第十七話 蒼白い罠
「────さて。」
黒い和装の女が、軽い背伸びをしながら気だるげに天を仰ぐ。
空は以前として、分厚い鉛色の層雲が陽光を遮るように居座っており、人々を見ているだけで憂鬱な気持ちにさせてくる。無論、彼女も例外ではなかったが、正常な認識に生きる人間とは、僅かな相違がある。
それは、この天候は何に依るものであるか、何故気象学を無視して吹き出ているのかを、少なくとも一般人よりかは深く知っている。
即ち、魔道の知識を嗜んでいること。それが、彼女と正常な認識に生きる者達との、ほんの小さな、しかしどう足掻こうとも越えられない、大きすぎる隔絶だった。
「結局、どこまでも私は傍観者なんだな。」
そういって、黒和装の女────伊妻梨阿は、再び目線を地平に戻すと、目の前の机に置かれた黒い物体を見つめる。否、覗き込むといった方が正しい。
一面漆に濡れたその物体は、一見すればただの水の入った真っ黒な壺でしかない。その奥底から此方を覗き返してくるのは、水面に写った自分の顔と、部屋の照明が反射された淡いオレンジ色の光だけ。
例えるなら、囲碁で使う碁石を入れる器、碁笥と呼ばれるものに近い形状をしていた。
そう、ただの黒い壺でしかないのだ。形だって特に芸術的な趣があるわけでもない凡庸なモノだし、大きさだって女である伊妻の掌に収まりきる程のサイズでしかない。
何の変哲もない、ただの置物────ただ一点、中に溜まった水が不自然に震えているという、奇妙な現象に目をつぶればの話ではあるが。
「だけど、お前よりかはまだマシな方だな。新矢志輝。」
絹幡達との間でかけられていた通信術式。
何かしらの共鳴反応を利用しているのか。黒い壺の中に満たされた水の"震え"は、彼女と絹幡との接続具合に強く相関しているようであった。
そして肝心である"震え"の程度が、理想的な状態から程遠いものであるということは、魔術師であれば誰でも一目でわかることだった。
瘴気の余りの濃さ故か、十分前から既に不安定だった波形信号も、とうとう途切れかけているのを感じる。
すると伊妻は、机の上に置いてあったもう一つの物体に目を向ける。
銀色の缶。
鮮やかな意匠と共に、様々な文字が刻まれていた。
焼酎ハイボール。所謂、缶チューハイであった。
絹幡に見つかればどやされるので、今このタイミングが今日飲む唯一のチャンスであり、任務の死角だった。
プシュっという炭酸の弾ける音に、カパッというステイオンタブが開く音。
乾いた一室に、グビグビと瑞々しい音が木霊する。
────凍りつく真冬の最中の一時に、喉と頭に冷える一杯。
「それにしても絹幡の奴、久し振りの来客だからってちょっとはしゃぎすぎだろう。自分から依頼担当の志願なんて、いったい何年ぶりなんだか。まぁ、アイツらしいっちゃあらしいが。そんなに良いもんかねぇ、"つながり"ってやつはさぁ。
────ったく。せいぜい、巻き込まれなきゃあいいがね。」
女は頬を赤らめながら恍惚とした表情で、再び天を仰ぎ見ると熱を帯びた声で冷たく言い放った。
「顔はすごくいいんだけどなぁ。悪いねぇ、新夜のお嬢さん。
────ここで、死んでもらおうか。」
伊妻梨阿は今年で齢十九。
────未成年である。
◇
ギィと重々しい音と共に、巨大な扉が開かれる。
地底湖への扉は端から見ると、ゴツゴツとした岩肌でできた天然の壁のようにしか見えない。
人の脳は、三つの点があるだけでソレを生き物の顔と認識してしまう。
所々苔むしているところと、直射日光によって浮き出た陰影により、その姿は何十人もの岩に埋まった人間が此方を見ているかのようだった。
そう、見ているかのようであるだけ。
実際にはただの妄想に過ぎない。
正常と異常とが、陽炎のように犇めく視界。時折、どちらがどちらかわからなくなってしまうことがある。
これは単純ながら怖い話で、魔術の本場で執り行われる学会でも、よく論文として取り上げられる命題だった。
統合失調症を患う魔術師が、魔術回路と専用の術式を駆動させ炎を生み出したとする。その生み出された炎は果たして、魔術によって世界を誤魔化した結果生じた確固たる現実か。はたまた魔術師が知性の裡に見てしまった単なる幻覚か。
曲がりなりにも、"異常"が見えてしまう稀有な人材である新矢志輝にとっては、そうした教訓は他の誰よりもずっと弁えなければならないことだった。
しかし今回ばかりは、人間のイメージ以上の何かを感じざるを得なかった。
岩が、木が、雲が、浅影の土地そのものが、これから何が起こるかも知り得ぬ俺たちを、じっとりと穢らわしい唾液で濡れた舌と歯を剥き出しにしながら、貌のない顔を歪めて嘲笑っているかのようであった。
「気を付けてくださいね。ここから先は────ケガレの巣窟ですから。」
と、右にいる少女────絹幡蘭が、こちらに顔を向け忠告する。
新矢志輝はうんと頷く。
二人の目前には、無限ともいえる闇が広がっている。
今まで通ってきた山道は、天候が優れないながらも陽光に照らされて輝いている。
洞窟の中へ光が差し込み、二人の影を作り出す。
その先にある光と影は正しく、この世と異界とを隔てる境界として機能しているようだった。
「分かってる。そう言うアンタこそ、大丈夫なんだろうな。結構鍛えてるみたいだけど、験比べが得意って様には見えねぇぞ。」
と、懐疑の視線を少女に向けながら言った。
験比べとは、平たく言えば純粋な魔術勝負。
絹幡の戦闘能力が低いと言いたいわけではない。むしろその逆だ。見たところ、筋肉の形や付き方的に日頃から鍛えているのだろう。その分、身体能力的にはこの屋敷のなかでは優れている方な筈だ。
無論、鳴上葉純の様に専門的な訓練を積んでいる人間もいるので、一概に比べられるものでもないが。それでもモヤシっ子であるよりかは幾分もマシだろう。
しかし、魔術戦となれば話は変わってくる。
身体能力や肉体強度で優っていたとしても、呪詛や術式への対抗手段が薄ければ、活きの良い的にしかならないだろう。逆にそこが豊富なら、自前の身体性能は大きなアドバンテージになり得る。
聞いたところによると、絹幡家は機織りに関連する魔術系統の家系らしいが、戦闘に関して有効な手札は持ち得ているのだろうか。
「そこは問題ありませんよ! キナ臭い業界であることは千も承知なので、戦う術はちゃんとあります!」
ふんす、と腰に手を当てて、自信満々に告げる絹幡。
自負か抱負か。
人懐っこい笑みを宙に、少女は凛と背を伸ばす。
魔術が自己と他者とを繋げたと、少女は言った。研鑽と修練の繰り返しこそが、自分が自分である命綱。それこそが、絹幡蘭が幼い頃から背負ってしまった、否、背負うと決めた業。
まるで"魔術"という糸車で、人脈という織物を編み上げているかのようだ。
彼女の生活と宿業、その在り方は俺とは真逆だ。
だからこそ、この立ち位置から見えてくるモノがある。
実際のところ、彼女の根底に眠っている真意は、誰かに頼られたいだとか役に立ちたいといった、繋がりをより強固に保とうとする生理的欲求そのものだと感じる。
魔術師という特異な立ち位置にいるというだけで、否、であるからこそ、そういったある種の純朴さを掴みとれなくなっている。
今の彼女は、今朝の調子に戻っている。
年頃の少女然とした精神性を、決して見逃さず魔術師としての性を見極めなくてはならない。そして尚且つ、それを追い立てるような真似はせず、そっと肯定してやるように勤めねばならない。
ならば、かけるべき言葉は結局こうだ。
「あぁ、頼んだぜ。」
視線が────交差する。
互いに意思は固まった。
二人は共に"扉"をくぐり、無限の闇へと誘われていった。
◇
彼の人生は、虚無そのものだった。
彼が生誕してすぐ入った産湯は、母親だったモノから垂れ流しになっていた血溜まりだった。
雪が降りしきる夜だった。
血潮に僅かに残った熱が、彼の体を冬の寒さから守り命を繋ぎ止めた。
彼は一人だった。
彼の父にあたる男は、外部に伝のあった由緒ある魔術の家系から婿に出された身だったが、その家系の異常さに気づいたその翌日に、妻と腹の子を残して愛人と共に出ていった。
彼は一人だった。
珍しくも決して吉兆な眼の色をしているとは言えなかった彼は、引き取られた先で重度の迫害を受けた。引き取り先は、彼の家系の親戚に当たる家で、本家からあまりに離れすぎた土地であることもあり、預かり知れぬ間に虐げられ続けていた。
彼は一人だった。
本家の当主が病に倒れ、跡取りを募った。何十人もいた候補の中で、本家の『原典』に最も適した体質を保持していた彼が選ばれた。
しかし、それは歓喜の報せでは毛頭ない。少年を更なる地獄に導く招待状だった。
彼は一人だった。
少年は、始めから当主として期待されていなかった。
『原典』への適性耐性を保持していても、根本的に魔術師として非才の身だった彼に定められた役割は、一時的に『原典』を保存しておくためだけの、謂わば体の良い貸金庫のようなもの。
彼は本家の座敷牢に押し込まれ、蛇草の魔術すら基礎以外満足に教えられず、言葉を喋ることは愚か意思を持つことすら許されない。それはまるで、魔術を次代に伝え繋ぐためだけに生まれた歯車のようだ。
彼は一人だった。
少年の一日は、始めから終わりまで蛇草の人間達によって予め取り決められている。これは決定事項だ。彼の自由意思が介在する余地はどこにもない。
魔術師の社会における師弟や家庭の在り方は、国や地域ごとに差こそあれ、大方どこも変わらない。子や弟子にとって、親とは、師とは、自らの世界を規定し支配する絶対的な存在だ。逆らうことなど出来はしまい。
それを良いことに、弟子や子に個人的な趣向から特定の虐待を行うケースはザラにあるが、基本的には親の思想や魔術師としての心構え、人道から外れた在り方を叩き込む洗礼としての側面が大きい。
「おい、起きろ!」
早朝。少年の一日は、顔面に叩きつけるように掛けられる冷水と、男の荒い怒号によって始まる。
もう何回目かの怒鳴り声。すっかり慣れたように目を開けると、濡れた視界の中心に白い和装に身を包んだ男が二人立っている。
一人は、苛立ちが顔一杯に濃く浮き出ている中年。
もう一人は、雹のように冷徹な眼をした、寡黙な初老の男だった。
二人の正体は、少年の指導係にして監視員。
少年の精神はこの男達に徹底的に叩き潰されている。
逆らうという選択肢はない。
凍える足を強ばらせ、感覚の失われた大地を精一杯踏みしめて────少年は今日も立ち上がる。
「五分で食い終われ。」
座敷牢を監獄足らしめる、黒く錆びた鉄格子。強力な対物理と呪的防御の術式が掛けられており、その強度は見た目とは裏腹に非常に頑強。凶悪な怪異ならばまだしも、貧弱な少年を縛り付ける縄にしては、少し過保護すぎるというもの。
血に紛う、錆びた匂いが漂う赤茶色の鉄格子。
男の足元には、ちょうど鼠一匹入れるかというサイズの、横に長い小さな開け口がある。明らかに最近になって取り付けられたであろう真新しい扉から、男の手によって食事が運ばれてくる。
少年の健康は加味されているのか、栄養バランスが考えられている献立だった。
少年は飛びかかるように膳をとると、盛り付けられた食事を我武者羅に頬張り始めた。
この瞬間において、少年にとって食事とは他の何にも変えがたい、生の実感を得るための神聖なる儀式であった。
少年の姿は、狼にも紛った。
「それにしても、何でこんな奴の面倒を見なくちゃ行けないんですかねぇ俺らが。"候補"なら、他にいくらでもいるでしょうに。」
「まぁ、裏があると見て良いだろうな。近々、浅影の本家で大がかりな儀式があるらしい。」
「それに備えて…ということですかな。」
二人がいっていることは、少年の関知するところではないとは決して言えないものであったが、そんなことよりも空っぽの腹を満たすために、少年の筋肉と脳は働いた。
「まぁ俺達には、これ以上の詮索は無意味だろう。」
「所詮、下っぱですからなぁ────おい、"蛇"。」
少年のか細い体が、びくんと揺れる。
"蛇"。
それこそが、戸籍のない少年に与えられたコードネームだった。
「とっとと食い終われ。"蔵"へ行くぞ。」
専用の術式によって鍵が開かれ、牢獄の扉が重々しく開かれる。
少年はするりと出てくると、男二人に挟まれ背を押されながら"蔵"へと向かう。
────修練が始まる。
「入れ。」
少年の"寝床"から、迷路のように入り組んだ地下道を進んでいくと、ちょうど道のりにして百メートル過ぎた辺りに"蔵"はあった。
男の声が、"蔵"の中で反響する。
内部は教会ほどの広さとなっており、一面石造りである故か足の裏が凍てつくような寒い。壁には半径四十センチ程度の半円状の穴が、等間隔で幾つも並ぶように空いていて、その奥からは幾百にも及ぶナニカの気配が顔を除かせる。
中心には、細長い一本の杭が突き立っている。杭からは一本の金属製の鎖がだらりと垂れ下がり、先端には少し大きめの手錠────即ち、首輪が取り付けられている。
少年は反射的に目をそらしてしまう。
しかし、男達には逆らえない。
少年は杭へ向かってヒタヒタと歩いていくと、首輪を手に取り自らの首へ装着する。
男の一人が少年の元に歩いていくると、少年に装着された首輪に手をかざし、何らかの呪句を唱える。
それは、少年を幽閉していた座敷牢と同じ、魔術で施錠するタイプの呪具であったか。
男が唱え終わるのと同時に、首輪は自動的にロックされ、内部に刻まれていた何らかの術式が起動し、少年の肉体に張り巡らされた血管系や神経系────それらの裏側に存在する魔術回路までもを、ある種の『力』が縛り上げていく。
少年の体は、頭の先から爪先までの自由を失い、足元から崩れ落ちるようにして、ガクンと冷たい石の床に倒れていく。
「よし、これより修練を始める。」
行くぞ、と、もう一人の男に命じ、男達は"蔵"を後にする。
"蔵"の扉が、重々しく閉まっていく。
永遠ともいえる時間。首輪を繋がれた少年は、ただぼうっと扉が閉まっていく様を眺めているしかない。
その顔は生気を感じられなかった。
とうとう、扉は閉まった。
少年はもう逃げられない。
男達の去る足音が、扉越しから聞こえてくる。
それらは徐々に小さくなっていき、やがて静寂が少年と暗闇に訪れた。
気のせいだろうか。
ふと、目の前に広がる闇の更に奥から、ナニカが蠢く音がする。
否、それは気のせいではないと、少年は知っている。
壁に空いた幾つもの洞穴。その奥に広がる闇の更に向こう側から、幾百という人ならざるナニカが眼光を覗かせる。
猫のように縦長な瞳孔。
その口元からどろりと覗く、赤黒い舌。
四肢のない、しかし長大な形状。
そして、ゴツゴツとした鱗を持つ、炭のように真っ黒な体表。
蛇だ。
何十何百、いや千には届くかという程の、夥しい数の蛇の群れが部屋の四方から飛び出し、少年の幼くも瑞々しい裸体に一斉に集り始めたのである。
ある蛇は、赤黒く鋭利にしなる舌をつらつらと穢らわしい唾液で濡らし、肌だろうがお構いなしに舐め回し、ある蛇は、少年の年頃の瑞々しい柔肌に牙を突き立て、生気を吸い上げると同時に、強烈な神経毒と媚薬作用のある分泌液で快楽中枢を刺激していく。
蛇の攻めは次第に勢いを増し、やがて少年の十にも満たない小さな全身の穴という穴を犯し始めた。
蛇に犯される不快感と、蛇に与えられる快感とが渾然一体となって、幼い少年の肉体に甘く酷い刺激として刻み込まれていく。
暴力的な苦痛に対する拒絶反応か、それとも冒涜的な快楽による絶頂反応か。少年の体は大量の蛇による刺激に呼応し、波打つように激しく痙攣していた。
しかし、それだけではなかった。それだけであるはずがなかった。
所詮、この作業は少年の肉体の抵抗力を奪う慣らしに過ぎない。少年の受け入れ態勢が整えば、すぐにでも本来の儀式が執り行われる予定だ。
そして、準備はとうに済んでいる。
蛇の役割が変わる。
じっくりと、少年の肉体が強制的に変革されていく。
肉体の魔術的改造。
それが、この儀式の本質であった。
改造とはいっても、SFに出てくるサイボーグのようなモノとは方向性が少し違う。
少年が魔術師として元来持ち合わせている属性や特性といった体質を、蛇草の魔術を受け継ぐのに適したモノへと造り変える。どちらかというと、遺伝子組み換えの方が近いのかもしれない。
ならば尚更、少年の肉体にかかる負担と苦痛は、想像を絶するものに違いあるまい。なまじ快楽中枢を直接刺激されることによって引き起こる暴力的な快感が伴うのであるから、いつ何時発狂してもおかしくないだろう。
人間の尊厳を完膚無きまでに踏みにじる変わりに、結論的ともいえる程効率よく魔術師を補正していく、いっそ冒涜的なまでに洗練された魔術儀式であった。
────もう、何度果てただろうか。
少年の眼は虚ろで焦点が合っておらず、口も半開きで手足は投げ放たれている。
「これより、修練を終わる。」
"蔵"の扉が開かれる。
敵意と危険を察知したのか、男達が足を踏み入れた途端、黒蛇達は少年から一斉に離れていく。
男達を、主かそれに近い格を持つ人物達であると認識しているのだろう。彼らからは殺気を感じられない。しかし、それでも黒蛇の群れは警戒を止めず、金色の鋭い眼光を以て男達を睨めつけながら、後ずさるように自分達の巣へと帰っていった。
「────回収しろ。」
男達によって、少年が運ばれていく。
修練は終わった。
少年に僅かに残っていた意識も、枯れ果てるように暗黒に堕ち沈んでいった。
◇
二つの影が、暗い洞窟を進んでいく。
新矢志輝と絹幡蘭。
異色の組み合わせだが、此度の任務においては最も相性がよいと判断された二人。
純粋な霊障か呪術的な影響か、入ってからというもの不自然に蒸し暑い洞窟の中を、汗一つかかず神経を張り巡らせながら歩いている。
四方八方、二人には少しの隙もない。
「しっかし、こんなところがあるとはね。」
「魔術師が関わるところ────霊脈なんかは、この国には結構点在していますので、こういった秘境じみた場所は珍しくはありません。本当の意味で秘境と言えるところは、加茂家の宗家本殿かそこらでしょうが────まぁ、私もそこまで詳しくはないのです。」
「ふぅん。」
自分が認知していないだけで、世の中にはこういったダンジョンが幾つもあるのかもしれない。というか、日本に限った話ではないのならば、世界中を探してみれば途方もない数の秘境が、人々の預かり知れぬところにひっそりと眠っているのかもしれない。
「あぁ、後。地面天井壁、そこら中にケガレがこびりついていますし、瘴気もどんどん濃くなってますから、気分が悪かったら言ってくださいよ。」
「あぁ、今のところは問題ない。」
確かに絹幡の言う通りだ。
地面も壁も空気ですらも、この洞窟内のほぼ全ての物質が瘴気による呪波汚染の影響下にある。俺みたいに特殊な訓練を積んで専門の技術を会得していない限り、一般人ならものの十分程で精神と肉体に変調を来たしているはずだ。
俺も特殊な呼吸法で問題なく活動できているが、激しい戦闘を視野に入れるとなると、土御門から貰った厄除けがあるとはいえ、この装備では少し心許ない気がしないでもない。
それに、問題は瘴気だけじゃない。
「────それに、お気づきですか。この熱気。」
「────あぁ。」
洞窟の扉の前からして、既に"異変"はあった。
熱帯雨林にいるのかと錯覚する程の、壮絶なる熱気が辺り一帯を膜の様に覆っている。
俺は家伝の技術の身体制御法で、絹幡は恐らく魔術の『強化』の応用で、それぞれの方式で汗一つ流さず問題なく活動できている。しかし、呪波汚染による瘴気と同じく、一般人なら長時間の滞在はなるべく避けた方が良いだろう。のぼせてしまうか、最悪、熱中症になってお陀仏だ。
「しかも────」
中に進めば進むほど、この辺りを覆う熱気もどんどん強くなっていく。
「ちょっと待ってください!これ────」
そして二人はようやく気づく。
ただの熱気だけではない。
「酸素が薄い!」
この先に、"熱源"があるのだ。
そしてその原因の最たるものと言えば────
狭い坑道を抜ける。
場所が開け、この地底湖本来の姿が露になる。
それと同時に、この熱気の"正体"も姿を現した。
「アレは────」
骨だった。
スケルトンといって言いかもしれない。
何らかの呪術的な加工を施された戦闘用兵士────言うなればゴーレムに似た役割を持つ使い魔に仕立て上げられた哀れな死骸だった。
炎だった。
気化熱の如く世界を蝕む青白い炎が、スケルトンの内側に臓物の代わりに詰められた土塊から、絶え間なく吹き出し続けていた。
青白い炎を身に纏う骨兵が、何十匹もの隊を為して俺達を焼き殺さんと立ち塞がっている。
その光景は、正に悪夢のようだ。
まるで亡者が不服だと言わんばかりに、火葬炉の中から扉をぶち破って這い出てきたかのような、そんな理不尽で不愉快な『異常』が目の前で起こっている。
「絹幡、扉は?」
新矢志輝は、骨兵を見据える。
骨兵達の肋骨や関節の隙間から、呪術によって絶え間なく噴出される蒼炎の熱が大気を急激に膨張させ、それによって生じた気圧差が熱風となって少■の頬を叩く。
暖炉の火に顔を近づけたような、そんなジリジリとした熱さと風切り音の中に、骨兵達の怨嗟や恨み辛みといったどす黒い呪詛を確かに感じながら、俺の全身という全身が『異常を殺す者』として高揚と共に駆動する。
やるべきことは決まっている。
その深い絶望と怨恨を、死後も魔術師に利用され続けるこの哀れな亡者達を、一人残らず駆逐する。
「閉めてますけど────」
「わかった。援護頼む。」
そう言うや否や、新矢志輝は風を切り裂くように骨兵に向かって走り出した。
「え!ちょっ」
天然に限りなく近い状態に保存された洞窟内は、総じて地形が不安定というものだ。それは、例え地底湖であっても例外ではなく、周囲の地面という地面を細かく見渡せば、隆起した大岩や段差といったあからさまな障害物から、細かい凹凸といった罠じみたモノまで、死角を突くようないやらしい配置で点在している。
しかし、この足場の悪い魔の罠地帯にいながらも、新矢志輝という人間は一切の不自由さを感じさせず、闇と悪意に満ちた洞窟内を軽々と疾駆する。
気づいたときには、既に骨兵まで後数メートルかという距離まで詰め寄っていた。
眼球を『強化』しても尚、それほど遠くは見えない洞窟内であることを加味しても、その動きの殆んどを捉えられない達人を目にしたことは、彼女の人生で初めてのことであった。
(こんな人とマトモに連携できたとか…瑠鋳子ちゃんってやっぱり天才過ぎます…!)
熱風に逆らう度に轟く無頼の音律を以て、『異常』への死神が骨兵という『異常』の死へ迫る。
新矢志輝の手には、いつの間にか一本のナイフが握られていた。夜の暗黒を写し出したような黒塗りの刃先は、骨兵達から吹き出る焔の蒼を幻想的に照り返す。
────新矢志輝が、その『眼』で骨兵を捉える。
モノのカタチを捉える視界。
透視能力の一種と逢魔坂朱理は言っていた。物質、現象、概念といった事象の輪郭を、或いはその『存在』そのモノを、目に見えるカタチあるものとして、その瞳に捉えることが出来るという異能。
異能とはいっても『異常』ではない。それは、人間が元来持つ視力、視座、その認識領域が拡張されたに過ぎず、一般論と統計とを多少なり逸脱してはいるが、辛うじて常識の範囲内であるという。
しかし、新矢志輝のソレは、少し"度"が過ぎている。
幽霊や呪い、人の感情といった、特殊な条件下(例えば、たまたま波長があったとか、今際の際だとか)でない限り目には見えない霊障を、常時認識することが出来る特殊な属性を持っている人間は、先天後天問わず少なからず社会の影に潜んでいる。だが、ここまで見え過ぎている人材は、日本中、いや世界中を探したって新矢志輝以外いないのではないだろうか。
そう、朱い魔王は宣った。
ピシリ、と視界の全てに、黒い稲妻のようなヒビが入る。
カタチあるものはいつか壊れる。
人体、建物、大気、重力、光、関係ない。
この世界に存在している限り、ありとあらゆるモノには決定的な綻びがある。
存在のカタチを正確に捉えられるのだから、存在の"壊れやすい所"も鮮明に捉えることが出来る。
────捉えることが出来るのなら、それに触れることだって出来る。
鮮やかに振るわれたナイフの刃先が、まるで吸い込まれていくように白く骨兵へと突き立てられ、稲妻の如く迸る黒いヒビを滑らかになぞってゆく。
骨兵が、蒼炎が、灰へと崩れ去る。
燃え盛るような呪いも、朽ち果て尚も逞しい骸も、全てが真冬に見た刹那の幻であったかのように、たちまち泡の如く虚空へと消えていった。
雪だ。
洞窟内であるにも関わらず、そこにだけ、しんしんと雪が降っているかのようだった。
ほんの瞬きの間に行われた、鮮やかなる殺戮だった。
『異常』だけでなく、『無常』すらも捉えるこの眼は正に『透死』と言っても良い。
新矢志輝の攻撃は、これだけでは終わらない。
二、三と立て続けに振るわれるナイフが、暗き虚空に漆黒の弧を描き、まるで蛇が飛びかかるように骨兵に迫っていく。と、あっさり二体を新たに撃破した新矢志輝は、その勢いのままに周囲に集まった標的を回転するように切り払うと、牽制するようにナイフの切っ先を骨兵へと向けながら後ろに飛び退った。
ガシャガシャと、骨がぶつかり合う音が木霊する。
まるで、お前達はこちらの手の平の内にあると言わんばかりに、口のない口でカタカタと嗤っているようでもあった。
しかし、確かに状況は好転しているわけではないようだ。
骨兵達の魔力が、呪詛が、唸りを上げて天を焦がすのではないかという程に増幅していく。骨兵達は、それぞれ独自に結んだパスで、全体で共鳴し合うことで出力、効率共に増幅しているのだった。
青白い炎は、更にその勢いを増していく。最早、近づくだけで軽い熱傷を受けてしまいかねない位だ。
ただ、それだけに、骨兵達の攻撃手段は単純だ。
身に纏う炎と、そこから発せられる熱をいかした体当たり。
(避けてしまえば問題は────)
「後ろです!」
「────ッ!」
────瞬間、全身に迸る超直感。
脳髄の思考、脊髄の反応よりも速く背後へと振るわれた黒塗りのナイフが、壮絶なる火花を散らしながら飛んできた物体を弾き飛ばした。
弾かれた物体が、水切り石のように地面を跳ね、暗闇の中を転がっていく。
骨だった。
鉛筆のように先端が尖っており、まるで矢のようだった。
「いや────」
ヒュン、という風切り音と共に、二つの影が新矢志輝の頭蓋に向かって迫り来る。しかし、不意打ちは二度も通じない。一本目をさしたる力もいれずにナイフで打ち払った後、時間差で飛んできた二本目を空の手で難なく掴み取った。
握った"矢"を一瞬見た後、矢が打たれてきたであろう方向を見上げる。
「成る程、少しは芸を叩き込まれているらしい。」
壁の窪みに、二匹の骨兵が潜んでいた。
何やら、骨で作った弓を構えている。
これが、さっきの狙撃の真相か。
自らの骨を加工した矢を放つ。
これまた単純だが、戦術次第で厄介さの度合いが格段に跳ね上がる。
不意に背後に殺気を感じ、間髪いれず頭を横に振る。
黒い髪を激しく揺らす風と共に、骨の槍が頬を掠めていくのを感じる。すかさずナイフで槍を打ち払うと、その勢いのまま身体を反転させ、標的に向かって刃先を合わせると、そのまま一切の無駄なく骨兵を突いた。
風は音を知らなかったかのように、炎はその熱さを忘れたかのように、刃先の部分から凪いでいくように骨兵が崩れ去っていく。
新矢志輝は、ナイフを振って刃先に付着した灰を払うと、周囲を高速で旋回するように肉薄していくる、蒼白い三つの影を見やる。
機動力と敏捷性が向上している。よく見れば、全身の骨格を構成している骨の半分を、何らかの術式で槍へと変形させている。速さで勝るこちら側に対応すべく、防御力を犠牲に身体を軽量化したのだ。
「一撃で殺されるなら鎧はいらないってか。確かに、合理的な判断だな。だが────」
三方向から竜巻の如く、二メートルを越える程にまで巨大化した骨の槍が、たった一人の人間の喉笛に向かって蒼炎を吹き上げ迫り来る。
新矢志輝はその内の一本を炎ごと掴み、回転モーメントを利用し自身に強引に引き寄せ、まるでワルツでも踊るかのように骨兵に迫ると、逆手持ちのナイフを骨兵の脳天────黒いヒビが集束している"点"を超速で穿った。
骨が崩れる音と共に砕け散った白い残骸を、虚空を勢いよく貫いた二本の槍から生じた風圧が、洞窟の闇の中へと散らしていく。
標的を外した二体の骨兵は、そのままバランスを崩し自らの勢いに振り回されながら、重さを捨てた代償とばかりに地を跳ねながら離脱していった。
追撃しようと走り出す────と、それを制止するように再び矢が放たれる。
新矢志輝は鬱陶しそうに弾くと、「絹幡!」と彼女を呼ぶ。
「はい、準備万端です!」
と、図っていたように絹幡が弓の斜線上に現れ、おもむろに何かを懐から取り出す。
赤い、赤い布にくるまれた細長い何かだった。それが、木の棒にくくりつけられた人形であることに気づいたのは、絹幡が包みから取り出して、手の平で棒を挟み込むように棒の中盤部分を持ったときであった。
人形。
石を削って作られているのか、全体的に灰色がかっている。現実の人間とほぼ変わらない等身に、こけしのような丸い頭と簡潔な顔の造形が特徴的だ。
服装は、黒を基調とした落ち着きのある生地に、極め細やかな意匠が全面に織り込まれている贅沢な仕上がりだ、意匠には、赤や金色といった大層めでたい色合いが使われているからか、遠目でみても絢爛で神々しい有り様だ。
骨の矢が二人に迫る。と、絹幡はたった一言、専用の呪句を小さく唱えた。
「おしら、遊ばせ。」
新矢志輝は見た。
微かに、だが確実に、人形の裡から何らかの『力』が沸き上がり浸透していくのを。そして、それらが空間的な広がりを帯びて、やがて大きな"歪み"となって自分達を包み込んでいくのを。
瞬間、まるで強風に煽られたかのように、ひとりでに骨の矢の軌道がゆっくりと曲がり、二人を避けて明後日の方角へ飛んでいった。否、取り逃した二体の内の一体を打ち貫いた。
風は感じなかった。
重力場の歪みも感じない。
まるで骨の矢そのものが、自らの進むべき道を見失ってしまったかのように、運命そのものが揺らいでいた。
新矢志輝は見た。
骨の矢が逸れる直前、絹幡は人形をくくりつけた棒を両手の平で挟み込むように掴み、まるで竹とんぼを飛ばすように矢が逸れた方向に向かってくるりと回したのを。
これが、絹幡の魔術。
おしら様、という信仰がある。
『おしら』という神格を、人形を依り代として祭り上げ祈祷や儀式を行うという、東北地方に端を発する民間伝承だ。詳しくは知らないが、蚕の神だか、馬の神だかで複数の伝承があり、その起源については多様な見方があるのだとか。
その儀式とは、イタコなどの巫女が神寄せの経文をおしら様人形に向かって唱え、手の平で祭文を唱えながら人形を踊らせるのだという。
それらの伝承は、今、絹幡が行ったことにいくつか符合する点がある。
そして、たった今目の前で絹幡が起こした超常現象とも、切っても切りきれない共通項が紐付いている。
おしら様は、様々な特性と側面を持つ神である。女性や子供の、特に眼の病の治癒を祈られる神であり、農耕神としての側面も持つ。なるほど確かに、盲目の女性が大部分を占めるイタコに関連付けられる筈だ。
そして、もう一つ。おしら様には『予知』を行う占いの神の側面を持つ。
かつて狩人が狩猟の際、どちらの山にいけば良いかを知るために、おしら様を両腕で回しその頭が向いた方向に向かう、といった占いを行っていたらしい。
お知らせ様、故におしら様。
絹幡が今起こした一連の事象は、おしら様の『行くべき道を知らせて導く』という性質を、前提条件である対象と効能を反転させ、骨の矢に対し『行ってほしいところへ導く』といったふうに、限定的に運命に介入して避けるように誘導した結果だった。
概念の転調。
正に、魔術師らしい考え方と言えるだろう。
これなら、ある程度楽になる。
転がっていったもう一体を撃破すると、残りの骨兵達の動きを注意深く見やる。
やはり先ずは、あの二体を倒しておきたい。この大量の骨兵は俺を警戒してとのことか、むやみに突っ込んで来るという一番してほしくない攻撃はしてこないが、戦闘中にチクチクと遠くから打たれていては、大きな隙を生みかねない。
再び、骨の矢が飛んでくる。
しかも、一つや二つではない。いつの間にか狙撃主は二十体あまりに増えており、十や二十の骨の矢が蒼白い豪雨となって、こちらを明確に撃滅せんとばかりに絶え間なく打ち放たれる。
「ッックソ!」
大量の矢が迫り来る。
絹幡が魔術によって紙一重で逸らしはいるが、いずれ限界が来るだろう。こちら側にいる骨兵たちは、矢の豪雨に阻まれ俺たちへの攻撃を諦めている。
しかし、それも今だけだ。
絹幡が限界に達し、こちらが直接矢の雨に晒されたときは俺が凌ぐことになる。たとえ全て捌ききったとしても、奴らは俺が疲労するまで延々と攻撃し続けるだろう。
今も、奴らの数は増えている。さっきまでは二十かそこらだったが、今や百に達しそうな勢いだ。一体どこから湧いてくるのかは皆目検討も付かないが、最後に俺たちが疲弊しきったところを、ここぞとばかりに一斉に仕掛けるという魂胆は見え見えだ。
そうなりたくなければ、この矢を掻い潜ながら向こう岸までたどり着き、一刻も速く決着を付ける必要がある。流石に俺でも、この豪雨の中を無傷に突き進める自信はない。
ならば、イカサマに頼るしかないだろう。
「絹幡!」
「なんでしょう?」
「"道"を作れるか!」
新矢志輝の問いに、絹幡は一瞬逡巡すると、決意を秘めた表情を浮かべ頷くと、
「やってみます。」
と、ただ一言だけ続けた。
その直後であった。
因果律の歪みを引き起こしていた渦が、ゆっくりと収束していき一本の細長い川になったかと思うと、その部分だけがまるで殺戮の運命そのものを拒絶するかのように、骨兵の矢のみを逸らす不可侵の領域に変じたのだ。
一本の道が切り開かれた。
そこだ、と、新矢志輝が"道"へ飛び込む。
まるで、透明な傘でも挿しているかのように、新矢志輝の華奢な肉体を避けて在らぬ方向へ飛んでいく。
恐らく、この"道"は数秒と持たないだろう。
既に、"道"が崩れかかっているのを感じる。
言うまでもない。彼女────絹幡蘭の、魔術師としての実力面を良く知っている浅影瑠鋳子ならば、当然の帰結だと愛おしくも鼻で嗤うに違いあるまい。
占いを応用した限定的な運命操作など、相当な魔力と集中力が必要な筈だ。絹幡蘭は浅影瑠鋳子とは違い、才能の質も方向性も繊細な作業よりで、こんな大規模な自然干渉を長時間維持していく力量など持ち得ていない。
だが、この数秒さえあれば────
新矢志輝が"道"を突き進む。
狙撃主は、地底湖を挟んだ向こう岸から打ってきているらしい。
ざっと見たところ、上段に二十三匹、下段には五十六匹、右奥に十一匹、左奥には十七匹。百匹以上もの骨兵が、壁伝いにずらっと横に並んで列をなし、骨の矢による面制圧攻撃を絶えず行っている。
俺の後方では今も、絹幡が魔術で"道"を維持してくれている。
もし、俺から外れた矢が、まかり間違って絹幡に当たりでもすれば。命を落とす、もしくは命に関わる様な大きな傷を負うなんてことが、万が一、いや億が一にでもあってしまったら。浅影瑠鋳子を始めとした、この屋敷の仲間たちはどう思うのだろうか。
皆、家族同然のように大切に思っている絹幡なら、数多くの人間から慕われているに違いない。ただでさえトップが心傷中で鬱々としているのに、更に悪いニュースが飛び込んでしまえば、浅影勢力全体に大きな綻びが生まれ、益々敵の思い通りとなってしまう。
「というか。それ以前に────」
みんな、悲しむ。
「でも────」
そんな一抹の不安と黒い妄想を振り払い、覚悟を決めて目の前の驚異と対峙する。
地底湖に飛び込む。三メートルほど底に貯まっていた水のカタチをその『眼』で捉え、まるで過酷な修行を経て超絶の技巧を体得した歴戦の忍者の如く、その高潔な精神を見初められ水妖から加護を授かった聖人の如く、水面を当たり前のように軽やかに駆け抜けていく。
たったの一秒が、焼けた飴のように闇の中へと延びていく。
────ふと、今朝から抱いていた疑問が頭をよぎる。
なぜ、自分はこんなにも、彼女らの為に奮闘しているのだろうか。
自分の性格は自分がよく知っている。
いつもの自分ならば、面倒くさいと途中で匙を投げてしまっているのではないだろうか。いや、怪異や異能絡みの事件なら寧ろ、『異常』を嫌悪する自分の性格からして、確実に撃滅するために解決に奔走しそうだ。
だがしかし、今回は魔術師のいざこざだ。
『異常』に近い、もしくはそれらを直接取り扱う者達であるからといって、正常な世界との境界線を乗り越え無秩序に侵していく怪異や悪霊とは違い、彼らは彼らで独自に線引きされた社会で完結している。俺がわざわざ介入する必要などない。
なら、逢魔坂朱理からの半強制的な依頼だからか。
俺はあの女に無意識に怯えており、ついつい従ってしまっているだけで、この感情は恐怖か焦燥感でしかないとか。いや、そんなものでは到底、この心の熱さを、充足感を説明できない。
じゃあ、なんだ。
あいつらと少しでも時間を共にしたことで、情が移ってしまったのか?
不本意とはいえ、一度は自分が承諾した依頼を、途中で放棄することはいただけないという責任感か?
新矢志輝は、思考を巡らす。
これから新たなる戦いへと身を投じる前に、今一度、自分の心の裡をきちっと整理しておきたい。
兎に角、今はなんでも良い。
理由が欲しい。
────原初に立ち返る。
なぜ今、俺は立ち向かっている。
なぜ、速く、と、自らに念じている。
そうだ。絹幡蘭が傷つけば、みんなが悲しむ。
多分、それはイヤなんじゃないか。
人を悲しませたくないんじゃないか。
それは、俺にしては俗っぽいな。
そうだな。
その通りだ。
いや、そうに決まってる。
カッコつけたがりの自分にとって、それはひどく不格好な感情だ。だけどそれは、人として当たり前のことじゃないか。
誰にも傷ついてほしくない。
正常な人間ならば、誰だってそう願う筈だろう?
そしてさらに、俺がそうした感情を掻き立てられる要因となる存在がひとつある。
昨日の夜。その激闘の最中に見た、浅影瑠鋳子の生き様を思い出す。
真夜中の太陽というべき鮮烈な輝きを、俺はこれ以上汚したくないと思っているのだ。
俗にいうカリスマというやつだ。
歴史に名を刻んだ、数々の国の長や英雄といった存在は皆すべからく、こうした異質なる才能を以て万人を魅了し夢の果てへと導いていったのだ。
浅影瑠鋳子は、その身は未だ可憐なる少女なれど、それら稀有な才能を持った正真正銘の魔人だ。
そして不本意にも俺は、そんなカリスマに当てられてしまった内の一人だったというわけだ。
いや、それだけではない。
この屋敷の人間達と接して、俺と同じく『異常』に囲まれた環境の中で生きている魔術師達が、時折見せた人間らしい矜持に絆されてしまったのかもしれない。
「ははっ。確かに、そいつは劇的だ。」
取り敢えず、やるべきことは決まっている。
彼女達を、傷つけない。
なら────
目と鼻の先まで迫った、青白く燃え盛る亡者を見やる。
「なら、早く殺さなくっちゃな────」
たった一言の殺意が、仄暗い水面へと滴った。
この瞬間、新矢志輝は自らを偽った。
ナイフが煌めく度に、その胸の裡に灯る激情。
■■■■。
新矢志輝は、その名をまだ気づいていない。




