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霙小路物語  作者: K-RYO
中篇 リボン
4/8

リボン



  信号が変わる前に美しい気持ちなど忘れていた

  あわよくば埋め尽くされてしまいたい

  騙され、もう一度信じて 自分のことを繰り返して



 私はゆらゆらと揺られるがままに窓の外の景色を見ている。見せられているわけでも見惚れているわけでもなく、ただ見ているだけ。確かに見てはいるのだけれど、車窓は私が瞬きをするたびに新しい景色を映し出してくれるから、どれだけ頑張ってみたところで景色の全てを目に焼きつけられるわけがない。それだったら真剣に見ても仕方がない。だからといって他に何もすることがないのだから、景色を見ないわけにもいかない。

 はあ、本当につまらない。

 退屈凌ぎに鼻歌なんかを興じていたのは、この逃れようのない苛立ちからなんとかして逃れようとする生理現象の表れだった。だから、うるさいなどと言われても私の所為ではないのだ。悪いのは絶対に私ではなくて、こんな場所に私を閉じ込めた奴だろう。

「何の歌だい、そりゃ」

 狭苦しい後部座席に肩を並べて座るササクラが、私の口ずさむ歌に気づいたようで、おもむろに口を開いた。彼こそが私をこんな場所に閉じ込めた張本人だ。それもこれも含めたササクラの何もかもが癪に障るから、私は声には気づかないふりをする。車窓が運んでくる景色を見ながら、今までの歌とは全く別の適当なメロディで口笛を吹く。どこかで聞いたような、どこにも存在しないような、とにかく吹いている自分でさえも気が滅入ってしまうなどという、ひどく残念なメロディを。

 ちょうど車窓には遠くまで広がる田園風景が映し出されていた。そのど真ん中には、周囲の美観を損ねる為だけに建てたとでも言いたげな工場が偉そうに聳え立っている。工場はとても大きい。頭から突き出た煙突からは、もうもうとした煙が途切れることなく吐き出されている。空へと伸びていく煙は、その途中で近くの雲に混じり込んでしまう。その姿にピンときた。ああ、ここが雲を作る工場なのだ。だからこんな辺鄙な場所にあんなに巨大な工場が建っているんだ。我ながら名案ではないか。

「おい、聞いてんのかよ」

 ササクラの声の波長が先ほどよりも刺々しくなる。珍しいことだ。いつもの冷静な姿からは想像もできない。まるでおやつを取り上げられた子供のようだった。

「昔ね、友達が作って唄ってた歌なの」

 ササクラの声に気圧された私は渋々ながらも口を開く。目を向けると、ササクラの顔にはありありと不機嫌な様子が現れていた。いつもの無愛想が更に際立っている。

「『リボン』ってタイトルでね、可愛らしい名前なのにめちゃめちゃ暗い歌なのよね」

 しかし、こんなにも見事に目が据わった人間というものを私は今までに見たためしがなかった。どうしよう。こんな奴に隣に座られているかと思うと、呑気に歌なんて唄っている場合ではなくなってしまう。ササクラにとってのおやつが何かも思い浮かばないし。

「リボンだ? そりゃあれか、頭に巻くあのリボンか」

「知らない」

「知らないってことはねえだろ。友達が作った歌なんだろうがよ」

「作った本人が教えてくれなかったんだもん」

 相手の言葉をそれ以上続けさせない、絶妙のタイミングで自然に微笑を浮かべる。この世界で生きていくには知能の低いふりをしておくのが一番いい。自分の非が思いつかない無邪気を表す笑顔。女の、それも私のように若くてそれなりの容姿をもった女の子の作り笑いは何かと便利な道具となる。この数ヶ月で学んだ技術だ。

「そうかい」

 そう言うと、ササクラは首を二度ほど横に振り、反対側の窓の方に体ごと向いてしまった。どうせ私が嘘をついて何かを隠しているとでも思ったのだろう。呆れたのか諦めたのかは定かではないが、温和しくしてくれるなら文句はない。

 かつて私の友人だったあいつ曰く、タイトルの『リボン』という言葉自体には何の意味も込められていない。本来は再生だとか転生だとかを表す外国語に掛けたものなのだが、それを敢えて『リボン』にした理由は、歌の中に「結び付ける」という属性を付加したかったから。そんな風に語っていたはずだ。

 などと言っても、そんな難しい理屈を私が理解できるわけもない。何が何に、どこがどこに結び付いているのか、全く見当もつかない。私が頭を悩ませている隣で、あいつはいつも得意げな顔を見せた。いつもそうやって私を煙に巻いて楽しんでいたのだ。困った表情の私をバカにして満足そうに笑う。さも自分が偉いかのように。

 だけど私はあいつなんかと違って、人を困らせて喜ぶような悪趣味は持ち合わせていない。理解できていないことを理解できていないまま伝達したところで、本当のことが伝わるわけもない。だから私はササクラを困らせないために知らないふりをしたのだ。それが好意ではなく嘘だというなら勝手にしてくれ。

 車は大きく折れるカーブに差し掛かる。道路沿いには民家や商店が疎らに並んでいる。その向こう側には先ほども見えた雲の製造工場の姿がある。さっきまでとは九十度近く角度を変えているはずなのに、私にはその差がいまいちよくわからない。

「ねえねえ、私も聞きたいことがあるんだけどさ」

 話を変えるべく、今度は私から質問する。

「どこに向かってるのよ」

 今回の仕事についてササクラは何も説明してくれない。相手の詳しい氏素性を聞かないのが最低限のルールだとはいえ、こちらにも心の準備がある。せめて行き先ぐらいは教えて欲しいのに、ササクラはこちらの事情などお構いなしだった。

「着いてからのお楽しみさ」

 こちらを振り返った時には、もうササクラの顔はいつもどおりの静かなものに戻っていた。まるで何事もなかったかのように。では、ついさっき見せた不機嫌はいったい何だったのだろう。

「ならいいよ。別に教えてくれなくても」

 いくら鈍感な私でも、車がどんどんと都市部を離れて郊外を進んでいることぐらい気がついている。けれど、行き先の正解を見出そうと周りの看板や標識に地名を探しても、知らない文字が並んでいるだけでさっぱりわからない。地理は苦手だ。おまけに方角もよくわからないし。

 これで話は終わりだと言わんばかりに、ササクラはまたそっぽを向いてしまった。その後も説明する素振りは全くない。彼がその気だというなら私が何を聞いても同じだろう。我慢するしかない。行くところまで行って、そこで自分の目で確認するしかないのだ。

 私はまた窓の外に顔を向けた。今までよりももっと意識的に景色を見てやる。そして意図的に口笛を吹く。胸の奥に引っかかる不安を抑えるために。適当なメロディでは余計に気持ちが乱れてしまうから、なるべく耳に馴染んだものを選ぶ。

 そして気がつけば、私はあいつが作った歌を性懲りもなく口ずさむのだ。



  完全無防備 意志は壊れる

  ビニル傘で弾き返されて、悪くもないジョークを呟いた

  『泣きたいくせに涙も出ない、あと少しだけ生きていたくなる、それは何故?』

  ――世迷い言



 半年前、まだ夏のことだ。

 無一文といってもいい、それはほとんど自殺行為に近い状態で家出をした私は、三日と経たないうちに持ち合わせの現金が尽きてしまい、耐えられないほどの空腹と疲労とに打ちひしがれることとなった。そんな中で売春という選択肢を選んだのは必然だった。どんな労働よりも手軽で簡単に小遣いを稼ぐ方法。当時の私が売春に対して抱いていたイメージなど、そんなものに過ぎなかったから。

 足を運んだ場所は霙小路の中心地に建つ、駅ビルの地下一階だ。そこはいつの時代からか援助交際や売春の市場として有名な場所になっていた。もちろん合法なわけがなく、理解ある市民たちの暗黙の了解のもとに放置されているだけにすぎない。

 エスカレータを降りると、前方には百貨店へと繋がる地下通路が延びている。通路とは逆の、上りエスカレータの方に回ると行き止まりにゲームセンターがあって、そこの前にできたちょっとした空間に、私のお目当ての光景が広がっている。

 客待ちの女と買い手の男たちが、互いにそれとなくわかる距離を保ちながら散らばっている。ぴりぴりとした、何とも言えない緊張感だ。女のほとんどは私と同年輩の少女たちで、男は逆に中年が多い。少女たちの服装は制服私服と様々な格好をしており、それぞれに自分の魅力を最大限に高めようとする努力が見てとれる。プリクラ機の横にいる私服の二人組は、ずんぐりとした体型でとても可愛いとはいえない顔なのだが、卑屈なまでの化粧と精一杯に体の線を強調させる薄手の服で何とかカバーしていた。壁に凭れかかって煙草を吹かす短髪の少女は、二人組とは逆にナチュラルメイクとカジュアルな服装でボーイッシュな魅力を醸し出す。だらしなく制服を着た少女たちはきゃぴきゃぴと今時の若さをそのまま前面に出しているし、セーラー服に眼鏡という物好きにはたまらない格好をした少女は、なるべく清楚に立ち振る舞う。

 まるでショーケースみたいだ。彼女たちの誰しもが、少しでも有利な条件で買ってもらうために、自分の魅力を最大限に利用して、自分の体が好きであろう人間に向けたアピールを繰り返す。私を買って、それもなるべく高くね。私の耳には、そんな彼女たちの心の声が聞こえてくるようだった。

 それは私も同じだから。

 やるからには、あんな子たちには負けていられない。

 とはいえ、初心者の私には何をどうすればいいのかなんて見当もつかなかった。どうすれば客の男性に声をかけられて、どのように金額を交渉すればいいのかも。まして自分につけるべく値段さえ知らないのだ。法外な値段では買い手など現れないし、反対に安く買い叩かれるのもプライドが許さない。

 どうせなら皆が値札をつけてくれてたらいいのにな。それなら買い手にもわかりやすくていいのに。あの子は不細工だから千円。あの子は美人だから十万円。その隣も美人に違いないけれど、賞味期限すれすれだから半額の五万円。なんてふうに。

 まあ、そんなわけにもいかないか。

 遠巻きに辺りを観察していると、交渉が成立したと思しきカップルが次々に肩を並べて去っていく。それでもどのように交渉しているのかが把握できなかった。それどころか、彼らは互いに言葉を交わすのは、この場を去っていく寸前のほんの僅かな時間だけだ。とてもではないが、それだけの時間に交渉を済ませているとは思えない。唯一気にかかったことがあるとすれば、それは客の男たちが一様に、ある男と話をしてから少女の方に向かうということだった。少女たちの方でも同じで、その男と言葉を交わしてから客の男に近づいていく。

 ああ、そうか。彼が仲買人なんだ。

 彼が全ての交渉を代行していたんだ。

 仲買人と思われる男は、よく観察をしていないと全く気づかないほど自然にそこにいた。見た目だけでは客の男たちと区別はつかず、どこにでもいるおじさんにしか見えない。髪の毛はふさふさしているが全体的に脂ぎった印象で、不潔でないけれど年相応に綺麗でもなかった。ぴっちり横分けにしてスーツを着れば課長クラスのサラリーマンで、蓬髪のまま作業用の繋ぎを着れば現場の監督さんに早変わり。

 ただ、決定的に違うところがあった。

 それは目だ。

 男は目の前を少女が通り過ぎるたびに、鋭い目を向ける。たぶん値踏みをしているのだろう。男が少女に値段をつける。男が間を仲介して交渉を成立させる。間違いない。これがここのシステムだ。

 試しに私は仲買人の男の前を無造作に通り過ぎる。思ったとおり、男は私を一瞥した。その間、一秒か二秒だろう。たった一瞬で私の値段が決まってしまった。けれど、それを知る術が私にはない。

 どうしよっか。

 どうしようもこうしようもない。答えは一つだ。今は悠長に考えている暇など私にはないのだ。さっさと相手を見つけてお金をもらう。もらったお金でご飯を食べる。できればホテルにでも泊まってゆっくり眠る。

 そのための最も効率的な方法といえば、男に直接聞くしかないのだ。

「ねえ、私はいくらになるの?」

 躊躇うこともなく、私は単刀直入に声をかけた。

「あんたは五だ」

 男はこともなげに言った。

「五って何?」

「ああ、全くの初心者か。すまん。一回の料金が三万円ってことだ」

「どうして三万円なのに五なの?」

「うちらの相場だから仕方ないだろう。一が六千円。そういうもんなんだ」

「そうなんだ」

 どういう仕組みかわからないけれど、そういうふうに言われてみればそういうものだと納得せざるを得ない。

「けど、三万円なんて安くない?」

「そうでもないさ。あんたは綺麗だから高めに設定したつもりだが」

 それはどうも。綺麗と言われて悪い気はしない。

「新顔だし、スタイルもいいし。大学生だろ?」

「違うよ。この春に中学を卒業したばかり。まだ十六です」

 高校生と言えないのが痛いところだ。

「だったら値段も上がる?」

「そうだな。だったら倍の十ってとこかな。大人びてたから、まさか十六とはねえ」

 悪いね、と男は言った。それにしても、大学生か十六歳かでそんなに評価が違うだなんて。などと、素直に驚いてしまう。

「どうもです」

 男の話によれば、私は一度体を売れば六万円の価値があるらしい。六万円もあれば銭湯に行けるし、着替えも買い足せる。食事や睡眠も、もしかすればもしかする。

 悪くない。

「で、どうするんだ」

「え?」

「あんた、売りたいんだろ」

「え、ええ」

 男はいきなり話を本題に進めた。心の準備など全くしていなかった私は、思わずどぎまぎとしてしまう。動揺しまくり。そんな私の思いを知ってか知らずか、男は自分のペースで話を進めていく

「あそこを見てみな」

 男が促したのはエスカレータの下のカード電話が並ぶスペース。こざっぱりとしたスーツに身を固めた営業マンらしき男が一人、ぼおっと突っ立っていた。年の頃は三十代前半といったところか。フレームなしの眼鏡が知的で、服装にも清潔感が感じられる。あれも客なのだろうか。どう見ても女に困っているふうには見えないけれど。

「あの男は君みたいな女の子を探しているんだ。よかったら買ってもらいな」

 男の口調が少しずつ変わっていくのがわかる。醸し出す空気からは、やけに緊張感が感じられる。おまけに目が怖い。値踏みをする時と同じような、あの鋭い目だった。

「私みたいなって?」

 ああ、巻き込まれていくのが自覚できる。

 そのまま私は男のペースに乗せられていく。

「だから君みたいに何も知らない無防備な素人娘をだよ。処女ではないにしろ、あまりセックスの経験が多くなさそうな、宿無しの家出娘をね」

「え?」

 この男は、なぜ私が家出娘だと知っているのだろう。

 ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。

「昨日も一昨日も、この界隈を夜通しふらふらしていたじゃないか。ここに来る連中にはそんな奴が多くてね。すぐわかるんだ」

 知ってたんだ。この男は、私のことを。

「ここに来たってことは、君もそろそろ温かい食事と暖かい寝床が欲しくなったってわけだろう」

 なんでもお見通しのようだ。

「話が早いんだね」

「まあ、これでもプロだからね」

 考えてみれば、男がぺらぺらと私に説明してくれた時点で気がつけばよかったのだ。この男がやっていることは明らかに法に触れる類のものなのだから、あんなにあっさりと喋るからには、私が自分にとって安全だという確信が男にあったことは疑う余地もない。

「さ、どうする」

 狩人の集団に囲まれた藪の中から機転の利く狐となってうまく逃げ延びるのか、それとも臆病な負け犬となって藪の中から出ることも能わずに野垂れ死ぬのか。私は、頭の中でそんな寓話を思い浮かべる。

「どうするんだい?」

 襲いかかる緊張感に呼応して、心臓の鼓動が早まっていく。どうしよう。どうしよう。私は何をしにきたんだっけ。それで、ええと、今は何の話をしてる最中で、それで――。

「どうするんだよ」

 男の口調がすっかりと変わりきる直前に私は結論を出した。これ以上にない絶妙のタイミングで、これ以上になく自然で無邪気な微笑を浮かべた。

「お願いします」

 一瞬の静寂。男はふっと緊張感を解き放つ。

「商談成立だな」

 ようやく男の声が元に戻った。目も、特別怖さを感じさせない。

 原理もよくわからない威圧から解き放たれた私は、ぱくぱくと慌てて息を吸い込む。何度も、何度も。いつの間にか呼吸すらもできなくなっていたのだろう。

 全く情けないったら、ねえ。

「それじゃあ、あの男の所に行ってこう言うんだ。パパ、お待たせ。ご飯でも食べてゆっくりしようよってな。あとは事が済めば金を払ってくれる。本来なら仲介料をもらうところなんだが、君は初めてみたいだからサービスして全額くれてやるよ。値段のギャラの交渉は自由だから、なるべく高く買ってもらうんだな」

 じゃあな、と言って男は私を送り出す。男に促されて足を踏み出した私だが、まだなんとなく頭も体も動いておらず、ふらふらとした足元も覚束ない。

 解放されてよかった。あのままあの男と面と向かっていたら、間違いなくどうにかなっていたことだろう。自分がどれだけ世間知らずで、まだまだ経験も積んでいない子供なのかを思い知った。

 でも、私は女だ。

 最後の最後のほんの手前だったけれど、こうしてしっかりと身を躱して帰ってくることができたじゃないか。

 うまくやれば、私も狡猾な雌猫になれるんだ。


 翌日。私が再び駅ビルの地下に降り立つと、あの男は当たり前のようにそこにいた。

「昨日はどうだったよ。しっかり稼げたのか?」

 どうもこうもないけれど、ひとまずお礼をする。温かい食事や暖かい寝床にありついたのは数日ぶりのことだったから。その代償に払った行為を差し引いても、単純にお釣りがくるだろう。しかも、私の懐の中には家を飛び出した時とは比べてものにならない額の現金がある。いくら世間知らずの私でも割りのいい仕事だったことは理解していた。

「ばっちりでしたよ」

 初めての仕事相手はとても親切なおじさんだった。いやいや、おじさんというには若くてかっこもよかったからお兄さんと呼ぼう。お兄さんは見た目の通りに紳士的で、優しくて、話もうまくて話題も豊富で、何より金払いがよかった。文句の一つも言わずに、段取りすらも飲み込めていない私の言い値――相場と言われた額よりも少し多めに出してくれたのだ。初めて手にした報酬は八万円。おまけに食事もご馳走してくれて、きちんとしたホテルに部屋をとってくれた。それなのに無茶なことを要求されるわけでもなく、私の体を優しく扱ってくれた。さすがに最後までイってしまうことはなかったけれど、自分があんなにも器用に感じられる体だと知った。いい経験だった。

「もしかして今日も買い手を探しにきたのか? 顔に似合わず物好きなんだな」

 だって、いい思いをしてお金になるんだもん。相手の男も、何より私が満足しているんだからそれでいいじゃないか。そんな心の中の呟きはおくびにも出さず、私はなるべく恥ずかしそうな表情で首を縦に振る。

「だって、お金がないから」

 ちらりと上目遣いに見ると、男は私の目を見たまま顎で横に促した。そちらを見ると、ゲームセンターの入り口でつまらなさそうにUFOキャッチャーをしている男がいた。

「あの男はどうだ。上客だから、君でも安心できるだろう」

「上客?」

「ああ。苦情の少ない常連客ってことだ。まあ、あんまりやばそうな客は俺が事前に排除するから、その点は安心してくれていいんだがな」

「おじさんは紹介するだけで買わないの?」

 疑問というより愚問だろう。彼が商品に手を出すような男には見えなかった。

「当たり前だろう。こう見えても女房子供がいるんだ。浮気なんかしたら、それも高い金を払ってまでセックスしたら余計に怒られるだろうに」

 男が真面目な顔を崩さずにそんなことを言うもんだから、私は思わず声を出して笑ってしまった。何だそれ。正論だけど、物凄くおかしな論理だ。

「やっと笑ったね」

 男の声が初めて柔らかいものになった。

「そう言えばまだ名前を聞いていなかったな。名前さえ教えてくれたら、いつでも客を紹介してやれるぜ」

「名前?」

 私の名前は川合美沙だ。でも――。

「家出してたって名前ぐらいはあるだろう」

 ミサと名乗るのは抵抗がある。だからといってドラマなんかでありがちな源氏名――たとえばジュリだとかアケミだとかも勘弁して欲しい。

 源氏名。そうだ。

「アヅミです」

 咄嗟に出たのはその言葉だった。アヅミ。阿づ三。あいつが作った歌のモデルとなった遊女の名前。私はこれから体を売って生きていくのだからこれが一番ふさわしい。

「アヅミちゃんね。わかった。これからはいつでもここにくれば仕事を紹介してやるよ。慣れてくれば色んな仕事があるし、普通に働くよりは飽きなくていいと思うぜ。驚くかも知れないが、こう見えてもおじさんは霙小路界隈の売り子を束ねているからな。妙ないざこざは心配しなくてもいい。さっきも言ったが、安全だけは保証するよ」

 売り子。それがこの仕事の名前なのだろうか。売り子。売り子のアヅミ。うん。新鮮でとても素敵な響きだ。

「どうもありがとうです。なんかよくわかんないけど、よろしくお願いしますね」

 ぺこりと頭を下げてみる。これでもう後戻りができなくなったというのに呑気なものだ。アヅミだなんて、一番忘れなければならない思い出を引きずって。

「ねえ、おじさんはなんて名前なの?」

 私の質問に、男は人差し指で頬の辺りを掻く。外人の役者が困ったなあという演技を見せる時に使う、あれだ。それが様になっていない。だって彼はどう見ても東洋人で、おまけに中年のおじさんなのだから。

「俺か。俺の名前は――」

 これが私とササクラの出会いだった。



  利口よりも暴力に満ち溢れ 忙しなくて短い言葉を今求めた

  預けていたのは何? この先の記された地図が欲しい



 川合美沙が姿を消したあとに起きた騒動は乾総士にとって嫌な思い出だった。

 美沙の両親が総士に向けた疑惑も、今となっては根拠がないことは明白だ。美沙の家出は本人の意思に過ぎず、仮に彼らの言うような責任が総士にあるとするならば、それは最後の歯止めとして美沙の行動を止められなかったということだけだ。

 だけど、あの時の自分に何ができたというのか。

 馬鹿なやつらだ。

 あいつも、みんなも。

 本当に。

 総士にとっては推測できる事態に過ぎなかったのだが、美沙の失踪は周囲の大部分の人間に衝撃を与えた。晴天の霹靂という言葉のいい具体例だろう。勝手に高校を退学して、そのことを諌めた両親と派手に大喧嘩を演じて、挙句には家出だ。美沙の性格を熟知する総士には容易に想像のつく行動でも、他の人間にはそうもいかなかったようだ。

 まあ、だからこその家出だけどね。

 理解者がいないからあいつは逃げ出したのだ。

 総士は美沙失踪の一件に関して口を閉ざす決意を固めていた。どれだけ言葉を尽くしても、他人を納得させる自信などなかったから。仮に何らかの弁明を――それは美沙の弁護に相当する行為なのだが、のうのうと総士が行えば、より以上の疑いをかけられてしまうだけ。川合美沙に退学を促したのは乾総士だ。川合美沙に家出を唆したのは乾総士だ。川合美沙に失踪の手引きをしたのは乾総士だ。彼らには根拠なんて必要ないのだ。ただ、自分たちの過失を認めたくないだけ。槍玉にあげられる生贄羊があれば満足するのだ。

 どれだけの防護策を施しても、標的となったのは結局のところ総士だった。学校に顔を出せば教師に尋問を受け、美沙と交際があったという見知らぬ男たちに囲まれる始末。家に戻れば家族の白い目。外出先には美沙の両親の監視がついた。気を抜ける場所などどこにもなかった。

 疑うなら疑え。それで気が済むのなら。だが、自分が今更どんな顔をしてあいつに会えるというのだ。事情を知らない奴らは無責任でいい。だが、取り残されてしまった人間の苦悩を考えたことはないのだろうか。俺がどれだけ深い後悔と自省の中にいるかを。それどころか、傷ついたのがまるで自分たちだとでも言い出しかねない始末。

 傷つけたのはお前らだよ。

 くだらない。

 何もかもがくだらない。

 一連の騒動が学期末に起きた出来事でまだよかった。総士はありったけの忍耐力でそれらの声を黙殺すればよかったから。早く夏休みになればいい。そうすれば解放される。夏の暑さだって、こいつらの盲目的な疑いを冷ます力になるだろう。もしかすると夏の間にあいつが戻ってくるかもしれない。そうすれば全ての疑いは霧消するのだ。

 待ちわびた終業式の帰り道、総士は中古楽器の店に向かった。そこで、一番安価なアコースティックギターを購入した。安価だとはいっても、総士が夏休みに費やす予定だったなけなしの貯金を使い果たすには十分な額だ。せっかくの夏休み。高校生になって初めて迎える夏休みなのに。総士には楽しむ余裕も予定もなくなっていた。

 ギターを購入して帰宅した総士は、それから十日ばかり自室に籠って誰とも顔を合わせようとしなかった。さすがに息子の様子を心配した両親が部屋の扉越しに名前を呼びかけても返事はなかった。その代わりに部屋から洩れてきたのは、無茶苦茶にかき回されるギターの弦の音だった。

 八月に入って、ようやく総士は外気に触れた。普段から痩身な総士の体は、部屋の中に引き籠り続けた十日のうちに更に窶れてしまった。真夏の突き刺すような太陽を受けると貧血で頭がくらくらとした。

 だけど仕方がない。これは自分で決めたことだから。

 失ったものの代わりに、もっと大切な何かを見つけ出さなければならない。

 ギターケースを背負った総士が向かった先は霙小路の駅前広場だった。広場は日頃から何組ものストリートミュージシャンが集まってくる場所だ。総士は空いているスペースを見つけると、近くにいた人に誰の場所でもないことを確認して腰をおろした。ケースの中から取り出したギターは弦こそ六本とも新しく張り直されていたが、ネックもボディも傷だらけになっていた。それは総士が過ごした十日間の傷痕だ。

 これまでに総士が人前で歌を唄おうなどと思ったことは一度もない。どちらかと言えば引っ込み事案な方だったし、人前で何かをするのは苦手だ。目立つ行為は体に悪いから。だが、今は違う。誰かに自分の歌を、思いのたけを詰めた心の叫びを聞いて欲しかった。十日間の間に付け焼刃で習得したのは二曲だけ。一つは練習用に用意した誰もが知るポピュラーソングで、もう一つは自作の歌に自分でコードをつけなおしたものだった。いざ唄うとなると最初から自分の歌をというにも気が引けてしまい、結局総士が選んだのは練習曲だった。震える指でコードをチェックする。自信はない。短期間に集中的に練習した所為か、指先はぼろぼろになっている。まともに弦を押さえられそうにもない。不安を抑えながらも総士は前奏を弾き出す。だが、うまくいかない。最後まで意地でやり通したものの、結果は散々だった。

 体中が紅潮してしまいそうな恥ずかしさを抱えながら辺りを見渡しても、広場にいた人間は一人として総士に関心をもっていなかった。いや、明らかに見ないふりをしている。近くにいたストリートミュージシャンも、まるで勝ち誇ったような顔で自分の演奏に取り組んでいる。お前はここにくる資格なんてないよ。そう言われている気がした。

 そうかもしれない。

 ここにも自分の居場所はないんだ。

 屈辱と羞恥と孤独。落ち込む総士の周りには聴衆の変わりに沢山の鳩が集まってきた。総士は鳩が嫌いだった。徹夜明けの霙小路で、酔っ払いが吐き出した吐瀉物を寄って集って啄む姿を見た時から。こいつらは雑食だ。生きるためには何でも食ってしまう。一度口にしたものは何でも餌だと思っているのだ。もしもこいつらが人間の肉の味を憶えてしまったら――そこまで考えてやめた。それ以上考えても気分が悪いだけ。あっちに行け。俺はあんた達に分け与えてやれるようなものは何一つ持ち合わせていないんだ。

 総士の向かい側の花壇に腰掛けていたカップルの彼氏の方が、食べていたフライドポテトを一つ地面に落としてしまった。その途端に、総士の近くにいた鳩の集団は物凄い勢いで踵を返す。地面に落ちた一本のポテトを目がけて。だが、明らかに定員オーバーだ。幸運にも最初にポテトを咥えた鳩は、あとからあとから殺到する仲間に追い立てられ、おちおちと食べる暇もない。そんな様子に気づいたのか、カップルの彼女の方は足元に群がる鳩たちを見てげらげらと声をあげて笑っている。逆に隣の彼氏は引きつった顔で、必死に足をばたつかせて鳩から少しでも距離を置こうと頑張っている。その姿が余計におかしかったのか、彼女は手を叩きながら喜ぶ。彼氏はそんな彼女に対しても声を荒げてみるのだが、様にはならない。きっと彼も自分と一緒で鳩が嫌いなのだ。

 だったら俺の歌を聴いてくれ。

 そして、共に鳩の絶滅を願おうじゃないか。

 いや、この世界には鳩よりも危険な生き物が存在する。

 それは人間だ。人間は危険だ。地上で最も忌まわしい存在だ。

 では、みんなで人間の絶滅を願おうか?

 それはできない。俺だって危険で狡賢くて汚い人間の一人だから。何があっても人間の絶滅など願わない。人間を滅ぼそうなどと考えてはいけない。この世界から人間を消し去るためには、第一歩としてまず己の首を縊るところから始めなければならない。それだけは御免だ。無理に生きたいとは思わなくても、わざわざ死ぬのはもっと嫌だ。

 どうせ死ぬまで生きるんだ。

 だとすれば俺は最後の最後まで生きてやりたい。

 くだらない発想。

 くだらない。実にくだらない。

 俺はくだらない人間だ。

 迸る感情が、全て解き放たれていく気がした。その感覚に決して逆らわぬように、総士は眼を閉じた。弦を掻き鳴らし、ありったけの声を振り絞った。

 それは一つの歌として結実した。


 唄い終えて目を開けると、総士の周囲にはちょっとした人垣ができていた。ぱらぱらと拍手が起こり、そのうちの数人が開け放しのギターケースに小銭を投げ入れている。

「今のよかったよ」

「誰の歌なの?」

「聞いたことないけど、もしかして君が作った歌とか?」

「いつもここでやってたっけ?」

 さっきまでは見向きもしなかった人たちが自分に興味を持ってくれている。近くにいたストリートミュージシャンたちも、自分の演奏を止めて拍手を送ってくれた。どうなっているのだろうか。全てが予想外の反応だった。

 自分はこの世界に受け入れられたのか?

 見知らぬ人間との会話にドギマギしながらも、総士は懸命に彼らの言葉に答えた。今のは俺が作った曲です。タイトルは『リボン』って言います。実は今日が路上デビューだったんですけど、どうでしたか?

「初めてにしてはよかったよ。上出来すぎるぐらいね」

「けど、ギターはもっと練習した方がいい。何回もコードを押さえ間違えてただろ」

「空弾きも多かったしね」

 痛いところを突く人たちだ。でも、総士は嬉しかった。ギターはまだまだ練習します。自分でも全然納得なんてしてませんし。夏休みの間に何度もここにきますから、見かけたら練習の成果を聞いていってくださいよ。

 人前で歌を唄うこと。

 自分の作った歌を、自分の思いを込めた歌を唄うこと。

 これが総士の見つけ出した答えだった。

 最初、総士にとって歌を作ること自体が目的だった。次に自分で唄うことに楽しみを覚え、美沙と出会ってからは彼女に聞かせることが楽しみになった。美沙は総士にとって最高の観客だった。気がつけばそれが当たり前となり、総士は歌を作ることも唄うことも美沙に聞かせることも、全てを生活の一部として生きてきたのだ。

 けれど、高校に進学して以降の数ヶ月間、総士が美沙と過ごす時間は中学時代に比べて激減した。どれだけ歌を作っても、どんなに歌を唄っても、肝心の聞かせる相手が欠けていく。歌を聞かせる相手を失くして、総士は初めて迷いを感じた。なぜ唄っているのか、なぜ歌を作るのか、自分の未来のこと、どうやって生きてくのか、どんなふうに死んでいくのか。考えてもきりがない様々な不安。欠けてしまった歯車は、総士を泥沼の思考連鎖へと陥れていった。

 いつまでもあるはずのものは、失わなければその大切さに気づくことができない。

 そんな簡単な事実に、総士は漸く気がついた。

 彼女の存在がどれほど大切だったのかを。


 夏休みが終わっても美沙の行方はおろか、有力な目撃情報すら集まることはなかった。あるとすれば根拠のない噂話だけ。怪しい新興宗教に入信して神隠しに遭っているとか、東南アジアの辺境地の見世物小屋で人間ダルマとして展示されているだとか、港にあがった身元不明の死体が彼女だった云々。

 確かなことは一つ。警察に捜索願を出しても尚、美沙の行方は杳として知れていないということ。美沙の両親は興信所などの力も借りようとしているみたいだが、たぶん効果はないだろう。総士の勘はそう告げていた。あいつのことだからすぐ近くを、もしかすると今も霙小路のどこかを堂々と歩いているかもしれないのだ。どこまでも呑気に、大胆に。そして何も飾らずに。それが余計にあいつを見えなくさせてしまうのだろう。

 探そうとしても見つからない。そうすればするほど、あいつは遠くに行ってしまう。

 川合美沙とはそういう人間なのだ。

 だから総士は少しも慌てていない。周りからは薄情だと言われることもあったが、それが何だ。あんなに総士を疑った奴らが、今では総士を美沙捜索の最前線に立たせようとしている。無責任にもほどがあるではないか。見つけたければ、やりたい奴がやりたいようにやればいい。そんな無駄な方法を使わずとも、あいつはいつか自然と姿を現すのだ。

 総士はそう信じている。仮に勘が外れて二度と出会わなかったとしても、それが運命なのだ。受け入れなければならない事実なのだ。

 大丈夫。あいつとは絶対に再会できる。

 それが一夏を犠牲にして総士が掴んだ答えだった。



  無邪気なままで言葉を交わして、絵本のような作られた世界を抜け出したい

  そう、あれは午後でした

  光明も急ぎ足に消され無自覚に憂鬱

  馬鹿にされても嬉しくてたまらず 『ゴメンね』のあとを何よりも愛していた



 車は人気のない雑木林の合間を走り抜けていた。舗装こそされていないものの、車一台が通れる程度には拓かれた道。凸凹の地面にタイヤをとられて車は激しく揺れている。どうしてこんな景色を見ていなければならないのだろう。機嫌は悪くなる一方だ。

 あれからずっとササクラとは口を利いていない。私がどれだけ一張羅のとびきりスマイルでサービスしても、彼はこちらを振り向こうともしない。無言のまま、じっと窓の外を見ている。高いんだよ、私の笑顔だって。それなのにこんな雑木林を眺めて何が楽しいというのだろう。何も面白いことなんてないじゃないか。

 どうせササクラは拗ねているだけ。普段は見せない心の動きを一介の売り子風情に見せてしまった照れ隠しに、大の大人が大人げもなく拗ねているだけなのだ。

 少し可愛い。

 可愛いのは拗ねるという態度だけで、見た目はただのおっさんだというのに。

 ね、少しだけ可愛いでしょう?


 ササクラと出会った私が売り子となってから半年近く経とうとしている。たったそれだけのキャリアではまだまだ一人前とはいかないけれど、それでも私は自分の経験をそれなりのものだと固く信じ、いっぱしの売り子を気取っている。お金だってそこそこ稼げるようになったし、ほどほどに人生も経験したつもりだ。

 売り子の生活は、素人時代の私が思い描いていた売春婦のイメージとは大きく異なるものだった。売り子の仕事内容は、お金と引き換えに見知らぬおじさんに抱かれる売春や援助交際が全てではない。着用済みの下着を物好きな変態さんたちに売りつける程度の手軽な小遣い稼ぎがあれば、素人カメラマンを集めたヌード撮影会のモデルだったり、人手の足りない風俗店のヘルプもあるという。他にも新装開店の水商売の店に賑やかしの手伝いに行ったり、いやらしい金持ちの家にメイドさんとして出張させられたり。あとは街のクリーン活動に参加させられるとか、私自身の経験では一人暮らしの老人の話し相手や家事をしてあげるなんてボランティアめいた仕事もある。

 ようは体のいい人材派遣会社だとでも思えばいい。社会の裏側や底辺で人手が足りずに困っていれば、そこに颯爽と現れて求められた仕事に応じる。売り子が肉体を売るのはセックスの相手としてだけではないのだ。

 とはいえ、私が知らないところではもっとやばくて危ない仕事もあるそうだが、今のところそういった方面の仕事をササクラは紹介してくれない。売春以外を紹介されたとしても、そこいらの女子高生にでもできそうな簡単な仕事ばかりだ。まあ、本来なら私だってそこいらの女子高生と変わらないけどね。まだ経験が足りていないからか、それ以外の他に理由があるのか。でも、どうせなら少しぐらいスリリングな仕事をさせてくれてもいいじゃないかと生意気な私は駄々をこねる。薬の売人や拳銃の運び屋なんてのは無理だとしても、裏社会のパーティーを彩るバニーガールぐらいなら務める自信はある。でも、ササクラはそんな私を相手にしようとはせず、十八歳を過ぎればアダルトビデオに出してやるぞなどと言う始末。何さ。私は知っているのだ。十八歳になる前からでも、更に報酬のいい裏ビデオと呼ばれる仕事があることを。

 それはササクラを介して知り合った売り子仲間に教えてもらった情報だ。

 その子の名前はユウキ。十九歳の女の子だった。

「ユウキっていうのは母方の苗字でね、だから私、ある意味で本名のまま仕事をしてるの」

 初対面だというのに、そんな際どい情報を彼女は自分から嬉しそうに語ってきた。

「アヅミちゃんはどうなの?」

 そんなユウキの興味に応えてあげるために、私は最良の言葉を選ぶ。

「私も同じなんです。奇遇ですね」

 それは紛れもなく嘘だというのに、彼女は想像した以上に喜んでくれた。売り子という職業は単独行動が多く、同じ売り子仲間であっても、必要以上に親しくなる機会はほとんどない。一年前によその街から霙小路にやってきたユウキは、私に出会うまで一人の友人もなく過ごしてきたのだという。だから、同じ名前の由来を持つと騙る私との出会いは、彼女にとって一種の奇跡だったに違いない。ユウキは、出会った当日だというのに、私を自宅に招いてくれた。そこはワンルーム六畳の狭いマンションの一室だったが、家出娘の私にすれば寝ぐらとなる場所があるだけで羨ましかった。そんな愚痴をこぼすと、ユウキは一緒に暮らそうよと持ちかけてきた。

 断る理由などなかった。

 一緒に暮らすといっても、四六時中顔を合わせているわけではない。お互いに仕事で家を空けることが多かったし、その仕事のほとんどが泊りがけだったから、二人でゆっくりと過ごす時間は限られていた。それでも、暇を見つけてはユウキと色々な話をしたものだ。昔のこと、仕事のこと。話すのは一方的にユウキの場合が多かった。私は自分のことをあまり多く語りたくなかったので、自分のことを喋れば満足してくれるユウキの性格は都合がよかった。話を聞くうちに、どんどんとユウキという人の本質が見えていった。彼女は優しくて素直で、少し頭の弱い、それでいて病的なまでに男が好きだった。

 ユウキが最初に男性と関係をもったのは中学二年生で、相手は担任教諭だった。勉強の苦手なユウキは、補習という名目で放課後の教室にたびたび取り残された。もちろん二人きりで。最初から体が目当てだったのか、ある日、ついに欲情の限界に達した担任教諭に床へと押し倒された。制服のスカートをまくられ、下着を剥ぎ取られ、抵抗する余地もなく担任教諭がユウキの中に侵入してきた。腰を振るだけ振って担任教諭はすぐに果てた。何が何やら解らぬうちに操を奪われたユウキだったが、痛みを感じなかったそうだ。出血もなく、むしろ初めてだというのに気持ちよかったらしい。けれど、まだ年の若い担任教諭にとって、そんなユウキの姿は自分が想像した処女像とは違っていたのだろう。中学生のくせに今までどれだけの男に抱かれてきたんだ、などとわけのわからない論理でユウキを罵った。挙句には性欲処理の便利な相手を見つけたと思ったのだろうか、黙っていて欲しければ言うことを聞けと脅した。ユウキがあと少しでも賢ければ逆に脅迫することもできたというのに、まだ何も知らなかった当時の彼女は、きっと自分が悪いことをしたのだと思い、黙って担任教諭の言いなりとなる道を選んだ。

 けれど、担任教諭との関係は半年ほどで呆気なく終わった。頻繁に行われたマンツーマンの補習授業を、何人かの教師が疑いの目で見たのだ。真相が明るみになることはなかったが、疑わしきを罰するためにも、担任教諭は遠方への転勤を命じられ、ユウキの前から完全に姿を消した。

 担任教諭から解放されたユウキだったが、その体の中には自分でも抑えつけられないほどの強い性欲が覚醒していた。その性欲を満たすために何人かのクラスメイトに誘われて関係をもったし、テレクラを使った援助交際に手を出したのもその頃からだという。それでも中学生の間の彼女は少し早熟な女の子で済まされるレベルだった。私の周りにも思い当たる顔がいくつかある。理解できないことはない。

 圧倒的に狂うのはその後だ。

 中学卒業後にユウキが選んだ進路は地元の工業高校だった。理由は一つ。男子生徒の数が圧倒的に多いから。女子生徒の数が極端に少ない校内で、愛らしい容姿のユウキは、まるでアイドルのような歓迎を受けた。

「あの頃が一番もてたと思うよ」

 本当に嬉しそうな顔でユウキは追想する。

 三年間の学園生活で、ユウキが関係をもった人数は百人を超すという。正確な数は本人も把握できていないから、実数はもっと上かもしれない。その大半は同じ学校の生徒か教師で、あとは行きずりのナンパや援助交際のおじさんだった。最初は校内のアイドルとして持て囃されたユウキだが、次第にその淫乱性が周囲にも気づかれ始め、一年生の終わり頃には立場が完全に変わってしまう。誰もが彼女を軽蔑し、ただの性欲を満たすためだけの器として扱うようになったのだ。ついた仇名は男子トイレ。本性が知られた以降は、彼女は自分から男を誘うようになった。放課後の教室で、休み時間のトイレの個室で、授業中の保健室で、などなど。特定の恋人を作ることはなかったから奔放に、自分の欲求を満たすためだけに邁進した。

 そんな彼女の自慢話のハイライトは修学旅行の夜だった。不良グループが集まる部屋に連れ込まれたユウキは、一晩のうちに十八人もの男を一人で相手にしたという。夜通し行われた饗宴に、彼女は嫌な顔一つせずに応じた。むしろ、どんどんとへたれていく男たちを尻目に、最後の最後まで狂乱の夜を楽しんでいたようだ。

 高校を無事に卒業すると、ユウキは地元の零細企業に就職先を見つけたが、結局その会社で働く日はこなかった。入社前の春休みに妊娠が発覚したのだ。父親が誰かは本人にもさっぱりとわからなかった。逆算しても候補が十人ほどに絞られるだけで、中には名前も顔も知らない人間が含まれている。それを聞いた両親は激怒した。薄々、我が娘の様子には気がついていたものの、そこまでの異常だとは思っていなかったらしい。激昂した両親に無理矢理に引きずられてユウキは病院に向かった。それが当然であるように、ユウキは中絶手術を受けさせられた。弁明の余地も本人の意思も何もあったものではなかった。さすがのユウキもショックで錯乱状態に陥った。退院するとすぐに彼女は家を飛び出した。

 そして辿り着いた場所が霙小路だった。

「どうしてこの街を選んだの?」

 私の質問に対する彼女の答えはひどく曖昧なものだった。特に理由はない。ただ、一度来てみたかっただけ。雑誌やテレビで紹介される霙小路はとても魅力的だから。ここで生まれ育った私にはピンとこないけれど、よその街の人から見た霙小路はおしゃれで、綺麗で、どこまでも華やかに映った。だからこそユウキはこの街にやってきた。惹かれるように。そしてササクラと出会い、売り子となった。売り子は彼女にとって天職だった。

「男の人が抱いてくれて、おまけにお金が貰えるんだから」

 あなたもそうでしょうと言わんばかりのノリだ。話を合わせるためにうん、うんと頷いてみせるけれど、私には彼女の気持ちの半分しか理解できず、残りの全てで心の底から軽蔑していた。

 私にとって売り子を続ける理由は男に抱かれることが本質ではない。代償として貰うお金が、何よりもアヅミという名の売り子であることが大切だった。だから私は彼女のように相手も内容も選ばずに仕事を受ける神経が理解できなかった。私が売春をするのは多くても週に一回か二回程度だ。でも、ユウキは違う。彼女は売春専門の売り子で、多ければ日に二回でも三回でも仕事を受けた。ほぼ毎日のように。彼女を指名する顧客の数は、ササクラが管理する売り子の中でもトップクラスだという。

 理由は簡単。ユウキは重度のマゾヒストだったからだ。客はそれを目当てに彼女を指名する。ササクラもそれを踏まえて客を紹介する。罵られ、蹂躙され、時には自分や相手の排泄物を口に入れることも辞さない異常な性癖の持ち主。それがユウキの正体だ。

 そんな人間をどうすれば理解できるのだ。彼女は私に親愛の念を抱いているようだが、私は彼女のことを全く認めていないし、根本的なところで何も共有したくなかった。

 でも、話のネタにはなるから、そこが救いだ。

 彼女を見下して一緒に暮らすのはいいストレス解消になるし。

 そんなこととも知らず、ユウキは親しげに私に話しかけてくる。

「アヅミちゃんはいつまで売り子を続けるの」

「わかんない」

 そんなことは考えたこともない。まだ売り子になって間がないのだから、いつまで続けるかよりも、これからどんなことが待っているかを常に考えていた。

「当分は辞めないかな。まだわかんないけど」

 飽きっぽいからなあ、私って。なるべくなら面白い事件に巻き込まれ続けていたい。昔のように長閑で平穏な生活も悪くはないけれど、どうせ売り子を続けるからには、スリルとかサスペンスなんかを満喫していたい。

 辞めるとしたら、それすらにも飽きた時だろう。

「いいなあ。私なんか、長くてもあと三ヶ月しかできないんだよ」

「あ、そうか」

 売り子には二十歳になったら引退するという取り決めがあるのだ。売り子のような特殊な形態を保つには、十代の少女という特権を行使し続けるしかないから。二十歳を迎えて大人になれば、もうそれただの売春婦に成り下がるからとササクラは言っていた。それ以降はプロの風俗嬢になるか、堅気に戻れ。それ以外の選択は一切の面倒を見ないと。

「辞めたくないなあ、私」

 願いは叶わず、ユウキの売り子人生は二十歳を迎える前に途切れた。

 ある日、唐突に。

 偶然にもその日は非番が重なっていたから、私たちは一緒に昼食をとり、テレビを見ながら部屋でごろごろと寛いでいた。世間話や仕事の情報交換をしていると、突然部屋のチャイムが鳴らされた。名義上の主のユウキが対応に出る。訪問客など珍しいなと思っていると、ドアが開いたと同時に彼女の体が室内へと吹っ飛んできた。

「何?」

 事態を把握できない私をよそに、開け放しのままのドアからは土足のままで男が踏み込んできた。

 それはユウキの父親だった。

「話はあとだ。とにかく帰るぞ」

 食べかけのクッキーをぽろぽろと絨毯にこぼす私の目の前で、父親はユウキの髪の毛を掴んで外に連れ出そうとした。ドアの外側では、母親らしき女性がハンカチを目に当てて泣いている。ユウキはユウキで嫌だ嫌だと大声で叫び、父親に抵抗する。そのわりには余裕なのか、涙で滲む目は薄く笑いが浮かんでいるし、決して私に助けを呼ぼうともしなかった。呼ばれたところで怖くて動けないに決まっているけど。

「あんたはこいつの友達か」

 ばったりと目を合わせてしまった父親の目は、恐ろしいまでに血走っていた。怒りなのか恥辱なのか、それとももっと他の感情が入り組んでいるのか。まあ、複雑な心境だということはわかるのだけれど、どちらにしても怖いものは怖い。

「ええ、同居してる同僚です」

 恐怖の所為で駄洒落めいた発言になってしまったが、そのことに突っ込みを入れる様子もなく、父親は私に向かってお前も売女かと吐き捨てた。売女ではなくて売り子だと訂正しようとも考えたのだが、やめた。冗談の通じる相手ではないみたいだし。

「いけませんか?」

 だから、代わりに言ってやった。

「客に眠る場所を与えてもらう代わりに、私たちは眠らない時間を供給する。それが何かいけないことなんですか?」

 決まった。私の一世一代の大見得に、ユウキの父親は絶句したのだろう。掴んでいた娘の髪の毛を力なく離してしまった。解放されたはずのユウキは、逃げる様子も見せずにそのまま床に突っ伏してしまった。そして、気が狂ったみたいにひくひくと痙攣する。

「売女が」

 怒気とともに我に返った父親は、もう一度ユウキの髪の毛を掴むと、そのまま一度も振り返ることなく部屋を出て行った。あとに引き摺られていくユウキは無言で、ひくひくと痙攣したままだったが、その顔に浮かぶ表情は恐怖でも後悔でも困惑でもなく、それは紛れもなく快楽のものだった。

 どん引きだ。でも、ありがとう。最後の最後で私はユウキのことが心底嫌いになれた。彼女は、実の父親に蹂躙されることに涙を流して喜んでいたのだ。痙攣するまで快楽を感じていたのだ。

「ユウキは連れて帰るからな」

 最後に父親はそう言い残していった。

 なんだ。彼女も嘘をついてたんだ。彼女の名乗るユウキという名前は、母親の旧姓でもなんでもなく、ただ彼女の本名だったのだ。売り子は本名を名乗ることが禁じられているはずなのに。もしかすると、マゾヒストのユウキは本名で売り子を続ける羞恥にすら快楽を感じていたのかもしれない。いや、それより何より彼女はこの日がくるのを待っていたのかもしれない。父親に殴られる日がくることを。そのために、本名で売り子を続けていた。自分を探しやすくするために。或いは、彼女は父親をも誘惑してしまいそうな自分に気づいて、家を出たのかもしれない――。

 まあ、彼女なら有り得るかもしれないという程度の、根拠のない決め打ちだけどね。

 ユウキがいなくなっても、私はその部屋に留まり続けた。せっかくの寝ぐらを手放したくなかったし、シェアしていた家賃も一人で払えるほどには稼ぐようになったからだ。その後も私は何事もなく売り子として暮らし続けた。ユウキのように両親に見つかることはなかった。こんなに近くにいるのに誰も見つけてくれやしない。


 そんなこんなで季節は冬になった。

 唐突に部屋を訪れたササクラは有無も言わさず私を連れ出した。

「仕事だ。黙ってついてこい」

 ただそれだけ。他には何も説明されない。

 行き先も、仕事の内容も、私には説明してくれない。

 先ほどまで見えていた雑木林の姿も、今では薄闇のなかに融けてしまった。散々のドライブに疲れきった私には、もうここがどこかなど詮索する力は残されていなかった。

 着けばわかるよ。そこが実家でなければ文句言わないから。

 たぶんだけどね。



  愚痴をこぼす旅人が言いました

  『無理を重ねて繋いだ絆などに意味はない』

  首から下の向かう場所には辿り着けず、立ち止まる



 ようやく車が止まった時には日も暮れて、辺りはもうすっかりと夜になっていた。空には煌々と月が輝く。月明かりの下に待ち構えていたのは古びた二階建ての民家だった。山奥に建つからには別荘か何かなのだろうか、あまり生活感は感じられない。外壁は白で、屋根は赤っぽい。窓はどれも大きく作られてあって、庭の方にはウッドデッキのテラスもあるようだ。ただ、管理が行き届いているようには見えない。車の中からでも、ひどく草臥れて見える建物だった。

「着いたぞ。降りろ」

 そう言い残して、ササクラはさっさと車を降りて建物の玄関に向かった。慌てて私も後を追う。車から降りると、冬の刺すように冷たい山風が私を迎える。コートを着てはいるが、その下は薄着なのだ。寒い。両手で抱え込むようにして体をさするが、あまり効果はなかった。

 ササクラに続いて玄関に向かう。ドアの右上には安住と書かれた表札が掛かっている。ということは民家なのか。ササクラはまるで勝手知ったる我が家とでもいった手馴れた感じでドアを開け、屋内に入った。ノックをするでもインターホンを鳴らすでもなく。あとに続く私は不安でいっぱいだから、慎重な足取りで玄関をくぐる。

「扉は閉めとけよ。ミマは入ってこないから」

 ミマというのはここまで車を運転してきたササクラの部下だ。私も何度か仕事の連絡で言葉を交わしたことがある。でも、名前以外は全てが謎に包まれている。何度顔を合わせて言葉を交わしてみても、いまだに私はミマが男だか女だかもわからないのだ。

 靴を脱ぐと、ササクラは入ってすぐ左の部屋に私を導いた。電灯の点けられた室内は、品のいい応接室といった風情。大きなソファが逆コの字に並べられ、その空間の中心にガラス製のテーブルが置かれている。室内、というよりも建物全体が自動で空調制御されているらしく、入ったばかりの部屋はほどよく暖かい。コートを脱ぐと、ササクラはソファに座れと言った。温和しく言うことを聞いておく。

「ここがお待ちかねの行き先だ。納得したか?」

 するわけがない。

「様子を見てくるから、お前はここで暫く休憩しておいてくれ」

「何の様子?」

 聞きたいことは山ほどあったが、いちいち聞いてもきりがないから当たり障りのないものを選ぶ。

「客の様子だ。戻ったら、ちゃんと説明するよ」

 そう言われては従うしかない。

「あんまりウロチョロするんじゃないぞ。すぐ戻るからな」

 怖いからウロチョロなんてしないよ。どこともしれない建物の中を出歩くほど私は無防備じゃない。温和しくしてます。今しがた入ってきたばかりのドアから出て行くササクラを見送ると、私はソファにちょこんと座って室内を見渡した。ドアの対面の壁は窓になっているようだが、カーテンによって閉ざされていてよくわからない。私が座る前方は飾り棚とテレビが置かれていて、背後の壁際には大きな本棚があった。本棚になら今回の客についてのヒントが何か隠されているかもしれない。寸前の決意も虚しく、立ち上がって本棚に近づいてみる。

 難しそうな本や百科事典の手前に、小さな写真立てが飾られてあった。写っていたのは母親らしき女性と、小学生ほどの小さな子供が二人。子供は男女がそれぞれだ。兄妹だろう。よく似た顔立ちだ。母親らしき女性は私の目から見ても美人で、子供も揃ってかわいかった。父親が写っていないのはこの写真を撮った人物だからか。写真の右下に刻まれた日付は十年前のものだった。写真の背景からも、そこがその当時に田塚で行われた博覧会の会場だと窺わせる。私も両親に連れられて、博覧会で唯一の目玉だった金色の猿を見にいった憶えがある。

 収穫に喜ぶ暇もなく、部屋の外から足音が聞こえてきた。私は急いでソファへと戻る。直後に部屋のドアが開き、ササクラが姿を見せた。ふう。ぎりぎりセーフだ。

「温和しくしてたか?」

 こくりと頷く私。大丈夫だ。ばれていない。

 ササクラは私の向かいのソファに腰を下ろす。胸ポケットから煙草を取り出すと口に咥えて火をつけた。ササクラが煙草を吸う姿など初めて見た気がする。いやそれだけじゃない。面と向かい、こんなふうに腰を据えてササクラと会話をするなど初めてのことだ。

「仕事の話だ。準備はいいか?」

 ひとしきり煙草を吸うと、ササクラは卓上の灰皿でもみ消した。いよいよ本題。準備ならとっくにできいる。

「難しいことは何もないんだ。アヅミ、お前の仕事はある人間の相手をしてくれるだけでいい。それに、相手といっても股を開くわけじゃない。相手は病人だからな。簡単に言えば介護だ。お前は二階にいる奴の話し相手になってくれたらいいんだ」

「それだけ?」

 拍子抜けだ。今までの仰々しい雰囲気はいったいなんだったのだろう。病人の話し相手になるだけなら、さっさとそう言えばいいのだ。こんなに勿体ぶる必要はない。

「それだけだ」

 ただ、とササクラは続けた。

「相手は病人といっても、こっちの病気なんだ」

 ササクラは自分の頭を指で差す。

「いかれてるわけではないから、暴力を振るう危険はない。そこは安心してくれ。少し現実を認識する力が欠けているだけなんだ」

 そう言われてもどういうことなのかさっぱりわからない。

「それが安住さんって人なの?」

 たまらず聞いてしまう。表札にあった名前。その人がここの住人だとすれば、その名は安住に違いない。

 アズミ? 私の名前と同じ響きだ。

「さすがによく見てるな」

 呆れたように笑う。

「ついでに説明を済ませておこう。客の名前は安住和(かず)という。そいつは過去に遭った事故の後遺症で今も療養中なんだ。それで――」

 一緒に事故に遭った他の家族は死んでしまった。生き残った安住和は、その事実を知って心を病んでしまったのだ。自分だけ生き残ってしまった罪悪感。和は今も現実を見てない。彼の心の中には死んだはずの家族が生きている。悲劇が訪れる前と同じような、幸せな時間が今も続いていると信じているのだ。

「それが、あの写真の子供だ」

 ササクラは本棚を見た。私がさっき見た写真の中の少年。今は亡き母と妹の写った思い出の写真の中で、彼は塵一つの汚れもない、澄んだ目と笑顔を浮かべていた。

「論より証拠だ。ちょっとついてこい」

 そう言うと、ササクラは私を部屋の外に連れ出した。ササクラに続いて昇る階段は幅が広く、一段一段が低めに設計されており、途中には踊り場まである。手摺の意匠といい、一般の民家にしては豪勢なものだった。その階段を昇りきり、正面の部屋のドアを開く。病人がいると聞いている所為か、なんとなく病院のような匂いがした。

 部屋の中はこれまた病室のように簡素な調度だった。テレビもなく、ベッドと絵画用のイーゼルと備え付けの本棚には数冊の本が倒れている。たったそれだけの部屋。

 ベッドの上では人が眠っていた。

 それが安住和なる少年なのだろう。ササクラの背中に隠れるように、私はベッドに近づく。年齢は私と同じか少し下だろうか。写真の中の面影が残っているその顔は、はっきりと美少年だった。いや、もっといえば女性的な顔立ちをしている。さすがの私が思わず見惚れてしまいそうなほどに、とても綺麗な顔をしている。

 まるで天使か人形だ。

 そんなふうに感じた。


 眠っている安住和を起こさぬよう静かに部屋を出て、私たちはもといた応接室に場所を移していた。何はともあれ話の続きを聞いておかなければならない。

「つまり、お前にはあの写真に映っている妹を演じて欲しいんだ。お前は和の妹になってここで共に暮らす。それが今回の仕事だよ」

 こともなげにササクラは言った。

「妹の名前は安住幸子(さちこ)。それがお前の名前になる。父親は(じょう)()。母親は()()。さっきも言ったが、和以外の家族は全員事故で亡くなっている。依頼主はもちろん和本人ではなく、あいつの養育を請け負った親戚の一人だ。俺はそいつとちょっとした関係があって、どうしても断れなかったんだ。心配しなくても和はお前を見たら妹だと認識する。俺のことを父親と思っていてね、その俺が妹が帰ってきたと言えば素直に信じる。あとはあいつの話に合わせて適当な相槌を打っていればいい」

 ササクラの言葉を信じれば、確かに難しい仕事ではないようだ。私がボロを出さなければの話だが。それと、問題はもう一つあった。

「期間はいつまでなの?」

 いくら頭のおかしな少年を騙すとはいっても、時間が経てば真実に気づく恐れもある。それに、私だっていつまでも同じ仕事についてばかりいられない。任期満了で、はいさようならというわけにもいかないだろう。

「期間はひとまず一月だと考えてくれ。更新するかどうかはまた報告する」

 今日は十二月六日。正月明けまで自由はないということだ。

「無論、それ以降も続行される可能性が高い。いや、一ヶ月で終わる可能性の方が低いといっていいだろう。しばらくなんて期間で済むかどうかも、今の段階では責任をもって言えない」

 本当に無責任な言葉だ。だからと言って今さら断る選択肢もないのだろう。

「悪いが、その通りだ」

 ほら、やっぱり。

「覚悟を決めてくれ。無理強いはしたくないんだが、こればっかりは他の奴に任せるわけにもいかない仕事でな。アヅミ、お前だから任せられるんだ」

 何それ。もしかして頭を下げてくれるとでも? 情に訴えかけられたところで、こんな仕事ができるわけないじゃない。

 だからといって、断る道もないのだけれど。

「わかったわよ」

 やればいいんでしょ、やれば。私のやけくそな言葉に、ササクラは素直に頭を下げた。

「すまん」

 何だろう。ササクラが私に頭を下げるなんて。

 まだ何か隠している。私の勘がそう告げる。

 問い質したところで素直に口を割る男とも思えないけど。

「悪いが説明は以上だ。俺もこういう仕事は慣れてなくてな。一度に説明すれば、お前まで混乱させてしまう。だから、頃合を見計らって話をするよ」

 家の中を一通り案内したあと、ササクラは眠っていた和を起こして私を紹介した。ササクラの言うとおり、彼は私を一目で妹の幸子だと認識した。そして、ササクラは私と和を残して帰っていった。

 私を一人にするのは心残りのようだったが、彼も忙しい身なのだ。ササクラは売り子の元締めとして、私以外にも数十人の売り子を抱えている。いくら部下が何人もいたとしても、彼女たちの仕事や生活の面倒を見るのは、呑気に与えられた仕事をこなすだけの売り子に比べれば何倍も大変なのだから。

 仕方ない。今回はササクラの顔を立ててやろうじゃないか。

 何だかんだと言ってみても、ササクラは私の命の恩人なのだ。野垂れ死に寸前の私に仕事をくれて、こうやって生きてけるようにしてくれた。

 それに、あんなふうに頭を下げられてしまったのだ。

 受けなきゃ女が廃る。

 でしょ?



  難しい数式を解くみたいに簡単にはいかない夢を見た

  眠れなくて数え並べた罠に囚われた

  体が引き千切られて弾けた

  望んでしまったから作り笑い浮かべた

  鏡を見て気づいた



 安住和と私は、意外にもうまくやっていた。彼は一日のほとんどをベッドの上で過ごすだけで、私はその隣で取りとめもない話に付き合うだけで良かったから。他にすることといえば食事の用意をするぐらい。病人の介護といっても、用を足す手伝いも入浴の世話もしなくてよかった。彼は一人でそれらのことを済ませられたのだ。

 もしやれと言われても困るけどね。

 こんな美少年の素肌に触れるなんて、さすがに照れてしょうがないもの。

 ササクラがこの家にやってくるのは週に一度か二度で、それ以外はずっと二人きりだった。ササクラは必要物資を差し入れしてくれる他にも、訪れたその日だけは和の相手を変わってくれた。ササクラが和の相手をしている間に、私はミマが運転する車で近くのショッピングセンターやレジャー施設に連れていってもらい、羽を伸ばすことが許された。もちろん、経費だから料金は全てミマが立て替えてくれた。ササクラに輪をかけて無愛想なミマだけれど、この時ばかりは買い物にもゲームにも文句を言わずに付き合ってくれた。

 あ、ちなみにミマの性別は女だったの。

 男か女かわからないなんて言ってごめんね。

 家に戻ると、入れ替わるようにササクラが車に乗って帰っていく。帰り際に交わす言葉と言えば業務連絡の類だけで、最初にここに来た時以来、私は安住和とその家族に関する新しい情報を一つも与えられないでいた。

 約束と違うじゃない。

 それでも癇癪を起こさず真面目に仕事をこなしていたのは、私が和のことを気に入ったからにほかならない。別に男性として好きになったわけではなくて、お兄ちゃん、お兄ちゃんと言っている間に、私は彼のことが本当の兄のように思えてきたのだ。一人っ子の私は昔からこんなお兄ちゃんに憧れていたのだろう。とても綺麗で、優しくて、何よりも絵が巧い。同じ男でも無神経なあいつとは大違いだ。爪の垢を煎じずにそのまま口の中に放りこんでやりたい。

 そう言えば、あいつは元気にしているのかな?

 最後に酷いことを言って、そのまま今に至った。

 この仕事が終わったら、会いに行ってみようかな。

 なんて、叶うはずもないことに思いを馳せる。


「ねえ幸子。あの日のことを憶えてる?」

 何のことなのかを聞こうとして、途中で気がつく。その日はクリスマスだった。十二月二十五日。ちょうど一年前、彼とその家族が事故に遭った日だ。

「僕はよく憶えていないんだ。気がついたら病院のベッドに寝かされていてね、枕元には父さんと母さんの姿があった。だからね、幸子はどこに行ったのって聞いたんだ。そしたら、他の部屋で眠ってるよ、お前は心配しなくていいから、自分の体を治しなさいって、父さんに言われた。それで初めて気づいたんだ。自分が事故に遭って傷らけなんだって。気づいたら体中が痛くて怖くてね。泣いちゃったんだ。恥ずかしいったらありゃしない」

 その時には既に、彼が話をしたはずの両親もこの世を去っていたのだろう。全てが彼の脳内で作り上げられた妄想。そのことを思うと、演技ではなくて本当に悲しい気持ちが顔に浮かんでしまう。そんな私を見て、和も悲しい顔をする。

「ごめんよ。嫌な思い出だよね。お前も、僕より長く入院してたんだから。それにしても長い間かかったよな。入院している間、どうだったの? 寂しくなかったかい?」

 どう答えればいいのだろう。ササクラからは相槌を打つだけでいいと言われている。けれど、この状況ではそうもいかないだろう。アドリブだ。それしかない。

「そんなことないよ。私はずっと眠っていたから。起きた時には、枕元にパパがいてくれてね、だから、寂しくなかったよ。そのあとここに来て、それからはお兄ちゃんと一緒にいられる。パパとママは仕事でなかなか帰ってこれないけど、私はお兄ちゃんがいるから平気。お兄ちゃんもそうでしょ?」

 私の嘘に、和はとても嬉しそうに頷いてくれた。違うんだよ。あんたの妹はもうこの世にいないし、パパもママも、作り事の世界に存在するだけなんだよ。喉まで出かかるそれらの言葉を、私は懸命に堪える。言ってはいけない。たとえ嘘でも、彼を悲しませてはいけない。

 だって、彼は天使なのだ。

 傷ついた瞬間にこの世界からいなくなる。

 そんなことがあってはならないのだ。

「ねえ、幸子にプレゼントがあるんだ」

 和はベッドから起き上がると、布を被せていたイーゼルに近づき、覆いを取った。

「今日はクリスマスだからね」

 和がプレゼントに用意してくれたのは一枚の絵だった。

 それは私をモデルに描いたものだった。

「すごい」

 思わず声をあげてしまった。似ているなんてものではない。まるで、生き写しのよう。キャンバスの中には、何分の一かに縮尺された私の姿が封じ込まれていた。

「これ、私だよね」

 和は得意げに頷いた。

「いつの間に、こんな。私、全然きづかなかったよ」

 和は答えず、絵をイーゼルから取り上げると私に手渡してくれた。

「幸子、昔からモデルになりたいって言ってたもんね。私がモデルになるから、お前は絵描きになれって。約束しようよ。僕は絵描きになるから、幸子はモデルになって。心配しなくていいよ。幸子は綺麗だから」

 なんだろう。この違和感。今の彼の言葉を頭の中で何度も反復させる。一言一句。違和感の正体は明らかだった。何度試しても、同じ箇所で引っ掛かる。

「お兄ちゃん、今、なんて言ったの?」

「え?」

 和は私の言葉に戸惑っているようだ。

「僕は絵描きになるから、幸子はモデルになれって」

「その前」

「約束しようって」

「その前」

「私がモデルになるから、それで――」

 室内に和の叫び声が響いた。頭を抑え、その場に蹲る。気違いのように奇声を発し、ばたばたと床の上でのた打ち回る。

「お兄ちゃん」

 私は和のもとへと駆け寄り、力ずくで抱えあげた。ベッドに戻しても暫くは暴れていたが、そのまま押え続ける。力で負けるわけがない。相手は病人だ。それに、この体の感触は、この体臭はたぶん――。

 押さえ続けているうちに、和の体は動きを止めた。私の耳に、微かな寝息が聞こえる。疲れて眠ってしまったのだろう。それとも、ショートを起こした脳が自分の都合に合わせた記憶を再構築させようと、体の動きを休止させたのかもしれない。

「ごめんね、お兄ちゃん」

 確かめなければならないことがあった。

 眠った和の着ている衣服を一枚ずつ剥ぎ取り、全裸にする。

 やはりそうだ。

 彼は、彼ではなかったのだ。



  例えられるとしたら無秩序な大嘘

  繰り返し憶えた歌なら幸せに満ち溢れ、安らかに生きていた

  鏡を見て気づいた



 二日後。ササクラがやってきた。

「説明して」

 私の思いつめた顔に、ササクラは戸惑いもせずに頷く。

「全部だよ」

「わかった」


 一階の応接室。私はササクラと向かい合っていた。

「何から話せばいいかだな」

 そう何度も呟き、逡巡し、意を決したササクラが語りだしたのは自分の過去だった。自分が生まれた環境のこと、育った少年時代のこと、生きることに必死だった青年時代、売り子の元締めとなった経緯、そして家族のことも全て、包み隠さずに。

 最後に和の話となった。話の大筋は私の推測とほぼ違いはなかったのだけれど、その事態の深刻さは私の幼稚な想像力を粉々に打ち砕いてしまうほどに強烈だった。本当は和なんていない。いるのは安住幸子と呼ばれる少女だけ。

 そう、ただそれだけのことではないか。

 私がショックで軽い自失状態に陥っている間に、ササクラの話は終わっていた。どれぐらいの時間が経っただろう。それはとても長い時間だったはずなのに、人一人の人生を体感するほどに密度の濃い時間だったのに、まるで一瞬のようにも感じられる。卓上の灰皿には、ササクラが吸い潰した煙草の吸殻が山のように積まれている。

「納得してくれたか?」

 ササクラの顔がいつもより疲れている気がした。ううん、違う。それはたぶん気の所為だ。ササクラは何も変わっていない。変わって見えるのは、彼の話を聞いたからだ。

 変わったとすればそれは私の方なのだ。

「うん」

 彼の話したことを知りたい?

 でも、私には彼の人生を語る資格などない。そんなもの誰も知らなくたって私は一向に構わないし、彼も知られたくはないだろう。軽薄で低能なユウキの人生とは違う。私の口からなど言えるわけがないではないか。

 これから一生、私はこの物語を胸に秘め続けることだろう。それが売り子としての私に課せられた最初で最後の大仕事だから。今の私が軽い気持ちで口を滑らせるわけにはいかないのだ。

 だって、あなたには必要のない物語でしょう?



  生まれてきたことが罪ならば

  生じきたことが罰だとしても悔いはない



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