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ノリノリで歌いたいのにドア窓が気になってしまう1

 朝起きると嫌なことが思い浮かぶようになったのはいつからだろう。

 寝過ごして怒鳴られるのではないかという恐怖、まだ眠りたい体を無理矢理起こす倦怠感、すし詰めにされる電車への覚悟に、上司や社長の態度をやり過ごさなくてはいけないという憂鬱感。


 ぼんやりと丸い灯りが薄い布を通して、広々としたベッドを照らしている。起き上がると、軽くて暖かい掛け布団が滑り落ちた。散らばった柔らかいクッションに、枕の下から覗いているスマホ。ヘッドボードに置かれた水差し。

 この光景を見るたびに、異世界に来たのだと毎朝思い出す。

 会社を辞めても無意識の思考はそう変わるものでもないらしかった。


「リオ? 起きましたか?」


 無駄に広い部屋で、ドアを少し開けたルルさんの声が聞こえる。大きな衝立でドアもルルさんも見えないけれど、いつものように洗顔用の桶を持ってきてくれたのだろう。いつも私が手を浸けるとちょうどいい温度になっている桶は大きく、重さもあるはずだ。

 両手で顔をこすり、両足を伸ばして垂れた布を開ける。伸びをしながら歩くと、ルルさんが衝立から顔を覗かせた。すでに身支度を終えているルルさんは、今日も朝から一分いちぶの隙もない。


「おはようございます、リオ」

「ルルさん、おはよー!」


 いつもの朝だ。

 身支度と食事をして奥神殿に閉じ籠れば、私の1日が始まる。




「今日もシャウトしてしまったな……」


 スマホのアラームを止めてから、ふうと額を拭う。どんな曲をどれだけ歌ったとしても外に漏れることはないと思うと、ついつい腹から声が出るというものだ。

 立ち上がって跳ねてもビクともしない大きなソファ、好きな飲み物を入れたコップ、大きなテーブル。近くにはマイクスタンドもある。


 なんかあれだよね。普通に立って踊って歌うのも楽しいけれど、ソファの上に立つとまた違う高揚感があるよね。背徳感だろうか。

 舞台上でバラードを歌うアーティスト気取りになれるスツールも、眩しいスポットライトもかなり自由に使いこなせるようになってきた。誰もいないとわかっていても最初は羞恥心が邪魔をしていたけれど、人間ひとりだとどこまでも図々しくなるものである。最近はアイドルソングの時に着替えをすることも覚えてしまった。


「いやー、まさかこんなことになるとはねえ」


 私の理想とするカラオケルームを具現化した空間を眺めてしみじみする。配置はそれほど変えることはないけれど、壁や家具の色とデザインはちょくちょく変えている。いろんな部屋を冒険できるのも、カラオケに通う醍醐味のひとつだと気付いたからだ。

 おやつになるスナック類を置いたバスケットもあるし、ドリンクサーバーへもドアを隔てずに行ける。空調は完璧だけど、座って歌うときに使えるブランケットも置いてあった。枕も出しているのでなんなら寝転びながらでも歌える。


 いつ見ても最高の部屋だ。住みたい。

 しかしあまり長居するとルルさんが壺経由で呼び出して来て、やんわり怒られるので住めそうになかった。前に一度、終電逃して徹夜カラオケが懐かしくなり「朝までずっと祈っててもいいかな」と訊いたときには、ルルさんは微笑みながら片眉を器用に上げてじっと私を見た。圧力のある笑顔でしばらく見つめられたあと妙に優しい声で「おやめください」と言われたら、頷くしかない。


 たぶんだけど、この部屋、いようと思えばずっといられるようになっている。

 神様の力が一番届きやすい場所のせいか、空腹も疲れも普通より感じにくいようだし、念じると食事も出すことができる。ベッドだって作れるだろうし、カラオケは歌わないという選択肢もできる空間である。普通に暮らしながらマイクを取る毎日を送ることも不可能ではないだろう。いや、マイクすら本当は必要ないのかもしれない。

 より手軽に、いつでも歌える状況を叶えられる空間なのだ。


 心惹かれるものがあるけれど、今はそんなにやりたいとは思えなかった。

 昨夜ルルさんに言われたことのせいかもしれない。毎日ここで好きなだけ歌いまくっていた私を外で根気よく待ち、細々とした生活のサポートをし続けてくれたルルさんは、私にこの世界を好きになってほしいらしい。

 カラオケ無期限歌い放題というだけでもかなりこの世界を気に入っているのだけれど、多分そういう意味じゃない。この国や人たちをよく知ってほしいということなのだろう。


 好意的に受け入れられて、というかリアルに救世主レベルで敬われて、そんな風に言われたら断れる人間なんてごく少数なのではないか。

 神様の力のお陰だとしても、そうやって思われる立場に立つというのは悪い気分ではなかった。自分がいきなり立派になったような感じがして、調子に乗りやしないかと自分が心配になるけれど。


 それでも、自分を優しく受け入れてくれる世界というのは居心地がいい。


「ルルさん、ただいまー」

「よくお戻りくださいました」


 奥神殿の部屋から出るたびに手を掴まれて額に当てられるのは若干居心地悪いけども。


「今日も楽しく過ごせましたか?」

「延長したかったくらい」


 あのカラオケのいいところのひとつは、いきなり室内に音を響かせる内線電話が置かれていないことだ。あれ妙に慌てさせるのはなぜなのか。

 私が頷くと、ルルさんはちょっと困ったように笑う。


「どうぞこれからの時間は、リオの楽しいひとときに私とこの世界も入れてください」

「ど……どうぞ」

「ありがとうございます」


 ルルさんの頼み方は、控えめなのか押しが強いのか判断しかねる。昨夜寝る前に気付いたけれど、私はこれまで大体ルルさんの希望通りに動いているのではないだろうか。今までに断れてるの、歌を聞かせてほしいという超絶無理難題くらいである。

 効果的な頼み方というか、相手が抱く印象も把握して頼んでいるような感じだ。顔が良い人間はこれだから困る。


「今日は厩舎へ行く約束でしたね」

「あ、そうだね。あと昼風呂」

「準備するよう言いつけております」

「やったー。さすがルルさん有能」

「まずは昼食を」


 今日はなんと麺類が色々出るらしい。

 異世界の麺類、楽しみである。こってりバリカタ希望と言うと、ルルさんはどういう意味ですかと尋ねて来た。日本が誇る豚骨の味、いつかルルさんにも味わわせてあげたいものである。






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