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シキノシカイ 一境界事変一  作者: 忘れ去られた林檎
第一章 空洞境界
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第十四話 喪失

「こりゃひでぇな。」


 飄々とした声が、夜の森へ響き渡る。

 白髪の少年が、散乱する瓦礫を跨ぎながら、鬱蒼と茂る闇の中を掻き分けていく。周囲には、鷲型の式神が二体中に浮いており、少年に突然の驚異が起こったときに備えて警護している。

 土御門有雪は、逢魔坂と連絡を交わしてからちょうど一時間後に、とうとう雁崎の分家の本拠地へと辿り着いたのだった。


「カモフラージュってんなら、もうちょいマシなやり方があるでしょーが。」


 ぶつぶつと愚痴を一人でこぼしながら、無造作に打ち捨てられた雑誌の束や、何が入ってるかもわからない真っ黒なゴミ袋を、飛んで跨いだり蹴り飛ばしたりしながら奥へ奥へと進んでいく。

 ふと、前を向く。

 目の前に聳え立つ、何の変哲のない民間。

 恐らく雁崎の生き残り達は、浅影の手が及びにくい尚且つ人の往来が滅多にない、県境の山林のこんな地味な場所に家を構えていたのだろう。ここらにとっちらかっているゴミの山も、もし人が来ても廃屋だと誤認させる為なのかもしれない。

 とはいっても、今は情報化社会のただ中だ。一度でも見つかれば、一気に世界中に拡散されてしまう。心霊スポットだかなんだかってレッテル張りされ、肝試しみたいなことをするバカや、近頃話題の廃村マニアみたいな物好きな奴の標的にされる可能性が否定できない。

 まぁ、魔術師がデジタルに適応できるかは、甚だ疑問ではあるから、一般の目に止まっても浅影に気づかれるかは分からないが。


「ゴメンくださーい。」


 扉を叩き、呼び掛ける。

 しかし、返ってくる言葉も音もない。

 ただ静寂が、辺りを包んでいくばかりである。

 

「ゴメンくださーい!」

 

 再度、扉を叩いて人を呼ぶ。

 今度は、さっきよりも大きく通りのいい声色で。しかし、やはりどんな言葉も返ってこない。

 もしやと思い、ドアを開けてみると。案の定、あっさりと扉は開いた。

 土御門は直感する。こんなとき、サスペンス物では以下の二パターンが考えられる。

 ドアを開けたまま中へ押し入り、靴も履いたままで廊下を猛スピードで駆ける。

 扉に鍵がかかっていなかったとき、住んでいた人間は全員逃走しもぬけの殻か、或いは────


 ────死んでいるかだ。


 結論から言おう。

 死体はなかった。

 しかし、もぬけの殻であったのは確かだ。

 家中をくまなく探したが、魔術書や例装の類いも、それどころか家具すらもない。

 ミステリー小説で良くある"ついさっきまで確かに生活していた形跡"も存在しない。ここに誰かが住んでいたと言う、当然の事実さへ疑ってしまう程、ここは余りにも静謐極まっていた。

 粗方探索し終えた少年が、一息つこうと部屋の隅に取り残されたようにポツンと置いてある椅子に腰かける。

 逢魔坂の情報は正しかった筈。となると、単純に俺が来る前に何かがあって、一刻も早くここを出ていく必要があった。

 すると、襲撃者と考えられるのは、あの蛇野郎か仮面女か。

 雁崎は殆ど魔道から離れていただろうし、あの二人が相手なら確かに逃げの一手しかないだろう。

 

「どちらにせよ。肝心な文献は分からずじまいか。」


 足を組んで、ゆっくりと深く椅子に持たれる。と、バキッと嫌な音が足元から響き、一気に背後へと体が倒れていく。

 かなり老朽化が進んでいたのだろう。それを分かっていたから、ここに暮らしていた者達は置いていったのだろう。

 ダメージを最小限に押さえるために、受け身をとろうと、古ぼけて半ば腐り始めている壁に、身を捻って手をついた。

 その時だった。

 壁の手をついた箇所を起点として、ちょうど二十センチ四方程の範囲が沈み、何処からか響く材木同士が擦れぶつかり合う音と共に、家屋全体が呼吸するように小刻みに揺れ始めた。


「こいつは…」


 偶然、何らかのカラクリを作動させてしまったらしい。

 振動によって天井が崩れてこないか警戒しながら、二体の鷲型の式神と共に、カラクリの音がした場所へと向かう。

 恐らく二階の何処か。

 何があるかはわからない。

 もし重要な文献があったとしても、既に襲撃者が見つけて全て持っていかれているかもしれない。

 それでも向かう。

 仲間のために。

 自分のために。

 志輝のために。 

 階段を一つ飛ばしで駆け上がり、白髪の少年が向かった先は、八畳程の小さな個室だった。もはや誰の物であったのか、何のための部屋だったのか、主を失い形骸化した風景は、壊れたカラクリ人形を思い起こさせた。

 さっき探索したときと、全く変わらない。

 ただ、一点を除いては。

 部屋の隅の床が、不自然に空いていた。陥没していたにしては、綺麗な正方形でくり貫かれている。覗き込んでみると、梯子を通じて更に下へと繋がっている。

 恐らく、一階よりも更に下。


「よくこんなもん作るなぁ。」


 まるで、謎解き探索ゲームみたいだなと、土御門は思った。

 梯子を使って下に降りていくと、証明の光が届かなくなっていき次第に暗くなってゆく。脚が地面についた頃には、既に辺りは完全な闇によって閉ざされていた。

 魔力で眼を『強化』し見渡してみると、どうやらこの空間はただの一本道であるとわかった。音の反響からして、十メートルもないだろう。壁や天井はゴツゴツした石造りの物で、地面は土と砂利が混じったような感触だった。

 地下の坑道。

 この先に何があるのか、この道が何を意味するのか。

 昔、中坊だった頃。新矢志輝や黒住先輩と共に、様々な場所を探検したときのことを思い出す。

 少年の日の思い出。

 ほんの僅か数年ほど前の出来事であっても、まだ二十年も生きていない土御門からすれば、遥か遠い過去の記憶に他ならない。しかし、その実感だけは、まだ彼の奥底で生きている。

 胸の高鳴りを全身で感じながら、逸る気持ちを押さえて慎重に周囲を警戒する。

 魔術師の家の地下にある、どこかへと続く謎の通路。

 今のところは何も起きてはいないが。が、さっきと同じように変な装置が作動して、何かとんでもない罠や仕掛けが襲いかかってくるかもしれない。

 周囲には鷲型の式神二体。前方と後方を、自身から一メートルほど離して守護させているが、左右真横からの驚異が恐ろしいので、懐にしまっている竹筒にそっと魔力を通す。

 これで全方位大丈夫な筈だ。

 巨大な鉄球が転がってくるだとか、天井が侵入者を押し潰さんと急落下してくるだとか、真横から毒を塗った矢が一斉に飛んでくるだとか。そんな遺跡探索の冒険活劇に有りがちな、盤根錯節や艱難辛苦が来ようとも、全て返り討ちにしてくれる。

 と、いつも以上に張り切っていた彼だが、この後すぐに降りかかる試練は偶然にも、何時もこなしている事と同じく彼にとって得意分野の物であった。

 眼球を魔力で『強化』しても、元々そういった類いの術式を不得手とするが故、この坑道は数メートル先ですらよく見えない。そんな闇を、幼い頃の探求心と仕事への義務意識で切り開き、とうとう終点へと到着した。

 そこは、石の扉で閉ざされていた。

 大体三メートルかそこらであろうか。鍵穴のようなものは見受けられない。魔力で暗号を入力する方式の、かなり古いタイプの魔術錠であろう。

 暗証番号を知らない以上、魔術による超高度なハッキングを行うか、物理的にぶち破らなければこの先に進むことは出来ない。

 そうなると、魔術によるハッキングはまず不可能だろう。魔術にハッキングをかけるには、術式を解析して魔力の波長と術式の構成を看破する必要がある。何十桁もあるパスワードを、手動による当てずっぽで解除するようなもので、とても現実的ではない。

 ならば、どうするか。


「よし、お前ら────これに思いっきりぶつかれ。」


 白髪の少年がそう言うや否や、鷲型式神の内の一匹が梯子のところまで飛んでいき、猛スピードで加速して石扉に体当たりをかました。

 ドゴォ!という鈍い音と共に、石扉だったものが高波のように爆ぜ砕け、凄まじい衝撃波によって巻き上げられた粉塵は、極小の砂嵐となって少年の肌をチリチリと薄く削る。


「う、煙!」


 土御門は、鼻から下までをシャツを引っ張って覆い隠し、未だ周囲に舞っている煙をもう片方の手で払う。本来の威力よりも大分低いものの、石扉を破るには申し分ない威力だったようだ。扉があった場所の前には、石の残骸が転がっており、今までの狭い坑道とは打って変わって、その先には広々とした空間が拡がっていた。


「うっへ~結構汚れちまったなぁ。」

 

 とっさに顔を両腕で守ったが、そこ以外は巻き上げられた砂利やら砂塵をおっ被ってしまっていた。

 土御門は困ったように、身体中の汚れをを両手で(はた)いていき、石扉が備えてあったドア枠を潜ろうと、中に足を踏み入れた────直後だった。

 ジリリリリという、目覚まし時計や火事の警報音にも似た音が耳をつんざいたかと思うと、前方に複数の魔力反応が出現し、此方に向かって猛スピードで向かってきた。

 恐らく、無理矢理破ってきたから防御システムが起動したのだろう。

 数匹の比較的高位の悪霊に、全身が金属で構成された二体のロボットのような人形。此方を侵入者と見なしたようで、明確な殺意を持って睨めつけてくる。


自動人形(オートマタ)か。今の時代に、珍しいねぇ。」

 

 白髪の少年が言う。それは感心と同時、どこか恐ろしいものでも見たかのような苦笑いでもあった。

 自動人形がそれぞれ複雑怪奇な軌道を描き、左右から挟み込むように土御門に飛びかかる。

 二体とも腕の先が、刃渡り三十センチ以上はある金属製のブレードとなっており、それらには高周波の電気が流れ、電気メスと同じ原理で高い殺傷力を誇っている。

 横薙ぎに振るわれたそれを、寸でのところでバックステップで躱す。服の胸元が切り裂かれ、焼け焦げた断片が露になる。それとほぼ同時に、もう一体が飛び上がり此方にブレードを振り下ろしてくるも、それすら横に転がって回避する。

 すると、数匹の悪霊が魔力の雷を周囲に放出し、それぞれの雷がスパークしながら集束、たった一つの巨大な槍を形成していく。

 

「うお!」


 目の前が、瞬きの間輝きに包まれる。次に耳に届く、雷が落ちたかのようか轟音。しかし、自分の体には何一つダメージが及んでいない。

 咄嗟に目を開けると、鷲の式神の内の一体が自身と悪霊との間に割って入り、巨大な槍をその身で押し止めていた。

 押し止めていたというより、逸らすというのが正しいだろうか。鷲の式神の羽根には、衝撃のベクトルを簡易的に操って逸らす術式が組み込まれていた。

 ビキ、ビキ、と、何かが軋む音が、雷槍を押し止める式神から聞こえてくる。

 こいつは、石扉を体当たりで破壊したときに使った個体だ。所持する式神の中でも、最高クラスの硬度を誇っているが、流石にそう何度も無理をさせられない。

 迫り来る二体の自動人形。

 快音を立てて振るわれる、電磁ブレードによる連携攻撃を紙一重で躱し、攻撃した瞬間に出来る僅かな隙を狙って鷲の式神による突撃をかける。

 金属同士がぶつかったような鈍い音。

 鷲の体当たりが炸裂した自動人形は、ノーバウンドで五メートル以上吹っ飛び壁に思いっきり激突する。しかし、すぐさま何事もなかったかのように起き上がり、多少動きが鈍っているが、さっきと変わらぬ俊敏さで此方に肉薄してくる。

 

「くっ…結構しぶといな。」


 此方にも出費と言うものがある以上、あまり手札は使い込みたくない。肉体強化の符を使ってもいいが、こいつらぐらいなら手持ちの式神で対処したいところだ。


「なら、」

 

 ────ならば、此方から仕掛けるべきだ。

 左胸ついている懐から、筆で『狐』の文字が印されている竹筒を取り出し、魔力を込めて悪霊達に向ける。


「お前らの出番だ。」


 突如、二つの純白の影が竹筒から飛び出し、雷を侍らす悪霊達に弾丸のような速度で肉薄する。

 管狐。

 『鷲』の強みが馬力と硬さによる破壊力ならば、此方は速度と敏捷性による即攻力が売りだ。悪霊達に雷の槍を作る隙を与えず、鉄塊をも切り裂く刃に変形した尾による連続攻撃で、瞬く間に斬殺していく。

 悪霊は大型の攻撃を止めて、魔力の雷で小さなチャクラムを複数作り、高速で撃ち出して二匹の管狐を迎撃する。しかし、二匹の内の一匹は重力を無視した超軌道を以て空中で躱しきり、もう一匹は身体を高速回転して飛んできた刃を弾く。

 小さな白き暗殺者が、悪霊の群れを瞬時に解体していく。式神の魔力が集中する刃の尾は、高い魔力で守られた霊体をも容易く切り裂いていく。

 発狂する悪霊達。

 それを書き消していく管狐の風切り音。

 例えるならば、ディスポーサーにかけられたトイレットペーパーであるか。

 二つの白き断頭台が、まるでミキサーのように互いに寄り合い輪を作り、高速回転しながら悪霊達を切り裂きただの魔力へ撹拌分解していく。 

 仕事はあっという間に終わった。

 

「よし、ナイスだ!」

 

 土御門は、自動人形ズの連携殺戮攻撃を、驚くべき柔軟さを以てヒラリヒラリと躱しながら、健闘を讃えるサムズアップを管狐に向かって掲げる。そのまま拳を握り締め、目前の敵を注意深く観察する。

 自動人形ズの攻撃は、高周波電磁ブレードによって非常に殺傷力が高くなっており、あの一撃を真正面から食らってしまえば、たとえ魔術で『強化』した腕でも容易く切断されかねない。しかし、こんな圧倒的な性能を誇っている自動人形ズだが、やはり弱点と言うのは存在する。

 唸るような音を立てて振るわれるブレードを、バク中で躱し顔面を蹴りつける。金属で出来ているからか、その躯体はびくともしない。が、徐々に土御門は、自動人形ズの攻撃に適応し始めていた。

 この自動人形ズの攻撃は、確かに厄介だ。しかし、どの攻撃も大振りで軌道を読みやすく、攻撃した後は隙が生まれて反撃しやすい。おまけに、瞬発力は高いが一度動くと止まらないため、敏捷性と機動力は皆無。距離を縮められやすいが、その分距離を取りやすくもなっている。

 攻略の糸口は掴んだ。

 この二体を倒すのに必要なのは、バカみたいに頑丈な躯体をどうこう出来る破壊力だ。

 管狐が互いに輪になり、車輪のように高速回転しながら自動人形に詰め寄る。ガリガリガリガリと、殺戮の凶器となった極小の白い渦が、自動人形の体表を電気ノコギリのように削り切っていく。

 しかし、金属の表皮はなかなか切れず、反撃として振るわれたブレードに弾かれてしまい、まるでコマのように空中で旋回しながら遠ざかっていく。

 土御門の所持する管狐は、霊的な存在に対する殺傷力は非常に高いのだが、物理的な驚異に対してはそこまででもなかったりする。

 やはり、こういったモノには『鷲』が適任だ。

 地下坑道の入口付近から、凄まじいスピードで接近する影があった。

 高い魔力と運動エネルギーを持ったそれは、常人では遠くからですら眼にも止まらぬ豪速で、管狐を弾いたことでがら空きになっている自動人形の頭部へと、風を引き裂きながら一条の光となって向かってくる。

 鈍い衝撃。

 そして、何かが砕ける音。

 猛スピードの『鷲』の衝突を、諸に顔面に喰らってしまった自動人形は、さっきよりも派手に吹っ飛んで壁に叩きつけられた。

 衝撃で巻き上げられた粉塵を利用し、自身を見失ったもう一体の自動人形の背後を取って、ポケットから取り出した『封』と書かれた霊符を、自動人形の無防備な背中に押し付けるように叩き貼った。

 自動人形の中から、繰り返されるような不気味な音が響き、その動きを一瞬止める。しかし、すぐにまた動きだし、危険を察知した土御門は背後に飛んで距離を取った。

 足元に、何か硬いものが当たる。

 今さっき『鷲』の衝突を受けた、自動人形のもげた頭部が冷たい砂利床に転がっていた。辺りを見渡すと、動かなくなってうつ伏せに倒れている首なしの胴体と、当の『鷲』も転がっていた。

 『鷲』はまだ微かに動いているが、胴体の方は完全にその機能を停止していた。

 『鷲』の衝突は、ただ硬い体を活かして高速でぶつかってくるだけではない。自らの羽根を用いて空中にレールを作り、そのサーキットを高速で加速し続けながら標的を狙う擬似的なレールガン。

 羽根を使ってレールを敷くという関係上、動き回る相手を不得手とするが、この狭い空間内では上手くいくと打算した。

 戦いの合間に抜け出した『鷲』の一体は、最初に自動人形の一体に羽根を貼り付けており、家の入口からこの坑道の石扉までレールを作って、超加速してトップスピードのままここまで飛んできたのだった。

 そもそも羽根がレールとなる原理はと言うと、元々この『鷲』の羽根には、一本一本を自在に動かすことが出来る制御機能の他に、硬さと強靭さをさらに増幅させる機能として、受けた衝撃を逸らすためのベクトル制御術式が組み込まれていた。

 ベクトル操作と聞こえはいいものの、あくまで衝撃をある程度逸らすというだけで、あまり大それたことは出来ない。沖縄の民家によく見られる、台風の風を逸らす為の生け垣の様なものだ。

 しかし、土御門は"この場"で思い付いた。

 この狭い空間では、最高速まで加速できない。ならば、この羽根を使って『鷲』の軌道を修正し、擬似的な一本の真っ直ぐなコースを作ってやればいい、と。

 まだ動くもう一体が唸りをあげて、快音を鳴らす電磁ブレードを振るって襲いかかる。動きのキレはさっきよりも明らかに弱まっているが、それでも驚異であることに違いはあるまい。

 土御門は冷静に避けて距離を取った後、自動人形に猛ダッシュして急接近する。殺し返す絶好の好機と見た自動人形によって、凄まじい勢いで首元に振るわれる横薙の斬撃を、スライディングで間一髪足元に滑り込んで躱し、すれ違い様に二枚目の『封』の符を今度は足に貼り付ける。

 しかし、自動人形は止まらない。

 背後を獲った土御門を殺さんと、猛烈な勢いで振り向こうとした────その時だった。ガクン、と、自動人形が地面に吸い込まれるように膝をつく。

 状況が読めず、一瞬動きが止まった自動人形を、土御門は背後から首に手を掛け固定し、ポケットから取り出した三枚目の『封』の符を、自動人形の頭部に勢いよく貼りつけた。

 奇怪な音が、自動人形の内側から鳴り響く。

 土御門が離れると、壊れたオルゴールのように同じ音声を繰り返し、全身が何秒か痙攣した後停止した。


「あんま使いたくなかったんだけどな。」

  

 『封』の霊符の効果は簡単。

 魔力を乱し、文字通り呪具を封じ込める。

 あくまで乱すだけなので、強力なデバフ効果でしかなく、これを剥がせばまた動き出す。が、今はこれでいいだろう。

 

「取り敢えず、なんとか終わった~」

 

 戦闘に夢中で気づかなかったが、部屋の先には更に扉がもう一つあった。今度は普通の木製の扉で、俺が熾烈な戦いを繰り広げていることもいざ知らず、ただ孤独に何事にも動じぬぞと言う風に張り付いてる。

 開けてみると、そこはただ一つの部屋だった。

 広さは大体四方三メートルもない。

 石造りの殺風景な部屋の中央に、ただ一つの木製の祭壇のようなものがある。

 台座の上には、古ぼけたノートがぽつんと置かれている。物寂しそうに鎮座するそれを、手に取ってページを開いてみると、いつのかの日の誰かが書いた日記らしかった。

 

雁崎仄華(かりざきほのか)?」


 読んでみる。


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 平成十五年 十一月 二十日


 とうとう私にも転機が訪れたようだ。

 幼い頃から両親に、早く一流の魔術師になって浅影に奉仕しろと念入りに教育され、親戚の奴らと共に気が遠くなるほど出世争いに身を投じてきたが、とうとうその苦難の道のりが開けたような気がした。

 どうやら浅影から私に声が掛かったらしい。

 私のどんな能力が買われたのかは分からないが、重要なポストに就けると言うのは間違いないらしいとのこと。

 魔術師としての人生が華開いた祝杯として、これから念願の日記を付けていこうと思う。


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 十一月 二十一日


 雁崎家は代々、浅影家を補佐する役目を請け負っている。個人に専属で付くこともあれば、浅影家全体を支える者達もいる。

 私の場合は前者。

 私をご指名してくださったのは、なんと現当主である瑠璃花様の夫、藍一郎様だった。

 おいしすぎるポジション。明日になるのが楽しくなってきた。私は必ずや役割を全うしてみせます。


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 十一月 二十二日

 

 ついに、藍一郎様と初の対面。想像していたよりもかなり気さくで、甲斐性というか頼りがいというか、まぁ兎に角あの瑠璃花様が選んだというだけあって、なんというか男前だったなと。

 八方美人とはまた違うのか。今で言うと、プレイボーイっていうのかな。


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 十一月 二十三日


 家の中心人物と言うこともあってか、藍一郎様は浅影勢力の裏話みたいなのも多く知っているようで、私にも色々と教えてくれる。

 どうやら近頃、とある計画が浅影勢力の暗部で立っているとのこと。そして、その計画に私も加わってほしいとのこと。

 大変嬉しい限りだが、一体どんな計画なんだろう。興味本位で聞いてはみたが、はぐらかされてしまった。


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 十一月 二十四日


 今日は浅影と雁崎の催事があった。

 そこで、私は人生で一番を争うほど嬉しい思い出が出来た。藍一郎様が私の魔術を誉めてくださったのだ。幼少期から両親や兄弟に評価を付けられてきたが、誰も私を誉めてくれる人などいなかった。

 魔術師として華開いたと言ったが、一人の人間として救われたような気がした。


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 ここからはしばらく、筆者の何気ない雁崎の魔術師としての生活が記されていく。

 変化があったのは、次の頁からだった。


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 十二月 十二日

 

 私は、とんでもないものを見てしまった。

 今さっき見てしまった出来事を、あの光景をここに印していいのか迷っている。

 なぜ、藍一郎様と鳴上のご令嬢である朝霞様が?

 これは禁忌だ。

 他言は絶対に控えねば、この秘密は墓場までもって行かねばならない。だが、それは本当にするべきことなのか?


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 十二月 十三日


 今日、藍一郎様に直接問いただした。

 最初の内は、何時ものようにはぐらかしていたが、私の迫真の声に押され、とうとう堪忍して話し始めた。

 どうやら、藍一郎様と朝霞様は、数年前から肉体関係を持っていたようで、昨日二年ぶりに再会したこともあってか、二人で盛り上がり過ぎてしまい、ついついそういう行為に及んでしまったところを私に見られてしまったとのことだった。

 正直、どうするべきか分からない。

 ちゃんと告発するべきなのか。しかし、瑠璃花様は甚く藍一郎様を慕っている。こんなことを聞いたら、どれだけのショックと絶望を与えるか分からない。瑠璃花様は、浅影にとってなくてはならないお人だ。そんな人に心労で倒れられたら、唯でさえ近年不況が続いている浅影の勢いが更に減速しかねない。

 それに、この事が明るみになれば、藍一郎様はもう浅影家(ここ)には居られなくなる。私への処分もあるだろう。華やかなコースから転落するのは必至だ。

 不安だ。

 だが私は、それと同時に少し違和感を覚えていた。

 自分の「不安」という感覚の色に。


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 十二月 十四日


 今日一日、仕事の合間にずっと考えていた。私はどうするべきなのかを。

 そんな私の様子の変化を感じ取っていたのか、藍一郎様は私に、言うか言わないかは君の自由だと、そう言ってくださった。


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 十二月 十五日


 私はとんだ過ちを犯してしまった。

 今日、藍一郎様に迫られた。

 私は、拒めなかった。

 私を押し倒した、彼の瞳が忘れられない。

 群青。 蒼玉の様に輝き、光飲む深海のように揺らめくそれは、瞬く間に私の心を奪ってしまう。

 私の中にあった不安。今になってようやく、それに対する違和感の正体がわかった。

 気づいてしまったのだ。

 私が抱いていた不安や葛藤は、私と浅影の未来に対してではなく、藍一郎様に二度と会えなくなってしまうことにあったのだと。

 私は分かってしまったのだ。

 藍一郎様に、恋をしているのだと。


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 十二月 十六日


 今夜は、私と藍一郎様と朝霞様の三人で交わった。

 これは、この行為は私への戒めだ。

 大いなる秘密を背負うこと、それに自らの人生全てを賭すということ。私と藍一郎様を、文字通り繋げるものなのだと。

 覚悟は決まった。


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 これから一ヶ月は、官能小説さながらに"行為"に関する事柄が非常に多くなっており、彼女の心が完全に藍一郎に奪われているということが見て取れる内容だった。

 そして次の頁から、禁断の十三年前の事件について触れられていく。

 

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 平成十六年 一月 七日


 とうとう、予てより計画されていたあの事業が、実行の段階へ移されるということで、私も藍一郎様とのコネクションを利用し、儀式の参入に漕ぎ着けた。

 実行日は一月三十日。明日から忙しくなるので、日記は毎日は付けられなくなってしまうと思う。


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 一月 十二日

 

 今日は運営のミーティングが開かれた。

 今後の役職の割り当てを行うとの事だった。

 私はまだ新参ということもあってか、儀式の中心とはとてもじゃないけど近いということなど出来はしない。

 しかし、浅影の、はたまた私と藍一郎様の未来の為にも、全力で臨みたいと思う。

 

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 一月 十九日


 儀式の詳細な情報を求めたが、案の定一蹴されてしまった。

 魔術世界じゃ陰謀も計略も日常茶飯事なのだが、今回の件はより一層キナ臭いような気がする。身辺の安全に気を配った方が、今後の立ち回りかたとして適切かもしれない。


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 一月 二十五日


 浅影本家から百キロ以上は離れた県境の山林に、雁崎の先祖が代々隠し持っていた土地がある。いざというときには、そこに亡命するというのも一つの手だろう。

 大切なのは覚悟だ。

 あと5日。

 腹をくくるしかない。

 

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 一月 二十九日


 とうとう、儀式が明日にまで迫っている。

 事業の詳細な事情はもう聞いている。最初は、えもいえぬ憤りが心のなかを満たしていた。しかし、これは魔術の一派としては正解なのだ。

 覚悟はとうに決まっている。

 たった一つの不幸。たった一人の犠牲で、浅影のかつての栄華の再生が叶うなら、この身を鬼にしてでも、この手を赤く染めてでも、魔術師ならば縋り付くべきだ。


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 三月 四日


 ようやく、気持ちの整理というものが付いてきたみたいだ。

 結論から言う。

 儀式は失敗に終わった。

 驚く程呆気なく終わってしまった。儀式が、ではない。浅影の未来そのものがだ。

 原因は簡単だ。

 アレに心があったことを、私たちは知らなかった。

 そんな、本当にとるに足らないミスだったのだ。

 アレの姿が、今も脳裏に焼き付いてはなれない。

 汚らわしくて穢らわしくて気枯(けが)らわしい。

 この世の不浄という不浄を、濾しとって凝縮してこね固めたような存在。

 死が穢れと言うのなら、あれは正しく死そのものだ。

 今もふと思い出して、思わずえずいてしまう。

 一体何人もの魔術師が命を落としたのだろう。私は命からがら逃げてきたが、恐らく儀式の中心にいた人たちは全員死んだに違いない。というか、私には浅影がどうなっているか知る由もない。なんだって今の私はいつかの日に日記に記した、雁崎の隠れ家にいるのだから。恐らく陰陽連が事態の収拾に励んでいるんだろうが、そんなことは私にはどうでもいいのだ。

 だって私は、大切な人を守ることが出来たのだから。

 私のとなりには、藍一郎様がいる。

 朝霞様は、混乱に乗じて殺してやった。

 あの人では足手まといだ。藍一郎様は守れまい。

 これから私は、一生をここで過ごすつもりだ。

 この本は、我が人生最大の禁忌として、地下の秘匿部屋に封印しておく。

 この日記を、もし誰かが読んでいるのなら、恐らくあの事件に向き合おうとしている人なのだろう。君に一つこの事件の本質を伝えておく。

 浅影とは、黄泉を支配する一族だ。そんな者達が、立派に生き足掻くのがそもそもの間違いだったのだ。

 そして最後に忠告させてほしい。

 アレはまだ、どこかに潜んでいる。


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 日記はここで終わっている。


「おいおい、嘘だろ。」


 土御門は全身にびっしょりと汗をかき、驚愕の表情とと興奮の表情とが奇妙に入り交じった笑みを浮かべながら、日記に夢中に眼を通していた。


「十三年前の事件の断片的な情報に、先代当主の夫である藍一郎よる鳴上との不祥事。そして、筆者と藍一郎と鳴上朝霞による、不倫さんぴぃいい~?!!ウォォオイ!なんだよなんだいなんですかコレワァ!昼ドラの宝物庫じゃねぇかァァ!!」


 と、重要な情報よりも、どう考えても下品としか思えない内容で盛り上がってしまう土御門であった。



     ◇



「アンタ、今なんていったの?」


 浅影瑠鋳子が、困惑気味に俺に問い掛ける。


「何って、言葉通りの意味だ。」


 新矢志輝は、ただそう言って男の方を睨めつける。

 極限まで無駄を削ぎ落とした口調。

 浅影瑠鋳子は、その言葉の裏にある覚悟を読み取り改めて新矢志輝に問う。


「倒す算段はあるの?」

「それはお前次第だ。」


 少女はしばらく押し黙った後、「わかった」とただ一言だけ言って祠に向かって走り出した。

 遠ざかっていく少女を横目に、男は空を仰ぎ顔に手を当て大声を出して笑い始めた。


「正気か? お前。浅影瑠鋳子と共闘しても尚、圧倒的不利なこの状況で、この俺を仕留めてみせると?」

「勝算ならある。最も、半ば賭けに近いけどな。」


 呵呵大笑する男と、ひどく冷徹な新矢志輝。

 恐ろしいほどにまで対照的な二人の間に、凍てつくような亀裂が稲妻のように入っていく。

 過冷却した水溶液が、僅な衝撃で物凄い速度で凝固していくように、ちょっとした何気ない動作がきっかけとなって、一秒先にも殺し合いが始まりそうな空気がそこにはあった。

 だが、彼らは言葉を紡ぐ。

 まるで、軽いジャブの応酬だと言わんばかりに。

 

「へ~、アンタみたいな奴にゃあ、らしくもない台詞だな。そもそもアンタは部外者だ。なんで、わざわざ命の危険を冒してまで、こんなとこで殺り合う気になれんだよ。」

「同感だ。俺も、自分がおかしくなっちまったんじゃないかってちょっと思ってる。あんなガキのどこが良いんだってずっと思っていたのに、今じゃ浅影瑠鋳子(アイツ)の背中を守っちまってる。

 全く、不思議なもんだよな。この俺がだぜ? 俺をここまでにした奴は人生で三人といまい。アイツって、結構な人たらしなのかもな。」

 

 新矢志輝が笑う。

 嬉しそうな笑みだった。


「はっ、そんなトコまでアイツに似てるたぁな。ますますぶち殺したくなってきたぜ。」


 男の声に獰猛さが甦る。

 と同時、強烈な殺意を肌で感じ取る。

 突き刺さるような感触で、幻肢痛さへおぼえる。


「ま、時間稼ぎもこれくらいか。」

「ああ、猶予はくれてやらぁ。だが、主導権はこちらが貰おうかねぇ。」

「ああ、いいぜ。主導だけじゃなく、引導も渡してやっからさ。」

「ほざけ!」


 ボゴォ!という破裂音と共に、男の左腕が大木のような太さに肥大化し、漆黒を帯びた鋼鉄並の固さを誇るそれを、鈍器の如く天に掲げて新矢志輝に振り下ろした。

 轟!という爆音が響き、大量の粉塵が巻き上げられ視界という視界を埋め尽くす。

 黄土色に染まる世界。

 男の攻撃を難なく避けた新矢志輝へ、金色に輝く雷を纏った黒蛇の大群が、何千匹と束ねられ鉄砲水のように押し寄せる。

 体を更に加速させて、物理的にぶっちぎる。

 標的を見失った黒蛇の大群は、そのまま塀に激突しそれぞれに分かれ、そこから既に離れている標的を再度見つけて、地を這いずり回って追い掛ける。

 正に、地獄。

 そうと言うべきおぞましい世界となった平原を、新矢志輝は縦横無尽に動き回りながら反撃の機会を窺っている。しかし、それに気付いていた男は、そうさせまいと更なる攻撃で追い詰めようと画策する。

 男は、振り下ろしていた大木の如き漆黒の左腕を持ち上げると、駆ける新矢志輝の進行方向から、横一線で文字通り全てを薙ぎ払う。新矢志輝を追い掛けていた黒蛇の群体は、その大質量攻撃に巻き込まれ次々と中空に巻き上げられていく。


「おいおい、ペットもろともかよ。そいつらも改造されてっけど立派な生き物なんだぜ。人の心っつーのがねーのか────よ!」


 左腕による一閃を躱した新矢を、上空から右腕による振り下ろし攻撃が襲いかかる。右腕も左腕と同じく、大木のような太さとなっており、外皮は硬い漆黒の鱗で頑丈に塗り固められている。

 間一髪で転がって避けたのはいいものの、前方からは時計の針のように一周してきた左腕が迫る。これを飛び上がって回避し、すれ違いざまにナイフで切り刻む。

 そのナイフは、男に言って奪われていたものだ。さっきのどさくさに紛れて、新矢志輝は既に回収して取り戻していた。

 続け様に、男の巨大な鈍器の様な腕による、質量連撃が新矢志輝に襲い掛かり、それらが打ち付けられる度に大地は局所的に激しく揺れ、巻き上げられた大量の粉塵が砂嵐となって、廃雑居ビルに囲まれた異界の境内を余すことなくさらっていく。

 浅影瑠鋳子は大丈夫かと、ちらと祠の方へ眼を向けると、彼女は既に何らかの詠唱を始めていた。

 儀式は順調に進んでいる。

 

「────余所見をするたぁ、いい度胸だ」


 と、突如男の腹から出てきた()()()()()が、砲弾の如き一直線で中空を貫いていき、浅影瑠鋳子へ注意を向けたその死角を縫って、新矢志輝の懐へと飛び込んだ。

 ズドンッッ!という骨が軋むような嫌な音。新矢志輝の懐に飛び込んだ鈍器は、そのまま胴体を撃墜し十メートル以上先の塀まで押し込んだ。


「ガハァッッッッ!!」


 完全に不意を突かれた。

 ちくしょう。なんだよその挙動は。

 新矢志輝は、男の巨大な腕と塀で挟まれ、四肢を中に投げ出させられている。標本にされた昆虫のようなその姿を見て、男は高らかに笑った。

 新矢志輝は、手に持っていた月の光を照り返す銀色のナイフを、自身を塀へと縫い止める漆黒の棍棒を、その『眼』で以て"ある一点"を捉え、まるで針治療でもするかのように正確に突き刺した。

 ビチャア!という、人体かそれに近い何かがひしゃげた様な音と共に、新矢志輝の元から黒蛇達がこそげ落ちていく。さっきと同じ、統率個体を殺して起こした現象だった。

 月光を照り返す銀のナイフを逆手に持ち変えて、強烈な一撃を食らった直後にも関わらず、ほんの一切のパフォーマンスを落とさず、大蛇の男の追撃に対応せんと草原を疾駆する。

 男の右腕がグボッ!と肥大化する。

 男の目は三日月のように下がり、口角は耳まで裂けるのかと見紛うばかりにつり上がっている。

 男は、苛立ちながらもこの戦いを楽しんでいた。

 男のこれまで歩んできた人生の大半は、力を蓄えるための研鑽と潜伏に費やされていた。邪魔物の排除となれば、裏社会のコネを活用するばかりで、自身は社会の暗闇にてふんぞり返っているのみだった。

 人が抱く感情は一つだけではない。

 男の心は憎悪に彩られていたが、同時に退屈に満ちていた。

 自分のありったけをぶつけれる者は、どこにも存在しなかった。否、いてはならなかった。

 だからこそ、今、男は人生で最大級に高揚していた。

 目の前の敵は、少女と共闘していたときよりも、明らかに全ての性能が飛躍的に上昇している。消化試合など許されない。自分の全力をぶつけなければ、あっという間に懐まで押し入られて、首を落とされる恐ろしさが威圧感として表出していた。

 

「やってやる。」


 男の魔眼が、目前まで迫った敵を捉える。

 縦横無尽に駆けていた新矢志輝が、まるで時間を止められたかのように空間に縫い止められる。

 男の肥大化した右腕に、巨大な大蛇の顎が形成されていく。

 全ての行動を一ミリも許されず封じられ、最早骨肉の像と化した新矢志輝へと鎌首をもたげる。

 ゆっくりと、その口が縦に開いていく。

 徐々に明かされていく裡から滲み出るのは、一秒間に何十回もスパークする金色の雷だった。

 大蛇の顎がダイソンのように大気を吸い込んで、流れ込んできた空気と魔力を極限まで圧縮封入していく。それよって生じたプラズマを媒体に、自身の雷の出力を何倍何十倍にと飛躍的に増幅させていく。

 その魔力と雷を解放すれば、扇状に大地を抉り射程圏内にあるもの全てを焼き払えるだろう。限界まで出力を上げて打ち放てば、家屋数件はまるごと吹き飛ばせるのではないだろうか。

 どちらにせよ、人間一人殺すには十分すぎる威力だった。

 

「じゃあな。」


 絶対的な破壊を呼ぶ死のブレスが、たった一人の人間を容赦なく飲み込んでいく。辺りはまるで昼のように明るくなり、ここが異界と呼ばれる特殊な場でなかったのなら、外の街までこの雷光は届いていただろう。

 超絶なる熱が浚った後の地面は、まるで陶器のようにパキパキになっている。

 このレベルの破壊を受けたのだったら、生物ならまず死は逃れられないだろう。炭化して黒焦げの人体であったものが残ってるだけでも、奇跡と呼ぶには十分というべきモノであった。

 まぁ、なまじ魔術師を名乗っている自分が、奇跡なんて言葉を軽はずみに使うのもなんだかなと思う話だが。

 莫大な熱によって発生した蒸気が消えていく。

 そこには、何もない。

 誰もいない焦土が広がるばかりだ。

 ────否。

 

 すでに、そこにはいない、だ。


「な────」


 大地は溶ける。

 大気は焼ける。

 

 ────だが、空が焦げることはない。


 男が、上空を見やる。

 青白い月を(バック)に、万象の殺人者が迫り来る。

 

「くっ────」

 

 男の体から、七匹の大きな黒蛇が飛び出し、上空から落下してくる新矢志輝へと襲い掛かる。しかし、そんな障害は物ともせず、ナイフで全て切り殺されてしまう。

 ボコボコと、男を守るように黒蛇が湧き、その体を飲み込んでいく。沈んでいく標的に、大蛇の内側に逃げ込まれ、行き場を失った銀色のナイフは、そのまま大蛇の外皮に突き刺さる。

 攻撃を躱された。

 だが、それでも痛手は負って貰う。

 突き立てたナイフを思いっきり引いていき、大蛇の体躯を縦一文字に上から下まで切り裂いていく。

 弾かれるように地面に飛び降り、辺り一面を覆い尽くしながら此方に飛び掛かってくる黒蛇を、払い除けるようにナイフで殺傷しながら離れていく。

 

「な────どうやって、くっ!」


 新矢志輝が迫る────

 大蛇の顎が大きく開く。

 ズラリと並ぶ牙の奥、そこにあるのは喉ではない。

 眼だ。

 巨大な蛇の瞳が、大蛇の大口の中から此方をギョロリと睨めつける。

 途端、新矢志輝の体を何らかの『力』が縛り上げる。

 しめたとばかりに、中の上のサイズの黒蛇達が、無数の黒い奔流となって無防備な新矢志輝に襲い掛かる。

 男の暗示に囚われてしまえば、なにも出来ずに虐殺されるのみ。

 ────が、しかし。

 新矢志輝は、蜘蛛の巣を破るように体の自由を奪い返し、飛び掛かってきた総数十七匹の黒蛇の応酬を、美しい流線を描くナイフ捌きで難なく凌ぎきった。


「な、なぜだ…なぜ効かない!?」

「アンタ、さっきからソレ使いすぎなんだよ。所詮、猫騙しの暗示なんざ、俺にとっちゃ喰らい続けときゃ、いつかは()()()モンなんだからな。」

 

 しれっと、そんなこと言う殺人鬼。

 新矢志輝は驚くべきことに、暗示に対する高い耐性を持っているだけでなく、一度受けた暗示へ適応し、より強力な抗体を身に付けていくのだ。

 それでも大蛇は諦めず、性懲りもなく暗示を掛け続ける。

 しかし、新矢志輝は止まらない。

 それどころか、さらに暗示の効力が弱まっている。

 最初は数秒ほど止めれていたのに、今ではコンマ一秒だって持たない。

 既に、男の懐刀たる暗示能力は、その意義を失っていた。

 次からは、戦い方(アプローチ)を変えねばならない。


「ちっ!これでもダメか!」


 男の苛立ちの声が聞こえた後、散乱するようにフィールドに放たれていた黒蛇達が、排水溝に流れていくように男の方へと依り集まり、一度そのカタチがぐちゃぐちゃに崩れて変化していく。


「なら、こいつはどうかな?」


 男の挑戦的な声が響いた後、ヒュン、という風切りの音がしたかと思うと、新矢志輝は反射的に身を屈めていた。純粋たる殺戮の鎌が、頭上を通過するのを感じる。

 男を再度見やる。

 蛇使いは、更なる変貌をその身に起こしていた。

 

「おいおい、マジか。」 

 

 男の両腕は、先程までの大木の如き漆黒のそれとは打って変わって、太さは電柱ほどのサイズにまで縮小している。しかし、その分数十メートル程の長さに伸張しており、鈍器のような硬さを誇っていた漆黒の外皮は、鞭のようにしなる滑らかなものへと変化していた。

 まるで触手だ。

 その鞭の如き腕の先端は、特徴的な形をしており、その鋭利さからは鎌を連想させる。

 殺戮の矛がそこにはあった。

 それだけではない。

 男も全身から、黒く細長いチューブのようなものが何十本も表出しており、それぞれが独立して不気味に蠢いており、それらの先端にも鋭利な鎌が搭載されていた。

  

「そいつは、ちょっとキツいかもな。」

 

 ヒュン、と再び聞こえた風切り音に反応し、新矢志輝が地面に転がりながら回避する。すぐ背後の空間を、縦に振るわれた何かが通過し、地面を抉りとったのが分かった。

 続け様に、男は管のように延びた触手を振り回し、新矢志輝へ鎌による殺戮の応酬を開始する。それを紙一重で避けていき、男の肉体の性能をその『眼』で観察していく。

 男の攻撃手段はただ一つ。

 三十メートルほどの射程を持つ、鎌の搭載された両腕による切断攻撃。身体中から生えた、腕と同じく鎌の搭載された小さな管による攻撃。

 よく見ると、黒い触手のような腕は、中の上ほどのサイズの黒蛇であり、鎌のように見えた先端の鋭利な部分は、黒蛇の牙が細胞レベルで異常発達して変貌したものだった。恐らく、全身から枝のように生える管のような触手も、黒蛇が形を変えたものに違いない。

 見える範囲から目測で大体十九本。奴の背中の分も合計すると、更に二倍はあるのではないだろうか。


(まずいな…)


 鞭のように、或いは垂れる柳の枝のように、変幻自在にしなりながら襲い掛かるそれは、新矢志輝に今までとは違った動きを強制させる。

 先の圧倒的な質量で押してくる攻撃とは打って代わって、こちらは凄まじい速度と手数に加え、変幻自在にしなる触手による予測困難な複雑攻撃が主体だ。

 新矢志輝にとっては幸いにも、目視で捉えられる程度の速度しか持たないが、これ程までの複雑さと手数の前では、その縦横無尽とも言える動きを封じられてしまうばかりか、体力や気力を容赦なく削られ後手に回らざるを得なくなる。

 男を撃破するには、二本の巨大な鎌の応酬を避けながら、四十本近い触手を掻い潜って近づかねばならない。それだけでも骨が折れる戦いであった。

 折角ひっくり返した戦況を、また振り出しに戻されてしまった。こうなってしまっては残す所消耗戦で、それなりに蓄えがある男相手には、一気に不利な戦いを押し付けられることに成ってしまう。

 新矢志輝は軽く舌打ちすると、銀色のナイフを再びぐっと握りこみ、男の方へ猛スピードで駆け始めた。

 男は始め、新矢志輝の行動を意外に思ったが、体力の無駄な消耗を避けるための短期決戦であることを見抜き、心を踊らせながらその思惑に応じて見せる。

 さらに黒蛇の触手の勢いは増し、常人では目視どころか反応することも赦されない程の超速で、新矢志輝と云うたった一人の怪異殺しの為に、その異形とも言える複雑怪奇な骨肉を駆動する。

 多分、触手の長さは更に伸びているに違いない。

 全方位から回り込むように向かってくる触手は、ある種の鳥籠に似たモノを感じさせた。

 たった一秒間に、何十発も降り注ぐ触手の鎌を、避けたり切り払ったりして凌ぎながら、さらに男の懐へと潜っていく。

 「そうはさせるか」と、男は力一杯触手を振るおうと掲げる。

 が、しかし。驚くことに、振るおうとしていた触手の鎌が、綺麗に切り落とされているではないか。ぎょっとして辺りを見ると、触手の先端についていた筈の白い鎌が何個も散乱していた。

 新矢志輝は、ただナイフを使って鎌と打ち合うだけには留まらず、鎌そのものを触手から切り落としていた。

 力をこめた性か、触手の切断面からブシュッと赤黒い血が吹き零れる。そして、ようやく焼けつくような痛みが染み渡ってきて、男はさらに驚愕した。

 

(断面があまりにも綺麗すぎて、血も痛みも今まで全く出ていなかった…だと)

 

 そして、男はさらに恐ろしい事態に気づく。

 鎌が、即ち黒蛇の『歯』が、全く再生する気配がない。

 新矢志輝が殺した蛇は、その全てが重要な器官を傷つけられたとによる即死だった。だが、歯や皮などは切り裂かれても再生できる。内蔵はさすがに厳しいが、ちょっとした切り傷程度なら瞬時に回復するだろう。

 しかし、あのナイフで切られた箇所だけは、何故か全く再生する気配がない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 恐怖で立った鳥肌が、全身へ行き渡るよりも早く思考し、男は触手を新矢志輝へは向けずに、逆に檻となるように地面へと突き立てた。


「お前、何のつも────」

 

 言い終わるよりも早く、黒い触手の檻の中を凄まじい光が埋め尽くした。

 

「最初から、こうしていればよかったんだ。」


 咄嗟に出した捨て身の対応が、最も効果的であったなどと云う与太話は、戦場においてはさほど珍しいモノではない。

 事実。新矢志輝はそれに近い男の暴挙によって、簡単に膝をついてしまったのだから。

 正しく捨て身。

 触手の檻を作り上げ、それによって土砂が巻き上げられた瞬間に一気に放電し、内部で強引に粉塵爆発を引き起こしたのだ。

 勿論、男も無視できないダメージは負うのだが、目の前の最重要危険因子を討伐できたのだから、結果的に安い買い物になってしまった。

 高い電圧と電流に加え、爆発の衝撃と熱をまともに浴びてしまえば、常人ならばまず死へと向かうだろう。

 しかし、それでも新矢志輝は生き延び、それどころか膝をついただけに留まっている。浅影瑠鋳子から渡されていたのであろう女物の着物は、戦いの爪痕として所々が破れ白い肌を晒している。 

 結論から云う。新矢志輝の身体には、傷など一つもついていなかった。しかし、膨大な電流をまともに浴びてしまったせいか、その肉体は衝撃で軽く麻痺を起こしており、暫くまともに動かせないらしかった。

 新矢志輝ならば、ものの数分で元の動きを取り戻すことなど雑作もないことだ。しかし、こと戦闘に限っては致命的なまでの隙となりえる。

 男は、地面に取り落としたナイフを、触手を介してひょいと掴み取り、興味深く観察した後、ポイと明後日の方向へ放り投げた。


「、あ────」

「残念。危ないモンは取り上げだ。」


 男はそう言うと、さっきまで触手の様に細長かった腕を、元の太く硬い腕に肥大化させて戻し、新矢志輝に巻き付け縛り上げ中空に持ち上げた。

 

「どうやら、チェックメイトってことらしい。大分長くなっちまったが、まぁ随分と楽しめたよ。」

「そう、かよ…」


 もうそんなに喋れるようになったのかと、男は内心驚きながらも平静を装い、ゆっくりと自分の目線の高さまで近づける。


「ここまでやった義理だ。四肢を捥いで、浅影瑠鋳子の貫通式を特等席で拝ませてやるよ。」

「俺の、思惑は…達成されt…からな。別に、お前に負けても…構わない。」

「…? 浅影瑠鋳子のことか?別に構わないさ。元より、ここの結界を壊したのは、浅影瑠鋳子を誘き寄せるためだ。元の流れに戻ったところで────」


 その時だった。

 男の腕が締め付ける力が、ガクンと下がったのだ。


「な────」


 困惑に顔を歪める男へ、新矢志輝がニヤリと嗤う。


「おいおい、勘違いされちゃ困るぜ。俺は別に結界を正常な状態に戻せなんて頼んだ覚えはねぇ。アイツはやっぱり天才だ。俺の狙いに気づいてくれた────」


 男の力がどんどん弱っていく。いや、大きな器の底に空いた穴から、水が漏れ出ていっているような感じだ。

 

「お前、言ったよな。大地と相性が良いって、水や地と縁深い蛇を媒介に選んだって。さっきようやく気づいたよ。お前がバカみたいに使いまくる魔力。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 お前は、体の何処かに魔力を貯蓄しているんじゃあない。蛇を遣ってここの土地そのものと繋がり、魔力を汲み上げていたんだ。」

「────!」


 男の額に、冷たい汗が吹き出し始める。


「だから、浅影瑠鋳子に期待した。結界の異常を正すこと、そして────」


 新矢志輝が腕から抜け出し、隠し持っていたもう一本のナイフで、"ある一点"を思いっき突き刺す。


「結界を通して土地を掌握して、お前の魔力を根こそぎ奪い尽くすことだ!」


 すべてが、男を構成するすべてが崩壊する。

 触手も、大蛇も、男自身の姿も。

 しかし、それでも黒い蛇の渦となって、凄まじい咆哮を発しながら新矢志輝に迫り来る。

 と、そんな男に、ある一声がかけられる。


「ちょっと────余所見をするとは、良い度胸じゃない。」


 男が束の間、声の先に視線を移す。

 この声は間違いない。

 生意気で、意地っ張りで、しかし威風堂々とした少女の声。

 

 ────浅影瑠鋳子が、弓を構えて立っていた。

 

 その弓は、紅蓮に揺蕩う焔を纒う。


「火雷神よ────」


 ────瞬間。

 眩く輝く紅き光が、夜空を翔て閃いた。

 男が、蛇の渦が、紅き焔に包まれる。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 少女は大分疲弊しているのか、炎の威力は先程でもない。

 男は、奇跡的に炎を逃げ延びる。しかし、使い魔の黒蛇たちの苦痛は、そのまま男に共有され、燃焼の苦痛に絶叫しながらも、何とか離脱を試みる。

 しかし────


 どすん、と、男は胸の辺りに衝撃を感じる。


「あ────」


 ────絶叫が止む。

 何のことはない。

 ただ、新矢志輝が男の胸を、ナイフで刺しただけのこと。

 しかし、それは決定的な一撃だった。

 新矢志輝の『眼』には、あり得ざるものが見える。

 重要なのは、本当はナニを見ているのか、だ。

 

『志輝クンはね、モノのカタチを見てるんだ。カタチって云っても形状とかじゃなくてね。もっと概念的な、本質だとか真理だとかってヤツ。正確に云うと面倒なんだけど、事象の輪郭?的なモノをあの『眼』は捉えてる。

 まぁ、言っちゃえば事象の視覚化よね。文字通り、あらゆる事象を輪郭あるカタチとして捉えることが出来るのよ。正常も、異常も────無常もね。』


「一つ、教えてくれ。」


 男は立ったまま言う。


「なんだ。」

「お前には『何が』見えている。」


 新矢志輝はしばらく考え、


「俺は、モノのカタチが見えるんだ。形状だとかそんなもんじゃない。その事象の輪郭────或いは境界か。まぁそういうものが見えている、らしい。だからか、物質、概念、その存在の本質。そんなものを問わずに、存在の"壊れやすい"ところも読み取れるって訳だ。

 あらゆる事象を、確固たるカタチとして捉える。聞こえは良いが、毎日視たくもねぇモンを見せられて、こっちとしちゃあ辟易している。」


 心底、今の自分の立場にうんざりした様子で、ため息を吐く新矢志輝。しかし、男は納得がいかないような顔をして再び問う。


「バカな。それなら、俺と土地の経路(パス)をその『眼』で見て、直接切ることだって出来ただろう。なぜそれをしなかった!いや、」

 

 男はしばらく考えこみ、浅影瑠鋳子を一瞥する。


「まさか────そう言うことなのか!?」

「まぁな、それをやっちまうと、この土地そのものが死にかねない。俺はただ、浅影の行く末に、最低限の配慮をしたまでだよ。」


 男は激しく取り乱したように、悔しさと驚愕が入り交じったように言う。


「な、何をバカな!?」

「そうさ、バカなことだよ。お前らからしてみれば。ただ、普通の人間ならばこうするだろうさ。」


 すると、男は唐突に声を出して嗤い始める。

 

「まぁいいさ。元より、こんなもんはただの遊びだ。」

「どう言うことだ。」

「計画は順調だってこった。俺と遊んでる時点で、お前らの敗けは近づいていく。」


 男の体が崩れ始める。


「何を言ってる?お前はもう終わったんだぞ?」

「言っておくが、コイツは仮の体だ。俺はただ遠隔操作してるに過ぎない。ところで、俺なんかにこんな時間を食ってて良いのか? お前らはもう既に知ってるはずだぜ。

 ────俺には、共犯者がいるってな。」


 浅影瑠鋳子は、はっとしたように駆け出し、新矢志輝もそれに続いた。


「ははははははは!こいつぁただの前夜祭だ!本当の地獄はここからだぜぇ!」


 男の声が消える。

 そんなことはどうでも良い。

 嫌な予感が、全身を駆け巡っている。

 来た道を、凄まじい速度で逆走する。

 静寂となった路地を駆け抜け、『彼女』が待っている筈の場所へ────


「霖雨!霖雨!」


 ────帰ってくる声はない。

 帰ってくるのは、静寂か、道路を通る車の音だけ。

 

 浅影瑠鋳子は、今宵、大切なものを失った。

 

 ガラガラと、窓を開ける音があちこちから木霊する。

 道路を通る車の音が、徐々にその数を増していく。

 小鳥のさえずりが、空へせせらぐ。

 街が、色を取り戻す。

 ある一人の少女を置き去りにして、世界は黄金に返り咲く。

 地平の先の空洞。

 空と大地の境界から、薄く滲むようにこぼれる太陽の光だけが、失意の淵にある魔術師を煌々と照らしていた。

 

 

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