第十八話 襲撃、再び
『わかった。お前も、体気を付けろよ。』
「ああ!」
豪快に通話を切る。
スマホの無機質な電子音の向こう側。もう、何の音も声も示さなくなった静寂に、土御門有雪は一抹の不安と思いを巡らせる。
新矢志輝の最後の言葉。
どれだけ、こちらの事情を悟られているのか。未だにじゅくじゅくと傷が疼く右肩を、もう片方の手でぎゅっと押さえつける。じんわりと強まる痛みを感じながら、黒い感情を払拭するように二度、三度深呼吸を繰り返す。
肺一杯に、冷たい空気が溜め込まれる度、内蔵の膨張で圧迫される右肩は、未だ傷が癒えていないことを、痛みという信号で脳に直接訴えてくる。その苦痛が、土御門の理性と正気を保たせる心の鎮痛剤となっていたのは、彼本人にも予想し得ないことであった。
駐車した原付に、そっと腰を掛ける。
目の前の道路を、たった一代の車が横切っていく。
ここに滞在して二時間弱が立つ。電波は辛うじて通っているからか、携帯もネットも問題なく繋がる。が、人通りが非常に少ない土地なのか、車もバイクもほとんど見ていない。道路の向こう側は鬱蒼とした木々が立ち並び、作為めいた人間臭さを感じない。
こんなところにいると、自分が世界に置き去りにされたように感じてしまう。
新矢志輝と再開した時、何と声をかけようか。
あれでいて、全うに人の心配をする性格である。
特に、自分のせいで他人に迷惑が掛かるのを心底嫌う情緒、ある種一般的な繊細さを持ち合わせているのは、今までの付き合いから肌で感じていることだった。
そもそもの話、新矢志輝がこの部活に籍を置いて活動を共にしてくれているのは、部長との不本意にして理不尽なる契約のこともあるが、志輝自身の自責や罪悪感に依るところが多いからだ。
まぁ、ここの部長である逢魔坂朱理に言わせれば、そんな情緒は皆すべからく、自分が綺麗な人間でありたいが為の、身勝手さや傲慢さの現れでしかないのだろう。実際、この前そんな言い分で、新矢志輝は言いくるめられていた。
しかし、そうだと一蹴されたとしても、それでも寄り添うことに決めたのが自分だ。例え、それらが傲慢さや身勝手さからくるものであったとしても、本当の優しさと思いやりから来ていたものだったとしても、志輝が自分を責めることがないように、出来る限りの強がりをしていたいのだ。
そしてあわよくばこの手で抱────
再度鳴り響いた着信音に、思考が吹き飛ばされる。
携帯端末を見ると、部長の二文字────逢魔坂朱理からの着信であった。
通話ボタンを押す。
『もしもし、土御門君?』
馴染み深い声が、携帯端末の奥から聞こえてくる。
口の中で飴玉を転がしたような、甘ったるい声。
万人を融かし魅了する異能染みた声色は、正しく彼女のものであった。耳から脳に掛けて染み込むように、ゆったりと響き渡るそれは、油断していると余りの心地よさに思わず飲み込まれそうになる。
「あい、アリューっす。」
何とか正気を保ちながら、応答する。
アリューは、有雪を崩した渾名だ。
『そっちは今どこ?』
「山道を越えた先にあるサービスエリアです。」
『県境の?』
「ええ。雁崎の隠れ家があった山道をずっと下りていって、五十キロ近く山沿いをバイクで行ったところです。えっと…名前はなんだったっけな。」
後ろを振り替えると、さっきまで寒さを凌いでいたサービスエリアの建物が、こじんまりと聳えていた。
「『紅梁サービスエリア』です。」
現在、土御門がいるのは県境某所────紅梁と呼ばれるサービスエリアの駐車場だ。
雁崎仄華の隠れ家を後にし、その後、周辺の丘や山林も含め、もう一度軽く捜査した。結果、雁崎仄華のものと見られる魔力痕を、手持ちの式神が発見。それを辿って山道を下り、魔力反応をカーナビゲーション代わりに、国道沿いを五十キロ近く一晩掛けて移動した。
しかし、昼間の黒い女と蛇男との戦闘や、そこでの負傷による疲労もあってか、流石に体力と寒さの限界を感じ始めた頃、偶然このサービスエリアを見つけ、昨日から酷使している体を少しでも休めるために、着の身着のまま滑り込むように立ち入った。
最初は、ほんの一時の滞在で済ます予定だったが、ここのフードコートのラーメンが存外うまく、三杯も食べたら眠くなってしまい、しばらくベンチでプチ野宿をしていたら、うっかり二時間も眠ってしまったのがことのあらまし。
そして今、ようやっと魔力痕の追跡を再開しようとバイクのエンジンをつけようとしたとき、新矢志輝からの連絡が飛び込んだのであった。
「雁崎仄華のものと見られる魔力痕が見つかったのはさっき話しましたよね。それを辿っていったところの途中にある建物なんですけど────」
『ああ、それについてなんだけどね。それ、たぶん罠よ。』
「え────」
ばっと振り返り、辺りを見渡す。
駐車場には、自分の原付も含めた自動二輪が二つ、自動車が軽も大型も含めて五つ。サービスエリアの建物内にあるフードコートとお土産屋には、人影がぽつぽつといるとはいえ過疎ってるのは否めない。
人影とは言っても、恐らく客よりも店員の割合の方が多いのではないだろうか。そういえば、フードコートでラーメンを食べていたときも、テーブルの数に反して客の気配は殆どなかった。
別に、大したことではない。国道沿いとはいえ、所詮は田舎の山道である。近年の過疎化の影響もあって、地方から首都圏へ上京していく人間は後を経たないのだ。
しかし、今の土御門にとっては、そんな日常風景が何か不気味に思えてならなかった。
思えば、そもそもの前提としておかしくはないか。
雁崎仄華の魔力痕を発見したのは『鷲』だ。自分が手掛けた式神の中でも、戦闘能力と魔力探知に関しては最優と言える自信がある。しかし、だとしても、魔力痕が微量にでも残っているのはおかしくはないか。確かに、魔術師の肉体からは稀に、魔力に不完全に加工された精気が漏れ出ることがあり、それらを感知したというのならば説明がつく。
だが、やはり強い違和感が残る。
雁崎家は、十三年前の悲劇と衰退により、現在では壊滅状態に等しい。跡継ぎはおろか、生き残りとなる人間も殆どいない。
しかし、雁崎仄華は違う。
仮にも、浅影勢力の主要七家の一角を担っていた、栄華ある時代出身の魔術師なのだ。いくら身の危険を感じて、着の身着のまま飛び出したとはいえ、魔力を垂れ流しながら移動するなんてことが、果たしてあり得るのか。
雁崎仄華は恐らく、浅影藍一郎と共にいるのだろう。
日記に書かれている情報から推測するに、彼女は自分の大切なものを奪う人間いるならば、躊躇なく殺人に及んでしまう人格を持っている。迂闊に狙えば狙い返される危険性を孕んでいることは、容易に想像できたというのに。
まさか。ひょっとして今、俺は追う側から追われる側に回っているのでは?
この会話も、誰かに見られているのでは?
ぐるぐると、そんな黒い予感が腹の底から立ち上ってきていたのだった。
『もしもし土御門君? もしもーし。』
逢魔坂朱理の声で我に返る。
俺としたことが、つい考えすぎてしまったらしい。
「え、あぁ。なんでもないっす。それより部長。志輝から聞いてますか。浅影瑠鋳子の────」
『ああ、側近が拐われたってやつね。さっき志輝クンから教えてもらったのよ。』
「はえ?」
志輝が俺よりも先に…部長に…?
クソッ…なんてこったい!
『?』
「あぁ…いや、別に。」
いや、一旦落ち着け。別に志輝が部長に取り入ったとか、うつろい始めたとかそんなことはないはずだ。あの志輝に限って、流石にそれはないと信じたい。いや、そこを信じるのが男、土御門有雪だ。
『ははーん。もしかして、先を越されてジェラシー感じちゃってる?』
くっ…この女、こっちの心の中をいとも容易く…
「い、いや~何のことでしょうかねぇ。俺は、事態の変化を一番に部長に伝えるという志輝の迅速な報連相と、それに朝一で応える部長の仕事振りに感心しただけなんすけどねぇ。」
土御門は、スゥと息を整えると、
「…成る程。そういうことでしたか。ご心配には及びません。俺っち、最近ちと自意識が不足していまして…分けてほしいぐらいですよ。」
『成る程。どうりで、最近の君は頭が軽いわけだ。』
「ははは。」
嫌みたっぷりに返した土御門に対し、逢魔坂朱理の態度は、ひどく泰然としたものだった。
そこから会話は弾むことなく、簡単な事務的確認を幾つかしたところで、二人は通話を終えた。
部長の状況も聞いてはみたが、今も浅影家に関する資料を探っているらしく、十三年前の事件の謎や、浅影の神に関するものは未だ見つかっていないとのことだった。
無理もない。
過去に立った一度だけ、逢魔坂家の書庫に招かれたことがあるが、正直言ってあれは、書斎というよりも図書館と言った方がいい程の代物で、あの本棚の迷宮の中から、たったの数ページを見つけ出すのは、俺からしてみれば、骨が折れるどころか、その髄まで粉々に砕けかねない苦行そのものだ。
一晩中、探索に心血を注げるその胆力は、流石と言わざるをえない。
俺には、全くと言って良い程無縁のものだ。
確かに、式神や術式を構築するのも、ある程度根気が必要だ。
というより魔術とは、無意味な儀式や研鑽に時間と労力を蕩尽する、ある種の苦行であり自傷行為に近しいものだ。ほとんどの魔術師は、自分の人生や魔術を受け継いだ先人の思い、これから託すであろう子々孫々の未来が、全て無駄になるのを覚悟して、自らの魂にその成果と宿業を刻み込み、日々精進している(気になっている)のだ。
俺もそれには慣れっこで、式神作りに関しては楽しいからいつまでも続けられる。しかし、資料の収集とその解読なんてものは、自分が極度の偏食家であることもあってか、残念ながらあまり縁がない。それ故か、少し想像する唯それだけでも、頭蓋がもげそうな拒否感を覚える。
部長────逢魔坂朱理という魔術師は、そんな苦行に、朝まで寝ずに身を投じて、今さっきまで疲労を一切感じさせず話していた。それどころか、その優雅さを保ちながら平然としていたのだ。
正直、そこは尊敬している。
なんか悔しいので、俺も張り切ってみることにした。
原付のエンジンをかける。
ヘルメットを被り、ハンドルを握り、アクセルを引く。
サービスエリアの駐車場を抜け出し、国道沿いの寂れた道路を、魔力の"痕"を辿って走っていく。
冬の空気が、擬似的な向かい風となって、全身に吹き付けてくる。
少し寒いが、悪くはない心地よさだ。
やっぱり、バイクは良い。
体に染み渡るように、小刻みに響く排気音は、孤独の寂寥を紛らす至上の勇気をくれる。
この速さ、この軽やかさは、一時の間でも、世界の重さを忘れさせてくれるものだった。
視界の端に、サイドミーラーが写り混む。
「まずいな…」
ここで異変にきづく。
式神との視覚の共有。それによって可視化された、魔術師の残した魔力の痕跡。サスペンスさながらの血痕のように、無機質なアスファルトの道路上を、点々と遥か地平の先まで続いている。濃度が薄まっているのか、昨日よりも明らかに小さく、そして靄のように霞んで見える。
「時間がない────だけじゃねぇな。」
もう一つ、明らかな異変が起こっていた。
サイドミラーを、ちらと覗く。
一代のバイクが、こちらの後ろに、ぴったりと張り付くように追走していたのだ。
恐らく、サービスエリアを出て二十分以上。何十もの分かれ道を介して尚、こちらに執拗についてくる。とてもじゃないが、単なる偶然とは思えない。
「煽り運転…ってやつか?」
いや、それもおかしい。
こっちに因縁付けて害しようとしているならば、何かしらの嫌がらせをしてくるはずだ。クラクションを鳴らしまくるとか、こっちの周りをぐるぐる回るように走行を邪魔したりとか。なのに、かれこれ二十分以上も、俺の後ろを一定間隔を保ってついてくるだけで、何のアクション一つも起こさない。
────まるで、タイミングを見計らっているかのような…
そうこうしている内に、隧道に差し掛かる。
暗くなる視界。
反響する排気音。
頬に叩きつけられる風。
天井に連なる小さな灯りが、二つの影を照らし出す。
隧道は、不自然なまでに人の気配がない。
ならば、内部で何が起きたとしても、それを知り得るのは彼らのみ。
両者、速度が上がる。
背後に、動きがあった。
僅かな衣擦れの音。背後のオートバイの人物が、黒ずくめの服の懐から、何かを取り出したようだった。
全身が総毛立つ。俺の直感が、全霊で警告を鳴らす。
撃鉄が小さく唸る。
すぐさま、懐に仕舞っていた竹筒へと手を伸ばし────耳をつんざく発砲音が、トンネル中を座巻した。
やはり、銃だった。
技量さえあれば、片手で撃てる拳銃。威力はライフルには到底敵うまいが、それでもヘルメット越しに人の頭を撃ち抜くくらい訳はない。
眩い火花が、暗い隧道を照らし上げる。
悪い予感は的中した。一切の体制を崩すことなく、オートバイの男が撃ち放った弾丸は、少年の無防備な頭蓋骨を容赦なく打ち抜き、その脳髄を熱き鮮血と共に、暗いトンネルの中にぶちまける────はずだった。
土御門の頭部に、音速を越えて追い縋った金色の弾丸は、急所に命中する寸でのところで、突如飛び出した純白の刃に弾かれてしまったのだ。
管狐だった。
「成る程な。あの蛇野郎。結構金持ってるじゃねぇか。」
間違いない。このオートバイの男は、俺と敵対する誰かしらに雇われた、所謂殺し屋という存在だ。そしてこの状況で、俺に殺し屋を差し向けてくるようなやつがいたとしたら、ソイツはこの件に関係の深い存在だろう。
恐らくは、あの蛇野郎か黒包帯の女。
「やっぱこの件、想像以上に闇が深そうだな。」
続け様に二発の弾丸が放たれる。しかし、これらも二対の管狐がそれぞれ対応するように、余裕綽々と弾いてしまう。
「チッ」
「おいおい。焦りすぎだろ。」
トンネル内には、俺とオートバイの殺し屋二人だけ。
たぶん、人払いか何かをかけている。
外に出れば、衆人環視。
トンネルの長さは約2km。
バイクの速さは、両者とも時速約40km。
計算上、トンネルから出るまで約三分。
即ち、それが暗殺のタイムリミットだ。
勿論、殺されるのは御免被る。ただ、ターゲットとはいったって、何もせず逃げ続けるなんて真似は流石に出来ない。俺だって一応は、名門中の名門たる土御門家の端くれだ。若き落ち目の陰陽師として、存分に抵抗させてもらおうか。
再び、男が撃ち放つ。
今度は、ただ二発撃つだけではない。
左右両手に、それぞれ別々の種類のハンドガンを構え、ほとんど同時に撃ち放ったのだ。
所謂、西部劇でよく見る二丁拳銃。
二つの弾丸は、それぞれが全く別の形状をしている。土御門の管狐とは対照的に、オートバイの男が撃った二つの弾丸は、速度も軌道も絶妙に異なる、されどたった一人の標的を捉えて、中空を切り裂いていく。男は、銃の反動をものともせず、右手に構えた銃を上空に投げ上げ、空となった右手でバイクの制御を整えた。
しかし、そんな二対の不規則弾でさへ、同じく二対の純白の刃が、易々と弾いてしまう。この二匹の管狐がいる限り、ライフルかマシンガンでもなければ、男の弾丸は標的を撃ち抜くことが出来ない。
正に、鉄壁。
土御門は、この二対の式神に自身を護らせ、男が銃弾を撃ち尽くした後、一斉攻撃を仕掛ける目算だった。
────しかし、その刹那。男は、僅かに生じた『歪み』を捉えた。
再び、右手には銃が握られる。
「おいおい、俺の管狐は丈夫だぜ。お前の弾切れが先か、管狐が耐えられなくなるのが先か、アンタだってそのくらいは重々わかって────」
そして、二度目のダブルショットが放たれる。
案の定、管狐に拒まれる。
しかし男の銃口は、謀らずともそこに生じた『歪み』を正確に捉えていた。
続けて、たった一発だけ、男から銃弾が放たれた。
銃弾が向かう先は、土御門の頭ではなく、真横に聳えるトンネルの内壁。
跳弾。
それが、男が出した解であった。
壁を跳ね返った銃弾は、男の目論見通り、見事に二対の護りをすり抜け、土御門の頭蓋に炸裂────するはずだったが、ちょうどトンネルの曲線エリアに突入していたためか、弾丸の軌道計算が狂い、奇跡的に頬を僅かに掠めた程度に終わった。
「はぁ!?何だよ今の。そんなの聞いてねぇぞ!」
土御門は、ようやく気がついた。自身の考察が完全に間違っていたことに。
今の摩訶不思議な曲芸は、トンネルが曲線地帯に突入したという、奇跡によって辛うじて不発に終わっただけで、普通だったら確実にお陀仏だった。
(どうする…)
土御門は驚愕し、ジャケットの懐に手を突っ込む。
たぶん奴は、相当な銃の使い手だ。なら、実は魔術に長けているわけではない可能性が高い。魔術や狙撃に関わらず、大抵の事は基本的に、技術を磨けば磨いた分だけ成長するものだ。今の超絶スナイプ技術も、長年の研鑽と経験により裏打ちされた絶技に他ならない。
さっきから魔術を使ってこないところから見て、奴は魔術よりも銃の方が有用だと考えたに違いない。
ならば、奴の強みを封じて、こちらの強みを押し付ける。
何か仕掛けてくる。そう直感したのか、オートバイの男は速度を下げ、土御門から距離をとる。
土御門は、重ね着したジャケットの懐から、小さな巾着袋を取り出した。
夕焼けの空を切り取って、そのまま生地として編み上げたような、季節外れの紅葉色。巾着袋には、余白なくびっしりと、呪術的な文言が書き込まれている。魔術系統『陰陽道』に造詣の深い魔術師ならば、その袋を構成している生地自体にも、ある種の術式が編み込まれていることを、一目見ただけで看破していたであろう。
つまるところこの袋は、内部に『何か』を保管、或いは封じ込めておく為の匣であった。
土御門が、何らかの呪句を小さく唱える。すると、巾着袋を締めていた紐が、するりと、ひとりでにほどけていく。
袋が開く。と同時、一瞬とも言える僅かな間、周囲の魔力が陽炎のように揺らいだ。その次の瞬間、夥しい量の白い紙片が、袋の口から飛び立つようにまろび出た。
恐らく、内部の空間を拡張しているのだろう。
まるで風に乗るように、次々と巾着袋から飛び出してくる真白い紙片。渦上の螺旋を描くように、二者の間で舞い踊ると、重力と慣性を無視した挙動で、土御門を中心として廻り始めた。
その様子は、太陽の周りを美しく巡礼する、星々の営みのようでもあった。
やや青みがかった白髪と、眉目秀麗な土御門自身の容姿も合間って、より一層、幻想的な神々しさを纏っている。
紙片の一片一片をよく観察してみれば、デフォルメ調の人形をしている。例えるならば、非常口のランプに表示されているピクトグラムを、頭身を低めに調節したような形状。しかし、頭に相当する部分が丸くなっていること以外は、比較的鋭利にデサインされている。手足の先端は、曲線を描くように鋭くなっており、胸の部分には五芒星が黒く刻み込まれていた。
形代。
陰陽道に詳しくない人間でも、様々な媒体や機会で、一度でも目にすることがあるだろう。ヒトガタに切り取った紙片に、ある種の霊力や霊体を封じ込め、式神として操ったり、遠隔で術式を発動したりといったことを可能とする形式だ。
無論。オートバイの男も心得ているのだろう。ハンドガンを構えたまま、鋭い眼光でこちらの出方を伺っている。
それはまるで、物陰にじっと息を殺して潜み、獲物が刹那の油断に見せる大きな隙を、不安と焦燥に苛まれながら狙っている猛獣のようであった。
無理もなかろう。この形代の一枚一枚に、どんな術式がかけられているか、分かったものではない。下手に銃を撃った結果、何らかの術が発動して、自身にとって相性の悪い、或いは実力的に対応しきれない術式が、最悪連鎖的に生じることがあり得るのだ。
土御門が、中空に侍らした形代は、未だ本格的な魔術戦を始めていないにも関わらず、既に相手への牽制として機能していた。
バイクの排気の静寂の中、両者の間に一時の膠着が訪れる。
両者、共に一切の言葉もかけず、ただ沈黙だけが時間を塗り潰していく。
残り、二分。
先に動きを見せたのは、意外にも警戒していた男の方であった。
男が手を掲げる。また銃撃かと土御門は構えるが、すぐに違うと分かった。
男の手には、銃が掲げられてはいない。その手は、何かを掴もうとするように、虚空に開かれている。その掌の内側から、空間に泡立つような魔力が生じ、まるで傷が膿んでいくように染み出していく。
「草喰み…根喰み…血喰み…啄喰み」
黒。
熱と呪詛が極限まで凝縮され、禍々しい魔力を加速回転する黒球が、男の開かれた掌の先に出現した。膨大な熱が滲み出ているのか、正面から吹き付ける大気の慣性に曝され、周囲の虚空が陽炎のように揺らいでいる。
魔力を術式で加工した魔弾というには、人間一人屠って余りある殺意の塊であった
「刻み散死『喰闇』」
危険を察知したのか、土御門の周囲を乱舞していた形代が、数十枚ほど男の元へ殺到する。吹雪のように押し寄せるそれらを、ヘルメットのバイザーに閉ざされた内側から、男のやつれた瞳が暗く覗く。直後、移り変わる景色を超過する速度で、黒球が風を捻りながら、土御門目掛けて放たれた。
速度こそ、先程の銃弾には及ばぬものの、土御門のバイクテクニックでは、無傷で躱すことは容易ではない。
強力な呪詛だけでなく、空気を電離させるほどの熱をあの黒球からは感じる。避けたとしても、半身が焦げる程度で済むかどうか。
たった一秒にも満たない逡巡。
この間にも、黒球が土御門のすぐ背後まで迫ってきている。
形代の内の何割かは、自動迎撃システムが搭載されている。
土御門の思考よりも早く、形代は男に殺到していった。
じゅ、という音。黒球が炸裂する。その寸前、形代は黒球の周囲を、土星の輪のように取り囲み、ある種の結界を張ることで魔力を閉じ込めた。しかし、それは結界というにはあまりにも微弱だ。熱の殆どを無効化しきれず、周囲に発散させてしまう。
「くそっ…!」
土御門が励起させ、自らの手足の如く精密に、その一枚一枚を使役していた形代。その実に八割ほどが、主を守護せんと渦を巻きながら密集していく。風と戯れるように飛来し、二人の間に割って入ると、瞬時に魔術的な陣形を形成し、ひとりでに強固な防壁を組み上げていった。
「奇一奇一たちまち運化を結ぶ。宇内八方、五方長男、たちまち九籤を貫き、玄都に達し、太一眞君に感ず。奇一奇一たちまち感通…急々如律令!」
それは、邪なる悪鬼災いを、一息に退ける真言であったか。
土御門は、懐から新たに霊符を取り出す。
霊符には『天掃』と書かれている。
その符を、形代が形成した陣形の、ちょうど中心辺りに張り付ける。すると、陽の気を大量に含んだ目映い光が、偏く闇を引き裂くように解き放たれ、トンネル内部を強烈に照らし上げたのである。それはまるで、真昼の直中にいるかのようであった。
男は、すぐに目眩ましではないと見破った。消し炭にするつもりで放った渾身の魔術が、風が凪いでいくように書き消えていったのだ。
先刻まで、土御門有雪とその形代を襲っていた、絶大なる殺意の魔弾の一射。その一発に籠っていた、鉄をも溶解する莫大な熱も、大気を引き裂く電撃も、人間程度ならば百人ですら致命的に成り得る呪詛も。まるで、すべて白昼夢であったかのように、虚空に果てていた。
土御門の切り札の一枚。
絶大なる陽性の奔流で、陰性の魔力を彼岸へと押し流す。退魔の術式の一つであった。
土御門は、強力な退魔の意を持つその呪詞を、僅か一秒と掛からず唱えきった。この驚異的なる高速詠唱技術は、日本呪術家格と呼ばれる名門家系群において、最高峰の地位と勢力を占める、土御門家に伝わる秘奥の一端であった。
数多くの系統に、少なくない影響を与えながら、現代まで連綿と伝えられてきた技術を、無論、有雪も高い精度で習得している。個人の術式や属性との相性があるとはいえ、持っておいて損はない技術だったので、幼少の頃にあっさり習得していた。
トンネル内での激突は佳境に入り、両者とも表情に翳りが見え始めていた。
追い込まれているのはどちらか。いや、どちらもそうであるのかもしれない。
二者は共に、対向車線を隔てて並走している。
人払いがかけられている限り、このトンネルに一般車両が入ってくることはありえない。だからこそ、この二人の魔術師は、無茶なドックファイトを続けることが出来る。この状況で、交通違反を考えるものはいない。文字通り、命の奪り合いなのだから、そんな些事を気にしている場合ではない。
残り、実に一分と二十八秒。
極限の緊張感によって、闘気と魔力と共に滲み出た汗が、額から右頬をさらりと伝い、顎から虚空へ滴った。
それを合図としたのは、オートバイの男。
虚空に手を翳し、先刻の呪句を再度詠唱し始める。
瞬間、土御門の脳裏に、先刻の黒球の術式が想起される。
コンクリートは愚か、鉄塊までもを瞬時に溶解せしめる莫大な熱量。それに伴う、圧縮空気の電離作用によって生じる、極小の積乱雲ともいうべき電撃の暴威。そしてそれは、物理的破壊力が伴う程にまで凝集された、北欧の黒呪にも似た呪力の塊でもある。
もう一度アレが放たれれば、防ぐ手立てはない。先刻の防御に利用した術式は、一回こっきりの切り札だ。
ならば、どうする────
ハンドルを思いっきり右に切り、男のオートバイに急接近する。
詠唱が完了する前に、術者を叩く!
土御門の身体が、急角度で男に迫る。
捨て身ではない。
「有大筋力…行歩平正…遊行無畏…如師子王」
日蓮宗の道中安全祈文。
この呪を肉体にかければ、術者の進行を妨げるあらゆる障害に対し、如何なる状況であっても揺るがない、鉄塊の如き身体を授ける加護となる。しかし、この術式をかける対象を、術者である土御門ではなく、その乗り物である原付にかけたのならば────
「剛頼鉄芯…急々如律令!」
刹那を縫うように、原付に呪装がかかる。
土御門は更に車体を傾け、重低音の排気音を轟かす黒き狼に肉薄する。
危険を察知したのか、それとも土御門の思い切った判断に驚愕したのか、オートバイは唸りを上げて更に加速し、迫り来る大蛇の狡猾な牙を振り切ろうと、狭まったコースを踠くように疾駆する。
既に、車体と路面との斜角は、三十五度を下回っている。ここまで勢いよく倒しても転倒しないのは、土御門の操縦技術の高さ故ではない。土御門が、ほんの数秒前に原付にかけた、道中安全の呪装によるものだ。
剛頼鉄芯。道中安全の祈祷を基にした、対象に揺るぎない耐久性を与える術式。
人間にかければ、旅の途中に降りかかる不運や災いを払い、如何なる驚異にも耐えられる強靭な身体を授け、また乗り物にかければ、事故を防ぐ運勢を車両に与えるという。
例え土御門が、転倒待ったなしの滅茶苦茶な操縦をしていたとしても、この術式の効果で、限界ギリギリの走行に留めておけさえすれば、一先ず自滅することはないだろう。とは言っても、流石に長時間このままでいるのも、肝が冷えるというものであるから、こんな無茶を成立させれるのはこの一瞬だけに留まる。
たかが、一瞬だけ。
土御門には、この一瞬だけしか必要ない。
「────くゥ!」
思えば、この時点で勝敗は決していたのかもしれない。
二つのバイクが激突する。
骨を軋ませるような振動が、バイクを伝って全身に行き渡っていく。存外、衝撃の大きさは覚悟していた程ではなかったが、それでも、強く圧し殺していた声が、僅かな隙間から漏れ出てくる位はあったようだ。
カシャンという音が響いた。
男が銃を取り落としたようだった。
進行方向から逆向きの力が加わり、車体が安定しないままに弾かれ、二車はそれぞれ不安定によろめきながら距離をとる。
原付とオートバイの重量差か、それとも単に当て所が悪かったのかは分からない。原付の進路方向から逆向きに襲い掛かる、暴れ馬の如き凄まじい運動エネルギーの奔流に、思わず転倒しそうになる。
何とか体制を持ち直そうと、懸命にハンドルを握る。
ちょうどカーブに差し掛かっていたため、存分に地形を利用させてもらう。
莫大な慣性に、全身が引き千切られそうになる。
ふと、前を見る。
小さく、されど目映く、導きの光が視界に灯る。
そこに到達することは、戦いの終わりを意味する。
「ウォォオオオオオオオ!!!」
バイクの声帯が、唸る。
ぎゅるん、と、体勢を立て直すと、衝撃をいなすように蛇行する。
純然たる奇跡か、それとも術式の効果であるのか、いずれも自分のハンドリング技術とは到底言い難い有り様であった。幾度の窮地に合う毎に冷えきって、最早凍傷になっていそうな肝とは裏腹に、原付のエンジンは熱く鼓動している。
何とか正常な体制に戻り、安定した走行を再開し始める。
そのまま速度を落としながら、バイクを止める。
一先ず安堵する。と、自然と腹の奥底から、大きく深い溜め息が、逃げていくように溢れ出ていく。
大気に露になった息は白く、風にたなびくようにして後方に消えていく様は、さながら白いマフラーのようであった。
眼前を見据える。
距離的にして、百メートル先といったところか。まぁまぁ遠いとは思うが、それは結局のところ体感的な話であって、それこそバイクをかっ飛ばせば十秒と掛かるまい。
「あぁ…」
隧道の出口が、暖かな日の光と共に少年を出迎えている。
ここを出れば、人通りの多い国道沿いの道路に出る。
男が張ったであろう人払いも、ほとんど機能しなくなるだろう。
人払いはあくまで、暗示の延長線上の技術だ。人々の無意識に働きかけ、『ここにいたくない』という認識を刷り込むことで、束の間、人の寄りつかない空間を作っているに過ぎない。
そして、部屋の四隅に置く盛り塩なんかと同じで、人払いはある種の結界と言える。つまるところ内と外とを区切る記号であって、ならば必然と境界がある筈で────
土御門は、このトンネル自体が、記号としての役割を持っていたのだろうと、始めから看破していた。
二年前に不覚にも、否、当然の帰結として負った傷により、今の土御門には困難なことではあるし、本場の一流の結界師ならばもっと巧くやるのだろうが、基本的に結界というのは、範囲が大きければ大きいほど、曖昧な区切りじゃ成立しにくくなっていくものだ。
自らの式神や、専用の霊符なんかで陣を引いたりといった創意工夫はあるが、大規模な結界に於いては多くの場合、建物や区画、天然自然の気の流れに沿って施される。
つまり、それらに依存しやすいことを意味する。
魔術の実践に於いてはそもそもが、天体の配置やら季節の変化やら空気の成分やら、様々な影響を受けるもので、別に結界に限った話ではない。 だから魔術師は皆、自らの系統にあった霊地や地脈などを確保しようと必死なのだ。
よって以上の事柄から、土御門の暗殺はこのトンネル内でのみに限定される。それは、このトンネルを抜けさえすれば、この殺し合いの螺旋が一先ず終結することを意味している。
やっと終わる────
死線の先。
──そこで、奴は待っていた。
黒いオートバイを、少年の行く手を阻むように、横向きに止めている。男は、片足を地につけて座ったまま、出口に向かって原付を走らせている土御門へ、ゆっくりと、その黒い手を翳し────
「まった!」
男が止まる。
土御門の声が、トンネルの中を反響していく。
「もう、終いにしないか。」
土御門が告げる。
男は身体こそ微動だにしないが、魔術回路は生命力を魔力に変換し、異質なる力を練り上げ増幅させていく。
「見ての…通りだ。」
「そうかよ」
これが、二人が交わした唯一の言葉だった。
少年を乗せた原付が、慣性で振り落とされぬ限界の加速をもって、出口で待ち構える男に肉薄する。
土御門の乗る原付は、魔術により機関部に多少の改造が施されていて、車検をも欺ける脱法超加速を可能としている。陰陽連にバレたら懲戒処分ものだが、とっくに二年前に勘当されているので、土御門有雪にそんな心配は意味をなさない。
ヘルメット越しに、男と目が合う。
両者とも、勘づいていた。
これが、最後の攻防になるということも。
「草喰み…」
男が詠唱を始める。
銃は撃ってこなかった。恐らく、術式に集中力のリソースを割いているのだろう。例え撃ったとしても、式神に邪魔されるだけで終わりだ。無駄な判断はしないのだろう。
土御門の原付は、既に時速百キロに到達している。
男の元に着くのに三秒も掛からない。
「根喰み…」
遅い…!
間に合う…終わりだ!
──その時の俺は、少し前のめりになっていた様に思う。今日だって、結局全然眠ってないしさ。だから、仕方ないといっちゃあ仕方ないのかも。
まったく、何て様だよ。
どんな顔して志輝に合えば良いのやら。
トンネルの奥から、空気を引き裂くような轟音が木霊する。
(…銃声か?)
と、ほぼ同時。車体に、僅かな衝撃が走る。
ついで、何かが破裂したような音と共に、土御門の視界は斜め横に回転するようにして、硬いコンクリートの路面に倒れ込んでいった。
──恐らくは、後輪を撃たれたのだろう。
タネは割れている。
先刻の競り合いのときだったか、男が道路に取り落とした銃があった筈だ。アレに使役している霊か何かを憑かせて、自らは銃に触れることすらせずに、最高のタイミングで引き金を引いて──狙い通り、標的を撃ち抜いて見せた。
かくして、タイヤが弾けて空気が逃げ出し、そのまま機能を失い転倒。
土御門の恵まれた生身の身体は、時速百キロの慣性を伴ったまま空中に放り出され、まるで兎が飛び跳ねるように何度も地面と衝突。身体のあらゆる部位を摩擦で削ぎ落とされた無惨な死体として、連日テレビで報道される悲惨な事故として処理されることになる。
───はずだった。
土御門が死を覚悟したその刹那。暗転する意識の最中で、荷台から勢いよく広がった漆黒の翼が見えた。
◇
意識を失っていたのは、ほんの数秒ほどだったのかもしれない。
目を覚ました土御門は、まだ空中にいた。
男の姿はない。
視界は光に包まれていて、そこが陽光の下であることに気づくのに、今の土御門には余裕がなかった。
だって土御門有雪は、今───
(よかった…まだ…ちゃんと握ってる)
───少年はまだ、ハンドルから手を放していない!
答えはすぐに分かった。
ハンドルを固く握る手の甲には、それぞれの指を覆うように黒い羽が着いている。土御門の式神の中で、最高硬度と馬力を誇る『鷲』だが、この式神の真価はその羽にこそある。
中空のバイクの至るところに、黒い羽が鱗のように重要機関周辺を避けて付着している。この羽が、バイクの姿勢をある程度制御してくれていたのだ。
式神『鷲』の翼は、触れた物体の運動ベクトルをある程度制御できる。この性質により、回避不能レベルの超高速かつ広範囲の攻撃を凌いだり、重力や慣性を無視した自在な飛行を行うなど、一介の式神にあるまじき曲芸を可能とする。
この羽をレールとし、超加速して体当たりする奥義があるのだが、今はこの技術を利用する。
羽の力でハンドルへ縫い止められていた指を、もう一度強く握りしめる。
(まだ、舞える…!)
式神が唸る。
黒羽に力が宿る。
浮いていた前輪が地につく。
バイクに張り付いた羽がベクトルを制御し、負担がかからないように力の向きを分散。車体の減速と同時、姿勢を維持するために全方位に均等に運動ベクトルを逃がす。
バイクの外装が剥がれ落ち、力を逃がした方向へ吹っ飛んでいく。
一ミリでも力の制御をミスれば死ぬ。
危機感が人を動かす。思考が凄まじい勢いで巡り、周囲の風景が静止しているかの様な錯覚に陥る。新矢志輝ならば戦闘中常に、これよりも更に高次元の知覚と思考を行っていることだろう。
一歩親友に近づいた土御門は、その判断能力でバイクの転倒は避けられないと悟り、生存率を出来うる限り底上げする為、強行手段を閃いた。
後輪のタイヤが破裂し、斜めに倒れ込んで今にも接地しそうになっている外面の影に、真っ黒い羽が闇に誘われる様に滑り込んでいく。
バイクが転倒する。
接地した白い原付が、植えられるように引かれた真っ黒い羽のレールに沿って、路面を減速しながら滑っていく。車体の外面は、アスファルトとの摩擦に晒され、地を焦がすほどの火花を散らしていく。
原付が後ほんの数センチ傾いていたら、土御門の足の皮膚がゴツゴツしたアスファルトに擦り削られていたということは、想像に難くない。
車体は順調に減速し、滑走距離にして約五十メートルほどで制止するだろう。
もし撃ち抜かれていたのが後輪ではなく、土御門の肉体そのものだったならば、現在の状況とは完全に違ったものとなっていた筈だ。
如何に常人より身体に恵まれているとはいえ、不得手とする『強化』によって守られている骨肉では、銃弾を受けとめるのには心許ない。脊髄なんかじゃまだ良い方で、頭蓋や心臓部だったらほぼ即死だ。
逆に前輪だった場合も、肉体同様、あまりうまくいったとは言えない結末になっていただろう。
前輪が破裂したならば、高確率で車体は前方に縦回転することになる。そうなった場合、原付がちょうど着地するように空中で減速させなければならない。言わずもがな、土御門にとっては神業の域だ。
何はともあれ、損傷したのが後輪でよかった。一番マシな地獄を翔べたのは、幸運と言う他はない。
まぁ、それを言ってしまえば、銃弾が外れることこそが最も望ましいことではある。が、そこは暗殺者としての手管なのだろう。むしろ、オートバイの男はあの瞬間にこそ、暗殺者としての本意気が表れていたように思う。
殺し屋として、新矢志輝とどっちが上であろうか。
どちらにせよ、これ程までの手練れと殺り合えたのは、人生の誇りとしても良いと思う。
───安全とはいかずとも、大した負傷もなく生還できるに越したことはない。
ここから体勢を立て直して、確実な勝利をもぎ取る。
「?」
突然、何かに躓いた。
整備不良の小規模な隆起であった。
突然の不意打ちに車体はレールから外れ───
「おわおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
最後の最後で何じゃそりゃあ!
車体は再び不安定となり、回転しながら車道を滑っていく。
土御門は振り落とされるも、上手く受け身をとったことで最小限のダメージで車道に着地、しかしその勢いは止まらず路面を転がり続け、路肩の近くに植えられていた大木に背中を打ちつけたところでようやく止まった。
振り落とされる直前、車体についていた黒羽の大半が土御門の身体に付着し、その衝撃のほとんどを吸収していた。
つまり───
低く呻きながら愛車を見やる。
「あぁ…」
黒羽の加護を失った純白の愛車は、その勢いを殺しきれずガードレールをぶち破り、オルゴールのように空中で回転しながら枯れ果てた奈落の底へと落ちていった。
「俺の…」
俺の愛車が、俺の二十万が、俺のもう一人の相棒が。
落ちていく…壊れていく…失われていく…
放心する。
しかし何と残酷なことか。現実というものは、失意の淵にある心を癒していくれる時間など、微塵たりとも与えてはくれない。
「見事だ…」
敬意のこもった賛辞があった。
熱が近づいてくる。
深くヘルメットを被った、羅刹の如き男であった。
その左手には、熱と呪詛が凝縮された闇がある。
既に、詠唱は終わっていた。
土御門が立ち上がる。
しかし、それが何だというのだ。身体中に擦り傷と打撲痕を覗かせ、受け身に用いた左腕はだらりと垂れ下がり、足は震えて同じ姿勢を保ち続けるのがやっとの有り様である。
最早、勝敗は一目瞭然だ。
「フ」
幾つもの致命の罠を潜り抜け、その時その時に出来る最善の選択を摘み取ってきた筈だった。そして最大の難所をも乗り越えて、今度こそ勝利へと邁進していくその矢先、まさかこのような小さな不運に文字通り躓いてしまうとは───
しかし、土御門は納得しているようだった。
思えば、この戦いは小さな『運』の積み重ねだった。
最初の跳弾による狙撃も、少し速度を上げていたら命中していたかもしれない。ここまでの壮絶な戦いの奇跡なんてなく、一瞬で決着がついていたかもしれない。
考えれば、幾らでもある。
完璧に遂行するために構築された暗殺の手順。
それに対抗するために用意した数々の秘技。
これら必然がぶつかれば、当然、偶然による決着が起こるということは、最初から分かっていたことだったんだ。
だから───
「───あぁ、良かったよ…」
白髪の陰陽師が嗤う。
「天運に"策"が追いついて…」
突如、男が悶えはじめる。
呼吸が上手く出来ていないようだった。
「…がァ、こっ…これは…い、イ…息っ、ガァ…はぁ…」
まるで海の中にいるかのように、必死に空の右手で首をかきむしる。
激しい動きで乱れた服の内側から、青紫色の美しい蝶がまろびでた。
その蝶の羽から常にこぼれる、目に見えない鱗粉を長時間吸い込み続けると、含まれている毒素により気管と肺が収縮し呼吸困難に陥る。
土御門が大量の形代を展開した意図は、男への牽制だけではない。大量の形代に注意を向かせ死角を作り、この蝶の式神を密かに男の懐に潜り込ませるためだった。
形代の裏側に張り付き、すれ違いざまに別の形代に取りつきを繰り返し、美しくもどこか毒々しい色彩を放つ蝶の式神は、されど一切の気配を悟らせず、死角を縫いながら男の元へと忍び込んでいたのだった。
男が、漆黒のフルフェイスを脱ぎ捨てる。
渋い声とは裏腹に、端正な顔立ちをしていた。
「ぐっ…がァ…」
男が闇を放つ───その直前、無造作に突き出されたその腕を、土御門が捻り上げる。男の呻きと共に、上空に黒球が打ち上がった轟音が耳をつんざいた。
男に腹を蹴られ、二人は弾かれたように距離を取る。
───しかし、土御門は逃がすまいと踏み込み、男の元へ猛スピードで詰め寄る。
「俺の───」
男が拳銃を取り出し、右手で構える。
もう遅い。
土御門が男の右手首を掴むと、男の手から銃が落ちる。
さらに一歩、男の間合いに滑るように飛び込む。
近接戦闘なら、誰にも負けない!
「───勝ちだ!」
ゴッッッッ!!という鈍い音。
土御門の右拳が、男の左頬を捉えたものだった。




