35:おまけ。「おうじさま」(2)
憂鬱な春が去って、湿っぽい夏が来た。
落ち込んだままのシェリルの耳に、ある知らせが届く。それは、王都に出たという魔物が、小さな桃色の竜のブレスで倒されたというもの。
(キャロルだ……。すごいな、あの子。王都を救ったんだ……)
人化するのも、飛ぶのも、シェリルより劣っていた妹。でも、ブレスだけは妹の方が早く習得していた。というか、実はシェリル、まだブレスを吐くことができない。
(私もブレスを吐けるようになりたいな。ヘルムート様の隣にいても大丈夫なくらい、立派な竜になりたいの……)
一年もの間、眠りについていた王子様。今はいろいろと公務に追われて忙しそうだ。番であるはずのシェリルも、なかなか会わせてもらえない。
でも、だからこそ、この期間にシェリルは竜としての能力を上げる努力をしようと思った。
いつものように石の塔から舞い降りて、ふかふかの地面の上に立つ。今日の空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうだった。シェリルは少しうんざりした気分になったけれど、めげずにブレスを吐く練習をしようと息を吸い込んだ。
その時。大好きな番の声が聞こえた気がした。
シェリルは耳をぴこぴこさせながら、その声が聞こえてきた方向へ走る。いくつかの建物の先に、予想通り、大好きな竜の王子様の姿が見えた。
ぱっと顔を輝かせかけたシェリルだったのだけれど、その顔はすぐにぴしりと固まった。
「ヘルムート様ったら、そんなに私と一緒にいたいんですの? ふふふ」
「君とは長い付き合いだからな、ゴルネッサ」
竜の王子様は、ゴルネッサと一緒に談笑していた。シェリルの胸が、ズキンと痛む。
本物かどうか疑わしい、ちっぽけな番。
結婚の約束をしているという女性。
邪魔者は、だあれ?
ぐるぐるとシェリルの小さな頭の中で、良くない想像が駆け巡る。そこに、竜の王子様の楽しそうな笑い声が聞こえてきて、シェリルはぎゅっと目を瞑った。
これは、妹に対してずっと大切なことを隠し続けてきた罰なのだろうか。神様が、ずっと悪いことをしてきたシェリルに、おしおきをしているのだろうか。
シェリルは、妹キャロルほど、番に愛してもらえない。
無我夢中で、シェリルは空に向かって飛んだ。暗くどんよりした雲が浮かぶ湿った空を、必死で駆け抜けていく。
もう、大好きな竜の王子様の隣で笑える自信はなかった。
シェリルは誰にも何も言わず、竜の集落から逃げ出した。
ボロボロになりながら、辿り着いたのは王都。魔物の残した爪痕の残る街並みを、シェリルはひとり、とぼとぼと歩く。
(キャロルに会いたい。あの子がちゃんと幸せになっているか、確かめたい)
妹がいるという騎士学校の寮に、こっそりと忍び込む。少しだけで良い。大切な妹が笑っている姿が見たかった。
シェリルはそっと、妹がいるはずの部屋を覗き込んだ。
「エディ……待って。恥ずかしいの……」
「恥ずかしがるキャロルも、最高に可愛いよ。ほら、こっちを向いて?」
「エディのいじわる! ……でも、好き」
部屋の中では、エディとキャロルがものすごく仲良くしている最中だった。
シェリルは真顔になった。真顔で引き続き二人を観察する。
人間の姿になっているキャロルの頬に手を添えて、エディは甘く微笑んでいる。キャロルの顔はよく見えないけれど、たぶん蕩けているんだろうなと予想がつく。
キャロルがふにゃふにゃとエディに寄りかかった。すると、エディは力の抜けたキャロルの体を優しく押し倒す。ぎし、と小さくベッドの音が鳴った。
「キャロル、俺の番。大好きだよ……キス、しても良い?」
「うん。……嬉しいの」
と、その時。
「へぷっ」
シェリルはくしゃみをしてしまった。はっと気が付いて部屋の中に目を戻すと、真っ赤になったエディとキャロルが並んで床に正座していた。
「シェ、シェリル? いつからそこに……」
「ついさっき。大丈夫、エディがキャロルをベッドに押し倒したところなんて見てないの」
「見てる! 絶対見てる!」
今にも湯気が出そうなほど真っ赤になったエディとキャロルを見て、シェリルは噴き出した。
大切な妹は、大好きな番に愛されて、とても幸せそうにしていた。だから、シェリルはすごくすごく安心した。
安心したら、急に力が抜けた。
シェリルはぱたりとその場に倒れ込むと、そのまま意識を飛ばした。
目が覚めると、泣きそうな顔をしているキャロルがこちらを覗き込んでいた。小さな桃色の竜の姿で、シェリルの手を握ってくれている。
「良かった、シェリル! やっと起きてくれたの!」
「……キャロル? なんで竜化してるの? 人間の姿でエディといちゃいちゃするんじゃないの?」
寝ぼけた頭のまま思ったことを尋ねると、キャロルがぴゃっと飛び上がった。
「恥ずかしいこと言わないでほしいのー!」
「というか、俺が竜化してって頼んだんだよ。……ほら、人間キャロルを見てると、俺もいろいろ我慢できないから」
そう言いながら、エディがキャロルの後ろからひょこっと顔を出した。
どうやらここは寮の部屋の片隅、キャロル専用のベッドらしい。
「ふふ、エディもキャロルもとっても仲良しで安心したの。さすが、番なの」
「もう、シェリルったら! シェリルにも竜の王子様がいるでしょ!」
「……私は、キャロルみたいに良い子じゃないから。番に愛してなんてもらえないの」
シェリルが力なく笑うと、キャロルの顔色が変わった。
「どういうこと? 竜の王子様、起きたんでしょ? シェリルのこと、好きって言わないの?」
「……うん。言われたこと、ないの」
王子様は忙しいから、言葉もほとんど交わしていない。一緒にいる時間も少なかった。
シェリルは王子様のことが大好きだけど。王子様の方はシェリルのことなんて、どうでも良いのかもしれない。
「し、信じられないの! そんな薄情な王子様に、シェリルはあげられないの!」
キャロルがもふっとシェリルに抱き着いてきた。その温かさに、シェリルはほっとしてしまう。
明るい桃色の小さな竜が二人、仲良くぎゅうぎゅうする。可愛らしい双子竜の様子に、エディが優しい笑みを零した。
「シェリル、しばらくこの寮にいたら? キャロルも喜ぶし」
「え? 良いの? 私、邪魔じゃない?」
「邪魔なわけないよ。シェリルは俺の大切な従妹だしね」
エディもキャロルも、元気のないシェリルのことを心配してくれているらしい。シェリルは小さく「ありがとう」と呟いて、へにゃりと笑った。
そんなわけで、シェリルはしばらく王都で過ごすことになった。
騎士学校の生徒たちと一緒に遊んだり、キャロルたちと街にお出掛けしたりと、楽しく充実した毎日に満足する。
けれど、そんな平穏な日々も長くは続かなかった。
「……やっと、見つけた」
ある日の午後。街へおつかいに出ていたシェリルの前に、背の高い美青年が立ちはだかった。その美青年は息を切らし、眉を顰めてシェリルを見つめてくる。
こんな青年、知らない。シェリルはわけがわからなくて、こてりと首を傾げた。




