喉休め 私たちは絶対に絶対に戻したりしない 後編2
そして冒頭へ戻る。
「リオ、生魚の恐怖を知らないということは幸運なことなのです。わざわざ不幸を掴みにいくことほど愚かなことはありません。魚料理が食べたいのなら、他のものにしましょう」
「ルルさんいきなりどうしたの?!」
まるでこの先に魔王が待ち構えていて、行けば死ぬとわかっている相手を説得しているようではないか。
「落ち着いてルルさん、ただの魚だよ、生で食べても大丈夫だよ」
「リオが世間知らずなのはわかっていましたが、やはりあなたはもう少しこの世界を勉強する必要があるようですね」
「微妙にディスったよね今」
ニャニに頷くと、ニャニがルルさんにシャーと威嚇する。しかし足元のシャーをルルさんは気にも留めずに私へと向き合った。深刻な顔で。
「リオ、魚は火を通して食べるものです。獣ならいざ知らず、人が生で食べてもいいものではありません。地獄を見ますよ」
「地獄て。ルルさん生魚でどんな思いをしたというの?」
遠くを見たルルさんは、ふうと溜息を吐いてからゆるゆると頭を振った。
何があったんだ。
ニャニがシャーからのあくびに移った頃、見かねたフィデジアさんが助け舟を出してくれた。
「フィアルルー、心配するのはわかるが、この湖の魚は安全だ。我が一族も周辺の民も長く生で食してきたが、危険なことは何もなかった」
「何という命知らずな……」
「ルルさん聞いてた? ここの魚は生で食べれるんだよ」
恐ろしいものを見る目でフィデジアさんを見ないでほしい。どんなトラウマがあるんだ。アニサキスにでも当たったのか。
「まあ生魚が好きじゃないなら、ルルさんは他の料理を出してもらったらいいんじゃないかな。ねえフィデジアさん」
「はい。生の魚は出ても一品二品ですから、フィアルルーも食べられるものはあります」
「だって。大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのですか。そういう問題ではない」
ルルさんは私の手をしっかり握りつつも、こんなことなら他の場所へ行くべきだったとか肉料理に拘っていればとか呟いている。そんなに生魚が嫌なのか。
私はそっとフィデジアさんに耳打ちした。
「あのさ、生魚ってどうやって食べるの? なんか危ない食べ方なの?」
「そのようなことはありませんが……、捌いて骨と腸を抜き、薄く切って調味料を付けて食べるのが一般的です。他にはあらかじめ調味料に漬け込んで食べたり、刻んで薬草と混ぜる料理もありますが」
「私の知ってるやつと同じだ」
刺身である。ヅケとなめろうである。ますます食べたくなってきた。
少し雲が出てきたし、引き続き観光という空気でもなくなったので、とりあえず私たちは豪邸へ戻ることにした。
移動の疲れもあるだろうということで私とルルさんはフィデジアさんと一旦別れ、夕食まで案内された寝室で寛ぐことにする。
「リオ……どうしても諦めないのですか? あなたはあれがどれだけ危険な食べ物かわかっていない」
「いや、フィデジアさんが安全だって言ってたじゃん。ルルさん心配しすぎ」
寛げねえ。
よっこらしょとベッドに腰掛けたところで、ルルさんがすかさず私の前に膝をついて真剣な顔で説得の体勢に入ってしまった。生魚中止を諦めたわけではなかったようだ。
「ルルさん、私が前暮らしてたとこでは生魚はよく食べられていてね、私も食べ慣れてるんだよ。お金の問題からそんなに頻繁には食べてはなかったけど」
「なんとも恐ろしいことですが、そのようなことができたのはリオの運がかなり良かったということでしょう。もしくは、ここの魚とは種類が違うからでは」
「いやいやそれもあるんだろうけど、この辺の人たちは現に食べて暮らしてるわけだし」
「特別に加護のある人々なのかもしれません。リオを危険に晒すわけには」
ルルさんはそもそも生魚を危険視しているうえに、私に対するセキュリティも発動してしまったようである。降りかかる火の粉どころか火元から消火してしまうようなルルさんの過保護っぷりは普段ならありがたいところだけれど、今は別に何も燃えていないことに気がついてほしい。
私も最近は忘れ気味とはいえ日本人のはしくれである。懐かしい刺身が食べられるチャンスがあるならそれを逃したくない。このまえアマンダさんが彼氏と日本旅行行ったとかで和食の画像を怒涛のように送ってきていたというのもあるし。
「ともかく、ルルさんは嫌なら生魚食べないでもいいよ。私が代わりに食べるし」
「だからそれが駄目だと」
「大丈夫だってば。もう、ルルさんは私にクマ食べさせたくせに。私はルルさんに生魚食べろって言ってるわけじゃないでしょ。私が食べたいんだから食べるだけなのに何が悪いの?」
例えそれが心配からであっても、食べたいものをそんなに否定されるとやっぱりいい気持ちじゃない。せっかくおもてなしで料理してくれる人にとっても、楽しみにしてる私にとっても。
「リオ」
「生魚がイヤなら焼き魚食べとけばいいでしょ! ルルさんのニャニ! フィデジアさんのとこ行ってくる!」
立ち上がってルルさんの手と視線をぺっと振り払い、私は部屋を出てドアを勢いよく閉めた。
ニャニが挟まった。
「あ、ニャニごめん」
よろよろと片手を上げたニャニと一緒に廊下を歩き、私はフィデジアさん達の部屋を目指した。




