お時間終了5分前のコール音が大きくてビクッてなる18
村の南側にごっそりと面している大陸のフチは、そこから世界が切り取られているように左右へと果てしなく広がっていた。目の前に広がるのはぼんやりとした白っぽくて何もない風景、下を見れば真っ暗な暗闇。そこに掛かる幅3メートルほどの橋は進んでいけば現世以外に到達しそうな不安を抱かせた。
まあそんなことはどうでもよくて。
「お嫁に行けない……」
渡る前の予想通り、地獄の橋渡りになったのだった。トイレ的な意味で。
もう絶対渡らない。
「リオ、水をお飲みください。粥も」
精神を癒すために抱いているヌーちゃんが、ルルさんが差し出した緑のお芋が入ったお粥に激しく反応している。ルルさんがいつも以上に食事を勧めてくるのは、私が橋の上での飲食を極力拒否したからだ。だって食べたら出るんだもん。高さ1万メートルの虚空にお尻丸出しにする恐怖とか屈辱とかその他名状しがたき感情と向かい合わないといけないんだもん。布と縄で覆われた心許ない囲いの中で。近くにルルさんの気配を感じつつ。
「もうやだー!!」
「橋は渡り終わりましたから。リオ、食べて」
もはや食べることに若干の恐怖を抱いている。
でも食べないと無理矢理流し込みますとルルさんがマジの目で言ったので、私は渋々木のスプーンを手に取る。つぶらな目をキラキラさせたヌーちゃんがルルさんに貰ったふかし芋をそれはそれは美味しそうに食べていたのでつられて食べた。恐怖は消えた。このお芋美味い。
「リオ」
顔を上げると、ルルさんがテーブル越しに腕を伸ばして私の唇の横を親指でそっと拭った。ごくナチュラルにその指をペロッとやったので、思わず美味しいお芋を取りこぼしてしまう。視界の端でヌーちゃんがそれをゲットしているのが見えた。
ルルさんは何事もなかったように青い目を細めながらこちらを眺めている。
「お嫁には来てくださいね。でなければ困ります」
「……」
「返事は?」
何をいきなり。
私は現在進行形で精神ダメージと戦っているというのに。そんないきなり甘ったるい空気になられても合わせる元気などない。
心の中で反論しつつ、私は頷いた。顔が熱くなりすぎたせいで口を動かす筋肉が仕事しなかったからである。
ルルさんは「よかった」と頷いてから、自分の分を食べ始めた。
「旅程を急ぎましたから、明日丸一日もここで休んで、明後日から出発しましょう」
「うん」
急いだのは、私がハンガーストライキに突入し心配したルルさんがほぼ夜通し歩いてくれたからである。エメちゃんは関節を曲げきらない歩き方でほぼ揺れずに進むことができたので、私はその背中にしがみ付く形でウトウトしてれば良かったけれど、ルルさんはその手綱を持ちつつ私が落ちないように見守りつつ灯りひとつで歩いていたのだからその苦労は計り知れない。
いくら気力体力が半端ないルルさんとはいえ、差し迫った事情がなければ私も申し訳なさすぎてそんな無理はさせられなかったレベルだ。
なんの心配もなくお腹が満たせたら、周囲を見渡す余裕ができた。私たちは白っぽい石でできた小さな建物にいて、その中にあるそこそこ広い部屋で昼食を摂っている。
「ここって神殿?」
「そうですよ」
大きさはラーラーの民がいる大陸で見たものと同じ、ちょっと大きめの民家くらいの規模だけれど、ここは中央神殿と同じ白っぽい石で造られているためか、雰囲気が見慣れたものに似ていた。
「一休みして体を清めたら、どうぞ神殿の者に顔を見せてやってください」
「そうだね……いきなりトイレに駆け込んだもんね……」
橋を渡り終わってここまでエメちゃんの背に乗ってきたとき、神官や神殿騎士っぽい人たちが並んでいるのを見た気がする。けれど、もう大陸が見えてるからとルルさんに怒られながらも我慢したトイレ行きたさにあまり覚えていなかった。
挨拶せずにトイレに走った救世主。恥ずかしい。ニャニのたむたむに少し慰められてしまったほどの精神ダメージである。
たむたむのせいではないだろうけれど、私は沸かしてもらったお風呂で心を落ち着け、綺麗な洋服に身を包んだ頃にはなんとか精神を立て直すことができた。
「救世主様、ようこそおいでくださいました。あなた様の恩恵に与った身として、こうしておもてなしできることは光栄でございます。手狭ですがどうぞ寛いでお過ごしください」
「あの、ありがとうございます。リオです。お世話になります」
最初の方のセリフ、さっきトイレに行く途中も聞いたな。申し訳ない気持ちも込めてお辞儀をすると、中年男性の神官をはじめとした10人ほどの人たちがより丁寧に頭を下げてくれた。
「奥神殿とは比べ物になりませんが、祈りの間もご用意いたしました。リオ様は他者の気配がない場所でお祈りされるとのことでしたので、遮断の魔術を編み上げております」
「えっそうなの? 防音?」
「はい」
神官の言葉に思わず振り向くと、ルルさんが片眉を上げて笑っていた。
「ルルさんがお願いしてくれてたの?」
「そろそろお祈りが恋しい頃かと思ったので」
「ありがとー!! さすがルルさん! 天才!」
ラーラーの大陸は自然豊かでとてもいいところだったけれど、カラオケルームがなかったのが玉に瑕だった。見た目通りに耳がいいラーラーの民がいる村でも、見た目によらず耳がすごくいいルルさんと一緒の旅路でも思いっきり歌うことができなかったため地味に歌欲が滾っていたのである。
何度か鳥を介してやりとりしていた手紙で伝えていたのだろうか。私の気持ちを察して手回ししてくれていたルルさんに感動して思わず抱きつくと、ルルさんが思いのほか本気で抱きしめてきて逆に焦ることになった。
人前で、なんでいきなり、抱きしめる。
「これはこれは、仲が良くて何よりです」
「……早速祈ってこよっかな!!!」
豪腕から抜け出すためにもがいたのと、微笑ましそうにそう言った神官のなまぬる〜い視線から逃れるために私は宣言した。
もう歌うしかない。色々な気持ちに整理をつけるために歌うしかない。




