢理繋げられて、好き放題されることは基本的にはありえない。

 つまり、これは私が伊妻を信用するものではなく、伊妻が私を信用できるかという話なのである。

 私が接続の痛みと不快感に負け、激しく拒絶した場合、壊れるのは伊妻の方である。だからこの時ばかりは、どれだけ苦痛でも伊妻からの干渉を受け入れなくてはならない。

 背中から全身にかけて、凄絶な熱が伝播する。

 魔術回路が励起し、加速する回転音が頭の中で反響する。溶岩が流れるような激痛に、私という存在そのものが、広大な火山地帯になったかのように錯覚する。

 同調開始から一分弱、私は伊妻との繋がりに全神経を集中して、この拷問じみた修練に耐えていた。  

 伊妻の波長が私の波長に近づけば、私も魔術回路を制御して魔力の波長を伊妻のものに近づける。少しでも苦痛の時間を無くす為、少しでも自分という存在の無意味さに絶望する回数を減らす為に。

 大抵、魔術の使用には苦痛が伴う。魔術回路を起動して魔力を生成すれば、連動する神経組織に負荷がかかって激痛が走り、魔力という異物のエネルギーが血管の裏を這い回る不快感が全身を支配する。

 魔術回路の同調に関しては、伊妻が優秀な調律師ということもあって、これでもまだマシな方なのである。

 ───それに、こういったものには、もうとっくの昔に慣らされている。

 肉体の反応は残っているが、今の私にとっては痛みとは自分の体を流れる単なる現象だ。

 だから今更、泣き叫びながらのたうち回って、全身を押さえつけられながら調律を受けるという無様を曝すことはない。

 心を無にしている内に、私と伊妻の同調は完了した。

 魔術回路の裡で、伊妻と繋がっているのを感じる。具体的には、心を編んでいる糸がほどけて、別の色彩・太さの糸と絡み合っているのを想像すれば良い。

 調律において、最初の工程が術者同士の接続だ。稀に結ばずとも調律できる天才もいるが、外部から刻印のシステムを弄る関係上、リスクを少しでも下げる為に基本的にはこの方式を採る。

 ───つまり、本番はここからということだ。

 私の額と胸元に、魔術回路と同じ淡い光が灯る。私に刻まれている『相伝呪刻』が、二つとも起動した。


「これより───調律に入る。」


 伊妻の言葉が、厳かな趣を持って放たれた。

 

「ひんっ」


 背中に滲んだ冷たい感触に、みっともなく喉を鳴らす。

 伊妻梨阿が、私の背に何らかの薬液を塗りたくったようだった。

 真冬の倉庫に保存されていたのだから当然か、それとも薬液の持つ効能がそうした感覚を呼び起こすのか、塗られた箇所が熱を奪われたかのように冷えていく。

 これも、伊妻の秘技と言うべきか、恐らく私に負担がかからないように施してくれたものだった。

 その証拠に、私の額と胸元に漲っていた熱と痛みは、気休め程度ではあるが治まっていた。

 伊妻の魔力が、淀みなく私の中を流れて『相伝呪刻』へと送り込まれる。

 驚嘆すべき技量だった。通常、他者の体内に魔力を流し込むことは、魔術的行為として少なくないリスクを孕んでいる。地球のエネルギーであるマナが、地域ごとに質や属性が違うように、個人の魔力にも、その個人特有の波長が存在している。

 波長の違う他者の魔力は、猛毒と言っても良い。

 そんなものを受け入れてしまえば、血液の拒絶反応の如く、双方に深刻な不調をもたらすだろう。

 しかし今回の場合、それらの結果とは明らかに違っていた。


「あ………くっ、ふぅ……」

「痛いか?」

「ん……大…丈夫───アンタの…魔力が、いやら……しい…から」

 

 声を圧し殺しながらも、同時に驚嘆していた。

 伊妻梨阿から押し出された魔力は、浅影瑠鋳子(わたし)の内に循環する精気(オド)に一切干渉せず、額と胸の『相伝呪刻』へとピンポイントで注ぎ込まれているのである。

 相変わらず、舌を巻くほどの魔力操作秘術だ。いっそ、いやらしいと思えるくらいに。

 私自身が、内にも外にも意識を張り巡らせ、伊妻の魔力を極力拾わないようにしているのだが、それを抜きにしても、あくまで私に魔力を通過させるだけに留める技術は、紛れもない超一流の秘技であった。若くしてこのレベルの魔力のやり取りが可能なのは、彼女の才能の一端なのか。本来は一時間はかかる調律を、たった二、三十分まで短縮させる恐るべき手際の良さであった。

 さらに彼女の技量は、年々明らかに向上している。

 これらを以て、彼女が浅影家ナンバー2の術師というのは、揺るがない事実である。


「うっ…あぐ……ん…くぅ………」


 しかし、それでも調律による『相伝呪刻』への負荷は、完全にはなくせない。

 調律が順調に進むにつれ、額と胸の疼きはより一層強まっていき、肉体が与えられる刺激にとうとう耐えられなくなったのか、くぐもった呻きが漏れ出てくる。

 されど、次々と襲い掛かる痛みの応酬で、声を恥じらう暇すらない。

 それでも、いつもやって来た精神統一の訓練のおかげで、呼吸を乱すことはない。

 少しでも集中を乱せば、私の魔力と伊妻の魔力との間で拒絶反応が起き、暴走した魔力が両者の魔術回路をズタズタにするだろう。お互いの信頼に裏打ちされた、命懸けの共同作業だった。

 こめかみの辺りを、生暖かい汗が伝う。魔術回路で、発汗機能を調節する余裕もなかった。


「か……はぁ………うっ…んぐ───」


 額から熱が広がり、頭が脳髄ごとゆで上がるようだ。

 胸元の熱は、溶岩流の如く身体全体へと伝播し、体感的には温泉に入っていた時よりも格段に熱い。

 ぐつぐつと煮え滾る地獄の釜に、どっぷりと浸かっているようであった。

 それから十分程、私は伊妻の手解きを受けながら、調律の痛みに耐えていた。ただ、意識を集中させながら、伊妻との調律を足並み揃えて行うだけ。たった、それだけのことである。

 にも拘らず、魔力は今にも暴れだしそうで、精神的にも生命的にも追い詰められている自分がいる。

 どれだけ痛くとも、集中している伊妻の為にも、身をくねらせることすらまかりならない。

 ちくりと胸を刺す痛み。伊妻の魔力によって励起した『相伝呪刻』が、周囲の魔術回路を意図せず賦活させ、それに引きずられるようにして生じた神経の不随意運動が、この痛みの根源だ。

 しかし、その痛みこそが、調律に必要不可欠なファクターなのである。

 私の魔術回路の波長と、『相伝呪刻』の波長のズレを修正する。それが、この調律(苦行)の実態だ。

 ある種の、独立した臓器である『相伝呪刻』は、それ固有の波長を持っている。その為、保有者の波長に合わせるよう、適切な調整を加えて継承されるのだが、本質的には術者とは別個の存在なので、保有者が『相伝呪刻』を使用する度に、少しづつ波長がズレていってしまうのだ。

 そしてその都度、調律師の手によって調整し直すのが、調律と言う行為の実態なのである。


「あ、あぁ……くぅ…ん………いっ───」


 カチリ、と、何かが噛み合ったような感覚が、私の内に木霊する。

 二つの『相伝呪刻』が、私の魔術回路に完全に迎合し、その波長を合わせた瞬間であった。

 バラバラだった三つの鼓動が、今や一つの元に折り重なって、互いの鼓動を確かめ合っている。

 本来は、魔術師一人につき一つだが、私の中には二種類の『相伝呪刻』が刻まれている。それら二種の同時調律など、至難の技だ。それを成せるのは、伊妻家の神童、その面目躍如と言うべきか。

 ともあれ、私の『相伝呪刻』の調律はこれで終了だ。後は、身体を安静にするだけだが───


「はぁ……はぁ…………は、ぁ……ん………………んあァ───!」


 突然、天地を貫くが如き、凄まじい衝撃に襲われる。

 肉体という器から、魂だけが飛び出してしまったかのような、壮絶な浮遊感を全身で感じる。

 上と下、右と左とが滅茶苦茶になって、自分が誰かすら曖昧になっていく。

 

「───!」


 気づいた頃には、私は遥か空の彼方にいた。

 猛烈なエネルギーに曝されながら、風の中を揺蕩っている。

 竜巻の如き暴風の中、私は何か巨大な『力』に抱かれながら、極めて穏やかな心持ちでいた。

 空は青ざめていて、大地は真っ赤に染まっている。

 ここが、尋常ならざる場所であることは、本能で判った。そして、眼下に広がる世紀末のような光景が、遥かな過去───恐らく、空間や時間すら存在していなかった(・・・・・・・・・)時代のものであろうことも、同時に理解した。

 この惑星の、原初の記憶。

 まだ、世界が世界として成立する前───混沌と幻想とが、目まぐるしく渦巻く死の風景。

 ここは地獄だ。

 生命の存在を、一欠片とて許さない終焉と生誕の揺り篭。

 されど、感嘆せねばなるまい。否、人であるならば、美しいと感じぬものはいないだろう。ここに芽吹く、絶大なるエネルギーの奔流こそが、私達が現代に存在することの、確かな証左なのだから。

 ふと、頬を熱が伝った。

 涙であった。

 感動のあまり、自分ですら気づかず感泣していた。感情と共に涙は溢れ、目蓋は熱を帯びていく。しかし、視界は霞むどころか更に澄み渡り、より遠くの景色までもが鮮明になっていく。

 それと同時に、景色にも変化が起きていた。

 空に巨大な裂け目が生じ、その奥から巨大な筒状の物体が伸びてきたのである。筒の先端には、特徴的な曲線の刃があり、それが巨大な鉾であると気づくには、さほど時間はかからなかった。

 深紅の海に、鉾の先端がつぷりと沈むと、ゆっくりと小刻みに円を描き始める。

 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。

 しばらくすると、かき混ぜている部分から渦が生じ、波紋のように地平全土に広がっていった。

 世界が、再び静寂を取り戻した頃には、海は空の色を写し取ったように青ざめていた。巨大な裂け目は何処へと消え、私がよく知る地球の海が、どこまでも続いていた。

 まっさらで、真っ青な世界がそこにはあった。

 あまりの静けさに怖くなって、辺りを見渡し───そこで、ようやく気がついた。

 地平の向こうの、更に向こう。

 (あお)(あお)とを繋ぎ止めるようにして、一本の巨大な柱が悠然と聳えていたのだ。

 大きさとしては、さっきの鉾よりも断然上だ。地平線の更に向こうにあるというのに、視界に収まりきるか判らない程の太さで、それこそ最初は、柱と言うより空から垂らされた巨大な天幕に見えた。柱の頂上となる部分は目視不能で、空の果てまで延々と続いていた。

 恐らく、どれだけ近づいても『柱』には到達できない。文字通り、地平の向こうにあるからだ。

 アレは物理的実体を持っているようでいて、半分は概念のようなもの。

 世界を貫く巨大な柱。

 日本の神話に明るいものなら、アレが一体どういった存在か、よく知っている筈だ。


『あれって? まさか───』


 また、景色が変わった。

 理由は判らないが、恐らく『柱』の頂にいるのだという確信があった。

 頭は霞懸かり、視界すらも満足に捉えることが出来ない。皮膚の感触だけが頼りだった。

 まず、最初に感じたのは、全身を包む暖かな感触(ねつ)であった。幼き頃───母の腕に抱かれていた安心感を呼び起こすそれは、人肌の温もりにも似ていた。

 全てが曖昧になっていく微睡みの中で、感覚だけが研ぎ澄まされていく。

 ゆらり、ゆらゆら、ゆらり、ゆらゆら。

 私を抱くのは、真白い揺り篭。行き場のない情動の、たった一つの拠り所。さざ波のように、風を受ける木の葉のように、ただ熱に浮かされるままに揺蕩っている。

 時折、一際鋭い痛みがほと(・・)から立ち上ぼり、下から上へ貫いていく。

 見えない『力』で貫かれる度、私の臓腑が押し上げられ、形のない聲が虚空へと融けていく。

 痛みは熱へ、熱は光へ、光は至上の快楽へ。まるで、ただの金属が黄金にすり変わるような、見るもの全てが奇跡と尊び称えるような、そんな大いなる瞬間に立ち会っているようであった。

 実際、立ち会っているという表現は正しい。感じているのは真実だが、恐らく今の私は、私であって私じゃないのだろう。

 身に覚えのない快感。どこか他人事な愛情。

 これは、記憶だ。知らない誰か───いや、浅影家の者なら、よく知っている誰かの追体験だ。

 世界を創りたもうた二神。その受け取る(・・・・)側の記憶であろう。

 息が乱れるにつれ、私を包む揺り篭も次第に脈を速めていく。全身から溢れ出す幸福は、私の魂の奥底に堆積し、丹田で波打つ激情は今にも爆発しそうな勢いで蠢動する。

 そして、限界を超えた先───とうとうその瞬間(とき)は訪れた。


(あぁ───)


 花が、開いた。

 それは、百合であったか、それとも菊であったか。

 切ない声が、恥じらいもなく放たれた。

 その直後、間欠泉の如く沸き上がった強大なる奔流が、私の裡で解き放たれる。

 私の意識は虚無の果てに消えていった。


     ◇


 浅影邸の南西部には、女中や術師を治療し療養させる為の部屋が幾つかある。

 大抵は、生理や病気で体調不調に陥っている者や、何らかの呪波汚染を受けた者が、これらの部屋に宛がわれることになっている。

 絹幡蘭も、任務から帰ってきてすぐに、これらの部屋の一つに通された。

 別の部屋では、今も少なくない数の女中達がうなだれている。恐らく、長時間瘴気に当てられていたからだろう。この濃度になると、耐性のない者は肉体と精神のバランスが崩れてしまう。

 とはいえ、瘴気の発生源───霊脈の歪みは正した。彼女達が回復するのも時間の問題の筈だ。


(取り敢えずは、大丈夫そうですね…)

 

 何とか、成し遂げた。

 たった一人の命を犠牲にして。

 いや、そうと決まったわけではない。


「ダメ───考えては、いけない」

 

 かぶりを振る。

 必死で、最悪の可能性を払い落とそうとするように。

 私は、彼の凄まじい実力を間近で見てきた。複雑に入り組んだ岩場を縦横無尽に駆け、一体一体が強力な使い魔である骨兵(スケルトン)を手際よく切り殺していく。そして最後には、あの骨の巨人をも打ち倒し、私の窮地を颯爽と救ってくれたのだった。

 彼の技術は、厳密には魔術とは全く別系統のものであるらしいが、あれ程の身体運用ができる魔術師は見たことがない。まぁ、肉体派の魔術師が少ないということもあるだろうが。

 何より、彼と戦っている時は、本当に心強かった。

 だからこそ、思ってしまうのだ。彼ならば、何とか生き残っている筈なのだと。

 そう、願ってしまうのだ。

 あの時の光景が、脳裏によぎる。

 暗闇の中、無数の黒い手に全身を捕まれながら、私に手を伸ばしてくる新矢志輝の姿。私も必死で手を伸ばすのだが、後少しのところで届かない。当たり一面の水が引いていくのと同時に、その姿は小さくなっていく。

 そして、何もない静寂が私を冷たく包み込むのだ。


「ふん───!」


 バチン、と両手で頬を叩く。

 悩みが自身の閾値を越えたときに、よくやるクセだった。

 けど、これが意外と効く。

 一度頭をリフレッシュするには、最適なアクションだった。


「私は…結局変わらない。心を込めて、忠義を尽くすのみ。けど───」


 私が助けられるのは、あくまで自分の手の届く範囲だけ。

 相手の内側に踏み込む覚悟を持たずして、誰かを助けることなんて出来っこない。

 確かに、他人の腹の底を暴き立てることは、誉められた行為ではないだろう。

 配慮だとか、思いやりだとか、確かに素敵なことかもしれない。けれど、私はいつしかそれを、見て見ぬふりをする為の、都合の良い言い訳にすり替えてしまった───とまでは行かないが、少し行き過ぎていたと言われれば、否定は出来ないだろう。

 今までの積み重ねがある分、急な方向転換は出来ないだろうが、ほんの少しだけ、土足で踏み入ってでも助ける気概があっても良いかもしれない。

 部屋を出る。

 もう、少女は嘆かなかった。

 それどころか、生来の凛々しさが更に増しているように見える。

 自分に出来ることを、最大限尽くす。

 浅影に、向き合う。

 意を決して、一歩を踏み込んだ───その時であった。

 

「あれ?」


 屋敷の外の、森の方だった。

 よく見知った姿が、何かを抱えて茂みに入っていくのが見えた。

 

     ◇


 浅影邸の最南端に位置する、とある一室だった。

 屋敷の中で、麓の町を最も広く一望することが出来るこの部屋は、よく客室として使われる。今日のように、重要な催事がある日以外は人の気配が絶えない。

 もし、今日のような日に人気があるのなら、そこにいるのはよっぽどのロマンチストか、警戒しなければならない招かれざる存在のどちらかだ。屋敷の女中や術師は皆、南西の療養室で寝込んでいるか各々の仕事に勤しんでいる。こんな部屋で油を売っている暇はない筈だ。               

 カーテンの閉められた部屋は、真っ暗で何も見えない。

 何もない闇の中、虚無に紛れるように確かな人の気配が息づいている。

 

「───どうやら、朝方よりも霊脈の歪みが大きくなっているようですね。瘴気の影響───ではこういう乱れ方はしません。強大な魔力によって一つの波紋が広がっているような───あぁ、もしやアレが噂に聞いていた十三年前の───」

 

 闇の中の人影が、小声で呟くように独りごちる。

 彼女(・・)は、新矢志輝・絹幡蘭と別れた後、たった一人で瘴気の発生源だった霊脈の歪みを修正した。

 新矢志輝が『骨の巨人』と死闘を繰り広げている最中、何食わぬ顔で屋敷に帰還し、療養室で祓いの処置を受けていた。

 その後、この部屋に人払いをかけて潜伏し、今に至るまで密かに術式の調整を行っていたのだ。

 

「───好都合です。ここまで不安定なら、もう少し『雷筒(らいとう)』の出力を落としても問題ないでしょう。浅影家(ここ)の術師は優秀です───気づかれにくいに越したことはない。」


 鳴上葉純(なるかみ はすみ)は、畳の上に正座しながら自身と問答するように考査していた。

 彼女の目の前には、雷筒と呼ばれる壺とも甕とも言えぬ物体がある。

 その名の通り筒状の物体で、一見すると小さめの陶磁器のようにしか見えない。質感はつるりと滑らかで、夜をそのまま写し取ったかのような漆黒の色合いは、何とも艶かしい。

 義務教育を受けた一般人には、教科書に載っている弥生土器のようにも見えるかもしれない。

 しかし、魔術の世界に生きる者なら、それが呪術的な力を帯びた物品であることに気がつく筈だ。

 彼女が魔力を込める度に、器の中で力が乱反射しながら増幅していく。彼女───或いは、鳴上という家系が持つ特性なのか、内部に蓄えられた魔力は、黒く光ながら激しく迸っている。しかし、彼女が内部に刻まれた魔術式に手を加えると、魔力の勢いは徐々に小さくなっていった。

 摩訶不思議に思えるが、実際に行っていることは極めて単純で、即ち魔術例装の出力調整だ。

 この『雷筒』は、魔術的な手段で作り上げられた電池のようなものだ。

 鳴上の魔術師にオドを供給されることで、電気という形に加工されてエネルギーを蓄えていく。

 魔術師の制御下でなくては霧散してしまう魔力を、貯蓄する技術というわけだ。

 しかし、ごく微量ながら周囲のマナも取り込んでいる為、魔力感知に秀でた者に察知されるリスクを考え、出力を弱めたのだ。

 その実態は、あらかじめ定められた魔術式の効果を、増幅・発展させる為の魔術例装だ。

 増幅と発展というところが肝であり、増幅は出力の底を押し上げて確実性を担保する加速器(ブースター)としての役割を、発展は魔術例装の働きを呼び水として新たな術式に繋げる為の動力源(スイッチ)としての役割を、それぞれ担っている。

 彼女ら(・・・)は、この『雷筒』と呼ばれる魔術例装の仕組みを応用し、何らかの大掛かりな儀式を実行しようと画策していた。

 

「調整は完璧、後はしかるべき座標に設置するだけ。それだけで、私はあの家から解放される───」


 部屋を出る。雷筒を脇に抱え、人目に気を配りながら屋敷の外の茂みへと潜っていく。

 私の役割はあくまで工作。

 雷筒(これ)を設置した後は、どさくさに紛れて山を降りてしまえば良い。

 既に山だが、後は野となれ山となれ。

 私は何処へと消え、浅影も鳴上も存在しない晴れて自由の身となるのだ。

 

「はぁ…はぁ───」


 指定されたポイントに、無我夢中で走る。

 激しい運動をしているからか、はたまた嬉しさのあまりか、胸が高鳴り息は荒くなっていく。

 木々を潜り抜けながら根を躱し、岩から岩へ『強化』した身体で乗り継いでいく。

 鳴上家で鍛えられた走法と体捌き。そして忌々しい神の力も、とうとう不要になるときが来る。

 本当の意味で、普通の女の子として生きることが出来るんだ。

 

「ここだ───」

 

 少し開けた場所に出る。

 ここだけ、草木が生えていない領域だった。

 中心部には、印が刻まれている。

 

「本当に…あったんだ」


 屋敷の最南端から、さらに南東へと向かっていった先。

 浅影家の中でも、ごく限られた人間にしか知られていない地点。

 浅影の山に五つしかない筈の、星の息吹の噴出点。

 その六つ目が、確固たる現実として目の前に広がっている。

 

「もう一つの『点穴』」 


 転がり込むように印の場所に向かうと、壺を割らないように慎重に置く。

 鳴上家の『相伝呪刻』にアクセスすると、魔術回路を活性化させる自己暗示の呪句を唱える。魔術回路を『雷筒』に接続し、魔力の波長を霊脈の波長に近づけていく。

 霊脈と例装を接続させ、大規模攻撃術式(・・・・・・・)への骨子を盤石なものにする作業だった。

 鳴上葉純は、それからしばらく間、霊脈との同調を続けていた。


「く…こんなときに限って、上手く行かない。」

 

 同調から約十分、常に沈着だった鳴上葉純の顔に焦りが見え始めていた。

 魔術例装と霊脈の接続は、当然ながら地表に最も近い『点穴』で行われる方が最も上手く行く。しかし、今の鳴上葉純は彼女も自覚している通り冷静さを欠いている。高度な集中力イメージを必須とする魔術という分野の性質上、このような状態は負のスパイラルしか生まない。

 早く終わらせなければ、異変に気づいた者達によって積年の計画は頓挫する。そうなれば、自由は愚か命さえも危ぶまれるだろう。文字通り、全てを失うことになる。

 そして、そのような焦りから来る心の乱れが、更に鳴上葉純(かのじょ)を理想の状態から遠ざけていく。


「落ち着いて…私なら出来る筈。成し遂げられる筈。」


 深く息を吸う。

 清涼な山の空気は、都会のそれよりも格別に上手い。けど、それは鳴上葉純(わたし)にとって忌々しいものでもあった。特に、こういった人の手が介在していない天然の木々に囲まれた領域には。

 山。

 森。

 今も昔も、鳴上葉純(わたし)にとっては閉鎖と束縛の象徴だ。

 浅影の山(ここ)だけの意味ではない。未だに私は、鳴上の森(あそこ)にも囚われ続けている。

 ふと、かつての記憶が甦る。

 ここに来る前───まだ、鳴上の一族が住まう森で、霖雨達と共に暮らしていた頃の原風景だ。

 寂れた集落の跡。

 華やかさの欠片もない獣の道。

 陰湿な人間関係。

 親族同士で闇に討ち合う、血で血を洗う当主争い。

 敗れた者は、以降死ぬまで鳴上の道具としてこき使われる運命にある。鳴上の当主とパスを強制的に結ばされ、その『相伝呪刻』の恩恵と共に、生涯の不自由を約束されるのだ。

 待っているのは、都合の良くこき使われる奴隷のような人生。私のように、暗殺や諜報なんかに駆り出されるのはまだ良い方で、最悪の場合、欲望に猛ったケダモノ達の慰み物として、性的な奉仕関係に取り込まれてしまう女中達もいる。

 私も、大して実力があったわけではない。如何なる命にも逆らわず、一切の隠し事をしない従順さを買われて、何とか工作員としての役職(ポスト)にしがみ付けているだけだった。

 そんな欺瞞も、類い稀なる才能の前では、たちまちに剥がれてしまうだけの張りぼてでしかない。

 私を遥かに凌ぐ金の卵が、後続からどんどんと押し寄せてくるのを背中で感じ取っていた。

 無論、私も成長していなかったわけではない。

 過酷な任務に赴き、魔術世界の熾烈な暗部闘争の中で凌ぎを削る内に、私は鳴上の術師としても一介の忍としても、一流に近いレベルに磨き上げられていた。しかし、才ある者達は、私が多くの苦難を経て上り詰めていった階段を二つ三つと飛び越え、あっという間に追い縋ってくるのだった。

 自らの立場が危うくなった私は、位の高いものに色目を使って取り入る他なかった。

 幸い、くノ一としての経験からか、男の扱い方は心得ていた。

 どこを触れば喜ぶのか、どこを触らせれば悦ぶのか。

 畢竟、相手が自分を支配したと思っている時が、一番のつけ入る隙だった。

 そうやって、私はあの家で自分の居場所を守ってきたのだった。

 しかし、そんな欺瞞も長くは続かなかった。色目を使って取り入るという、従来の手が通用しなくなったわけではない。歳を重ね、自意識が強まっていく内に、自分自身を疑い始めてしまったのだ。

 性奴のような扱いを受けている女中達を見て、私はあんなものになりたくないと思った。どんな手を使っても、今の地位にしがみついてやると誓った。では、今の私は一体何なのだ。上の者に媚びへつらって、自らの尊厳を差し出すかのように、股を開く。

 私は、このままで良いのだろうか。こういう風に生きることが、本当に幸せなのか、と。

 そんな、どこにでもいるごく普通の少女のような、ありふれた疑念を抱いてしまったのだ。

 幸福の追求。その概念を、私の中に認めてしまった。

 後は、己の情動が肥大化するのを待つだけだ。堰を切ったように、自由への渇望が溢れてきた。

 それから紆余曲折を経て、私は今ここにいる。

 この仕事を最後に、私は鳴上を出る。そういう契約を、お祖父様(・・・・)に取り付けている。

 自由への扉は、すぐそこに開かれているんだ。


「やってやる…!」


 改めて、己の意思が定まった。

 心が極限まで熱くなると、逆に頭は冷えていく。

 魔力の扱いは、鳴上葉純が本来持ち得ていた精細さを取り戻し、先程とは打って変わって、驚くほどスムーズに霊脈との同調を完了させた。

 そこから先は、流れるように早かった。

 魔術例装と霊脈の接続は完了し、後は件の大規模攻撃術式を発動するだけとなった。


「私のすべきことは、これで終わり。浅影の末路も気にはなりますが、今は一刻も早くこの山を降りた方がいいでしょう。巻き込まれるのは、嫌ですので。後の事は全てあの人達(・・・・)に任せます。」


 着物についていた葉を払う。まるで、しがらみを引き剥がしていくように。

 浅影の儀式に関して、今夜執り行われるという事以外は知らされていない。が、聞いた話によれば「浅影が、魔術の家系として根本から生まれ変わる」というものらしく、想像以上にキナ臭い。

 生まれ変わる、というのなら私も同じだ。

 私は、鳴上からも浅影からも解放され、晴れてごく普通の人間として自由を謳歌するのだから。

 空を見上げる。相変わらずの、一面灰色だ。

 けど、私は知っている。この奥に、どれだけ広い蒼穹があるのかを。

 さようなら、浅影瑠鋳子。

 さようなら、魔術世界。

 踵を返す。霜の張った土をざくざくと踏みしめ、屋敷に背を向けた───その時だった。

 

「戻っていたんですね」


 不意に呼び止められ、思わず固まる。

 よく、知っている声だった。

 ゆっくりと振り返る。

 そこには、想像していた通りの姿形があった。

 

「なん…で───」

 

 桜色の着物。

 さらりと流れる、栗色の髪。


 絹幡(きぬはた)(らん)が、怪訝な表情を張り付けて立っていた。


     ◇


「───俺の目的は、浅影の『相伝呪刻』の破壊だ。」


 男は、風に吹かれる砂のように、さらりと言った。

 褐色の肌は、今にも闇に溶け込みそうだ。

 (くら)く濁った翠眼を細め、言葉の端に憐れみを含ませながら、淡々と述べ始めた。


「もうとっくに未来なんてないのに、いつまでも醜く足掻いている薄汚ねぇ命に、ちゃんとトドメを刺してやる。俗に言う介錯って奴よ。まぁ女どもは、武士道なんてモンは理解できないだろうけどな。結構良心的だと思うぜ。お前だって、ここに来てからずっと思っていたんじゃないのか? 十を過ぎて間もない女子供を、老い先短い魔術なんかの為に、過酷な運命に縛り付ける───その無意味さをよ。」


 男の指摘は、新矢志輝の真意を穿っていた。

 確かに、浅影の魔術師の在り方には、共感できるトコロの方が少ない。

 生きている世界が違うのならば、価値観も当然違ってくる。『正常』であることを尊ぶ新矢志輝にとって、自ら『異常』に触れようとする魔術師のことなど、理解できる筈もない。

 だが、しかし───

 

「慎んで、お断りするぜ」


 きっぱりと、そう告げた。


「お前の計画も思惑も、俺にとっては心底どうでも良いんだよ。けど、お前みたいな奴に、アイツらの誇りを奪わせるのは胸糞悪ィ。だから、お前は俺に殺されんだよ。」

「誇り、ねぇ」


 男が、にやりと笑いながら言った。


「お前の責務は、浅影瑠鋳子の命を守ることなんだろう? だったら、俺についた方がいいんじゃないかい?」

「何?」


 嫌な予感がする。

 その答えを聞けば、後戻りできなくなってしまう。今までの全てが、決定的に変わってしまう。

 そんな壮絶な悪寒が、全身を這いずり廻る。

 しかし、男の発言を制止することは、今の新矢志輝には出来なかった。


「このままだと、今夜───浅影瑠鋳子は死ぬぜ。」


 男の黒い告白が、新矢志輝の認識を決定的に塗り替えていく。


「どういう…ことだ?」


 新矢志輝が質問する。鈴の音のような涼やかな声は、僅かながらに震えていた。

 右手のナイフを硬く握り締めながら、焦る気持ちを押さえ付ける。俺が必死に自己統制している事に気づいたのか、褐色の男は意地の悪い笑みを更に邪悪に歪め、こちらを見下ろしてくる。

 そして、まるで古の呪文でも唱えるかのように、男はゆっくりと言ったのだ。


「人身御供───って、知ってるか?」


 どくん、と胸が高鳴った。

 それは自分にとって、ひどく馴染みのある概念だったからだ。

 人身御供(ひとみごくう)

 かつて人は、自然の営みに神を見出だし、嵐や地震を荒ぶる神の化身として畏れた。怒れる神々を鎮める為、人々は自分達の命を生贄として捧げる選択をした。

 全世界にかけて、こういった宗教的儀礼は信仰と共に根づいている。

 この国では、古代から中世を中心に行われ、神への最上の奉仕として尊ばれていた。

 時代が江戸に移り、法で禁じられてからは急速に衰えていったが、人形焼きや灯籠流しなど、何かを神に捧げ祈願するという風習は、現代まで連綿と受け継がれている。

 明治以降、そういった悪習は完全に消滅したと思っていたが、果たして魔術の世界では───

 

「やってるぜ~生贄。何せ、扱ってる神が神だからな。定期的に、霊媒として優れている巫女の命を捧げることで、今日まで生き延びてきたんだろうさ。」

「………………」

 

 浅影は、数千年の歴史を持つ魔術の大家にして、最も原始に近い巫の一族だ。

 儀式について、詳細な情報が徹底的に秘されていること、魔術系統が黄泉や穢れの支配に突出していることから、厄ネタの一つや二つはあると思っていたが、やはりこういうことだったわけだ。

 当の浅影瑠鋳子本人は、自身が人柱として捧げられることを知っているのだろうか。


(知らないわけがねぇよな)


 最初から、そのつもりだったのだ。

 結局のところ、俺は誰の命も守れていないし、それを許されていない。

 高尚な使命など、初めから与えられてはいないのだ。

 さしずめ、俺の本当の役割は───

 

(──浅影瑠鋳子を、然るべき死に導くこと…てか)


 まるで、肺に穴でも空いたかのように、吸った先から空気が抜けていく。

 存外、自分の正体に衝撃(ショック)を受けているようだった。

 何をそんなに悲観しているんだろうかと、自分で自分を嗤う。

 今更になって、無力感に苛まれる必要など、どこにもないというのに。

 異形の道を往く者同士。しがらみに囚われている者同士。

 それが一体、何だというのか。

 幾ら、それらしい記号で取り繕ったところで、所詮、俺はただの部外者でしかない。

 役を越えて、彼女らの境界を踏み犯すことなど、許されて良い筈がない。

 そうやって自分に縛りを課したのは、他でもない俺自身なのだから。

 

 ───なら、話は早いじゃないか。


「儀式は『相伝呪刻』がなくちゃ出来ないし、そもそも『相伝呪刻』をこれからも末永く使っていく為にある。それをぶっ壊せば、儀式をやる必要も意義も永遠に失われるんだよ。浅影瑠鋳子は救われ、俺は溜飲を下げられる。そしてお前は、人間を見殺しにしたという罪悪感を背負わずに済む。ここにいる全員にとって、これ以上のハッピーエンドなんて無いと思うけどなぁ。」


 俺は部外者でしかない。

 浅影(ここ)の人間たちの常識に、土足で踏み入るわけにはいかない。

 俺はただ、浅影瑠鋳子の死神であれば良い。


 新矢志輝は静かに、己の刃を向ける先を定めたのだった。


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