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シキノシカイ 一境界事変一  作者: 忘れ去られた林檎
第一章 空洞境界
22/25

第二十二話 堰を切るのは

 伊妻梨阿に連れられながら、邸宅を後にする。

 本殿の広間に出ると、十数人の女中達が浅影瑠鋳子(わたし)の周りに集まってきた。

 全員が全員、私よりも背丈が上ということはないのだが、やはり数の力というものは恐ろしく、いつもは広間の縁側から覗く庭の風景が、過密した人の壁で一寸の隙間すら見えなくなっていた。


「「大丈夫ですか!?」」


「う…うん。大丈夫。」


 屋敷の女中総出による出迎えであった。


「お体の方は大丈夫ですか? よかったら何でも仰ってください。シフォンケーキも作りますよ? 最近、頑張って練習していたんです。」

「あ、うん。それはうれしいんだけど…」

「ばか。瑠鋳子様は和菓子が好物なんだ。シフォンケーキみたいなパッサパサしたものは、舌に合わんだろう。ささ、瑠鋳子様、下界で有名な菓子屋に作らせた抹茶の羊羮でございます。どうぞお口になってください。」

「ちょっと! 羊羮こそパサパサしたお菓子筆頭じゃない!」

「はん! アンタが本当の羊羮を知らないだけでしょうが!」


 女中二人がお菓子のことで喧嘩している。

 この二人はいつも喧嘩気味だから離していたが、よもやこんな機会で再び漫才をみることになるとは。


「ちょっとお前ら! 瑠鋳子ちゃんは傷心中なんだからうるさくすんな! 瑠鋳子ちゃん、準備はアタシらの方に任せて、今は休んでいいからね。」

「ありがとう嘴見(はしみ)。」

「いんだよいんだよ。瑠鋳子ちゃんが元気にいてくれるだけで安泰なんだから。」

「そうだぜ瑠鋳子。お前がいねぇと始まんねぇんだからよ。」

「うん。ありがとう。」


(なんだ。私って、まだまだ子供じゃない。)


 やはり、大人というものは強い。

 純粋な強さだけじゃない。

 心に余裕を飼っている。


「これでようやく、儀式にも力が入りますね。」

「よかった。ここまでやった甲斐がありましたよ。」

「よし、じゃあ続き始めるか。」

「あ…あの」

「これで安心ですね~」

「心配させやがって~」

「もうちょっと休んでもいいんよ。」


 ならば、私はどうするべきか。

 このまま、全部水に流してしまう気か?

 今までの身勝手に関して、何か一言でも声をかけるべきではないのか。


「あの!」


 声を張り上げる。

 沈黙。

 床を見ているから分からないが、多分、みんなの視線は私の方を向いている。

 言わなくては。

 これからも人としての道を歩むのならば、人としてしかるべき対応をしなくては。

 視線を上げる。

 (かお)を見ず顔を見る。


「遅くなっちゃけど…」


 頭を下げる。

 角度は九十度。

 さぁ、後はたったの一言。


「心配かけてごめん…ごめんなさい。私のせいで、私の身勝手でみんなに迷惑かけちゃった。本当に、本当にごめんなさい。」


 再び、沈黙が流れる。

 破ったのは、誰だっただろうか。ある一人が吹き出すと、立て続けに一人、また一人と吹き出し始め、最後は全員で爆笑し始めた。

 空気が犇めき、氣の流れがそれなりに変わるほどの呵呵大笑であった。

 

「ははは…な~んだ。瑠鋳子ちゃまってば、意外と律儀なとこあるじゃない。始めてだよ、瑠鋳子ちゃまがそんな顔をするなんてさ。」

「ふふふふ、確かに。今までで一度も、こんなことは御座いませんでしたしね。瑠鋳子様の新しい一面が見れた気がして、お姉さん燃えてきちゃいました。わんぱくな子も好きだけど、背負いすぎるぐらい健気な子も私は好きですよ。ああー捗るわ~」

「やめろやめろ。ガキが、辛気臭く頭下げてんじゃねぇぜ。お前らみたいなガキはよぉ、走り回って皿割っちまくらい腕白なのがちょうど良いのさ。」

「それは腕白すぎません? 子供でもこっぴどく怒られますよそういうのは。」

「おう。怒鳴られて『ごめんなさ~い』って逃げ帰るくらいが平和だ。まぁ、責任ってヤツを考えてくれるようになったところは、悪くはないかもな。年配として不甲斐ないなって思うところもあるけど───心強いよ。」

「瀬名…静音…綾香…!」


 ちゃまちゃま言っているのが瀬名。何か良からぬ癖を抱えていそうなお姉さんが静音。伊妻以上にがさつな口調の、目つきの悪いお姉さんが綾香だ。班長は全部で五人いて、後は嘴見と三滝がいる。


「アタシらは、完璧で絶対に弱みを見せない君を求めている訳じゃない。勿論、魔術世界が魑魅魍魎の跋扈する魔界であることは知ってる。アタシらこれからも平和にやっていく為には、隙を晒すようなことが出来ないってことも分かってる。けどね───アタシらになら、少しくらい気を許したって良いんじゃないかってずっと思っていたんだよ。

 それに、もう充分なくらい、かっこいいところを見させて貰ったからね。寧ろ、泣いちゃったって聞いてちょっとホッとしているところもあるんだ。ようやく弱さを見せてくれたなって。あぁ、別に変な意味じゃないからね! その、『弱みを見せるに足る信頼』っていうのかな。私達をそんな風に思っていてくれたのが嬉しかったって言う話でね。」


 黒髪をポニーテールで纏めた女性が言う。

 この明朗快活な人が嘴見。班長の中でも、最も頼り概があると評判だ。成る程確かに、こう見ると顔つきが何だか輝いている。


「別に、そうは思っていねぇだろうさ。ただ単に、心の許容量を越えちまったってだけで。」

「そういうものなのですかね。」

「あぁ、そういう風に仕向けたヤツはいるだろうが。」


 綾香が、伊妻の方を見る。伊妻も、綾香の視線を察知し彼女と視線を絡めると、特に言葉を交わすわけもなく向き直った。


「───だが、自分から弱さをさらけ出そうがそうでなかろうが、そんなことは些末なことだ。性格や態度には問題あるとはいえ、これまで一切弱音を吐かずにやることやってた浅影のご令嬢が弱ってんだよ。私達は、それを真正面から受け止めてやるだけさ。」

「ふふふふ、そうですよねぇ綾香さん。私達はあくまで女中なんですから、屋敷の巫女様方、術師様方を全力でお支えするだけ。こんなに愛らしい御方が殿をお勤めになると言うのですから、これ程燃えないことは御座いません。ですから瑠鋳子様、安心して私の腕の中に抱かれてくださいまし~」


 屋敷の班長達が、楽しそうに談笑する。かけられる言葉はどれも、今の私には不釣り合いなほどの、暖かい労いの言葉だった。

 一人変なのが混じっていたような気もするが、私を思ってくれて言ったことなんだろうと解釈しておこう。

 結局、私はどこまでも子供だったし、みんなにも子供だと思われていたというわけだ。

 けど、やっぱり納得できない。

 彼女達にとっては子供とはいえ、私は仮にも当主なんだから、しゃんとしてないのは大人達から見れば気に食わないのではないか。こんなに簡単に、私の身勝手が許されてしまっても良いのだろうか。全部うやむやにする形で、当主としての責をもう一度背負って良いものなのか。何かしら、明確な償いが必要なんじゃないのか。


「で…でも私…当主として───」

「良いってことさ!」

 

 言い始める前に、全力の答えが帰ってきた。

 班長の一人の嘴見だった。


「元よりアタシらは、浅影(あんたら)の為の兵隊なんだからな。アタシらがここにいる限り、好きに使ってくれて一向に構わないよ。気に入らないなら、とっくのとうに出ていってたんだから。ま、そうなっても手に職つけれないだろうし、みんなが心配になってしまうから結局出戻ってくるかもしれないけどね。」


 嘴見は、そう言うと肩を竦める。昔から、彼女には江戸っ子的な気質があるのだ。しかし、それは単なる表面的な気さくさだけではないらしい。彼女の瞳には、強い信念と度胸が煌々と宿っている。


「な~に、安心しな瑠鋳子ちゃん。アタシらは、決して瑠鋳子ちゃんを見捨てない。最後の最期まで、君の我儘(せいちょう)に付き合ってやるさ。」

 

 嘴見が、声高らかに宣言する。

 鏡写しの如く、浅影瑠鋳子の瞳に光が戻った。


「赦すよ。君はアタシらの希望の星(スーパースター)なんだからさ。」

「嘴見…」

「ちょ…ちょっと!」


 目頭が熱くなってきたところで、河に石を投げるが如き待ったの声がかかった。

 声の主を見る。

 少し長いおかっぱの、小柄な少女だった。


「わ、私は、まだ許してないからね! 瑠鋳子が引きこもったせいで、儀式のアレコレがが全然進まないし…!」


 一人の少女が、反意を示す。

 

(まぁ…こうなるわよね)


 流石に、このまま都合よく無罪放免というわけにはいかないらしい。

 意外にも、すんなりと受け入れている自分がいる。

 嘴見達が赦してくれたのは、ひとえに、年長者としての余裕故だ。そうでない者達の中にも、私を赦してくれる度量の持ち主もいるだろうが、内心穏やかではないというのが現状だろう。

 そもそも、私を赦してくれる方が可笑しいのだ。浅影の未来がかかった大事な日に、仕事をすっぽかして延々と無意味な占いに魔力を消費していたのだ。見限ったとしても、何ら可笑しくはないというのに。

 多分、そう言う意味で彼女は、代弁者であるに違いない。

 

「美紀子! アンタは思いっきりサボってただろうが! アレコレもクソもあるかい! だいたい───」

「嘴見、待て。」


 強引にフォローしようとした嘴見を、伊妻梨阿が止める。

 美紀子の前に、浅影瑠鋳子が立っている。

 瑠璃色の瞳が、美紀子の黒い瞳を見つめる。二人の白く小さな手が、滑らかに重なり合う。

 

「美紀子、ごめん。私がいない間、色々と負担を押し付けちゃったみたいね。この穴埋めは、必ずどこかでするから。」

「え? あぁ…う、うん…。」


 思いもよらぬ誠実な対応に、美紀子は驚いたのか目をぱちくりさせている。

 ついさっきまでなら、私はこんなこと言えなかったと思う。

 けど、今は違う。

 嘴見の言葉に勇気をもらった。

 魔術において『口に出した言葉は現実になる』とは常識であるが、正に今、私の心には希望が宿った。

 そしてそれは、私を勇気づけるだけでなく、私を導きの星に昇華させる。


「だからもう一度、私についてきてくれる?」


 浅影瑠鋳子の真剣さが届いたのか、美紀子はコクりと小さく頷いた。

 周囲を見渡すと、色んな顔があった。

 微笑ましいといった顔。やれやれといった顔。気楽に静観する顔。

 皆、本当の意味で納得したわけではなさそうだが、それ以上言う者はいなかった。

 思いは、届いたようだった。


「気はすんだか、美紀子。」

「う…うん。」

「サボりの穴埋めもよろしくな、美紀子。」

「ちょ! そ…それはお許しを…」

「「ははは!」」

「で。瑠鋳子ちゃん、霖雨ちゃんのことだけど。」


 笑い声が止む。

 全員の意識が、嘴見の今の一言に集中した。

 霖雨。

 今確かに、嘴見はその名を口に出した。

 とうとう、その名前が出てしまった。

 真剣と言う意味か、気まずいと言う空気感か、辺りは静まり返っている。

 言葉は刃物、口は災いの元。

 今しがた騒動が起きたばかりだからこそ、ここにいる誰もが彼女の次の言葉に耳を傾けた。

 彼女は、まるで神託を告げるように言った。

 

「気持ちは、アタシらも同じだよ。」


 浅影瑠鋳子の瞳が、僅かに拡がる。


「瑠鋳子ちゃんだけじゃない。霖雨ちゃんも、アタシらの立派な家族だからさ。霖雨ちゃんを拐ったヤツらを許せないし、霖雨ちゃんを取り戻したいと思ってる。だからさ───」


 嘴見が、少女へ向かって手を差し出す。


「改めて、お供させてくれるかい?」

「───もちろんに、決まってんでしょう!」

 

 迷いなく彼女の手を取ると、強く握りしめた。

 

「みんな…ありがとう。」


 二人の体温が交ざり合い、握った箇所が熱を帯びていく。

 浅影勢力は、再び、その意思を一つにしたのだった。

 

『もうちょっと身内意外とのコミュニケーションスキルを磨いた方がいいんじゃないのかい?』


 アイツの言葉を思い出す。

 魔術師としてじゃない、人間としての繋がり。

 普通の人間としてのコミュニケーション。

 どうすれば、それを磨くことが出来るのか。既に、道はすぐそこに開かれていた。

 魔術組織としてじゃなく、人として接することだったんだ。

 

「そういえば、志輝は?」

「あいつはな」


 口を開いたのは伊妻だった。

 そういえば、私が引きこもった後は彼女が指揮を執っていたのだったか。


「───いなくなった。」


 ピシャリと言った。

 

「順を追って説明する。お前が引き篭っていた間、山中の複数箇所から瘴気が発生する騒動があってな。私達はそれを、結界に何かしらの不具合が出たか、敵勢力による破壊工作と考えた。そこで、新矢志輝、蘭、葉純の三人を対処に向かわせた。蘭からの報告によれば、新矢志輝は突如発生した未知の反応を追って、発生した境界の向こうに消えたらしい。後は一人、瘴気の発生源を特定して浄化したんだと。今は二人とも戻ってきて、自室でゆっくりしてもらってる。ま、蘭の奴にしては、よくやった方だろう。」

「そう───」

「随分と淡白だな。新矢志輝が消えたんだぞ。所詮たった一日の付き合いとはいえ、お前のボディーガードだったんだぞ。」

「わかってるわよ。」


 新矢志輝の失踪。

 実際には、追いかけたというより引きずり込まれたと言った方が正しい。浅影瑠鋳子は気づいていないが、この説明には現実と微妙なズレが存在する。この小さな表現の齟齬は、一体いつから生じたのか。

 皆の預かり知れぬところで、少しづつ歯車が狂っていく。

 そんなことなどいざ知らず、浅影瑠鋳子(かのじょ)は一人の人物について思案を巡らせていた。

 新矢志輝。

 あの面倒くさがりの怪異殺しが、自らの意思で怪異の巣窟に飛び込んでいくだろうか。確かに、昨日の戦いでは積極的に仕掛けにいっていたように見えたが、敵の潜んでいる領域にまで深追いするかといえば疑問が残る。

 とはいえ、消息不明というのは事実だ。もし、怪異が支配する領域に入ったというのなら、たとえ、あれ程の戦闘能力を持っていたとしても、いつまでも無事でいられるとは限らない。

 しかし───

 

「問題ないわ。アイツなら大丈夫でしょ。」


 浅影瑠鋳子が言った。


「そうか。だが、契約上はそうはいくまい。逢魔坂朱理から提示された要項には、危篤状態或いは死亡したなどの、何らかの戦闘不能状態にある場合、速やかにこちらに連絡をするようにと書いてある。」


 伊妻梨阿が、片眼を瞑って不機嫌そうに言う。

 契約上は仕方がないとはいえ、逢魔坂朱理という存在には思うところがあるようだ。


「何らかのって何よ。」

「そこは、我々で判断すべきところだろうな。」

「ふーん。」


 浅影瑠鋳子は、ニヤリと口角を上げる。


「なら、別にいいんじゃない連絡しなくても。」

「契約違反になっても?」

「そこは解釈よ。志輝はあれでもタフだから、きっと上手くやってる筈。私達の見立てはそうなんだから、そういうことでいいんじゃない? 新矢志輝は消息不明だけど、戦闘不能かどうかはわかりませんってね。」


 浅影瑠鋳子が、邪悪な笑みを浮かべる。


「そんな、シュレディンガーの猫でもあるまいに。」


 額に手を当て、呆れたように言いながら、伊妻は笑みを浮かべたのだった。

 

(浅影の女帝様は、何とか持ち直したようだな。)

 

 伊妻が手を叩き、全員が彼女の方を向くと言った。


「そら、休憩時間は終わりだ。各自、持ち場に戻って儀式の準備を再開しろ。」

「じゃあ私も───」

「───おっと、お前は私と来てもらわなくてはならない。」

「え?」


 浅影瑠鋳子が伊妻を見上げる。


「昨日の戦いで、だいぶ汗かいたんじゃないか?」

「え? あ、まぁ。そうね。」

「じゃあいいだろう? 私と、ひとっ風呂浴びてかないか?」

「え?」


 ギクリ。

 それはちょっと不味い。


「なんだ?」

「い、いや~私はいいかな。その……ほら、やんなきゃいけないことが山ほどあるし…」


 私は、苦笑しながら答える。

 とある理由から、私は裸の付き合いは勘弁して欲しいのだ。

 特に、伊妻梨阿(かのじょ)には。


「お前、自分で気付いてないんだろうが───臭いぞ」

「───っ!?」


 衝撃の事実。

 私は臭かった!

 考えてみればそうだ。私は昨日、蛇草の魔術師との戦いで散々汗を流し、使い魔の蛇どもに全身をぺろぺろと舐められ、唾液と粘液まみれになっていたのだった。

 あまりにも恥ずかしい真実に、頭が茹で上がりそうだった。


「わかったわ…行ってやろうじゃない!」

「……やけに真剣だな。まぁいい、お前はそれくらい威勢がよくなくてはな。」


 そんなこんなで、私の銭湯行きが決まったのだった。


     ◇


 かぽーん。

 どこからか、そんな音が聴こえてくるような気がする。

 浅影邸が建てられた山の麓には、小規模な温泉街がある。

 非火山性の温泉で、大地の熱で暖められた湧き水を肥やしにしている。

 地域に根差した事業の為、客足はそれほど多くはないが、浅影の重要な収入源の一つとして機能している。

 所狭しと建てられた旅館の数は、民泊などを含めて二十軒以上。土産屋や飲食店など、宿泊施設以外の店舗を含めれば三十軒を越える。都市部から比較的離れていることもあり、まるで忍者の隠れ里だ。

 まぁ、「隠れ里のよう」とは当たらずとも遠からずで、ここは元々、浅影の源流となった一族と、その諸力にあやかろうとした者達が、政府や幕府の監視下から自らを隔離するために造り上げた共栄圏なのだ。

 神秘の衰退と共にその共栄圏も消滅し、かつての影響力は見る影もないが、失われたわけでもない。

 今も、この辺り一帯の施設のほとんどには、浅影の息がかかっている。

 今、浅影瑠鋳子と伊妻梨阿がいるのも、その内の一つだ。

 ───雪江院(ゆきのえいん)

 浅影御用達の温泉施設だ。

 

「久しぶりだわ、アンタとこういうところに来るの。」


 浅影瑠鋳子は、純白の浄衣を脱ぎながら言う。

 さらりと耳障りの良い衣擦れの音が、更衣室に響いている。

 室内にいるのは二人。

 浅影瑠鋳子。

 伊妻梨阿。

 たった二人だけの貸し切りだ。

 

「まぁそうだな。私もお前も、少しばかり意味合いが違うとはいえ、ここ二・三年は忙しかったからなぁ。女二人で同じ湯船に浸かるなんてのは、私達だけでならそれこそ何年ぶりか。前に来たのは、お前がもう十センチか二十センチばかり小さかった時だったか。いやぁ、時の流れとは早いものだ。」


 伊妻はそう言って、私の背丈より一尺程低い虚空に掌を乗せると、私の背丈に重なる高さまでゆっくりと上げる。どうやら、私の身体が成長していく過程を、手を使ったジェスチャーとして表現したらしかった。

 因みに、浅影瑠鋳子の自室の柱には、彼女の成長の軌跡とも言える身長を測った痕が刻まれている。


「そう? 結構あっという間だったような気もするけど?」

「お前。まだ小学生の癖にそんなこと言いやがって。」

 

 伊妻が不機嫌な顔をする。


「あっという間だったのはそうなんだから仕方ないでしょ。人を年増みたいに…」

「そういった無常観というのはな、往々にして慣れのようなものだったりする。変わり映えのしない日常。変わり映えのしない風景。変わり映えのしない仕事。どれ一つをとっても、呆れ返る程の飽食だ。そんなものに慣れてしまえば、今日の明日も、ただ流れるばかりのものでしかないだろう。」

「ふーん。」

「まぁそれこそ、ほとんど忘れて体感でそれほど経ってないなんてこともあるだろうがな。何はともあれ、お前がこの七年で、ちょっとしたことは慣れっこなぐらい経験を積んだと言うことだ。大人の階段を登り始めたことを誇るんだな。まぁ、理想的な術師としてはまだまだ…だがな。」

「あっっっそう! せいぜいこれからも頑張りますことよ!」


 吐き捨てるように言った後、脱衣を再開する。

 伊妻の方を横目に見ると、終始無言で流れるように髪を結う彼女の姿があった。

 白絹のような帯紐をほどき、帯揚げを取る。帯枕を解き、帯を回して結び目を身体の前に持ってくる。飾りひだを取り、結び目をほどいて帯を外す。腰紐と伊達紐を素早くほどき、脱皮するように着物を脱ぐ。

 深い海を想わせる紺色の振り袖が、あれよあれよという間にはだけて、たちまち色白の肌を曝していく。

 清流がせせらぐような、一連の静かで無駄のない動作が、彼女の妖艶さをより一層引き立たせていた。

 とくん、と、心臓の鼓動が強まる。

 あまりの美しさに、視界がくらりとする。

 普段の、どこか男勝りな彼女とは全く違う。女の色香を、これでもかと漂わせている。

 同じ女だというのに、その姿にドギマギしてしまう。

 暖色の光を照り返す、きめ細やかな伊妻の裸体。その白い柔肌の、何と瑞々しいことか。まだ水に濡れていないのも関わらず、透き通るように輝いて見える。ほどよく付いた肉は弾力を持ち、若さと生気に溢れている。すっきりと括れた腹回りとは対照的に、胸元にはさらしを巻いて尚零れんばかりの豊満な果実が潜んでいた。

 さらしの上からでも分かる、ずしりと重い存在感。未熟も未熟の私のものと比べれば、蜜柑と梨ぐらい途方もないサイズ差がありそうだ。

 自身の胸元に手を添えてみる。まだ掌ですっぽり覆える程度の、ふっくらとした慎ましい感触があった。

 聞いた話によれば、十二歳のバストサイズは七十半ばあたりが平均的な数値らしい。十二歳とは言っても、平均身長や体重も絡んでくるから、一概に計れるようなものでもないが、私ぐらいの体格だったら七十はいっていないと不味いだろう。


「───前から思ってたんだけどさ、アンタって、意外に大きくない? その…サイズってどれくらいなのよ」

「トップで、だいたい九十半ばといったところだな。アンダーの方は計ったことがないから、カップまではわからんが。まぁ、年齢的にはマシな方だろうさ。」


 何がマシな方だ。上澄みも上澄みだ。

 Dを突き抜けて、Eに届きそうな勢いじゃないか。

 嫌みなのか…嫌みなのか…

 

「お前の方は…七十あるかも怪しいな。」

「そ…そんな…」


 小さな山を揉む。

 痛いだけの無意味な行為だ。


「ははは。だが…何だ、ようやくガキっぽい話が出来るようになったじゃないか。」


 伊妻が、悪戯っぽい笑みで答える。

 浅影瑠鋳子のそれとは全く違う。大人としての余裕をたっぷりと滲ませたような、苛烈極まりない笑みだ。

 彼女と比べてしまえば浅影瑠鋳子のそれなど、幼い子供が自分をより大きく見せる為の威嚇行為でしかない。

 

「ガ、ガキって何よ。大人だってそういう話するじゃない!」

「しねぇよ。するのは子供に戻った時だけだな。」

「何よそれ。どう言うこと?」

「くだらない談笑にいそしむ時は、子供に戻るのが大人としてのルールなんだよ。そうじゃないと、大人としての自分と大人気ない話をしている自分とのギャップに堪えられない。まぁ、生きている世界のフェーズが変われば、自然と話の内容も変わってくる。こんな話が出来るのは今の内だけだ。せいぜい忘れないように、思い出を噛み締めておくんだな。」


 やっぱり、大人の理屈というのはよくわからない。こんなの言葉遊び以外のなんだと言うのか。何か適当な理屈をこねくり回していて、それっぽく丸め込まれていると言われた方が納得できる。


「ふん。こんな恥ずかしいだけの会話、すぐに忘れてやるんだから。」

「はは。こいつは当分、思い出に残りそうだな。」

「───っ!」


 怒りを堪えながら、着物を脱ぐ。

 まだ温もりが残っている浄衣を丁寧に折り畳むと、脱衣籠の中に思いっきりぶちこんだ。

 がこん、と、籠が揺れる。

 神職の家系であることもあって、常に衣服は大切にしろと口酸っぱく言われてきたが、今回ばかりはそうもいかないようだった。

 何故なら、浅影瑠鋳子にとって最大の難所に突入していたからだ。


「私、こっち側に置くから。」

「あぁ、ちゃんと覚えていろよ。」


 露出したブラを手で隠しながら、逃げるように別のレーンに移動する。

 とにかく、伊妻の死角になるところへ───


(ここなら…大丈夫。誰からも見れない。)


 よし、素早く着替えよう。

 意を決して紺色の袴を脱ぐ。片足を上げて、その上に袴を広げて乗せる。脚が疲れない内に、両手十指をフル稼働して畳んでいく。何度も行っている内に身に付いた技能───これも、慣れと言うのだろうか。

 ふと鏡を見る。当然、写っているのは下着姿の私だ。

 浅影家は曲がりなりにも神に支える一族である為、浄衣の下に俗な衣類を着ることは禁じられている。もし何か着るにしても、腰巻きや肌襦袢のような清純な衣類だけだ。だから、本来はショーツやブラも身に着けてはいけないし、身に着けてない方が魔術も色々と安定するのだが───そんなことは問題ではない。

 花柄のレースに彩られた黒色の逆三角形(ショーツ)。左右に縫い付けられたストラップは、鼠径部を跨いで、ストッキングに巻き付いたバンドまで黒い線となって走っている。

 俗に言う、ガーターベルトだ。

 胸に聳える小山を隠しているのは、可愛らしいひらひらのフリルが付いた黒のブラ。しかし、普通のものとは違う。乳房を強調するように、ベルトが上下に巻かれている。ハーネスブラと呼ばれるものだった。

 上下いずれも、セクシーさに全振りしたのかと言われても反論できないランジェリーだ。

 小学生の下着姿とは思えぬ程、如何わしい代物がそこにあった。


(───私も…何でこんなものを着たんだか)


 別に、趣味でこんなものを着ているわけではない。

 これを仕立ててくれたのは、他でもない絹幡静音だ。

 機能的だから気に入る筈だと強く推され、彼女の熱烈な押し売りに負けた私は、仕方なく半信半疑で着てみたのだ。

 きっとすぐに着なくなる。そう思っていたのだが、存外着心地がよく今日まで着続けてしまった。

 魔術で『強化』した身体能力で殴り合う私のファイトスタイルには、こういう締まりの良い下着がマッチしているのだ。強く踏み込んでも高く飛び上がってもストッキングがずり落ちないというのは、冬場の戦闘では大きなメリットでもある。ブラの方も、乳房が固定されることで擦れて痛くならないというのも大きい。

 悔しいが、自分にとっては非常に理想的な下着だと言わざるを得ない。ただ、人に見せれるものでもないので隠し続けている次第だ。

 改めて自分の姿を見る。

 こう見ると、まるで拘束具のようだ。

 或いは、幼い少女が真っ黒な蜘蛛の巣に捕らえられているようにも見える。

 こんなもの、伊妻に見せられるわけがない。

 誰かと温泉に行きたくなかったのは、他でもないこの下着姿を見られたくなかったからだ。


「おい。丁寧に畳めよ…って、お前…何だその…」


 気が付くと、伊妻がこちらを覗き込んでいた。

 心臓が爆発するかと思った。

 視線の先は、どう見ても私の下着だ。黒い瞳を上下させながら、何とも言えぬ表情でまじまじと眺めている。

 脳がぱちぱちと沸騰する。

 見られた。

 終わった。

 これから私はずっと、こいつに破廉恥な女として見られていくのだろうか。或いは、この痴態をネタに弄られ続けるか、弱みとして揺すられ続けるようになるのか。


「な…なんか悪い…? あ…いや、べ、別にこういうのが好きって訳じゃないから。この方が安定するというか」


 私は、この空気にいよいよ耐えきれなくなり言った。


「───あぁ、その…可愛いと思うぞ、私は。」


 伊妻は、逡巡しまくりながら言った。

 言葉に悪意を感じない。皮肉を込めて言っているわけではなく、純粋に反応に困っているらしかった。


「黒というチョイスも良いな、うん。黄泉と死を司る私達の魔術系統に根差している。」

「もっとなんか…こう…あるでしょう!? い、いや…もういいわ…殺して…」


 思春期真っ盛りの少女の、自分だけの愉しみを茶化すのは流石に気が引けるとでも思ったのだろう。伊妻はそれ以上は言わなかった。一応、彼女なりのフォローもあったが、余計に憐れになるだけだった。

 

「殺すのはまだ早いな。本当に可愛いから、出来ればもう少し眺めていたい。」

「くぅ…」


 私は、生き恥の下着を剥ぎ取るように脱ぐと、ありのままの姿になった。

 髪を結い、扉を開け浴場に入る。

 生暖かい湯気が二人の少女を出迎えた。

 ここは浅影御用達の銭湯。

 彼女達二人だけの貸し切りだ。

 

「走るなよ。」

「あたりまえでしょ。」


 ぴちゃぴちゃと、水気のある音が足裏から響く。素足に吸い付く温かい感触は、人の気配を感じさせる。

 貸し切りとは言ったが、あくまで今からだ。おそらく数十分前までは、一般の客が使っていたのだろう。

 滑らないように慎重に歩きながら、洗い場に行く。重なった桶の一つをとって床に置き、引っくり返らないようにそっと腰を掛ける。蛇口を捻ると、シャワーヘッドからアッツアツのお湯が吹き出した。

 湯が床に振り落ちる度に、膨大な蒸気がぶわりと上がる。温度調節の蛇口を青に傾け、火傷しない程度まで湯の温度を下げると、ゆるりと肩に持っていった。


「あ…ふぅ」


 右肩から下半身に掛けて、熱い感触が枝分かれしながら伝わっていく。

 気持ちが良い。

 ぬるま湯で軽く身体全体を流した後、ボディーソープをしっかり泡立てて全身に広げていく。

 細い二の腕から始まり、脇から腹に、腹から溝に、更に上って二座の山へと、まるで宝石を撫でるように繊細に拭っていく。

 背中も満遍なく拭った後、泡まみれの上半身をぬるま湯で優しく濯いでいく。

 足は石鹸で太股から爪先までよく洗い、終わった後は手をよく洗う。

 デリケートな部分は、指の腹を使いより優しく洗う。

 熱気に包まれながら指先で肌をなぞる感覚は、日々の疲れをほどいていくある種の儀式に近かった。

 そう、儀式だ。入浴の習慣は、紀元前四千年前の沐浴が大元とされている。彼の時代において、入浴とは染み付いた穢れや不浄を落とすことで、病を祓い福を呼び込む魔術的な儀礼であったのだ。

 そして、それは肉体の『異常』を正常に戻し、それでも戻らぬ不可逆の変化と向き合うものでもあった。

 しゃり、とした指先の感触。

 こうして身体の輪郭に直に触れてみると、自分の体に起きている成長(へんか)を強く感じる。

 まだ何者でもない子供から、大人という何者かに成ることを強いられる存在に成り果てる。

 少女から女に成る。

 それは素敵なことのようでいて、気持ち悪いものでもある。

 まぁ、そんなものに絶望する権利も、希望を抱く自由も、今の私には許されていないのだが。

 身体を完全に洗い終えたら、次はいよいよ入浴だ。

 露天風呂への扉を開けると、肌を刺すような冬の風が火照ってきた身体を急速に冷却していく。


「うぅ…さっむい!」


 少し熱いなと感じる程暖まっていたのに、冬の山に吹く木枯らしはその防壁を易々と打ち破ってきた。

 逃げるように温泉に足を浸ける。

 すると今度は、溶岩に足を突っ込んだのかと錯覚する程の熱を感じ、叫びを堪えながら引っ込めた。


「───お前…猫舌どころか猫体なのか………?」


 伊妻が冗談交じりに言う。とうの彼女は、熱さなんて何ともないとばかりに、そのまま湯に浸かっていく。

 

「うっさいわね。まぁせいぜい、低温火傷して肌がボロボロになって後悔するといいわ。」

「そんなに長く入らん。」


 足先から、適度に慣らしながら湯船に入っていく。肩まで浸かる頃には、熱さも少しはマシになっていた。

 

「あ~いい湯。」

「どうだ。疲れはとれていくか?」

「そりゃもう。このあっつーいお湯に溶けていってるわよ。」


 じんわりと、身体の奥底まで熱さが伝わっていく。

 熱が皮膚を包み、筋肉をほぐし骨に染み渡っていく。

 肩と首の隙間から注がれた熱は、心臓を通って丹田へと流れ込み、火種となって内側から私を滾らせていく。

 まるで、一つの山になったかのようだ。

 天から降り落ちた恵みの雨は、山の中にある天然のダムに蓄えられ、沢を下って地上へと運ばれていく。

 自然は未だ循環の理を土台にしているのに、人間は資源を際限なく消費している。古来より冥府を司る神を奉じ、自然に根差した伝統を保ってきた浅影も、現代では消費文明に寄った活動を強いられている。

 本来の理想とするところからは、あまりにもかけ離れてしまっている。

 はっきり言って、屈辱極まりない。何故に、彼の神にこの地を治めることを許され、その強大なる権能の一部を譲渡された私達が、数千年に亘り途方もない代償を払って尚、神秘の磨耗に抗えないのか。

 いつかの日に聞いた、数々の言葉が反響する。


 例の事件の負債は、一体どこでどう返済するのか。

 今度の当主は、十にも満たない小娘と聞いた。果たして、虫の息の浅影を纏めることが出来るのか。

 自らの呪いに焼かれた一族なぞ、関わっても災いにしかならんだろう。

 世は無常だな。精々、暴走に巻き込まれないように距離を置いた方が良さそうだ。

 所詮、女だけの組織なぞこんなものだ。神に色目を使い、その遺産を食い潰し生き長らえたに過ぎん。

 思えば、百年前のあの時から崩壊は始まっていたのやもしれん。

 これからどういった末路を歩むのか実に見物だ。

 私も他人事ではないな、賢く生きねば。

 そもそも、神の一部を保存し続けるというのが、全く現実的ではないのだ。

 

 浅影は終わりだ。

 

 腹の底で燃える恥辱と懊悩の炎が、ぐつぐつと脳髄を煮え滾らせていく。

 終わらせない。

 終わらせたくない。

 私達のこれまでを無為にさせて堪るか。

 見返してやる。

 今夜だ。

 今夜、浅影は生まれ変わる。

 尊い犠牲と共に、全ての理が一新するのだ。

 その為にも───鳴上霖雨、君の存在が必要不可欠なんだ。

 君を絶対に取り戻───


「おい! のぼせてんぞ!」 

「ふぇ!?」


 ばしゃん、と飛沫を立てながら跳ね起きる。

 南無三、逆上せてしまっていたらしい。伊妻が声をかけなければ、そのまま溺れてしまっていただろう。

 まぁ、浅影の『相伝呪刻』が術者の状態を補正するから、何ら心配することはないのだが。

 それにしても、我ながら随分と思い悩んでいる。

 浅影の未来───彼女達の行く末が、心配で心配で仕方がない。心の臓が、重力で押し潰されそうだ。

 そんな私の心情を読み取ったのか、はたまた顔に余計な色が浮き出ていたのか、伊妻が声をかけてきた。

 

「思い詰めたな。まだ何か不安があると見える。」

「別に。今夜の儀式、上手くいくかなって思って。」

「そうか。じゃあ、少し待っていろ。」

 

 ざぱん、と熱い水飛沫が上がる。

 伊妻は石造りの浴槽から出ると、色白の美麗な裸体を水を光らせながら、何かを取りに更衣室へと消えた。

 束の間一人きりになった私は、ただ空を見上げることに飽きて、湯気に包まれた世界を見渡してみた。

 露天風呂のバルコニーをぐるっと囲っているのは、竹を骨組みに檜を張り合わせた柵である。これでは簡単に覗かれてしまうのではないかと思われるが───そこは浅影御用達、幻術で巧妙に隠されている。

 私のあられもない姿を拝めるのは、このどんよりとした空を翔んでいる鳥だけなのだ。

 柵の外が見られないのなら、その内はどうであるか。

 視線を落とす。

 内装は、木々や草木が生い茂る自然に根差したものとなっている。冬にも関わらず、活気ある緑に満ちているのは、観賞用に植えられた常緑樹によるものか。燃え尽きたような灰色の空と対比され、妙な趣がある。

 かこん、という申し訳程度な鹿威しの音も、耳をそば立てて聴いてみれば、これまた何とも心地良い。

 水面から沸き上がる湯気は、山の狭霧の如く辺りの風景を真白に染め上げ、空を覆う雲に融けていく。

 その光景は、あまりにも美しい。

 調和がとれているとはこの事だ。

 ここは、ただそれだけで完結している。

 小さな世界が、まるごと保存されているかのようだ。

 幻術によって守られた、熱き女の園。

 内側を知れば知る程、今度は外側への興味が強まっていくのは、人間の悪い癖なのだろうか。

 湯気が濃くなり、視界が白く霞んでいく。

 その刹那、世界が二つに分かれたように見える。

 柵と空。

 秩序と無秩序の両儀性が、日常の最中に現れる。

 ここは閉じた楽園。あの柵の外は、理解の及ばぬ混沌が無限に広がっているに違いない。

 ならば、あの高い柵を越えた先は異界だ。

 異界と言えば黄泉の国を思い浮かべるが、魔術的・民族学的にはその限りではない。

 人類は自らの生存圏を拡げる過程で、自分達の支配が届く視界と、それが叶わぬ未知の闇を区別してきた。そして、自らの理が通じぬ死角を異界と定め、それらに取り込まれて仕舞わぬよう境界を見出だした。

 故に、境界とはどこにでもある。

 浴槽やトイレの排水溝の暗渠。

 日が沈む地平の向こう側。

 今も私を取り囲む柵の外。

 ここが世界なら、外は秩序なき異界そのものだ。

 木を隠すなら森の中───だからこそ、怪異の類いは混沌が広がる異界に身を潜めるのだろう。


(境界を隔てた先にある隠された異界…魔術とか関係ない人達にとっては、さぞロマンチックなことでしょうね

 ───あれ?)


 ───何かが、頭の奥で引っ掛かる。

 

「隠す……?」


 ───その時だった。

 私の頭に、生暖かい液体のようなものがかけられた。

 

「ひゃぁ!? なに!?」


 頭から顔を伝って湯船に滴っていく。

 触れた手を見ると、緑色をしていた。

 こんなモノをかけてくる人間は一人しかいない。

 

「まさか…これの為に戻ってたの?」

「あぁ」


 伊妻梨阿だった。

 空っぽの小瓶を片手に立っている。

 ともすれば、今かけられた液体は何らかの魔術薬か。


「なにかけたのよ。」

「毒じゃない。なに、効いてきたら分かるさ。」


 伊妻家は代々調律師の家系であり、主に浅影勢力の魔術師達の調律を担当している。正確には、専門は魔術的な医術や薬学なのだが、その分野で培った技術を魔術回路や『相伝呪刻』の調律に活かしているのだ。

 彼女も、伊妻を代表する優秀な調律師の一人である。

 であるのならば、彼女が調合した薬品も確かな効能があるはずで───


「なに、よ…これ………?」


 思わず、自身の変化を口にする。

 頭がぼんやりとする。脈が落ち着き、丹田の奥がとくとくと疼く。茹で上がるような熱さが引いていき、じんわりとした何とも言えない心地よさが、身体の中心から末端にかけて波打つように広がっていく。

 一体、どんな作用を持つ薬品をかけられたのか。

 一切口にしていないのに効果が出るということは、皮膚から浸透して体内に作用するタイプの薬品なのだろうが、ここまで速効性が高いのは見たことがない。


「肉体的・精神的な不調を和らげ、気持ちよーくしてくれるお薬だ。飲めばもっと効能が発揮されたんだが、お前くらいの年齢なら肌から吸収するくらいが丁度いいだろう。あぁ、依存性は低いから安心していいぞ。」


 「勿論、お前が魔術師ならの話だがな」と、意地が悪そうな笑みを浮かべながら伊妻が言った。

 どうやら、私の状態を考慮してくれた上での暴挙らしい。それで妙な薬を飲ますなら世話ないのである。

 伊妻は再び湯船に浸かると、私に抱きついてきた。

 大ぶりの果実が、私の顔面を埋めていく。


「ちょ…何すんのよ変態……!」


 必死で彼女を押し退けると、肉厚な果実を振るわせ離れた。


「なに、私も薬の効果にあやかろうと思ってな。」

「アンタも何か不安があるワケ?」


 伊妻は「まぁな」と答え、立ち上がる。

 熱い飛沫が、冬の寒空を舞った。


「私は先に出てるぞ。この後は、私の部屋に行って『相伝呪刻』の最終調整に入るんだ───しっかり体を解してから来い。」

「ちょっと待って…薬は? 湯船に入っちゃったわよ?」

「問題ない。一定以下の濃度では、薬効が消失するように調合してある。」


 伊妻は湯船から出ると、今度こそ更衣室に戻っていった。

 私も、引っ掛かっていた何かは結局出てこず、何だか不安も吹っ飛んだので、数分程度で出ていった。

 その後は、銭湯を出て近場のレストランで昼食を済ませ、女中の送迎車で浅影本家の邸宅へと戻った。


     ◇


 ───なんだか、懐かしい感じがする。

 今、自分は闇の中に揺蕩っている。さざ波に連れられて、誰にも預かり知れぬ極点まで流されている。

 ()は一度、これに似た感覚を味わったことがある気がする。

 そう、あれは確か二年前のあの日。茅蜩(ひぐらし)の聲がけたたましく鳴り響く、焼けるような黄昏時。全てを彼方へと導く死の光に飲まれながら、知らない誰かの知らない名前を必死になって呼んでいた。

 それから、空虚に満たされた暗闇に突き落とされ、しばらくの間何も出来ずに浮かんでいたのだ。

 不思議な感覚だった。

 水の中に浮いているようで、宙ぶらりんに吊り上げられているような感覚。地に脚がついているようで、自分を上から俯瞰しているような浮遊感───否、全能感。

 自分が全てになったかのような、全てが自分だったかのような、肉体から魂までを貫いてゆく熱い激流。

 ここで、ようやく確信したのだ。

 ───自分が、死んだということに。


     ◇


「ん───」


 細い視界───ようやっと像を結んだ瞳が、果てなどないかのような濃い闇を受け入れる。

 どこかもわからない地底の底で、新矢志輝は目を覚ました。

 久し振りに味わった死の感触を、口の中で広がる砂利の苦味と一緒に噛み締めると、ふらつく頭を何とか統制しながら調子を取り戻す。

 地面を押して、うつ伏せの身体をゆっくりと起こす。

 腰から下が水に浸かっている。恐らくここも、どこかの地底湖のような場所なのだろう。音の反響の具合からして、意外と広い空間かもしれない。僅かに対流が視える事から、どこかに通じる穴がある筈だ。

 風がないのに、やけに寒い。

 全身が凍えそうだ。下半身がびしょ濡れなのだから仕方がないのだが、上半身もそれなりに寒い。

 振るえる身体を強くさすりながら、呼吸法で心拍を速め体温を上昇させる。

 熱を取り戻す度、思考もクリアになっていく。ここに至るまでの激動の記憶が、鮮明に頭に甦る。

 骨の巨人を攻略した後、巨大な裂け目が開き新手の怪異が現れた。絹幡を庇った俺は奴に捕まり、向こう側に引きずり込まれそうになった。濁流の中で上下感覚を乱されながらも、身体を掴んでいた怪異の腕を何とか切り払って───そこからの記憶がない。

 

「───どっかで、頭を打ったな。あの手をぶった切ってからの記憶がねぇ。よっぽど死にたくなかったと見える。水中で無意識に息を止めてなかったら、ここに打ち上げられていたのは俺の死体だったな。」


 辺りを見渡す。

 ここも、地底湖のような場所であった。

 水は澄んでいて、内部の形がよく見える。大小様々な岩が並ぶ岸は、天然のテトラポッドになっていた。


「ん?」


 岩と岩の狭間に、キラリと光る物体がある。

 銀の刃のついたナイフだった。

 

「───成る程、我ながら大した根性だぜ。あの濁流の中、意識を失ってもコイツを手放さなかった。」

 

 ひょいと、ナイフを拾い上げる。

 地の底の闇の中でも、その輝きは失われていない。

 予備とはいえ、黒塗りナイフと同じく祖父から託された形見である。

 黒塗りナイフの方は紛失してしまったが、この一本があるだけで何と心強いことか。

 これがあれば、新手の怪異が襲ってきても一先ず安心だ。


「───ったく。それにしても、妙な場所まで飛ばされちまったもんだ。まぁ、あの濁流の中だ。生きているだけでも奇跡に近いな。」


『───あぁ、全くだ。』


 全身が総毛立つ。

 耳に纏わりつくように反響する───夜の砂漠のように凍てつく乾いたその声を、俺はよく知っている。

 

「昨日ぶりだな───蛇野郎!」


 張り上げた声が反響し、更に奥へと伝わっていく。

 どうやら、ここは入り組んだ洞窟らしい。絹幡によると、地底湖は山の内部に繋がっているそうなのだが、浅影の奴らはこの領域を知っているのだろうか。


(助けは───そんなこと言ってる場合じゃないな)

 

 いつでも切り込めるように、ナイフを構える。

 俺の声が、反響しながら吸い込まれていった先からだった。

 ───地鳴りのような音が近づいてくる。

 岩壁を削り、穴を抉じ開け、こちらに向かって一直線に押し寄せてくる。

 百メートル、五十メートル、二十メートル、十メートル、五メートル、四、三、二───


(───来る!)

 

 ドゴォ!っと凄まじい轟音と共に岩壁が爆ぜ、大量の砂塵と瓦礫をぶちまけながら、巨大な影が現れる。

 迸る金色の雷が、その全貌を照らし上げる。


「生きててくれて嬉しいぜェ! テメェは俺の手で、しっかり殺しておきたかったからよォ!」 


 漆黒の大蛇が唸りを上げて、眼前に迫り来る。

 大きく開かれた口からは、鋭く真白い歯が覗く。どくどくと滴る唾液には、有毒な細菌や毒素が含まれているに違いない。

 大蛇が息づく度、鼻が捻子曲がるのではないかと思う程の激臭が、生暖かい風に乗って漂った。

 

 ───誰も見果てぬ地の底で、再び二者は対峙する。


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