第一話 機織りの少女
列島を覆う広大な深い森林の端に位置する山岳地帯、その山間にある集落・ヒルコ。野生動物の狩猟と木の実の採集、加えて簡単な農業を行いつつ、67人が生活している。木造高床式の住居、小さな鉄器の鍛造、養蚕が彼らの文明の最先端技術であった。またこの集落の人々に暦の概念はなく、250年以上の歴史を刻んでいるものの、「昔からある土地」とだけ認識されている。
――そんなヒルコに立ち並ぶ民家の一軒から、とん、とん、と軽い木がぶつかり合う音が一定の間隔で響いている。
手織り機の前に座った少女が額に汗を滲ませながら、左右の手の指先を忙しなく動かして色とりどりの糸を手繰っている。歳の頃は12,3歳ほどで、肩に触れるくらいの黒髪を後ろにまとめており、薄紅色の作務衣のような服の袖を二の腕まで捲っている。時々汗を手で拭いながら流暢な動きで次々に糸を交差させていき、白い経糸の上に紋様を描いていく。
その少女が座っているすぐ後ろで女性が椅子に腰かけつつその少女の様子を注意深く見ている。こちらの女性は20代後半くらいで、穏やかに波打つ髪を短く切りそろえ、上は薄黄色の衣、下は薄桃色のスカート風の衣装に身を包んでいる。よく通った鼻筋と愛らしい丸い目の形が少女によく似ていた。
「どう?お母さん。あたしもかなり上達したんじゃない?」
少女は手織り機に目を向けたまま、後ろに座る女性に話しかける。手を動かす速度はほとんど衰えないが、真剣そのものであった表情は少し緩んだ。その様子を見咎めて、女性は艶のある声で少女に注意を促す。
「こら、ヒナ。集中しなさい……あっ、ほらそこ」
「えっ、あっ」
女性が少し鋭く声を上げると、ヒナと呼ばれた少女は手元の未完成の織物を見て「やってしまった」という顔をした。本来通すべきところの一つ隣に糸を通してしまっていた。
「もう……すぐ調子に乗るんだから」
ヒナの母・ミネは少しだけ体をよじりながら頬に手を添え、悩ましげに嘆息する。その動作が妙に色っぽく別の意味でも悩ましげであったが、ヒナはその動作を見て嫌な予感を覚えた。
「ごめんなさい……」
「腕は確かに上がってるんだけど、性格というか集中力がなんともね……日頃のこともそうよ、ヒナ」
ヒナの予感が的中する。まずい。日頃のありとあらゆることを巻き込んだ説教が始ってしまう。ヒナの額に先ほどまでとは違う汗が浮かび、何か逃れる術はないかと目が泳ぐ。はた、と窓の外の景色に目が留まった。連なる山脈の間に深く傾いた夕日が橙色に燃えている。
「……あっ!そろそろ陽がシナベ山より低くなるよ!お祭りの準備手伝わなきゃ!」
「またあなたは……あら、本当ね」
「調理場に行かないとだよ!ねっ!」
好機と見たヒナは力強く急かすように母に訴える。その目は手織り機に向かっているときと同じくらい真剣であった。すると、ミネは諦めたような顔をして、
「そうね。皆に迷惑をかけるわけにはいかないもの。今日はここまでにしましょうか」
そう言って母はゆっくりと立ち上がって出掛ける支度を始めた。ふう、と難を逃れたヒナは安堵のため息をつく。しかし、母は振り返って油断しきった娘に宣告する。
「さっきお話の続きは明日のお仕事が終わってからにします。心しておくように」
ヒナの表情が硬直した。
道とも広場とも呼べる平地を挟んで居住区の正面に位置する、竈や作業台が並んだ調理場。そこに20人ほどの人間が集まって数組に分かれ、話をしながら何やら作業を始めようとしている。年齢は様々だが全員女性であった。ヒナ、ミネの母娘はを目指して歩く。
「あっ!マウラおばさんだ!うおーい!マウラおばさーん!」
「こーら、ヒナ。女の子が大きな声を出すんじゃありません……こんばんは、マウラ」
ヒナは一番手前にいた女性に大きな声で呼びかけた。娘の素行にミネはまた眉を下げ、小言を言いながらその女性に挨拶をする。
「こんにちは、ヒナちゃん。元気がいいのはいいことじゃない?ミネ。うちの子なんて放っておいたら茸が生えるんじゃないかってくらいじっとしてるよ」
鍋に水を注いていた女性・マウラは快活に笑いながら挨拶を返す。ミネよりさらに短い髪は四方に跳ね、少し日に焼けた肌が活発な雰囲気を醸し出している。
「そんなことないわよ、女の子らしくてうらやましいわ。それにヤヤちゃんは久しぶりの薬師見習いでしょう?もし自分の娘だったら鼻高々よ」
「いやいや、ヒナちゃんもいい娘じゃない。小さいころのミネそっくり。顔もかわいいし明るいし」
「何言ってるの、もう。ヒナなんて今日も……」「いやいや」「そんなこと」……
ヒナが顔をしかめてミネとマウラの謙遜大会の幕が上がるのを見届けていると、
「ヒナ……こんばんは……」
どこからともなく女の子の声がした。突然のことに少し驚いたが、竈の正面側へ回ると、少女が屈んで火の番をしつつ力なくこちらに手を振っていた。火の番の少女はヒナよりも少し幼い顔つきで、肩甲骨ほどまで伸びた髪をうなじあたりで結っている。少女の体には大きすぎる割烹着のような服から覗く細い手足は生白く、長い睫毛が大きな瞳に影を落としている。
「こんばんは!ヤヤちゃん!薬師の勉強はどう?」
ヒナはその少女に元気よく挨拶を返す。ヤヤと呼ばれた少女は困り眉の角度を上げ、にぱっと笑顔になって答えた。
「難しいけど……知らないことを知ってくのは楽しい……よ?」
「そっかー。ヤヤちゃんはじっと出来てすごいなあ。あたしはどーしても動いたりしゃべったりしたくなっちゃう」
「ヒナは……元気いっぱいだもんね……」
ヤヤは喋ることがあまり得意ではないらしく、声はか細く言葉は少したどたどしい。しかし、ヒナはちゃんとヤヤの言葉を最後まで聞いてくれるので彼女とのおしゃべりは好きだった。二人は隣り合い和やかに笑う。二人は生まれた頃も近いうえに同世代の女の子は少ななかったためとても仲が良い。気性も好きなことも正反対と言っていい二人だが、そこも含めてお互い(友人として)好き合っている。因みにヒルコに同性愛の文化はない。
喋りながらヒナは香草の葉をすりつぶし、ヤヤは塩塊を鑿のようなもので削る。ミネもマウラも他のさまざまな年代の女性も、調理場の至る所で世間話に花を咲かせつつそれぞれの作業をしている。
調理場の仕事はひと段落したようで女性たちは手を止めて再びおしゃべりに没頭していた。やがて太陽がその身を8割ほど山へ身を隠していること気づいたミネは立ち上がり、
「私、そろそろ酋長を呼んできます」
と周囲の女性に伝えて調理場を離れた。住居や調理場がある場所からは少し外れた場所にある祭壇、そのすぐ近くに建つ一際派手な装飾が施された一軒の家を目指す。
「酋長!お時間です!」
ミネが扉の前で呼びかけると小柄な老人がひょっこり顔を覗かせる。60歳は越えているであろう、このヒルコにおいては珍しいほどの高齢者。腰ほどまで伸ばした白いひげをゆったりと三つ編みにしおり、白と赤の仰々しい法衣のような装束に身を包んでいる。
「ご苦労。もう準備はできておるぞい。」
ヒルコの長・酋長はいかにも好々爺といった柔和な笑みを浮かべ、髭を撫でている。
「それでは向かうとするかの。と、その前に灯りが必要か」
酋長は松明を抱えてゆっくりと歩き、祭壇下の広場の大きな篝火の中へと放り込んだ。生木で組まれた囲いの中の薪に火が付き、ぼうっと燃え上がり暗くなり始めた辺りを照らす。
「そろそろ火をくべるのも体にこたえるのう」
「御冗談を。今朝も子供たちに”狼囲い”を教えていたではありませんか」
わざとらしく肩をさする酋長に、ミネは笑みを湛えて答える。
ちなみに狼囲いとは少数対多数で行う、鬼ごっこに近い遊びである。多数の狩猟側が、少数の狼側を追い立て、分断させて一人ずつ囲って行くというもっぱら男の子に人気の遊びである。子供たちの狩猟に必要な素養を育む一助ともなっている。
「ほっほっほ……はて、男衆はまだかのう」
旗色が悪くなったと見るや、酋長は話題を逸らした。
「まったく酋長は……あら。噂をすれば」
ミネは呆れている途中で、足音に気が付く。音のする方向を見ると、集落の外へ走る林道の向こうから、汗や土や獣など様々な悪臭を纏った大きく歪な影が走って来ていた。