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霙小路物語  作者: K-RYO
前篇 夜想曲
1/8

 


 はじまりはいつも同じ場面から。そして、いつも同じ結末へと続いていく。

 私は雨に打たれていた。けれど、濡れた気はしないし冷たさも感じない。喩えるならそれは、完全に防水加工の施されたダイビングスーツの上からゾウさんジョウロでぬるま湯をチョロチョロと浴びせられたような、そんな感じ。

 雨の向こう側、書割のような不自然さで広がる遠景は夜の街。大都市というには忍びない規模の、ひどく中途半端に都会めいた喧騒が沁み出してくる。じわじわと輪郭を鮮明にしていく懐の浅いビル群。車道には何台ものタクシーが列を成している。行きかう人々の顔は、全てが同じように見えて少しずつ違っている。雨の最中に傘も差さず、けれど何にも侵されず、まるでよくできたブラウン運動のように、互いの動線を譲り合う。彼らの発するざわめきは言語として認識できないけれど、確かに私の耳をくすぐる。人工の光の波が点滅と摩滅を繰り返しては街の気色を様々に変えていく。けれど、昂揚感は感じない。それよりも先に、どうしようもない郷愁を思い出させてしまう。

 全ては装置に過ぎないのだ。私が、生まれ育った街を思い出すためだけに存在しているのだから。嘘くさくて、幼稚。それは映像として視覚に訴えられているものなのか、それとも文字として脳内に奇想されただけのものなのか、さっぱり区別がつかない。外国語らしき言葉で記された看板を掲げたカフェを一階部分のテナントに持ちその上には何社もの消費者金融会社の店舗が入っている七階建てのビルだとか、灰色っぽいスーツの上下に赤っぽいネクタイを合わせた黒縁メガネのサラリーマンだとか、黄色いテントの写真屋さんだとか、くすんだ青の防音シートに囲まれた工事現場だとか、電線に引っかかった白い風船だとか。私はそれらのものを映像として認識しているのだろうか、それとも文字の情報によって判別しているだけなのだろうか。もしかするとこの雨は、私の理解から漏れてしまった記憶や事象の成れの果てだとか。

 まあ、所詮は夢なわけで。

 どちらにせよ構わないのだけれど。

 とにかく、私は雨に打たれながら夜の街を見ている。その場面から夢は始まる。私が見ているものは、生まれ育った田塚の繁華街、俗に霙小路と呼ばれている場所だ。その景色の一部には私自身の姿も含まれている。何も知らなかった頃の私がそこにいる。

 あの夜と同じように、夢の中の私は霙小路駅の近くにあるコンビニエンスストアの前で立ちすくんでいた。何をしているかと言えば、何もしていない。たぶん、これからの行き先を決めあぐねているだけ。何も考えずに家を飛び出して、そのまま何も考えずに霙小路にやってきた私は、目の前を通り過ぎる人や車を見送りながら、次の一歩を右に行くのか左に行くのかなどと、そんな程度のことに本気で頭を悩ませていたものだ。

  そんな私の姿を現在の私がとても冷静に見守っている。そして、親切に教えてあげる。次の一歩は右だよ。右方向に向かって歩き始めて、そのまま家に帰ればいいだけ。来た道を引き返すだけだから、難しいことじゃあないでしょう。届くはずのない想いを、私は精一杯に念じる。もしも左に進んでしまえば、私は、もう戻れなくなってしまうから。ねえ、お願いだから右に足を進めて。そして、未来の私の運命を変えて。

 だなんて、やはり稚気だ。

 そんなことで人生を書き換えられるのならば誰も苦労はしない。

 夢の中の私は、あの夜の私と同じように左側に足を進めることだろう。そして、そのまま二度と戻ることのできない一方通行の道を行く。その先に待っているのは後悔だけ。じりじりと焼かれながら、けれどギリギリのところで耐えられる煉獄にも似た嫌な人生が。

 どうしようもない未来への入り口へようこそ。

 待ち構えているのは鬼でも悪魔でもなく、人間だ。

 何も彼もが嫌になってしまった私は唐突に歩き始める。行き先は知らない。ただ、導かれるように左側へと歩を進める。そちらは駅の方向だ。どこか遠くに行きたいから。私が向かおうとしている場所には全ての答えが待っていて、あの日に捨ててしまった別の未来の行き先や、私がどうしてこんな夢を何度も何度も繰り返して見るのかも、全てが答えとして存在する、本当に夢の場所があるような気がしたから。

 全くおかしな夢だ。

 私はこれが夢だと自覚しているのだから。

 夢とは、見る者の願望が直截的に現されるものだという。覚醒時には封印にも似た抑圧を受けている本能を、とあるヒゲ面メガネの学者さんが、意味ありげに無意識と名づけたものを開放する場所。全ては象徴的な形で。凸ならば男性。凹ならば女性。安直なイメージの司る世界。

 それでは私は何を望んでいるのでしょうか?

 雨の降る霙小路。昔の自分を辿る夢。

 たぶん郷愁なのだろう。

 本当の私は霙小路になんて存在していなくて、お気に入りのベッドの上で、お気に入りのシーツに包まれて、寝息も立てずに眠っていることだろう。私はこの街を捨てた。大切だったものを、どうしようもなくつまらない物たちから逃れるのと引き換えにして捨て去ったのだ。

 だとしたら、それに対する自罰的な感情?

 わからない。

 無知な私に自分の見ている夢を自分で解析するなんて出来るわけがないのだ。ましてや現在進行形に夢を見ている状態で。おそらくプロのカウンセラーでも無理だろう。

 そういえば、誰かに精神分析の科学的な根拠の薄弱さを聞かされたことを思い出す。そんなものはまだまだ歴史の浅い学問で、まだまだ症例の枝分けや絶対数が少なく、まだまだ統計学と呼ぶにもあてにならないのだと。

「そんなもので人の心を理解しようなんて、馬鹿げた話だろう?」

 そんな風に、あいつは真面目くさった顔でくだらない持論を語ったものだ。

 あれ、あいつって誰だろう?

 琴線に触れたはずの思考はすぐに消えてしまった。残されたものは、私の心を映してごちゃ混ぜになった街の姿。建物の姿は歪み、人の姿はなく、マーブル状の靄が真っ赤に染まる。雨はノイズを強め、ぼつぼつとブルーシートの天井をたたく音に似た鈍いものに変わった。映像の暴発がひとしきり繰り返されたあと、場面はまるでマジックミラーを裏側から覗き込んだかのような、無彩色と無生物と無音声の街に変わり果てた。

 これではもう霙小路ではない。

 私の知っている霙小路はこんなものじゃあない。

 叫びたかった。

 衝動が体中を駆け巡り、抑えきれなくなった私は走り出す。加速する体を壊れそうなほどに振り乱して走る子供のように。時間をゼロまで遡り、ゼロまで戻りきればまた∞の未来に向けて流れていく。生まれたばかりの自分、物心がついた頃の自分、幼稚園に通っていた頃の、小学校に通っていた頃の、中学生の、高校生の、そしてあの夜の私。

 あの頃の私は何を求めていたのだろう?

 きっと今と同じだ。何も見えなくて、自分のこともわからなくなって、それでも必死に探そうとしていた。答えを、こらえきれない不安を解き明かす方法を。いや、自分を苦しめるものの正体が不安なのかどうかもわからなかったに違いない。次から次へと湧き出してくる疑問に押し潰されて、波に飲み込まれて、自分を見失っていた。

 だったら、いっそ全てを知ってしまいたい。でも何も知らないままでいたい。いつまでも子供のままで。だけど、もう戻れないんだ。これからは無邪気になんて笑えないみたいだし、こんな風に何も感じずに空を見上げることもできなくなってしまう。

「そうやって大人になっていくんだろうね」

 これもあいつの言葉だ。

 だからあいつって誰?

 わからない。

 何もかも。

 気がつくと街の様子は元に戻っていた。私が立っていた場所は高架線路沿いの俗に駅北と呼ばれる通りで、そこには喫茶店や居酒屋、ゲームセンターにカラオケボックスに本屋にCDショップなどが並んでいる。

 見慣れた場所だ。

 それなのに、私が通り過ぎた所から順に灯りが消えていく。

 おまけに人っ子一人いない。

 突きつけられたのは、どうしようもない孤独。

 傍らの壁に力なく寄りかかり、そのまま滑るように地面にしゃがみ込む。そこは閉鎖された映画館の前。閉ざされたシャッターに貼られた紙にはこんな文字が書かれてあった。

(異人館の街、田塚へようこそ)

 全くそのとおりだ。全てが性の悪いジョークでできている。泣きたくなった。降り続ける雨に涙を紛らわすことができたならば、もっと素直になれたのに。

「素直じゃないからな」

 わかってるよ。あんたなんかに言われなくてもそれぐらい。

 もっと素直になっていれば、私は何も失わずに済んだに違いない。失った大切なものたちと引き換えに私が手に入れたものがあるとするならば、それはかりそめの未来だけ。

「自業自得だよ」

 ええ、仰るとおりです。みんな、あんたの言うとおり。

 認めてしまえば楽になれる。

 だけど、私は肝心な何かを忘れたままなのだ。

 涙を拭って立ち上がると、雨の音に交じってギターの音が聞こえてきた。音の方向を探すと、斜向かいの公園で一人の少年がギターを弾いていた。ストリートミュージシャンなのだろう。誰もいないはずの霙小路に、少年の歌声が響く。



  指の隙間からこぼれ落ちてどこまでも行けるだろう

  涙が涸れないならば

  涸らさないと誓うならば



 稚拙な旋律。型どおりの詞。ただ大きく張り上げるだけで滑舌もままならない歌声。けれど、一生懸命に唄うその姿はひどく印象的なものだった。



  この街から抜け出したい

  今の俺のままで

  だからこそ連れ出したい

  今の君のままを



「それが本音なの?」

 人恋しさに耐えきれず、少年に近づいた私は思わず問いかける。しかし、少年は私の言葉には一切反応を見せず、ただ弦を爪弾き続ける。旋律は次第に変化していき、転調か、もしくは別の曲へと移行する。



  涙が涸れるまで待つ夜は

  月の光で体を冷やさぬように

  太陽から逃げて眠ってはいけない

  例えば、

  煙たい世間に悩まされても

  五体のどこかが痛くて泣いても

  いつかこの街にも雨が降るのでしょう?

  雨が降ったら君に会えるでしょう



 ああ、と私は呻くように声を漏らす。

 自然と流れ出した涙の向こう側に見える少年の顔が彼と一致する。

 乾総士。

 私の旧い友人だ。

 そっか。

 私の願望はこれだったんだ。

 乾に会いたかっただけなんだ。

 


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