隠居青年の聖夜
〈隠居青年の聖夜〉
もういくつ寝るとお正月だっただろうか。
カレンダーを横目に数えてみれば、おおよそあと一週間ってところだ。十二月。全国のお師匠方もひた走る、一年の終着点。
師走とは多忙を表す言葉らしいが、俺の現状はその対極――具体的には、昼間からずっと部屋でテレビゲームをしていた。こたつにヒーター、おまけに床暖房で室内の防寒もばっちり、まさに極楽天国だ。
「お――もうこんな時間か」
窓の外の暗さに気づいて携帯電話に表示された時刻を確かめると、午後七時を回っていた。六時間はずっとこの状況だった計算になる。
この時間だと、妹がそろそろ帰宅する頃なのだが、
「ただいまー」
玄関の方から響く声。予想通りだ。
ワンルームの格安物件なので、玄関扉が開く音の後、すぐに妹がこの部屋に顔を出した。
「おう、おかえり、お袖」
画面から目を離さず、ひらひらと手を振る。
驚くなかれ、お袖とは妹の名前だ。両親が古風な奴らで、子どもの気持ちを考えず平成の世にそんな奇天烈な命名をしやがったのだ。ついでに、俺の名前は新兵衛である。
「ただいま、兄さん。またゲームしてたの?」
「ああ」
「もう、働き口も探さないで……」
そう、俺は冬休みを謳歌する学生でも有給休暇に羽を伸ばすしがない会社員でもない。
労働もせず日々を怠惰に自堕落に浪費し、血縁の脛と残りの人生をかじって削る、いわゆるニートだった。
「……はぁ、まあいいや。晩ごはん買ってきたよ」
お袖も愚兄の怠慢ぶりには慣れっこだ、溜息だけを残してこたつに足を入れ、テーブルに買いもの袋を置いた。
「さんきゅ」
中身を広げると、スーパーの弁当がふたつ。俺たち兄妹は自炊ができない。
サバ味噌弁当とから揚げ弁当の二種類があったが、から揚げはお袖の好物なので、俺はなにも聞かずにサバ味噌を手に取った。
箸だけは俺が台所から用意して、あっという間に食卓の完成だ。……こら、侘しいとか思った野郎、出てこい。
「「いただきます」」
ふたり同時に両手を合わせて挨拶。
お袖が勝手にテレビのチャンネルを変えるが、文句は言わない。我が家では食事中にゲーム画面を開いたままにするのはルール違反なのだ。
会話もなく、黙々と食事。
しかし、不意にお袖が咀嚼しながら弾んだ声音で言った。
「そういえば兄さん。あたし、明日仕事休みなんだ」
「おー、そっか」
サバを頬張りながら適当に返事をする。
駄目人間ここに極まれりの俺とは対照に、お袖は某一流企業に入社二年目の期待の新人、バリバリのキャリアウーマンだ。そして俺は情けなくも、彼女に扶養される哀れな無職の身。
自己嫌悪に陥るので妹の仕事の話なんてできれば聞きたくないのだが、なぜかお袖は、興味のない態度の俺に笑顔から一転、不可思議そうな顔をしてもう一度同じことを繰り返す。
「ねえ、だから明日休みだからね」
「わかった、わかったよ。よかったな」
今度は少し強引な口調で、無理やり話題を終わらせようとした。
お陰で会話は途切れたが、お袖はまだ怪訝な表情を崩さず、あれと首を傾げていた。
――なんだってんだ?
その行動の意図が掴めず疑問に思うが、問いただすのも面倒だ。俺は思考を放棄して、味噌ダレに浸ってしまった漬物をかじった。
★
「メリークリスマス! 兄さん!」
翌朝目を覚ますと、お袖が目の前にいた。異様に顔が近い。困惑に目を白黒させる俺をよそに、満面の笑顔でイエスの生誕日を祝福している。
お袖の両手が首に絡まる。
一瞬だけ絞首を疑うが、もちろん杞憂だった。
温かい毛糸の感触。これは――
「はい、クリスマスプレゼント」
赤と黄色の、小洒落たマフラーだ。
彼女の言葉を合図に、停止していた脳内がようやっと活動を再開する。
――そうか、今日はクリスマス・イヴだったか。
このアパートに越してから、兄妹水入らずで過ごす二度目の聖夜。年中行事とは縁遠い生活を送っていたため、すっかり失念していた。
昨年も確かプレゼント交換をした記憶がある。俺があげた(安物の)腕時計を大層喜んでたな。なるほど、だからお袖は昨夜、休日を告げるときにどこか浮足立っていたのか……
……あ。
――俺もプレゼント用意しておくべきだったのか。
「ご、ごめん完全に忘れてた……」
追手に拳銃を突きつけられた亡命者のように、諸手を顔の位置まで掲げる。手ぶらのサイン。
「え……」
「は、はは……」
ごまかすように笑うが、その声はカラカラに乾ききっていた。
すると、お袖の瞳から輝きが瞬時に失われ、逆に失望と軽蔑の感情が色濃く渦巻いていった。
ああ、明らかに拗ねてやがる……
「――もういい」
ぷい、と明後日の方向に顔を背けるお袖。
まずい。こいつの機嫌を損ねるのは危険だ。なにせこの家庭での俺の立ち位置は扶養家族で、それも非労働者である以上は生かすも殺すもお袖次第――ご飯抜きにでもされたら俺のちっぽけな小遣いでは生きていく術がない。
「わわわ悪かったよ! プレゼントは今度ちゃんと渡すからさ! ――ほ、ほらたかがイヴだし、当日である必要なんてまったくないだろ! なんなら明日にでも――」
そこで、俺の言葉は中断せざるを得なかった。
僅かに振り向いたお袖の横顔に、紛れもない悲痛が混じっていたから。
俺の台詞のどこが地雷を踏んだのか、微塵もわからない。だがお袖の目尻に光った一滴の涙は、どう見ても本物だった。
「馬鹿!」
俺が再度口を開くよりも早く、悪罵を吐いたお袖が部屋を駆け出してしまった。玄関が荒々しく開かれる音が、やけに遠くに聞こえた。
「な、なんだありゃあ……」
その後ろ姿を見送り、俺は呆然と呟いた。罵倒されるのは理解できる、しかし、泣かれる理由なんて見当もつかない。
わけのわからない状況に、しばし放心して布団の上に座り込んでいたが、不意に身体が喉の渇きを思い出す。そういえば寝起きだったか。無為に声を張ったせいもあり、口内が水分をよこせと要求している。
とりあえず台所の冷蔵庫を開け、
「…………」
その中を見て、お袖の心境がなんとなく理解できた気がした。
冷蔵庫の中心に鎮座する、見覚えのない巨大なホールケーキ。きっとお袖が内緒で購入していたんだろう。
つまり、あいつはそれだけ、俺とのクリスマスのお祝いを楽しみにしてくれていたってことだ。前日から――あるいはもっと以前から準備を重ねていたんだ。
いい年をして、泣くまでのことか……と呆れもするが、俺がその気持ちを無意図に踏みにじったことは事実だ。
『たかがイヴだし』――さっきの台詞が脳裏に蘇る。
「クソッ!」
歯軋り。
普段から妹に迷惑をかけてばかりで、おまけに今回は彼女のささやかな楽しみすら奪ってしまったのか。兄貴として失格だ。こんな自分が不甲斐ない。
だが、ここで後悔の念に苛まれている場合じゃない。
俺は両手で頬をはたいて気持ちを切り替えた。
――お袖を、追わなくちゃ。
陽光が燦々と輝く青空の下を、我武者羅に駆けずり回る。間断なく生まれる白い吐息が、頭上で千切れ雲と混ざり合う。
焦りから寝巻のままでアパートを飛び出してしまったため、冷たい北風が全身を凍てつかせる。慣れない外気に心が折れそうになる。そんな中、マフラーを巻いた首元だけが熱を持っていた。
町中を文字通り東奔西走し、ようやく妹の姿を視界に収めたのは、なんと自宅の門前だった。
「お袖!」
たまらず大声で叫ぶ。
肩を震わせて振り向いたお袖は、まだ双眸の端に悲哀の滴を湛えていた。
その容貌に、俺は慌てて謝罪の言葉を探す。彼女を追うのに精いっぱいで、なにを話すかなんてまったく予定していなかった。
しかし、
「……ごめんね、兄さん」
俺が切り出す前に、なぜかお袖がそう呟いた。
――なんで、おまえが謝るんだよ?
疑問に感じたが、その真意を問うより先にお袖が二の句を継ぐ。
「ねえ、あたしが大学受験した頃のこと、覚えてる?」
いきなり尋ねてきたお袖の唇は、どうしてか自嘲的に笑っていた。
無言で頷く。忘れるはずがない。それは、よくも悪くも、ふたりの人生の歯車が歪んだ瞬間だったのだから。
――俺たちの父親は、ネーミングセンスだけでなく考え方も古風な、いわゆる堅物親父だった。
そう、たとえば『女に学問は必要ない』なんて真顔で言うような。
お袖にも――高校こそ周囲から浮かないために通わせたが――最初から大学へ進学はさせないつもりだったらしい。
それどころか、勝手になんちゃら財閥の御曹司とやらとの縁組まで取り決めていた、というのだから驚きだ。
不意にその意向を明かされたお袖は、当然猛反発。婚約は元より、進学に関してもお袖は大学でやりたい勉強があった。その詳細は知らないけれど。
とにかく抗議に抗議を重ねたのだが、父親も頑固だ。進学の費用を出さないと主張されれば、お袖に逆らう術はない。
縁談はどうにか破棄させたらしいが、大学進学はもう半ば諦めていた、そんなときだった。
俺が、一肌脱ごうと決めたのは。
明るい性格だった妹が父親と喧嘩して以来、塞ぎ込んでしまったのだ。兄としては身体を張ってでもその悩みを解決してやりたい。
当時の俺は大学四年生で絶賛就職活動中だったのだが、その一切合切を投げ捨て、バイトを始めた。昼夜問わず、定時の仕事の合間に日雇いを挟み、とにかく寝る間も惜しんではたらいた。お袖の進学費用――せめて入学金だけでも稼ぐために。
今思えば一年足らずでそんな大金が得られる道理もないのだが、その周知の事実にも脇目を振らず、俺は愚直にアルバイト生活に精を出した。
結果的に、俺の哀れな蛮行に呆れた母親が父に内緒で資金の大部分を工面してくれたことで、事態はお袖にとって芳しい方向に傾いた。
俺としては、給料の計算もまともにできない阿呆っぷりが露呈した、葬り去りたい黒歴史なのだが……
「あのときの兄さんには感謝してるの……。だから、少しでも恩返しがしたくて……」
――恩返し?
馬鹿か、こいつは。
実際に俺はたいして役に立っていない。ただ無様な醜態で母の同情を誘っただけだ。
それに、この話にはちょっとした後日譚がある。兄の意地や威厳が脆くも崩れ去る、すこぶる情けない蛇足の後日譚が。
件の騒動により晴れてフリーターデビューした俺は、激怒した父に勘当された。定職にも就かない落ちこぼれなど、自分の息子ではないそうだ。
それから日銭を稼ぐのに七転八倒四苦八苦しながら数年間を過ごし、極貧生活を送っていたある日のこと。
この現状を知るお袖から、とあるお誘いの連絡がきた。
――いわく、『某有名企業への就職が決まった。これを機会に一緒に暮らさないか』と。
心労重なるバイトの日々に限界を感じていた俺は、恥も外聞も投げうち二つ返事で頷いた。
そうして俺はバイトを辞め、お袖の給料で借りたアパートに居つき、その生活に寄生し、現在に至る、というわけだ――
――情けなくて涙が出るね!
だから、お袖が俺に恩義を覚える必要はないはずだ。たとえあったとしても、穀潰しの俺を養ってくれた期間でとっくにチャラになっている。
なのにお袖は、まだその頃の恩義とやらを引きずっている。
「クリスマスプレゼントも恩返しの一環でさ、去年みたいに兄さんが喜んでくれると思ったんだけど……あたしだけ一方的に張り切っちゃってて……だから、ごめんね?」
「――ッ!」
泣くような笑顔に、愕然とする。
ああ、馬鹿野郎だ、俺は。
お袖は俺のお返しなんて期待してたわけじゃない。ただ一心に俺に喜んでほしくて、このマフラーをくれたんだ。
その純粋な想いを、俺は気づかずに振り払った。
自覚した途端、自分の最低さ加減に拍車がかかる。さっきまで底辺だと勘違いしていた場所よりも、さらに下へ落ちていく感覚。人類史上最大のクズが俺だと思えた。
兄貴失格どころの騒ぎじゃない。太宰治の小説ばりに失格だ。
だけど、それでもできることがある。
唇を噛み締め、正面から妹を見据える。
「違う!」
決意したときには、既に我を忘れて雄叫んでいた。今はご近所の視線を気にしている場面じゃない。
突然叫んだ俺に、お袖は呆然と口を開いた。漏れ出る疑問符。
「……え?」
「勘違いするなよ、メチャクチャ嬉しかったぞ、おまえのプレゼント! その証拠に、これ見ろ」
言って俺は、寝巻のポケットから数枚の紙片を差し出した。
お袖が、わけのわからぬままそのチラシの裏面に汚い筆跡で書かれた文面を読む。
「“なんでも言うこと聞く券”……?」
「ああ!」
そう、これが俺からのクリスマスプレゼント。金も定職も人脈もない駄目人間から贈る、精いっぱいの贈りもの。幼稚園児並みのクオリティだが、時間の都合上仕方ないだろう。
それに、重要なのは外見じゃなくて中身だ。
「これで十枚、十回ぶん。俺にできることなら、なんだってやってやるさ。おまえのマフラーにはそれだけの価値がある――いや、それだって足りないくらいだ」
確認しておくが、別にシスコンってわけじゃない。幼少期からお袖とは人並みに喧嘩もしたし、風呂上がりのこいつを見たって、まったく興奮しない。
だけど、実妹がこれだけ健気に自分を慕ってくれるのは、素直に嬉しいわけで、
「だから、恩返しなんて気にするなよ。妹が幸せになってくれれば、兄貴ってのはそれだけでいいんだ」
それと同程度に、兄って生き物は妹が好きなんだ。
「兄さん……」
お袖はその安っぽい券を両手に握り締め、
「――うん、ありがと」
淡い笑みを花咲かせ、ほんの少しだけ頷いた。
涙は、乾いていた。
「ほら、家の中入ろうぜ。ふたりでケーキ食べるんだろ」
手招きして玄関の方へと促す。
しかしお袖はしばし立ち止まったまま俺を見つめ、悪戯好きな童女のような笑みを浮かべた。
「じゃあ、早速――」
そして、白い息を吐きながら、一枚の紙片を俺の胸に押しつける。
「一個めのお願い。マフラー半分、貸して」
★
アパートの部屋に戻った俺たちは、しかしこたつには座らず、暖房の効いた室内に立ったまま寄り添い合っていた。
長いマフラーで繋がれた身体。
ふたり、お互いの肌から汗をかくくらいの熱を感じていた。
券を使ったお袖の要求は、マフラーをふたりで半分ずつ首に巻く、という内容だった。てっきり家の中に入るまでの僅かな間だけかと思いきや、どうやらまだ有効らしい。
隣を見下ろせば、にこにこと満面の笑顔を携えたお袖が、俺に身体を預けている。
幸福を全身にじっくりと沁み込ませたようなその表情に、思わず俺も相好を崩した。
――まったく、お袖がこんなに甘えん坊な奴だとは知らなかった。
兄妹でこんな恋人じみた真似をするなんてどうにも気恥ずかしいが――『なんでも言うこと聞く券』による命令なのだから仕方がない。
普段は俺が迷惑をかけてばっかりなんだし、この程度の我が儘、屁でもないさ。
社会人として必要なものをなにも持たない俺が、お袖にしてやれることなんて皆無に等しくて。
与えられるものなんて、なにひとつなくて。
――だけど、兄貴として。
妹を幸福に導くどころか、むしろ彼女の足枷となってしまうなんて、死んでもご免だから――
「――バイトでもするか……」
そっと呟いた言葉は、誰にも届かぬまま、口元を覆ったマフラーの奥に消えた。
読んでいただきありがとうございます!
恋人同士でなくとも、互いを心底から想い合える関係って、実はとても貴重なものなのではないかと、拙作の執筆を通して感じました。これもひとつの幸せなクリスマスの形ですよね。
それでは……メリークリスマス!