声出しは得意な音域で1
異世界に行くときの準備として、何をしていくべきか?
どんな世界でも生きていけるよう、武術を身に付けていく。
いいかもしれない。危険な状況でも対処できるという自信は、落ち着いた状況判断に役立つだろう。ただ、転移先の異世界で未知の能力が横行していたら無意味になってしまうかもしれないけれど。
では、とりあえず生きていくのに便利そうな道具を持っていくか。
それもいいだろう。包丁は料理に欠かせないし、いざとなれば武器にもなる。電子機器を持っていけば、役に立たなくても転移先で珍しいものとして売れるかもしれない。何を持っていくとしても、常に身に付けておかなくてはいけないというのはかなり難易度が高いけれど。特に包丁は無意味に持ち歩けば捕まりそうだし、お風呂やトイレに持ち込むのもなかなか大変だ。気持ち的に。
身に付けておきやすいものと考えるなら、服飾品として何かを持ち込むべきか。究極に防御力が高いのは鎧だろうか。重いし毎日着ているとかなり変わった人間扱いされる。普通の会社勤めではかなり難しいだろう。やたらとポケットが付いている服も便利だけれど、日常生活でのオシャレと両立させるにはかなりの技術を要する気がする。可愛い服ほどポケット付いてない問題は、やはりバッグを買わせるためのファッション業界の陰謀なのだろうか。
私の場合、答えはどれも違う。
そもそも異世界に転移することを前提とした生活を営んでいる人はほとんどいないはずだ。日常で疲れたときにちょっと妄想するだけなら私もよくやっていたけれど、まさか自分がそんな目に遭うとは思ってもみなかった。もちろん、それを想定して何かをしていることもなかった。
このことから、異世界に行くための準備として特別なことをするというのはハードルが高い。日常生活として違和感なく実行できて、なおかつ異世界に行ったときにとても役立つことになったもの。
どういう状況で転移するかにもよるけれど、そう考えるとやっぱり自分磨きが一番いいのではないかと思う。
奥神殿と呼ばれる大きな空間は、異世界人しか入ることが許されていない。
つまり現状、私ひとりである。
灯りもないのに空間は明るく、白い大理石に似た床や壁、柱が見える。その間を歩いて、扉の前に立った。その左脇には大きなガラスの壺のようなものが置いてあって、青い炎が燃えている。
いつも通りのその色を確認してから、私は同じく白い石でできた大きな両開きの扉を押した。両手で軽く押すと、見た目よりもうんと軽い。発泡スチロールくらいの重量なので、最初の頃はついつい変な勢いをつけて開けてしまったものだ。
この扉は、ここの人たちにとっては見た目以上に重いものらしい。
少しずつ開いていくと、隙間から明かりが差し込む。これはちゃんと光源のある明かりだ。扉の向こうには、丸くて白っぽいガラスで作られた照明がたくさん並んでいる。
その明かりに両側から照らされるようにして立っていた男が、私の姿を見て嬉しそうに微笑んだ。
金髪碧眼である。やや落ち着いた金色の髪は短めだけれど、前髪は目にかかるかどうかくらいの長さだ。目は南国の晴れた空のように気持ちのいい青。髪より少し濃い眉はすんなり伸びて、その下の目が微笑むと少し眉尻を下げて精悍な印象が柔らぐ。高い鼻筋に形のいい唇、彫刻の様な頬と顎のライン。はっきりとした凹凸のある顔は、完璧な左右対称だ。髪に隠れがちな耳先がほんの少し尖っているというのが、私が知っている外国人とこの人が明確に違うことを示している。
簡単に言うととても顔がいい男である。
「お戻りをお待ちしておりました」
見上げないと目が合わない高い背を丁寧に折り曲げて、男は優雅に礼をする。背が高いからマントが似合う似合う。目より少し濃い青のマントを片手でふわっとさせながらお辞儀をすると、いい匂いすら漂ってくる気がする。
イケメン、高身長、と揃えてきた男が、マントを持っていない方の手で私の手をさりげなく取った。背が高いので手も大きい。手のひらは武器を持つせいで少し硬いけれど、いつもしっかり温かかった。
取った手を少し上げ、自らもさらに深く礼をして、男が私の手の甲に自らの額を当てる。手に触れる前髪はサラサラだ。じっと額と手の甲を触れ合わせて、それから男はようやく顔を上げた。
「我らが救世主、異界の巫女」
手を恭しく持ったまま、イケメンがそれはそれは嬉しそうな顔で微笑んで言う。
ついでに言うとこのイケメン、声もなかなかいい。
こうして出迎えられるたび、私は手を引っ込めるタイミングを上手に掴めずにまごついてしまう。しっかり握られている状態でわざとらしく手を引っ込めるのもなんだか失礼な気がするし、さりげなく離すタイミングを狙っているうちになし崩しにそのまま手を繋いで歩いていくこともしばしばだ。今日もそのコースにはまってしまった。
「昼食の用意ができています」
かなりフレンドリーな距離かつ丁寧な態度で接してくるイケメンは、綺麗な微笑みを浮かべながら隣にいる私へと視線を下ろしていた。
もうおわかりだろうか。
異世界に行ったときに一番役に立つのは、永久脱毛である。
いつ何時イケメンに手を取られ間近で眺められようとも、上から、そしてやや後ろから見下ろされようとも大丈夫なように、特に腕全体とうなじ、できたら背中はやっておいたほうがいい。
筋肉も武器も現地でなんとかできる。
異世界に行くのに必要なのは、永久脱毛である(私調べ)。