喉休め 私たちは絶対に絶対に戻したりしない 後編4
「いや……ルルさん、そんな無理して食べなくても」
「リオが食べるものなのですから、自らの舌で確かめねば」
ルルさんが前世殿の毒味役だった人に見えてきた。顔色は悪く、ゴクリと唾を飲み込みながら刺身を見つめている。
私は刺身について特に造詣が深いわけでもないけれど、そんな覚悟で食べるものではないというのはわかる。
「フィアルルー、生食が心配であれば我々が先に食べよう」
「そうだよルルさん、美味しいと思う人が食べればいいんだよ」
「そうですな、フィアルルー殿。心意気は立派なものだが、無理することはない」
フィデジアさん、そのご両親、私などに見守られながら、ルルさんは震える手で刺身を取った。ちなみにピスクさんは煮魚好きなユウキくんのためにデレデレとスプーンで白身魚を運んでいた。
ルルさん、よりにもよって大きな一切れを……うっすら透き通るような身に脂も乗っていて、ちょんと付けられた柚子胡椒っぽい見た目のペーストが非常に美味しそうである。
むしろ私が食べたいなと思いつつ見守っていると、ルルさんがじっと眺めすぎたのか、刺身はつるんと溢れて私が座っている左側へと落ちた。
「あっ」
もったいないと思う前に、バクンと音が響く。上げられた鼻先のせいで水色の喉が見えている。
「ニャニが食べちゃった」
「し、神獣ニャニ……」
すすすと後退して鼻先を下ろしたニャニは、バク、バクと顎をしゃくり上げるようにして刺身を噛み、そして飲み込んでいく。ゴクリと鼻先を上げたあと、ニャニはゆっくりと片手を上げてルルさんの足の上にたむ、と手を置き、それからニタァ……と牙を見せた。
「ニャニ、刺身も食べるんだね」
「川に潜ることも多いので慣れているのかもしれませんね、リオ様」
「あっそうか。旅してたときにも魚取ってきてたなそういえば」
「おお、暴徒が出た折の話ですかな。獣の民が住む大陸にも魚がいたのですね」
足元からカフーと満足そうな鼻息が聞こえ、私たちは和気藹々と喋る。
前にシーリース関連で揉めたときの「救世主、神の力を借りてなんか大陸渡った件」についてはそこそこ話が伝わっているので、フィデジアさんのご家族も興味津々のようだった。ラーラーの民もラーラーの民が住む大陸についてもよく知らない人が多いため、どんな感じだったか、どういう料理が美味しかったかなどの話はよくウケる。私の鉄板ネタなのだった。
「神獣ニャニですら……食べた……」
ニャニが勢い良く魚を咥えて川から上がってくるワイルドさについて説明していると、ルルさんがきっと顔をあげる。そして鋭い目で刺身を捉え、パッと2切れ取ると口の中に放り込んだ。
「おお、さすがフィアルルー殿!」
「どうです、食べてみると美味しいでしょう?」
「これを機に好きになっていただけると嬉しい」
「ルルさん……大丈夫?」
ゆっくりとカトラリーを置き、そしてゆっくりと口を片手で覆ったルルさんは、どうにかという感じで頷いた。顔色が非常に悪いけれど、頑張って噛んで飲み込もうとしているようだ。
もう味見してくれたしいっか、とルルさんが食べた刺身を私も食べてみる。ちょんと付けた柚子胡椒色の調味料は、どちらかというとしょっぱい感じの味付けだった。脂の乗った味わいに非常に合っていて美味しい。新鮮で臭みもなく、ご飯が欲しくなる味だった。
「おいしーい!!」
「リオ様は本当にお好きなのですね」
「うん。すごく美味しいです!」
「うちの料理番も喜ぶことでしょう。どうぞ沢山食べてください」
なめろう的なものは薬味が利いていて美味しかったし、ヅケはピリ辛で手が止まらない。刺身も野菜を巻いて、違う調味料で食べるといろんな味わいがあって美味しい。
のだけれど、ルルさんはまだ口で手を押さえたまま動きを止めていた。
「ルルさん、顔色悪いけど大丈夫? 具合悪い?」
ルルさんはふるふると頭を振ってから、コップを掴んでぐいーっと一気飲みする。
「……いえ、すみません。安全なようです……が、どうしても昔を思い出してしまって」
「そりゃ1ヶ月も寝込んだらトラウマになるよね」
蝋人形的な顔色になりつつも、ルルさんはヅケやなめろうも味見した。なまじ精神が強靭だとこういうとき大変そうである。ニャニは私たちの足元をウロウロして、給仕の人に大きなサクを貰っていた。ちょっと羨ましかった。
ルルさんも刺身を美味しいとは思わなかったものの、どうやら新鮮で心配無用だと分かってくれたらしい。よかったよかった。
「ねねねルルさん。もう大丈夫だって分かったんだから、無理して食べることないよ。ほらこの焼き魚ルルさんが好きなやつだよね。交換しようか?」
「リオ……食べ足りないのですね」
ルルさんは複雑な目で私を見たものの、これ以上食べることは無理だと判断したようで自分のお刺身を私にくれた。ルルさんは刺身を喜んでムシャムシャする私を眺めて、マシになってきた顔色でふっと微笑む。
「ふいー、美味しかったねえ」
「本当に美味しそうに食べていましたね」
デザートまでしっかりいただき、部屋に戻ってくるとルルさんが苦笑しながらお茶を淹れてくれた。テーブルで向かい合いながらゆっくり食休みをとる。ニャニも色々食べさせてもらったせいか、ぺたんと伏せて大人しくしていた。じわじわ動いて人の足の下に潜り込もうとするので、定期的に押しやらないといけないけれども。
「しかしルルさん、あんな状態になってまで本当によく味見できたね」
「リオが食べるものですから、他の者任せにしたくなかったのです」
さすがルルさんセキュリティ意識が高い。
「でももう平気だってわかったでしょ? 明日からは無理しないでね」
「いえ……」
「えっ明日も味見やるの?!」
もはやセルフ拷問の域では。
せっかくの美味しい生魚たちが美味しくなさそうに食べられるのも何だか可哀想……というか私の取り分が減るので、無理しないでいいというのに。
無理しないで私が食べるしと説得していると、ルルさんが手を伸ばして私の手を握った。
「いえ、リオがあれだけ美味しそうに食べるので、いつか私も共に微笑みながら食べられるようになったらいいなと思ったんです」
「ルルさん」
じっと私を見つめてそっと微笑む青い目は、いつもと同じように優しい。
過保護になっちゃうのも、トラウマに立ち向かっちゃうのも、ルルさんの海のように広い愛情が為せるわざなのだろう。なんだか少し申し訳なくて、ちょっと嬉しくて、ルルさんのこういうとこやっぱり好きだなあと思う。
掌を上にしてぎゅっとルルさんの手を握り返すと、ルルさんがまた嬉しそうに笑った。
「まあ、生魚を笑いながら食べるのは随分先になりそうですが」
「そうだねえ……でも、何百年もあるもんね」
「はい」
私たちは生まれも違うし、エルフと人間だし、価値観が違うことだってある。それを尊重していくことも、長い年月の間ですり合わせていくこともできる。そう考えると、途方もなく思える寿命もいいものだなあと思った。
ちなみに後日ジュシスカさんから聞いたところによると、ルルさん、生魚で1ヶ月寝込む、というのを「たまたまかもしれないから」と3回もやったらしい。
私はその不屈の精神に慄いたし、ちょっと運が悪すぎやしないかとも思ってしまったのだった。




