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私がアヅミとなったのは十六歳の夏のことでした。
その昔、アヅミは川合美沙という名の普通の少女だったのです。
アヅミの語源。それは友人の乾総士が作った歌のタイトル。ラブソングなのか応援歌なのか、今となってはよくわからない。でも、私のお気に入りの一曲だ。作者の乾自身はあまり気に入っていなかったみたいだけれど。
「どうしてアヅミなの?」
「だって、アヅミだから」
乾の説明はいつだって短い。それに、答えが理由になっていない。常に最低限の言葉で済ませようとする。たぶん、乾は自分の考えていることが他人には正確に伝わらなくても構わないのだろう。だから、会話を成立させるには少しばかり慣れがいる。
詳しく聞けばこういうことらしい。
昔から霙小路の西端付近に色里があったそうだ。古来より港町として栄えてきた田塚だから、その歴史は長くて古い。いつの時代も――それはこの地に都を遷そうとした武家の棟梁が生きた時代よりも前から――田塚の色里は訪れる船乗りや旅人を相手にして栄えてきたという。最盛期を迎えた近代には国内でも有数の盛り場と称された。現在でも歓楽街の姿が残っているけれど、どちらかと言えば寂れた感が拭えない。街としての中心が東端の霙小路駅周辺に移ったことが最大の原因だった。西端付近といえば、私にとっては馴染みのない、うらぶれて不潔で治安のよろしくない地域にすぎないのだ。
そんな田塚の色里には、かつて阿づ三という名の遊女が存在した。阿づ三はたいそうな美女で、在籍する遊郭では一番の人気を誇ったといわれている。そんな彼女が或る日、想いを寄せる情夫と心中するという事件が起きた。相手の情夫は田塚郊外の農村から町の商家に奉公に出ていた若者だった。二人は逢引に使っていた建物に火を放ち、命を絶とうとした。が、それは果たせなかった。事前に計画を察した周囲の手により命を救われてしまったのだ。
心中と放火という二つの大罪を背負い、阿づ三と情夫の男は救われた命を刑場の白刃のもとに散らすこととなる。情夫は最後の最後まで自分の命乞いに終始した挙句、腕の悪い介錯人に数度も首を切られ、苦悶の最期を迎えた。その一方で阿づ三は、一度覚悟した死をそのままに、首と胴が切り離されるその瞬間まで、鼻歌を唄っていた。その死に顔は美しく、刑場に居合わせた人々が感嘆の声を漏らすほどだったそうな。
「だから、アヅミなわけ」
そんなふうに得意げに答える乾の感性はいまいち理解できないけれど、そんな彼の手により作られた歌は好きだった。もしも私に楽器を扱う技術があったならば、いったいどんな曲に乗せたことだろう。けれど、それは私自身がアヅミとなった今では決して叶わない夢になってしまった。
誰にも一言の相談もなく高校を退学した私は、発覚したその日のうちに両親と大喧嘩を繰り広げた挙句、勘当された。家を追い出された私に行くあてなどあるわけもない。血が昇った頭を少しでも冷まそうと夜の街を歩き、気がつけば霙小路の雑踏にいた。近くのコンビニで買った飲み物で喉を潤し、これからの自分が向かう場所をぼんやりと考える。家出など初めての経験だった。それでも何とかなるだろうと高を括っていた。
「ばいばい」
これが最後に両親と交わした言葉だ。一時の激昂。一晩頭を冷やして、その時に殊勝な顔を土産に持って帰ればいいのかもしれない。泣きながら自分の過ちを認め、謝れば許してもらえる。反抗期を迎えた年頃の少女がとった一つの逃避行動として。そう、これはよくある親子喧嘩だから。暫くは気まずくても、すぐにまた今まで通りの生活が帰ってくるのだ。
でも、私は家に帰るという選択を最初から捨てていた。
「お前はうちの子なんかじゃない」
父に言われた言葉があまりにも腹立たしくて。だいたい私を生んだのはあんたたちの勝手だ。私は自然に地面から湧いて出てきたわけじゃないんだよ。言い返してから後悔が襲ってきた。でも、もう遅かった。母に顔をぶたれた私は、用意していたものとは別の、ひどく素っ気のない言葉を残してさっさと家を飛び出した。
まあ、つまりは勢い余ってしまっただけだ。そういう事情もあって、私は家出をしてからの行動なんて何一つ考えていなかった。目的もない。行き先も決めていない。そんな私にできることは、巡回中の警官に補導されない程度に夜の街を徘徊することだけ。
比較的夜が浅いうちは、本屋やゲームセンターなどで時間を潰すことにも苦痛は感じなかった。門限に縛られることもなく、思いっきり雑誌を立ち読みし、預けていたメダルでスロットの真似事をする。二十時を過ぎ、二十二時を過ぎ、それらの店から明かりが消えてしまうと、私はあっさりと行き場を失ってしまう。仕方なく元いたコンビニに戻り、雑誌コーナーで時間を潰そうと試みるのだけれど、そこにあるものは全て本屋で読み尽しているものばかりだったから、結局はジュースを一つ買って外に出る。そしてまた夜の街を徘徊する羽目になる。
行き場のない私は夜の海が見たくなったと自分に言い聞かせて、仕方なしに港の公園を目指して駅南のビジネス街を抜ける。その途中で検問中の警察官の一群とすれちがったのだが、自分たちの仕事以外に興味のない彼らから声を掛けられることはなかった。私はスピード違反などしていないから。或いは、ここぞとばかりに背の高さが有利に働いたのかもしれない。背が高いから、私はよく大人びて見えると言われる。よく見て言葉を交わせば十六歳だとわかるに違いないのだけれど、常識に縛られたそういう人たちには常に五歳ほど年が上に見られる。だから警官は見逃してくれたのだろう。二十歳を過ぎた大人ならば、どんな時間にどんな場所でどんなことに興じていたとしても補導の対象にはならない。場合によっては逮捕の対象となるにしても。
背が高くてよかった。大人びて見える外見でよかった。
たとえそれが悪く言えば老けているのだとしても。
って、ほっとけ。
日中は観光客や船の利用者で賑わうポートターミナル。今は暗く、とても静かだ。数時間前までライトアップされていたはずのシンボルタワーも、無言で聳え立っているだけ。それが妙に威圧的で怖かった。その向こう側、海上の埋立地に密集する工場群が、赤や青や緑の光を放っている。夜空に浮かぶ月はそれらに決して負けまいと、煙突の煙をかき分けるように輝く。大小様々なクレーンが照らし出される。時折、遠くの方から船の汽笛が聞こえてくる。辺りには誰もいない。夜風が街路樹をそよがせる音すらもが脅迫的に感じる。私だけが見ている景色。私だけが聞いている音色。一人ぼっちだと思い知らされる。人恋しいくせに、近くで人の気配を感じると不自然なほどに体がすくむ。この辺りは浮浪者が多いから身の危険を感じているのだろう。それとも、まだ巡回パトロールの警察官を警戒しているのか。何も見えない夜の海に怯えて、自分の意思とは関係なく流れようとする涙を懸命に堪えながら、私は夜が明けるのを待っていた。
徹夜をするのは慣れていない。受験勉強の追い込み時期にだって、きちんと睡眠時間をとっていたから。何をすればいいのかよくわからない。そもそもこんなふうに時間を潰すということ自体が苦手だった。目的や計画があれば時間なんてあっという間に過ぎてしまうのに、今の私には時の流れが緩やかで気に入らなかった。
仕方ないから考えよう。
これからのことを。
まずは財布の中身を確認する。二千とんで二十八円。次に鞄の中身を確認する。三回分ぐらいの着替えとポーチの中に何枚かの生理用品が入っているだけで、タオルもなければ歯磨きセットもない。
何がしたいんだろうね。
自分のバカさ加減に笑う余裕すらない。
そんなことで生きていけるとでも思っているの?
生きてやるさ。
私の中の一番バカで前向きな奴が、そんなふうに力強く宣言した。
そうだ。生きなければいけない。
このままで生きてやるんだ。
決意を固めて間もなく、うつらうつらと船を漕いでしまう私。バカにするように時計の秒針がお行儀よく時を刻み、少しずつ夜は白んでいく。そのうちに紫色に染まった空から太陽が顔を出し、雲の合間を昇ると朝が来た。潮の匂いと、脂の匂いが甦る。朝がこんなにも早く訪れるなんて初めて知った。今が夏で良かったなと私は思った。
でも、昼が訪れる頃には夏なんて嫌いになっていた。灼熱の太陽の光が、容赦もなく疲れた体に降り注ぐ。仮に私がなんとか星雲からやってきた巨大な宇宙人だったなら、とっくに胸のタイマーがピコンピコンと音を立ててジョワっていただろう。
もう体力の限界だった。
早く眠りたい。
だからといってうら若き乙女が白昼堂々と野宿するわけにもいかないから、私は安全に眠れそうな場所を探し求める。考え付いたのは図書館だった。あそこならば冷房の効いた屋内で眠ることを許してくれるはずだ。
でも駄目だった。
ふらふらと辿り着いた霙小路駅近くの図書館の入り口には、無情にも本日休館日という札がかかっていたのだ。
最悪だ。まるで出来の悪いコントのようについていない。
じゃあ、どうしよう。
こんな時に、自分には心から頼るべく近しい人間がいないのだと実感する。中学時代、親友と呼べる相手は乾以外にはいなかったけれど、言葉を交わして笑顔を見せられて、気になる男の子の話で盛り上がる友達がいた。舞台が高校になってからもクラスメイトとはうまくやっていたつもりだし、私なんかに声をかけてくる物好きな男もいた。その中には多少なりとも深い関係になった相手がいる。
私にとって一番好きな異性といえば乾だった。でも、乾とは恋人と呼べる関係にまで至らずに終わってしまった。私の乾に対する感情は、そういう感覚からは離れた場所にあるものだと信じていたから。本当はそういう感覚と同じものだったのに。わざわざ同じ高校に進学して、それなのに別々のクラスになって、いつの間にか一緒に過ごす時間が減ってしまい、言葉を交わす機会も顔を合わせることもなくなってしまった。その代わりに他の男の子達と過ごす時間が増えていき、ついには乾と一緒に家に帰る習慣すらもなくなってしまった。そして、私と乾の間に決定的な距離が生まれたのだ。
だけど、今思えば変わったのは私だけだった。休み時間などに廊下を歩いていると、窓の向こうに見上げた第二校舎の屋上で、乾はフェンスに寄りかかって空を見上げていた。乾は昔と何も変わっていない。変わったのは私だけで、だからこそ変わらない乾が羨ましくて、腹立たしくて、やけに眩しくて、避けることしか出来なくなってしまったのだ。
私の責任だ。
自分がつらい思いをしたくないからと、他の誰かを傷つけるんだ。
そうやってずっと逃げていたんだ。
逃げ続けていると、どうやら前進の仕方も忘れてしまうみたいだ。
夕暮れの霙小路。気がつくと、私は駅前の広場に佇んでいた。
力なくベンチでへたれこむ私の目と鼻の先を、日頃と変わらず様々な人々が行き交っていく。仕事帰りのサラリーマン。学校帰りの制服組。デート中のカップル。仲睦まじそうな家族連れ。下手くそな歌とギターをがなり散らすだけのストリートミュージシャン。こうやって人々で溢れ返るから雑踏なのだろう。衣擦れが、足音が、息遣いが、楽しい気配が、不穏な空気が、諸々の要素が入り混じって街の喧騒を生み出すのだ。そんな、わけのわからない小理屈をこねてみる。でも駄目だった。昔なら乾と話をするだけで解消されていた何かが、私の中にうず高く積もっていることを再認識させるだけ。
高校のクラスで私の後の座席だった桜井理香。出席番号が一つ違いだっただけのクラスメイト。可愛らしい名前とは裏腹に、彼女はやたらと背が低くて小太りで、おまけに顔の器量もいまいちだった。そんな彼女みたいに残念な女の子にだって恋人がいる。もちろんヒト科の男性だ。とはいえ一回り以上も年の離れた教え子に手を出す、うだつのあがらない風采をした塾講師なのだが。それでも彼女は幸せそうだった。暇があれば彼氏の自慢をし、高校を卒業したら結婚するんだと宣っていた。相手はただのロリコン親父だというのに。彼女の幸福論を聞かされるたびに、私を含めたクラスの皆はいつでもうんざりしていた。興味の対象ではないからだ。それでも彼女は自分がいかに幸せなのかをいっぱいの笑顔でひけらかし、恋人と写ったプリクラを宝物のように大切にするのだ。そこに写っているのは決して美しくもない一組の男女だというのに。その姿に対して、誰も羨ましがることもなく、ただただ嫌悪と憐憫の情を駆使して聞き流していた。
けれど、今はそんな醜い桜井理香よりも惨めな私がここにいる。
もしも私に恋人と呼べる相手がいたならば、その人のもとに転がり込んでうわべだけでも愛を語れただろう。そっと抱きしめてくれるだろう。慰めてくれるだろう。自立した社会人ならば当分の間は生活の面倒も見てくれるだろう。或いは、厳しくも優しく私を叱りつけて家に帰るように諭してくれるだろう。
けれど、私にそんな相手はいない。本当に頼れる人なんてどこにもいない。
家出をしてからもう丸一日以上が過ぎた。まるでお尻に根が生えたように、私は何時間もずっとベンチから離れずにいた。考え事をしても、頭をよぎるのはネガティブなイメージばかり。見慣れていたはずの街の景色も、今ではすっかりよそよそしくなっていた。
「遣る瀬ないとはこのことだ」
乾ならば真顔でそんな台詞を口にして、自分の遣る瀬なさを解消するだろう。
乾に会いたいな。
今さらそんなことを思った。
時計を見た。もうじき日付が変わる。
こんな時間に呼び出すわけにもいかない。
だって、今さら私が乾にどんな顔を向けられるというのだ。
最後にあんな別れ方をしたのに。
私は大切な乾のことを捨てたのだ。
今さら会えるわけがない。
仕方ない。寂しいけれど仕方がない。
悲しい。
涙がなくても、嗚咽がなくても、こうやって人は泣けるみたいだ。
朝陽を避けて眠った 何も願いやしなかった
追っかけてくるのが怖かったんだろうか?
置き捨てられた海でも 奇跡のつもりの出会いでも
今も何を憎むの? そうやって時間からも忘れられて
乾が『夜想曲』と名づけた歌。
私の中からこぼれ落ちていく。
知恵を搾っても本当は何もできなかった
アリガトウなんて・・・ 死にたくなった
自分以外の誰にも聞こえないぐらい小さな声で唄う。乾を思い描いて。深夜の街の喧騒や、周りに散らばるストリートミュージシャンのくだらない歌にかき消されてしまわないように、私は懸命に歌を唄う。
上手く纏めて気付いた 次の台詞も見なかった
夜が明けていくのもたまらなく嫌だった
突き詰められた嘘も はにかみ代わりの祈りでも
満ち足りた不満なら先に誰かを殺してしまえばいい
涙が頬を伝う。悲しいから? 寂しいから?
信じていても光だなんて見えなかった
アリガトウなんて・・・ 死にたくなった
乾が好き。でも、そうじゃない。
星の見えない空が、すいませんねえと云って頭を下げる。
勝手気儘に想像を巡らそう。きっと何かが変わるから。
だけど、夜の夢なのさ。誰一人眠れない。
あっさりと朝がくれば、もう何も残らない。
だから何かを紡ぐのさ。こうやって何もかもをさらけて。
私はここにいるよ。
一人で、動けなくて、今にも気を失ってしまいそう。気が触れてしまいそう。
人の洪水に見守られて眠った
微かに映った鏡に笑いかけて
潰えた電飾を身に纏って
消えていく体を包み込んで
その溜め息が嘘になる前に
ここはどこだろう。
きっと、目が覚めた時には素敵な場所になっているはず。私は大切なものだけに囲まれて、不必要なことから隔離されて、幸福と快楽と笑顔と、あとは乾の優しさに包まれて。
そう信じて、私は暫しの眠りに落ちていった。
夢を見なければ本当は何もできなかった
アリガトウなんて・・・死にたくなった




