第十話 襲撃 ③
「な───────。」
突然、世界が歪曲した。
それだけではない。
平衡感覚を失い、重心は不規則に変化し、もう一秒だって立っていられるかも分からない。
頭の中だけ揺さぶられているかのような、例えるなら虫籠の中で、無邪気な子供に振り回される虫になった気分。
黒雷の槍による砲撃は、その状態のまま撃ち放たれたことで、見事に土御門を逸れ明後日の方向に向かっていった。
静寂が訪れる。
「な…んだ、これ…は。」
白髪の少年がいるであろう方向を見やる。
視界は、陽炎のように、水面に移った風景のように、歪曲を繰り返しながら目の前の現実を写し出す。
「何って、チェックメイトってやつだよ。」
陰陽師が答える。その忌々しい飄々とした声すらも、今は遠い。
「最初からお前は、俺の術中だったって訳。」
ピッチリと着こなされた女の服。扇情的を越えて、いっそ荘厳とも言える程に体のラインが強調されている黒い生地の上に、さらに強調するように強く巻き付けられた黒い包帯。その隙間から、するりと、まるで本の隙間からしおりが滑り出てくるかのように、一羽の蝶が躍り出た。
彼女から、一時の間体の自由を奪い取った式神。
「いつの間に…」
「いっただろ?最初からだって。
灯台もと暗しってやつだよ。お前は蝶を全部潰した気になってはいたけど、実際は黒い包帯の内に潜り込まれてたって話。
単純明快すぎて、些か面白味に欠けるけどねぇ。」
土御門はそっけなくそう言って、手を上げる。
「戦闘中。お前はずっと蝶の鱗粉を吸い込み続けてきた。着々と毒素は蓄積し、息が切れてきたタイミングでさらに取り込むスピードが加速した。
確実な契機は、さっき盛大に外しちまった、恐らくお前の"とっておき"だったろう術式、その発動の為の過度な魔力生成。そして俺との戦闘、だけじゃないな。恐らく逢魔坂朱理や化野も含めて、対応するのに相当な下準備があったはず。
度重なる肉体の酷使による負担と疲労。
実際、魔術師だし健康的にはそこまで不味くはないのかもしれないけれど、今回は爆弾抱えていたからね。あまり宜しくなかったみたいだね。事実、こうして裏目にでちまったわけだから。
まぁ、いつ爆発しても仕方がなかったんだけどね。けど、それにしてもこのタイミングはちょっと皮肉だな。
でも、まぁいいさ。」
ずい、と膝をたて地に伏している黒い女に、土御門が近づく。
「こっちも痛手を追ってるわけだから、タダで返すわけには…ちょっとねぇ…。」
「───────!」
突如、空気を裂きながら、黒い閃光が迸る。
化野を倒したときと同じだ。
一度撃ちはなった雷撃を、引き戻す技。
斜線上で油断している相手を、焼き殺す闇夜の怪技。
さっき外した術式も、例外ではなかったか。
しかし、土御門は一切動じていなかった。
それはなぜか───────黒雷が、防がれたからだ。
「───────なにっ!?」
思わず驚愕に叫ぶ。
土御門に当たる寸前、背後で何かに拒まれるように炸裂し、そのまま溶けるように森の緑へ消えていった。
土御門は落ち着き払った顔で、こちらを見下ろしている。
よく見ると、土御門は黒い煙を纏っていた。
「させません。」
更に土御門の後ろから声がした。
よく知っている声だった。
「お前───────」
黒い女は睨み付ける。
そこにいたのは、負傷し戦線離脱していたはずだった、黒い少女───────化野舞夜だった。
「さて、」
土御門がそう言いかけたとき、黒い女が立ち上がる。
まだそんな余力があったのかと土御門は目を見張るが、現実は非常。
すでに異変は起こしていた。
女は、ハッキリと黙視可能なまでに凝集された黒い煙に、締め付けられ硬直している。その様は、まるで大蛇に巻き付けられ今にも補食されそうな哀れな獲物に似ていた。
黒煙。
化野家。その秘伝の術の内の一つだった。
直後、グンッと、突如背後から高速で引っ張られるようにして樹木に叩きつけられる。
漆黒の女が呻く。
それすらも、妖艶だった。
女は、処刑される神の子のように、大木に磔にされている。
大木ごと黒い煙を払い除けようと、全身に力を込めて必死に抵抗している。しかし、闇夜をカタチにしたような漆黒の煙は、女の自由を許さない。内側からの力が強くなる度に、それに応えるように更に押さえつける力を増していく。
「ここまでか…」
女が呟く。
諦めがついたのか、先程とはうって変わってその態度に生気はなく、四肢を力なく垂れ下げている。
「───────ったく、手こずらせやがって。こちとら貴重な休みの日を割いてきてるってのに。」
「あぁ、早く志輝んとこに行きたいィィ」と宣いながら、女の方へ歩いていく。
部に入って長くともに活動してきてはいるが、やっぱりコイツの気色悪さには慣れないなと、化野は脳の片隅で思った。
「んじゃまぁ、手っ取り早く名前と年齢と、ここに来て色々しでかした理由を喋ってもらいましょうかねぇ。」
土御門は悪態をつきながら、大木に張り付けられた女を覗き込み、めんどくさそうに投げ掛ける。
「そんなこと、言うわけないだろう。」
黒い女がそっけなく応える。
「あっそ。やっぱそうだよな。
化野。そのまま押さえてろ。自白の術をかける。洗いざらい吐かせてやる。
あ~んなことや、こ~んなことも!」
あんなこともこんなことも分からないが、土御門のことだからきっと最低な内容であることに違いない、と化野は思った。
「私ができるのはここまでだ…」
騒ぐ白髪の少年と、それに呆れる黒ずくめの少女を横目に、女は静かに呟いた。
「後は───────」
『あ~りゃりゃ。こりゃ手酷くやられたな。』
「───────!」
唐突に割り込んできた第四の声は、土御門たちにも聞こえていた。
『だ~から言ったろ。単独で逢魔坂どもを相手取るだなんてやめとけってよ。そしたら案の定だ、ほ~ら言わんこっちゃない。』
乾いた男の声だった。
ふと砂漠を吹いた一陣の風が、一握りほどの砂を拐っていったかのような、たまさかそんな異国の風景が思い浮かんだ。
その声は、何処からともなく聞こえてくる。
その空間から湧き出るように、この場にいる全員の耳に直接侵入してくる。
本体はどこから話しかけてきているのだろうか。
こちらが気づいてないだけで、すぐ近くに潜んでいるのか。それとも遥か遠くから傍観しているのか。
いや、もしかしたら既に自分たちの背後にいるかもしれない。
どちらにせよ、これが魔術であることは明白らしかった。
「お友達?それともご家族の方?
友達だったら今すぐ縁切れ、家族ならちゃんと躾しろ。」
土御門が生意気に言う。
『はは、生憎、どちらでもない。ビジネスパートナーっていった方がわっかりやすいかね~』
謎の男の口振りは、どこか飄々としていて信用に欠ける。でも雰囲気そのものは、近所の気の良い兄貴分といった感じで、気を抜くと自分まで取り込まれそうになる。
人誑し的な側面を思えば、土御門に似ていた。
そして、土御門と同じように、油断ならない相手だということも見てとれた。
その時、「ビジネスパートナーか、よく言う。」という黒い女の呟きを化野は聞き逃さなかった。
「は、だったら人選ミスだな。お前は魔術師を見る目がねぇ、強いて言うなら腐ってる。これには、最近流行りのレーシックもお手上げだな。」
土御門が、皮肉なのかどうかも分からない罵倒を虚空に浴びせる。我々が魔術師という特殊な存在でなければ、森のなかでなにもないところを見ながら喋ってる異常者だ。
『そ~れを言われちゃあ叶わね~な。
まぁここはどちらもロクでもない奴らとつるんでる異常者ってことで手打ちにしてくれや。』
突如、凄まじい騒音が鼓膜を削る。
何かが地べたを這いずり回っているかのような、この世のものとは思えない異音。
それは、どんどん大きくなり、否、どんどん近づいてきており、気づいたときには既に回りを囲まれていた後だった。
蠢いているもの、その異音の正体を見て、絶句した。
蛇だった。
いくつもの、なんてものじゃない。
何十何百という黒い蛇が、黒い奔流となって私たちを逃がさすまいと、ほんの十メートル程先を円に泳いでいた。
さぁっと血の気が引いていく。
逢魔坂朱理に師事し、様々な怪異と会敵してきたが、ここまで吐き気を催す光景も滅多になかった。
一切の躊躇なく黒煙を展開する。
黒煙に飛び込んだ蛇は、動きこそすれ徐々に苦しみだし動きが緩慢になっていく。
酸素や魔力の補給経路を遮断し、黒煙に含まれている毒素を代わりに流し込む罠であった。
魔術の影響下にあるとはいえ、所詮は蛇。そのまま黒煙が広がる領域に、土砂が流れ込むように飛び込んでいき、当然のように玉砕されていく。
黒煙の効能に多少抗っている、即ち魔力で強化されているところから、察するにこの蛇は紛れもなく使い魔の類いなのだろう。
それに、黒煙の効能が通じていることから、式神などの術者との縁を介した経路に依存する類いのものではなく、大気や外界から直接魔力を補給するタイプの使い魔であることも分かった。
となると、この蛇達の本質に近いのは、"本物の蛇を使い魔に魔改造したもの"といったところだろうか。
何らかの方法で捕獲した生物を、一度殺すか、もしくは生きたまま全く新しい別の存在に書き換える。なんて、禁忌じみた呪法は世界各地に存在しているが、漏出する魔力の質から恐らくこれは後者。
推測するに、この蛇達は独自の環境で養殖され、その後、蠱毒によって厳選された代物だろう。
魔力だけでなく、その身に内包されている呪力には、敵意や殺意よりも"生存本能""闘争本能"によるものが突出して強くでている。
それが何百という軍をなして、黒く渦巻きながら襲ってくるのだから、気圧されてしまう。
強く精神を保ち、これを迎え撃つ。
連戦に次ぐ連戦。
疲労でとうに干からびた肉体から、なんとか魔力を捻りだし煙細工の術式を行使する。
次々と蛇は悶え、その奔流は壊滅していく。
此方に飛びかかってこようとした個体も、その躍動を黒煙に阻まれ限界に達し墜落していく。
土御門は、蝶の式神の鱗粉で弱らせ、そこに鷲の式神を突撃させるという方法で、迫り来る蛇の黒い奔流を蹴散らしていく。
『う~わ。嬢ちゃんの黒いモワモワ。俺それ嫌いだわぁ。せっかく育てたコイツらがみるみるイッちまう。
相性最悪じゃんかよ、天敵だわこりゃ。』
虚空からは男の声。
自身の使い魔がやられている状況で応えてはいるようだが、やはりどこかひょうきんで不気味だ。こちらを油断させようというわけではなさそうだが、その侮れない雰囲気は、明らかな架空請求業者か、怪しい宗教勧誘者を相手にしているに近かった。
「同感です。私も、あなたの蛇は気持ち悪くて嫌いです。」
きっぱりと言ってやる。
「いいぞ~そうだそうだ。言ってやれ。化野。」
横からやいのやいの言ってくる土御門は無視し、目の前の蛇の軍団を睨みつける。
『ひっで~な。そこの黒いヤツはすっげぇ気に入ってるんだけどよ。』
チラと黒い女の方を見やる。
相変わらず黒煙により自由を奪われたままであり、「気に入っているか、よく言う。」と呟いている。
『はっ。じゃあ嫌でも好きになってもらいますかねぇ。』
ギュルギュルと、黒い蛇達が一点に集まっていく。当然のごとく巨大化していき、耳を塞ぎたくなる程の奇っ怪なおとを響かせながら、徐々に一つのカタチへと収束していく。
「あれは───────」
言うなれば、一つの巨大な黒蛇だった。
全高は優に三メートルを越え、全長は数十メートルクラスだ。
よく見てみると、その体は何千何百という蛇の集合体であり、黒蛇達が奇っ怪な音を立てながら蠢いていた。
あまりの地獄絵図に、吐き気を催す前に、一瞬くらりと目眩がした。
大蛇との距離は目測十メートル程。
黒煙を展開し魔力を込める。
しかし、ここまでの連戦で魔力回路が疲弊しており、思うように魔力が捻出できない。今は、限界に達し始めている回路を無理矢理動かしている状態だ。生命力が魔力に変換される度、焼き切れるような痛みが回路に迸った。
頭が熱い。
全身が痛い。
すでに肉体も精神も、気力は枯れかけていた。
『おいおい、そこの嬢ちゃんはもう限界じゃねぇか。潰れちまうぞ。まぁいい、ちょっくらここで限界越えてけや。』
黒い大蛇が大口を開ける。
───────と、次の瞬間にはそこに大蛇は居らず、すでに目前に迫っていた。
轟!と、黒煙と大蛇がぶつかり合う。
なんという速度。
黒い大蛇は、十メートル以上は確実にあった距離を、まるで本当に丸呑みしたかのように詰めていた。
蛇は元来、獲物に忍び寄り一瞬で距離を詰め飲み込むものだ。
だが、この蛇ならば話は別だ、わざわざその身を影に隠さずとも、こちらを簡単に補食できるだけの能力を保持していた。
「───────っ!」
そして、この大質量。
幾千の蛇を束ねた突進は、それだけで大型車両の衝突すら凌駕するほどの運動エネルギーを有していた。
なんとか捻出できた全魔力を、これを防ぐために注ぎ込む。
黒煙を通して、その重みが伝わってくる。
両腕が引きちぎれそうだった。
しかし、化野の秘中の魔術は、その巨大を押し留めた。
大蛇の勢いが停止する。
そこに、間髪入れず土御門が鷲の式神をけしかけ迎撃する。
一瞬動きが緩慢になった大蛇に、風を切り裂きながら鷲の突進が炸裂する。
百メートル以上の超高度からの急降下により、その速度は最終的に時速三百キロメートルを越え、一介の式神にあるまじき破壊力を生み出す。
限界まで加速させたこの式神の特攻は、戦車の装甲すらも容易く突き破り、横転せしめる程の剛技であった。
流石の質量を誇る大蛇も、これにはくの字に曲がって吹っ飛ばされる。
ブシュゥと、黒い体液が噴き上がる。その一滴一滴に、物凄く濃い魔力が染み込んでいた。
土御門の攻撃は、確かに大蛇に大きな損傷を与えた。
しかし───────
『痛って~な~』
「な───────」
大蛇に空いた大きな傷口が、みるみる内に再生していく。否、大蛇を構成する蛇達が、その穴を埋めるように密集していく。
それだけではない。
衝突した鷲の式神を、黒い蛇達が集り、絡めとり、その渦に巻き込んでいく。時速数百キロの急降下は、鷲自身にも凄まじい負荷と損傷を与えていたのだろう。黒い女を追い込んだその剛翼も動かず、抗うこともできずに飲まれていった。
ゴリ、ゴリ、ゴリ、と、何か固く滑らかなものを砕き、へし折るような音。それが、鷲の式神が骨を噛み砕かれ補食されている音だというのは、想像に難くなかった。
「てめぇ。」
土御門が怒りを露にする。
作り物の疑似生命ではあったが、それで端正込めて自らの手で作った逸品だったのだ。
『悪いね。魔力の補填に使わせてもらうよ。おい、そう睨むなよ。俺だって大切なこいつらを殺されてんだぜ。お前らにな。俺たちゃ似た者同士さ。クソッたれな魔術師であるって以前にな!』
漆黒の大蛇が唸る。
突如、大蛇の巨体がボコボコと膨れ上がったかと思ったら、その全身から透明な何らかのガスが噴出した。
すぐさま黒煙を展開する。
敵は"蛇"の属性を持つのだ、何らかの毒素を散布していると見て間違いない。
形態を変化させ、毒素を絡めとる半透膜を作り上げる。
「───────それだけじゃダメだ。」
土御門が横から制する。
「え?」
「お前には分かりづらいだろうが、アレは十中八九呪いを帯びてる。毒だけ防ぐだけじゃダメだ。毒素だけじゃなく、あのガスそのものを防げ。
───────早く!」
土御門に急かされ、超特急で術式を組み上げる。
自身と土御門を黒煙の膜で包み、空気の流れそのものを遮断する。
「よし。そのままで頼む。」
土御門がまた新たな霊符を取り出し、魔力を込めていく。
『う~わ。まだなんかヤンのかよ。若いってのはイイねぇ。けどよ嬢ちゃん、ようやく魔力を自衛に全振りしてくれたな。』
男の言葉の意味はすぐに分かった。
黒い女を拘束して張り付けていた木が、倒れていたのだ。
「───────!」
黒い女は、よろめきながら大蛇の元へと向かっていた。
「おい…なぜここまで来た。アレの件はどうした。お前の役割だったはずだが。」
『ああ、わりぃ、わりぃ、それはできなかった。アレを完遂するのは、予想以上に時間がかかるもんでよ。その代わりと言っちゃあなんだが、あの結界を弱めておいた。』
「結界?あぁ、あの。しかし、なぜだ?」
アレとは、結界とは、時間がかかるとは、一体何の事だか分からない会話が続く。
土御門は相変わらず霊符に魔力を込めている。
『作戦変更だ。お前の言ってた例の付き人、あいつただモンじゃねぇ。睨まれただけで死ぬかと思ったぜ。先ずはアイツを引き剥がさねぇことにはどうしようもねぇ。』
「お前がそれを言うとは。それほどまでのものなのか…」
黒い女の声には、驚愕が含まれていた。
『乗れ。』
乾いた男の声が中を舞う。
すると女は躊躇もせずに大蛇のなかに飛び込んだ。
女はするりと入っていき、なにも残らない。
その直後、大蛇が猛スピードで飛ぶように退散してしまった。
「あ───────」
呆気にとられる自身の横で、土御門が何らかの呪句を唱える。
霊符が青白く光ったかと思うと、十メートル四方一帯を覆っていた呪詛のガスが、波紋が水面に広がるようにして一気に晴れ上がっていった。
浄化に成功したのだ。
ふぅ、と疲れたように白髪の少年が溜め息を吐く。
それを見た後、思い出したかのようにどっと疲労感が体にのし掛かった。
鳥の鳴き声が再び森を跳ね始める。
凍っていた歯車が、熱で溶かされ動き始めたように、森はそのさざめきを取り戻してきた。
黒い女が散らす雷鳴も、黒蛇が蠢く奇怪な音もない。
森はようやく、本当の意味で静寂に包まれたのだった。
◇
「お疲れ様。」
飴玉を舌で転がすような、甘い声が闇に木霊する。
不遜で、優美で、高貴で、蠱惑。
様々な属性が、奇跡的なバランスで混ざりあったソレは、ある種の音楽であり、また麻薬でもあった。
少しでも気を許すと、その隙間から入り込んできて内側を侵食していく。
響き渡りながら染み込んでくる快楽に、如何なる者も抗うことはできず、やがて夢心地のまま朱い少女の元へと堕ちていく。
その少女の体に元から備わっていた才能。
その少女の声は、万人を虜にしてしまう。
これも、ある種の魔術と言えるのだろうか。
その少女は、ヒトとしても、魔術師としても、他とは一線を画していた。
そんな超越者に、真正面から正気を保つことができる男がいるのは、彼女にとっても驚くべき事だっただろう。
「お疲れ様、じゃあないっすよ~。マジで死ぬかと思いましたよ。部長。」
土御門有雪。
普段から彼女にへり下ってはいるが、その実、自身の野望の成就を虎視眈々と狙っている。その眼は彼女に心酔している者とは言い難かった。
彼は普段女性に目がないが、それが逆に抗体として機能していた。
「しょうがないでしょ?人手が足りないんだから。新夜クンだって今は浅影のご令嬢にイビられてるだろうし。」
逢魔坂が素っ気なく応える。
「いや、そうじゃなくて───────」
「ここにくる途中、外部の魔術師と戦闘になりました。」
話に入ってきたのは、黒い少女、化野舞夜。
「ふーん。それで。」
ガチャガチャと、なにか金具のようなものを組む音。
逢魔坂は、霊脈観測用礼装を使用しており、モニターに写る波形グラフのようなものを眺めながら、手元で何らかの操作をしていた。
「一人は多分先輩もご存じかと思いますが、仮面をつけた黒ずくめの女。扱う魔術は、触れた物体を燃焼させ、炭化させる呪いを帯びた黒い雷。
そしてもう一人は、姿を見ることはできませんでしたが、声は男。こちらは、蛇を使い魔として改造を施したものを操るものでした。
彼らのやり取りから、この二人は、今回の浅影の件と何らかの繋がりがあると見て間違いありません。」
「土御門君。君の見解は?」
「はい、恐らくヤツらは、何ヵ月も前からここに目を付けていたのではないでしょうか。ここの結界は、護ることよりも、隠すことに重きを置いている。一流の魔術師でも見抜くのは困難だ。」
「うん。結界とは元来、何かを何かから護るものではなく、何かと何かを区切るものだからね。内は、そういう伝統を大切にする魔術の大家だ。まぁ、魔術は新しいものほど弱いっていうのもあるけど。」
逢魔坂は感心したように頷いている。
自らの手駒の能力を、改めて確認しているようだった。
無能か、有能か。有能ならば、その牙が自らに向いたとき、どれ程の驚異になるのか。
こんなときでも、じっくりと品定めしてきており、油断ならない女である。
土御門は、臆せず話を進める。
「ここは、霊脈同士がぶつかり合う強力な霊地だ。日本の神秘業界でもひときわ有名、そりゃあ何かちょっかいを出そうとしてくる連中もいるでしょう。
ここ、霊脈同士の隣接地、その真上。点穴にすら到達するにはそれこそ何ヵ月もの時間を有したはず。幾つもの結界で隠されてたり、誘導がいっぱいありますからね。
───────ですが、ここで問題なのは、こちらを出し抜くために、色々手の込んだ下準備までしてたというところです。」
「うん。黒い女の造り上げれていた骨兵の軍団は、霊脈と経路を繋いで供給された魔力によって成立させていた儀礼呪法だった。
経路を繋げていたんだ、ここの霊脈の詳細を知ってたとしか思えないね。霊脈っていうのは、魔術師にとって生命線の一つでもある。己が研究する魔術と共に、何百年の時を経て効率のいい運用方を探り当てていく。
どう考えても、たかだか十年ぽっちの魔術師が一ヶ月か二ヶ月かでうまく利用できるはずがない。」
「そこで聞きたいんですが。」
「何?言ってみなさい。」
逢魔坂が質問に許諾する。
この時点で、すでに首輪をつけられているかのような感覚に陥りそうになる。
「ここは、逢魔坂が管理者になる前、どこの"家"が押さえていたんですか?」
「───────土御門君。君は、もう既に察しがついているんじゃないのかな?」
逢魔坂が、ちらとその眼を土御門に向ける。
相変わらずその手は世話しなく動いていて、魔術例装による霊脈分析に勤しんでいる。彼女の指の動きに合わせて、その画面には弾き出された情報が流れていた。
土御門を目視しながらも、その手は正確に情報を弾き出す。その余りの乖離に、まるで手だけが別の生き物かのように、その場にいた二人の目に写った。
「───────と、終わったわよ。解析。」
逢魔坂が言う。
「どんな感じです?」
土御門が聞く。
画面を見ることはしない。
大抵の魔術結社には、互いの秘奥には無闇に干渉しないという決まりがある。
知識の流布と漏洩を嫌う、魔術師同士の暗黙のルール。
それは、ここ"胡蝶之夢"でも同じ。
「さっき、土御門君が浅影の土地を調べてくれていたのだけれど、そのときの結果と同じね。確かに、"歪み"は普段よりも少し多い。一ヶ所にたくさんってタイプじゃなく、広い範囲に渡って点在してるって感じ。
けれど、そこまで珍しいって訳じゃない。至って正常の範囲内よ。」
さっき、というのは、霊脈にくる前に土御門が行っていた軽い風水診断だ。
気の流れを読み取り、地脈の異常を探り出す。精度こそ、逢魔坂の例装には及ばないが、簡易でコストを少なく行うことが出来る。陰陽道の中でも、風水の専門家である土御門有雪なら尚更だ。
浅影の儀式の全貌を探るために、浅影の支配する土地の周辺地域にのみ限定して行っていた。
「ああ、一応言っとくけど、あの仮面が起こしたことは除外してるから。」
仮面とは、あの黒い女のことだろうか。
すると、逢魔坂はおもむろにポケットから何かを取り出し、見せつけるように掲げる。
血のように真っ赤な宝石だった。
紅玉と呼ばれるソレは、魔術例装の画面から溢れる光を、キラリと赤く反射する。それはまるで、炎という現象そのものを、琥珀として閉じ込めたかのようだった。
大昔の人間が、宝石に神秘を見出だすのも頷ける。
「それは、」
「霊脈の制御例装よ。スペアだけど。」
そう言って、紅玉を上に投げ、落ちてきたところをキャッチする。貴重で高価な魔術用の宝石を、そんな風に扱われると、職業柄というわけでもないが、少し肝が冷えてしまう。
「スペアってことは───────」
「そう、メインのやつは盗られちゃった。」
「───────黒い女に、ですか。」
土御門が尋ねる。その声には、いつもの様なおちゃらけた感じは微塵もなく、真剣な空気を孕んでいた。
逢魔坂は頷く。
「多分、私を押し止めるための骨兵のゴーレム術式、その構築と使用に使ったんでしょうね。まぁ、宝石同士の"共鳴"で、私のスペアでオリジナルが使われたときは、こちらから把握できる。そこまで分かってはいなかったようだけれど、結果的にまんまとここに誘い込まれる形になってしまったわね。
それだけかなとは思うけど、どさくさに紛れて持っていかれちゃったし、まだなんか使う気かも。
とまぁ、こんな感じで術式に霊脈使われちゃったから、そのときの魔力の揺らぎは除外したわ。」
「ちょっと待ってくださいよ。じゃあ最初から襲撃されることが分かってたってことですか?」
「だから、あなた達を連れてきたのだけど。」
逢魔坂がきょとんとしながら言う。
土御門は呆れるようにして、
「だったら先にそれを言っといてくださいよ。対人戦になると分かっていれば俺ももっとやりようはあったのに。まぁ、言い訳かもしんないですけど。」
拗ねる土御門を余所に、逢魔坂は化野舞夜に顔を向けると、
「化野くん。」
と、一言。
「はい、何でしょう。」
と、二言。
「君の奮闘で、敵に多くの手札を切らせられた。よくやったわね。」
その三言に、化野は思わず目頭を熱くする。
「こ、光栄です。」
さっきまでの戦いの苦難が、痛みと共に思い起こされる。
未だズキズキと痛む背中の傷も、土御門が施した浄化の術式と、自前の回復術式が功を奏したようで、完璧に直っているとは言いがたいが、痛みは大分引き、焼き付くように背に刻まれた筈の、"焼相"と呼ばれていた黒雷の呪詛も、常時魔力を回して洗い流すことで、かなり薄まってきており、この分だと解呪までそう時間はかからないだろう。
「だけど、」
逢魔坂は念を押すように割り込む。
「それでも大分消耗しているみたいだし、化野くんには当分、裏方での作業を行ってもらうわ。」
「わかりました。」
「土御門君。」
「はい、何でしょう。」
二人のやり取りを横目に見ていた土御門に、逢魔坂が言う。
「君も痛手を負ってるみたいだから、漸く休みなさい。肩、まだ直ってないんでしょう?」
土御門は肩を押さえる。
黒い女が放つ、黒雷の矢に撃ち抜かれたところだった。
「そうっすね。化野は表面を焼かれただけですから、三日か四日ほどで完治すると思いますけど、こっちは中まで焼かれてるし、結構穴もでかいんで、二週間かかれば早い方かと。」
「ふむ。」
逢魔坂が沈黙する。
なにか考えているようだった。
「っていうか───────」
土御門が再度話し始める。
「うん?何かな。」
「部長。今日なんか優しいっすね。」
意外な言葉が白髪の陰陽師の口から躍り出た。
しかし、土御門らしいといえばそうだった。
「ん?なんでよ。」
これには逢魔坂も、意外そうに、不思議そうに、自然体で疑問を溢す。
きょとんとした彼女は珍しく、滅多に見れるものではない。
しかも、その瞬間だけ、まるで風が一瞬凪ぐように、あの魔王のようなオーラが薄らぐのだ。
圧倒的なカリスマ性を常に光らせる、"強い女"としての彼女に惹かれた身である化野にとっては、必ずしも喜ばしいことではないのだ。
しかし、その度に、彼女も一人の人間なのだとわかって、少し安心するところもあったりする。
このもどかしさは何なのだろうか。
「だって~、いつも他の魔術結社との交渉とかってのであっちこっち走り回されるし、そんで終わったと思ったら怪異退治に行かされるし。」
確かに、土御門は比較的、いつも色んな所を行ったり来たりされてる気がする。
例えば、あの超能力者の件なんて正しく───────
「"合宿"で志輝と別々の部屋にしたりィ!」
それはお前に原因があるだろうと、ツッコミたいのを堪えた化野だった。
しかし、部下に仕事を押し付けがちなのは否定できなかった。
「まぁ、今回の襲撃は私の失態でもあるからね。そこら辺は一応さ、今回くらいは部長として責務を果たしたいじゃない。」
「まるでいつもは果たしてないみたいな言い方ですけどォ!」
逢魔坂は、激しく狼狽する土御門を余所に、地面に置かれた例装を一瞥し、黒い女の言葉を思い出す。
『私との因果はない。一ヶ月前からここは無法地帯だよ。寧ろ今は落ち着いてきている方だと思うがね。』
やはり、何かしらの異変は起きてたらしい。
その正体、原因はわからずとも、闇は、異常は、ひたひたと日常を侵しながら忍び寄ってくるものだ。
逢魔坂の脳裏に、幽かな翳りが生じていた。
◇
「それで、温泉浸かったんだけどさ、そこに白い蛇がいてな。ソイツが俺を睨んできやがったんだ。
アレはどう考えても"異常"だね。断じて。」
「───────白い蛇?妙ね。」
電話越しからは、新矢志輝の声。
いつものように不躾だが、その裏側には自身への怯えがあることを、逢魔坂は見抜いている。
さらに、いつもより声に張りがない。
肉体的か、もしくは精神的か、いやまたはその両方か。普段の彼よりも、相当に疲労困憊気味なのだろうというのは明らかだった。
恐らく、いやほぼ確実に、浅影のご令嬢である浅影瑠鋳子に起因するものであることは、魔術社会の内情だけでなく、個々の魔術師の家系事情にも詳しい逢魔坂朱理には、察するにそう長くはかからなかった。
そもそも、浅影瑠鋳子の悪辣エピソードは、業界でも屈指のものだ。
浅影家は、何百年も前から鎖国体制を敷いており、祈祷や口寄せなどの呪い師としての家業を行うとき以外は、異様なまでに徹底したな排他主義を貫いている。
今でも僅かに交流があるのは、古くから同盟関係である逢魔坂と巫条。日本呪術界最大の影響力を持つ土御門と、密かに繋がりがあるとまことしやかに囁かれる、こちらも本州最大級の影響力を持つとされる賀茂。後は傘下の呪術師の家系である『鳴上』『蛇草』『絹幡』『仔社』『伊妻』『雁崎』『珠毀』の七家。
さらに、これらとの交流も年々薄くなってきており、特に"事件"のあった十三年前からは、その評判すら意味のないものになっているのかもしれない。
しかし、そんな衰退一途の災禍の中、浅影瑠鋳子という少女は稲妻のごとく当主の座につき、他の勢力の動きに積極的に首を突っ込んでは、そこにいた魔術師達にとって深く爪痕を残す程のことをしでかしている。
それらの数ある所業をもって、浅影はますます恐れられ始めていき、交流その一切が遮断されているのにも関わらず、その影響力は年々取り戻していっている。
と、逢魔坂は三分の一ぐらい踏んでいる。
新矢志輝には悪いが、彼の身の上を思うと非常に愉悦だ。
そんな自身の邪な心情を読み取っているのだろう。新矢志輝の息づかいは、さっきよりも緊張と不安が入り交じっているものに変化していた。
「ん?どうしたの。少し、怯えているようだけれど。」
少し、からかってみる。
「え…あ…いや、何でもない。それより、どうなんだよ。」
少し遅れて新矢志輝が答える。
案外、他人に対する態度というのは、かなり相手に心根を漏らしてしまうものらしい。
自分が心象を探って愉しんでいることを、その相手でもある彼もまた、探りあて察知しているのだろう。
深淵を覗くものは、深淵からも覗かれている。
新矢志輝は、自身にとっては取るに足らないが、相手が魔術師であるときは別だ。心が読まれるということは、死地に自ら向かっていくのと同義。
危険の芽は、早めに摘まなければならぬだろう。
逢魔坂、その名を持つもの、常に優雅を羽織るべし。
それが、高名な家督に裏打ちされた、彼女の承った唯一の家訓だった。
「どうもこうもないわよ。」
話が戻る。
「怪異なのか、使い魔の類いなのか、それとも本物の神の使いなのか。結局それだけの情報じゃ判らない。
なにせ"蛇"の伝承は世界各地にあるからね。心当たりのある魔術基盤がありすぎて特定できない。まぁでも、その程度の使い魔なら、君にとっては何の問題もないと思うけどね」
化野達が対峙した魔術師の中にも、蛇使いがいた。
残念ながら顔まではわからないが、自分達とそう変わらないくらいの年齢あるようだ。
しかし、そのものが使役していたのは黒い蛇、その大群。
新矢志輝が目撃したのは、白い蛇だという。
同じ浅影家を狙う魔術師だとしても、使い魔の"色"、その違いが大きな鍵になってくるには違いなかった。
何せ魔術は、その土地の人々の信仰がもろに出る。
宗教的な象徴や記号が魔術にもたらす影響は、決して小さなものではない。
「でも、油断しない方がいいわ。」
念を押して言う。
新矢志輝ならわかる筈だろう。
「土御門君が調べてくれたんだけどね、今回の件、どうしてもちょっときな臭いのよねぇ。」
「何があったんだ。そっちで。」
新矢志輝が喰い気味に聞いてくる。
「あったわ、いろいろとね。まぁ私の部はいつも何かしら物騒なことがあるんだけどね、けどまぁ大したものじゃない。今の忠告も、今回は単純にそんな気がしてるってだけ。」
「そうかよ。」
新矢志輝が苛立たしげに言う。
平静を装いつつも、内心焦っているんだろうなと、愉悦の猛りで思わずクスクスと失笑が溢れる。
「浅影のお嬢ちゃんとは仲良くしてる?」
「お前は俺のお袋かなんかかよ。」
「少し気になってね。向こうじゃ肩身の狭い思いをしてないかと心配になったんだけど、これなら大丈夫そうね。」
「はいはいわかった。もう切る。」
「じゃあお休み。周りに味方がいない夜を過ごして、私達の大切さに気づいてね。」
「わかってるさ。元よりそのつもりだぜ、俺は。」
ブツリ、と電話が切れる。
志輝弄りの余韻に浸りながら、傍らに座っていた、白髪の少年の右袖を惹く。
普通の男ならば、それだけで胸の鼓動その高鳴りが止まらなくなるだろう。
しかし、この男は別だ。
土御門有雪。
女好きの陰陽師。それ故、こういったものにもなれている。
「なんですか、部長。」
「仕事よ。」
「またですかァ!?さっき休んでみたいなこと言ってたじゃないですか!」
「基本戦わないし、明日からでいいわ。今夜はしっかり休みなさい。」
「部長の"基本"は信用ならないっすよ~」
土御門が狼狽する。
傍目で見てた化野が怪訝な顔をする。
「はいはい、わかりました。観念しますよ。
───────んで、その仕事って?」
直ぐにその声色が変わる。
つい先程までちょけていたのが想像できない。
すさまじい切り替えの早さも、この少年の武器なのだろう。
「今回の事件は、正直掴み所がなさすぎる。だから、君達には外側から埋めてもらう。
まずは───────」
「食べましょう。肉。」
逢魔坂は、沢山の肉が盛られた皿に囲まれながらそう言った。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
白髪の少年が叫ぶ。
黒い少女も、目を爛々と輝かせ、ご馳走を視線で嘗めている。
霜原市屈指の有名焼肉チェーン店。その中での出来事だった。




