後編
稲穂は、順調に実りをつけた。
珍しく、少年は同じ年頃の子たちと遊んでいる。
収穫の時期は近くの家同士で順繰りに協力しあうので、子どもたちも、親と一緒に朝から夕方までよその家にいることになる。
1人で行けないような離れた家の子と遊ぶ機会は滅多にないからか、少年も思い切りはしゃいでいた。
このところは、天候も安定している。
稲刈りを無事済ませられたから、今年は冬を越せるだろう。
農閑期に行商に出れば、単純に収入が増える。
人々の笑顔を、九尾も穏やかな気持ちで眺めていた。
そろそろ冬だ。
町へ筵と薪を売りにいっていた少年が、帰ってきた早々に、九尾のもとへ嬉しそうにやってきた。
「九尾様!また売れたよ」
時間を見つけては木を彫り、狐の置物を作っていたが、最近では雀や馬など、様々なものを作れるようになった。
ちょっと凝った小物入れや、入れ子の置物。
そしてそれらは、町の好事家相手によく売れる。
最近では小間物を扱う店とも馴染みになり、個人で売り歩くよりは、と、そこを通して捌さばいてもらうようになったらしい。
「それでな、九尾様」
少年が、珍しく改まった様子で話す。
「俺の細工を、小間物屋の主人が気に入ってくれて」
「ああ、良かったじゃないか」
うん、まあそれはそうなんだけど、と、少年はもどかしそうだ。
「どうした?」
どうにも歯切れが悪いが、促してみると意外なことを言った。
「俺、奉公しないかと、言われたんだ」
「奉公?」
小間物屋にか、と聞くとそうだと答えた。
「細工を作りながら、店の仕事をしたらどうかって。奉公したら仕送りができるだろ?もっと暮らしは楽になるだろ?」
確かに、収入は増える。だが。
「町に行けば、しばらく帰って来られないぞ。親と会えなくなるんだ」
「それもわかってる」
九尾は町にいたときに、こき使われて心身ともに疲弊していく者と、仕事も覚えて晴れやかに独立していく者と、両方を見てきた。
「父ちゃんと母ちゃんは、行ってもいいと言ったんだ」
少年の言葉は、意志そのままに、強い。
「俺の細工物で喜ぶ人がいる、働けばお金ももらえる、父ちゃん母ちゃんも助かる」
子供がいま見えている世界の中で、これ以上の何があるかというくらい魅力的な未来だ。
将来の、幸せな生活のみを見つめた純粋な気持ちに、水をさしたくない。
だから、九尾はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「…そうか」
無理やりに作った笑顔を、少年に向ける。
少年は、自分の懐から細工ものを1つ取り出した。九尾だ。
「おれの分も、作ったんだ。寂しくなっても、これがあれば大丈夫な気がして」
だめだ。
九尾の目から涙が溢れた。
とめどなく、人間の子供のように。
「九尾様」
少年は困ったように笑った。
神様も、泣くんだな。
「いってきます」
元気に手を振り、少年は歩いていった。
奉公先までは父親が連れていくので、母親とは、この場で別れの挨拶をかわした。
親子ともに、悲壮感はない。
「良かったのか」
父子の姿が見えなくなってから、九尾は母親に聞いた。
「いいんです」
母親の声は、ゆるぎない。
「親は、子供より先に逝きます。今いっときの感情で子供を手放さず独り立ちする機会を奪うより、この先あの子が独りで生きていけるよう後押しするほうが大事です」
ちょっと早いですが。そう付け足して笑った。
「親っていうのは、強いな」
嘆息する。
「俺からしたら、人間たちの一生ははるかに短い。短いからこそ、一緒にいたいとは思わないのか」
はかなく、孤独に生を閉じた子供の姿を思い浮かべる。
「短いからこそ、閉じ込めておきたくない。困難な道だとしても、自分で選んだ場所に、自分の足で歩いていくのを見守るのも親のつとめです」
九尾は、日に焼けてたくましく山を登る少年を思い出す。
「そうだな」
そうだ、あの子とは違うのだ。
目を瞑り、山の向こうに想いを馳せた。
・・・・・
ここ2年あまり、村は平穏だ。
気候は安定し、作物の収穫も順調。疫病もなく、新しい命も生まれた。
「かわいいなあ!」
相好を崩しているのは、12歳になった少年だ。
年の離れた弟が生まれたのがつい2ヶ月ほど前、田植えが終わって少し経った頃だ。
本来なら奉公先したばかりで実家に戻ることも叶わないのだが、少年は自身の細工ものを携えて、近隣の町へ使いに出されることがある。
その日も、たまたま村をかすめての道中だったため、寝る間を惜しんで峠を越え、商いに差し支えないよう時間を捻出して実家に寄ったのだ。
「父ちゃんがたまに店に顔を出してくれるから様子は聞いてたけど、やっぱり実際に見るとかわいいなあ」
慣れない手つきで抱っこされて居心地が悪いのか、赤ん坊はむずがっている。
「お前も、こんな風だったな」
父親が懐かしむように言った。少年が生まれた頃より、家の暮らしぶりも良くなり、村全体も活気づいている。
12歳の少年にとっては、この上ない幸せだろう。
「戻ってこないのか」
いつもの、祠の裏の木陰で少年と向かい合い、おにぎりを頬張りながら九尾はいった。
背が伸びてやや精悍さも加わった少年だが、九尾はというと、2年前と変わらぬ10歳程度の男子の姿だ。
九尾をやや見下ろしながら、少年は首を振る。
戻らない、と。
母親は、ほとんど毎日祠に供え物をしにくる。そして、手を合わせてしばし祈る。
神でなくとも、もののけでなくとも、その心のうちは手に取るようにわかる。
元気で。
ただ、それだけを、ひたすら繰り返し唱えているのだ。
そして少年のほうも、その光景を思い浮かべられないほどなら、決意を持ってひとり町までは行かないだろう。
「あと3年もすれば」
3年経てば、15歳だ。今すでに母親と同じくらいの背格好だが、その頃には父親ほどの体格になっているかもしれない。
「もう少し店の仕事を任せてもらえるかもしれない。細工物だって」
そう言って背負子に入れた手が、ふと止まった。
「…どうした」
いや、と俯きながら手を抜くが、何も持ってはいない。
「ごめんな。売り物だから、見せちゃいけないんだ」
申し訳なさそうに少年は言うが、九尾にとってはたいしたことではない。構わない、と言い立ち上がった。
「そろそろ行った方が良いだろう。また、帰りにでも寄ったらいい」
「うん」
明るく裏表のない返事は、2年前から変わらない。
じゃあ、と手を振った。
またね。そう言って、街道に向かって大股で歩いていく。
また。
会えるだろうか。
そんな思いが、ふと頭を過った。
「縁起でもないな」
神が縁起など言ってどうする、と苦笑した。
しかしただ、少年の友人として、この不安が懸念で終わればいい、ただそう思った。
・・・・・
お盆時期は皆気がそぞろになる。
帰ってきてほしい。
会いたい。そういう気持ちが渦を巻く。
「大きくなったな」
少年の母親は、忙しい合間を縫って祠にお参りにくる。背負われている赤ん坊の成長を見るのも、九尾の楽しみの1つだ。
「あいつに似てるな」
意味がわかるのか、赤ん坊は声を出して笑う。
もう生後半年だ。腰がすわり、田んぼの脇で稲刈りをみながら笑っている姿は、皆の心をほぐした。
「正月には帰ってくるようなことが、手紙に書いてありました」
母親は次男を背中からおろすと、九尾の腕に預ける。
柔らかそうでいて、どっしりしている。栄養状態がいいのだろう。
「奉公したてのわりには、思ったより帰って来られるよな。遠方への使いの合間に寄ったり」
「そうですね。なんでも、細工物の作り手が行くのが一番なんですって」
そう言って、祠に置いてある木彫りの狐を見る。
隣にあるのは、九尾の依り代となっている、御神体の石だ。この石は、神として合祀されていた町の神社の境内から持ち帰られたもので、これが祀られている限り、村から離れることはない。
「あいつが持っている九尾の細工物に憑いて、一緒に行けたら良かったんだけどな」
この木彫りの九尾と同じものを、少年は持っている。
依り代ではないが、寄り処として。
「…あれ」
木彫りの細工を手に取った母親が、何かに気づいたように呟いた。なんだ、と覗きこむと、尾が1本ひび割れている。
「雨に濡れて、木が脆くなってしまったんでしょうか。こういうことがあるから、作った本人が直接売りにいくことになったのかしら」
直せないかしら、とひび割れた部分に触ると、それほど力を入れていないのにぽきりと折れてしまった。
「あっ」
母親は、隣にいる九尾の化身を見た。
その顔がまるで取り返しがつかないことをしたかのように青ざめていたので、九尾は思わず笑ってしまった。
「俺の尾がどうにかなったわけじゃないんだから。謝るなら、あいつに謝ればいい」
それでも、すみません、と九尾に謝り、折れた尾も一緒にして細工物を祠に戻した。
「夫が」
ためらいがちに、母親が話し始めた。
「町へ行った時にちょっと気になることを言っていたんです」
「気になること?」
はい、と言いながら赤ん坊を九尾から受けとる。赤ん坊はすでに眠っていた。
「役人が多かったと。夫は草鞋を売る際、篭を背負っていきますが、中を全部出せと言われ、大変だったと言っていました」
町は人の出入りは激しいが、いかにも無宿のものならともかく、農村から出稼ぎや行商に来ているものまでいちいち監視はしていられない。
そもそも、町でそんなことをすれば、店を構えるものや上前をはねるものから役人が袖の下を受け取れなくなる。
長く人の生活に身を置く九尾は、人間の欲と悪知恵がいかに上手い関係を保っているかを知っていた。
「何か起きると、真っ先に犠牲になるのは力が弱い者たちだ。あいつに、何もなければいいがな」
母親も、神妙な顔で頷いた。
もう、この土地に来て随分経つ。
町にいる時よりは人の欲にあてられず平穏に過ごしてきたが、それでもたまに、欲はもとより不満や嫉妬、悋気を抱えた人間が自分勝手な願掛けをしにくる。
そうして、何代も人間が生まれては去るのを見てきた。
自分が神である必要は、あるのだろうか。
そう、自問したときも多々あった中で、少年の純粋さは、九尾が「神であること」を自覚できる、九尾にとっての寄り処であったのだ。
寂しい。
彼が村を離れるとき、どうしても言えなかった言葉。
神だから、人間ではないから。
そんなことは関係なかったのだ。
「寂しい」
そう、夜空を見上げ、ぽつりと呟いた。
稲刈りが終わりしばらく経つと、年越しの準備が始まる。
干し藁を積み、薪を束ね、野菜を干し、穀物を備蓄し、神様に祈る。
一年の感謝と、これからの幸せを。
九尾は、山で狐たちと一緒に過ごしていた。
山の環境が整えば、冬でも餌に困ることはない。
「うまいか?」
供え物を狐たちに持ってきたのだ。
美味しそうに食べるさまを、親のような目で眺める。
化ける術を覚えたての頃は、同じ力を持つ同胞と家族のように過ごしたときもあった。
しかし、結局は誰も彼もが先にいなくなるのだ。
「あいつが帰ってきたら、家に戻るように言おうと思うんだ。どうだ?」
狐たちは、尾を振って喜んでいる。
「そうか、お前たちもあいつのことが好きだもんな」
あいつが帰ってきたら、話を聞いて、労い、きちんと伝えようか。
寂しいから、帰ってきてほしい、と。
子供みたいだが、一緒に過ごす家族がいる幸せは、わざわざ自分から手放す必要はないのだから。
晦日は、朝から雲行きが怪しかったが、日が暮れるころには、ちらちらと白いものが降ってきた。
あと2日で新年だが、この分だと雪の中の年越しとなるだろう。
「まだ帰ってこないのか」
九尾は、少年の家に来た。
父親は、様子を見がてら町へ年越し用品の買い出しに行っており、夕方には戻るはすだと言っていたが、まだのようだ。
掃除や年越し準備であわただしく過ごしている母親は、入り口に立っている九尾を見て思わず笑ってしまった。
「新年に神様をお迎えする準備をしているのに、もう神様のほうからいらしていただけたんですか」
「まあな」
九尾も苦笑する。
ふと、足元になにかが触れた。這い這いをしてきた赤ん坊の手だった。
「俺がみていてやろう」
抱き上げると、助かります、と母親はほっとした笑顔を向けてきた。
そこに、男が一人、駆け込んできた。
「奥さん、いるか」
血相を変えている。隣の田畑の持ち主だ。
九尾は他の村人へ姿を見せないようにしているので、男は最初驚いたようだが、赤ん坊を抱いた姿にただの子守りと思ったらしい。子守りやお使いで日銭を稼ぎにくる無宿の子供もまた、いなくはないのだ。
「どうしたの」
ただならぬ様子に、母親も心配そうな顔をする。
隣人は素早く家の中を見渡す。
「だんなは」
「うちの人は、まだ帰ってないけど…」
そうか、と、体を小刻みに揺すり、落ち着かない様子でなにやら呟いているが、一瞬、穏やかではない言葉が聞こえた。
「謀反、とは」
九尾が、声を発した。子供の声ながら威圧感がある。
隣人は驚いたが、母親のほうを向き説明を始めた。
謀反、密偵、打ち首。
およそ町から離れた農民には縁の無い言葉だ。
しかし、町には少年の父親が行商に行っている。そして、少年も。
「最近、出入りのものへの監視が厳しいと聞いたが、そのためだったのか…」
平素は気丈な母親も、さすがに、悲痛な溜め息を漏らした。すると、足音がした。
「いま、戻った」
「…あんた!」
父親も青白い顔をしている。心配そうな隣人の姿を見、九尾の姿を見て、妻を見て呟いた。
「あの子が…あの子が町にいないんだ。何日か前によその町へ使いに出されているらしいが、その、小間物屋が謀反の手引きをした罪で今日」
捕まった、と。
九尾は、家を飛び出した。
・・・・・・・
あたりはすでに、闇だ。
ちらちらと舞う雪は次第に粒を大きくし、地面をうっすら覆い始める。
九尾は風に乗った。
しかし、いくら早く走ろうと、この村と、この山から離れられないのがはがゆい。
せめて、戻ってこい。
そう心の中で念じながら祠の近くに来たときに、人影を見つけた。
「あ…」
九尾が発した短い言葉に気づいてこちらを見たのは、少年だ。
頭と肩は、雪で真っ白だ。
この寒いのに、傘をかぶっていない。かろうじて合羽は着ているが、手も足も紫色になっている。
草鞋のみ履いた凍える足は、もう限界だろうが、這うように少年は九尾のもとへやってきた。
「九尾さま…」
安心したかのような笑顔をみせ、そのまま九尾の腕の中に倒れこむ。
体も冷たく、所々凍傷を起こしている。
もう、長くないかもしれない。
「九尾さま、おれ…」
「喋るな。わかってる」
うん、と、九尾は少年を見つめた。少年の手にあるのは、細工ものの1つ。
「入れ子か。この中に、謀反の手引きになる手紙を隠して運ばされたんだな」
うん、と少年は頷いた。
「さすが九尾さまだな…俺の細工ものは、最初からそのために、利用されるために買われたんだ」
少年の目から、涙がこぼれた。
丹精こめて、誰かの心に届くように作ったものが、誰かを傷付けるために使われていた。しかも、自らが運び屋となって。
「お前は…悪くない」
九尾の言葉に、ううん、と少年は首をふる。
「おれはわかっていたんだ…だけど、もう抜けられなかった。手を組んだ町の首謀者のところにも役人がきた。俺は、女中さんに逃がしてもらったけど、雪が降るなんて思わなくて…」
「もう良い。大丈夫だ」
九尾は必死に、少年の腕をさする。ふと、自分の腕を見た。
「俺の」
そう言って、九尾は少年の目の前に腕を突き出した。
「俺の、腕を食え」
少年は、目を見張る。
不老長寿の妙薬。
それはかつて九尾が捕らえられていたときに、大陸からの商人伝いで聞いたという、眉唾ものの話である。
しかし、嘘かもしれないが、本当かもしれない。
「食え。腕がいやなら、尾でも腹でもどこでもいい。とにかく、俺を」
少年の口元に、腕を押し当てる。
「俺を食え」
そうすれば、この消えそうな命は助かるかもしれない。
いや、助かってほしい。食え。
「…俺のために…」
食ってくれ。
言葉にならない。
「九尾さまは…よく泣くなあ」
少年は、ふふ、と笑った。母親似の、慈愛に満ちた笑顔だ。
九尾の腕を、冷たい指が押し返す。
「食べられないよ」
毅然とした口調だ。
「友達は、食べられない。それに、これはおれ自身が招いた種なんだ」
いつだか、細工ものを見せてくれようとして、手を止めたことがあった。あの時すでに、密偵まがいのことをさせられていたのだろう。道理に背いたことをさせられてるとわかったとき、この素直な少年はどう思っただろう。そして、なぜ止められなかったのか。
「…脅されたか」
「そんなにあからさまじゃないけど」
少年はちょっと困ったように笑った。家族を大事に思って町へ出て、家族を盾に取られて悪事の片棒を担がされたのか。
「うん、でも…。捕まったみたいだから、良かったと思う。誰かの私欲を肥やすための謀反は、よくないから」
うん、とちからなく頷く少年を、九尾は優しく支えた。
「町にいる間に、難しい言葉も覚えたんだな」
九尾が言い、2人で顔を見合わせて笑った。
「…それは?」
少年が祠を見上げる。尾が1本折れた、木の狐。
お前の母親がな、と苦笑しながら渡してやると、少年は懐から何かを取り出した。もう1体の、木の九尾だ。
「もうおれは持っていられないから、これを置いておけばいいよ。安心して。なにも入ってないから」
ふふっ、と、少年は、口元に笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
母ちゃん、父ちゃん元気かな、ああ、もう大きくなったろうな。
九尾は膝に少年の頭を乗せたまま、うん、と頷く。
九尾さま。少年の声はもう消え入りそうだ。
「なんだ」
ありがとう、と聞こえた。そして。
「おれも、寂しかったよ」
最後の言葉だった。
九尾はそのまま、少年を背負って歩いた。
裸足だが、もとは雪山も走り回る獣だからか、寒さは感じない。
妖力を得て、神からも力を授かった今は、空腹でふらふらになっても死ぬことはない。
しかし、背中の少年は、すでに冷たい。
家に連れ帰ると、町で起こっていることを聞いていた母親は、すぐに少年を背負った九尾に駆けよったが、九尾が首を振るとその場に泣き崩れた。
足元に、赤ん坊が寄り添う。
父親は、優しく少年を背中からおろして、布団に寝かせる。
「寒かったな」
父親の声に、母親の嗚咽が重なった。
大晦日。
朝、まだ日が上りきる前に、九尾は少年の父親とともに祠にいた。父親の手には、少年が愛用していた、鑿。
「九尾さまがいなくなったら、俺たちはどうしたらいいか…」
父親は困惑しているが、九尾は無表情のまま淡々と話す。
「大丈夫だ」
自らの手で祠に積もった雪をはらうと、父親を見た。
父親は、おそるおそる祠の中から、御神体である石を取り出した。
「元々、この村には祠はなかったんだ。神に祈り、願いが叶えられると、人間は満足できなくなる。健康で暮らせたらいいと言いながら、他人を蹴落としてまで富を得ようとする者は、必ず報いを受ける」
そうだ。あいつは自分の足で1ヶ月願掛けをしにきた。
その足や、気持ちがあれば、神頼みをしなくても十分幸せになれたのに。
いつもあいつと過ごしていた切り株の上に、御神体を置くように言い、雪の中から手頃な石を探して父親に渡した。
父親は、ためらいながらも、御神体に鑿をあてがう。
「頼む」
鑿の上に石が振り落とされる。
数回そうした後。
御神体は、ぴしぴしと音をたて、やがて割れた。
翌日に正月を迎えるとは思えないくらい、町は騒然としていた。
前日の捕物騒ぎで、主要な首謀者は打ち首となった。
一人、情報の受け渡し役が、共謀した他の町へ出ていたが、隙を見て逃げ出しまままだ見つかっていない。
夕べの雪なら助からないだろう、と役人はそれ以上深追いするのは止めた。
そこで一件落着になるかと思えたが、一人二人と、穏やかではないことを口にする者たちがいた。
もとは、ーー様が。
いいや、ーー様ではないか。
そういえば、ーー様は。
それはあっという間に町中に広がり、役人に伝わり、上の者の耳に入る。
後ろめたいことを抱えた者は、自分以外の口を封じた。次から次へと。
ご乱心、という言葉が、大晦日の町の中を駆け抜けた。
人を信じられない者たちが、お互いに刃を向ける。
最期は、あっけなかった。
・・・・・
九尾は、町人の姿から、また10才の男の子の姿に変化を戻す。
もとは人心を惑わす力を持つ長寿の狐だ。
ちょっと良からぬ噂をたてて、猜疑心から相討ちに導くのなど、造作もないことだった。
明日は、正月だ。
「…これからどうしようか」
遠くに見える山。そのふもとの、村のあるほうを見る。
少年の父親に頼み、村の御神体を壊してもらうと、もう、九尾を祠に縛り付けているものは無くなった。
村を飛び出し、町で仇をうった自分は、もう神ではない。
そもそも、神である必要はなかったのだ。
「九尾さま」
割れた御神体をみて、父親は寂しそうに言った。
「神様に言うのは恐れ多いですが」
九尾は、いままで自分の依り代となっていた石を手に取る。
「私たちは、あの子にとって一番の友達ができたのを、とても嬉しく思っていたんですよ」
父親の言葉に、九尾は頷いた。
少年の形見である、2体の木彫りの九尾を手にとり、父親に渡した。折れた尾を直せるものは、もういない。
「俺もだ。俺もあいつと友達になれて良かった」
騒動は数日間続き、突然終息した。
なんら関わりのない町人たちの無事を見届け、九尾はふらりと町を出る。
村に立ち寄り、少年の家を覗くと、彼の弟が木彫りの狐を手にして遊んでいるのが見えた。
兄の分まで、幸せに。そう願いその場を去る。
友達は、いない。
俺はもう、神ではない。
「さて、どこに行こう…」
九尾はそう呟き、自らが起こした風と一体となる。
稲穂の色をした一迅の風は、村を、田畑を優しくなで、人知れずどこかへ消えていった。
九尾の神様・了