溶け出す記憶
ふぅ……
ノートを閉じて、ため息を一つ。
私が吐いた息の分だけ、目の前に心のモヤがタバコの煙のように浮かび、ほどけるように消えた。
物憂げな目で部屋の窓を見ると、外では冷たい風が鳴いている。
この暗い雲ではきっと、今日の夜には雪が降るだろう。
指輪を嵌めた手が小刻みに震える。
仕方がなかったとはいえ、こんな日に掃除などしたくなかった。
気が進まないが、まだやる事は残っている。
私は私の意思が変わらぬように、最後の覚悟を決めた。
そして重くなった身体を椅子から立ち上げると、クローズラックにあったコートを片手に、マンションの自室を後にした。
◆◆◇◇
動くのも怠かった私が、やっと外に繰り出すことができた。
雪がちらつき始めた街は、どうも今の私には心寂しく思えたので、人の多そうなショッピングモールに入ることにした。
しかし、そこで私は衝撃の光景に出くわしてしまった。
――なんと、彼がレイコの腰に手を回しながら歩いていたのだ。
なんで？ なんでなんで、どうして？
今日は出張で県外に出掛けるって言っていたよね？
彼はいつも職場で見せている笑顔を振り撒きながら、レイコと楽しそうに会話をしている。
レイコもレイコで、彼にあんなに密着されているのに嫌がりもしていない。
側から見れば、休日にデートをする仲睦まじい夫婦にも思える。
そもそもレイコは、去年に学生時代から付き合っていた男性と結婚していた筈だ。
――まさか本当に裏切って……？
そのまま二人は、最近の流行りのコレクトショップが立ち並ぶ一角へと入っていった。
そして入った店は……ベビー専門店だった。
信じられない……
どういうことなの？
ショックを受けた私は、吐き気を抑え切れずにそのままトイレへ駆け込んだ。
◆◆◇◇
気分が悪い……吐きそうになる。
ここ数日、食事も満足に摂れていない。
医者にも診てもらったけど、これは治るようなものではないらしい。
時間が経てば次第に良くなるなんて、薬にもならない言葉を言われて余計に悪化した気分だ。
動くのも辛い身体を引き摺るようにして、どうにか職場へと着いた。
正直言ってもう帰りたいが、今月には会社を辞めるので、下手に休むことができない。
どうせ、もう少し耐えれば私は新しい幸せを掴めるのだ。
自分を奮い立たせ、残っていた引き継ぎなどの仕事をこなしていると、いつの間にか昼休憩となった。
私は相変わらず食べ物が喉を通らないので、自分の席で野菜ジュースをチビチビと飲んでいると、向かい側の席のレイコが、他の同僚の子と話しているのが聞こえた。
……どうやら、男の話だったようだ。
結婚式の話や、付き合う男の条件、食事中とは思えない下品な話など。
そしてその話の中に、彼の話題があった。
職場の中でも出世株である彼は、女性からの人気がかなり高い。
私も、彼が過去に幾度か告白されていると聞いたことがある。
ちなみに、そんな彼と同じ職場なのは、私のちょっとした自慢だ。
あまりにも大声で話していたせいだろう。
そこへ、噂の当人が登場してしまった。
彼はレイコや同僚に注意をしていたが、結局その後も少しだけ会話に混ざってしまっていた。
……なんだろう。なんだか、私の心がモヤモヤとする。
◆◆◇◇
今日は社内の忘年会だ。
私はお酒が飲めないが、彼も参加しているので出席することにしたのだ。
みんなは日頃のストレスを発散するかのように、ビールやハイボールを浴びるように飲んでいた。
私も飲めたら良かったんだけどなぁ。
そんな風に見ていたからだろうか。
なんと、彼が私を心配して話しかけに来てくれた！
彼もお酒は飲んではいなかったが、彼の持ち前の明るさで、私との会話を盛り上げてくれていた。
私は飲んでいない筈なのに、顔を真っ赤にさせていたら、なぜか彼に心配させてしまった。
貴方のせいですよって言ったら、彼は少し挙動不審になっていた。
そんな慌てふためく彼は、とても可愛くて……
◆◆◇◇
今日は夏休み。
あれから何ヶ月か経った。
結局、私は仕事を辞めなかった。
私はあれから、何かにつけて彼を目で追ってしまっている。
だって彼も時々、私のことを見て微笑んでくれるから。
それだけでもう、私は幸せなのだ。
◆◆◇◇
こんなに幸せなことって、あるだろうか。
私を産んでくれた親に感謝しても、しきれない。
まさに幸せの絶頂。
今なら死んでもいい。
……いや、死ねないわ。
まだまだこの幸せを噛みしめていたいもの。
取り敢えず、久しぶりに母さんの声が聞きたくなった。
帰ったら電話してみよう。
◆◆◇◇
あったかい。
人と繋がる事がこんなにも安心するだなんて、初めて知った。
少しぎこちない笑顔で彼を見ると、やっぱり素敵な笑顔で返してくれた。
この手を離したくないな。
◆◆◇◇
辛い。
男の上司が私にセクハラをするようになった。
最初は、やたら私に仕事を振るだけだった。
でも、次第にプライベートにまで口を出すようになってきてしまった。
仕事の相談に乗るからと、飲みに誘われたり、携帯の連絡先を聞かれたりもした。
そして、なぜか通勤の電車まで一緒に乗るようになったのだ。
なにが、この電車は痴漢が出るから危険だ。私が守るよ、だ。
正直、この人が一番危険だと思う。
さすがの私も危ないと思ったが、相談する相手がいない。
もう、仕事を辞めて実家に帰ってしまおうか。
そんな風に思いながら、仕事中にも関わらず、自分のデスクの上で蹲って泣いてしまった。
そうしたら、普段と違う様子の私に気付いた彼が、私に話しかけてくれた。
私は会社の人の居ない休憩室で、泣きじゃくりながら事情を話すと、彼は優しく頭を撫でながら慰めてくれた。
その時にはもう、彼の優しさが嬉しすぎて、私は心を揺さぶられてしまっていた。
そしてその日は、何故か居酒屋で鬱憤を晴らそう、ということになった。
最初の店で酔って調子に乗った私達は、その後も何軒かの居酒屋をハシゴした。
でも、彼もそんなにお酒は強くなかったみたいで、最後には二人ともベロベロに酔っ払ってしまっていた。
結局、終電を逃し、歩く足取りも覚束なくなってしまった私達は、どちらから誘うでもなく、目についたホテルに泊まってしまった。
……うん。結果だけ見たら、セクハラ上司には感謝してもいいのかもしれない。
◆◆◇◇
……
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…………
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………………
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今日は入社式！！！！
大学を卒業して、田舎から出てきた私にはいろいろと不安もあるけれど、頑張ります！！
だってね、職場を案内してくれた人がすっごいイケメンだったの。
俄然やる気が上がったよね！！
仕事を早く覚えて、デキる女なんだって見せつけることができれば……むふふ。
それにはまず、社会人に必須なメモスキルを極めないとね。
だから今日より、日記を書いてメモをする癖をつけようと思います。
……でも三日坊主な私だし、日記を買うのももったいない。
という訳で、取り敢えず学生時代の余ったルーズリーフに書くようにします！
よし、カッコいい旦那さんを捕まえて、子どもに囲まれた幸せな家庭を築くためにも、頑張るぞー！！
