盲目の女と醜い男
スペースの都合で、小さい画像になってしまうのが惜しい!
イラストは、「まるともい」のまるやまさん作です。
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ありがとうございました~
その男、ロナディ・テレハンの容姿は異様なほどに醜かった。肥大している瞼、その瞼から覗く小さな瞳には生気がなく濁っている。鼻は小さくとても惨めに思え、唇は不必要なほどに分厚かった。しかも不格好なパーツを無理矢理に閉じ込める為に大きくなったのではないかと思える程にその顔は大きく、どちらかと言えば彼は大きな体をしていたのだが、それでも顔の大きさとのバランスは取れていなかった。
彼は自分の容姿を気にして、人付き合いをあまり好まなかった。幸運な事に両親は彼に愛情を注いで育てたが、それでも彼のそのコンプレックスは消えなかったのだ。幼い頃から彼は、同年代の子共達と一緒に遊んだりはせず、部屋に篭ってよく一人で小さな機械いじりに熱中していた。
ある程度大きくなると、ロナディは、自分で機械を組み立てる事もするようになり、やがてその腕は少しずつ上がっていった。彼が大人になる頃には、その腕は多少評判になるほどになっていた。設計図と共に少し説明をすれば、彼は驚くべき制度の機械時計やその他の科学実験に用いるような機械をも作れるようになっていたのだ。そのうちに、その評判を聞きつけて、様々な人々が彼の元に仕事を頼むようになっていった。彼はいつの間にか、腕の良い職人として、その地位を固めていたのだ。
その頃、科学技術は急速に発達していた。その為に、工場で必要な部品や、医療器具や、実験器具、そういった物の需要は高く、ロナディは求められるままにそういった機械らを作り続けた。彼の趣味及びに技巧と“時代の求め”が一致した事は、彼にとって幸いだった。無愛想でコミュニケーションは取り難いが、よほどの事がない限り怒ったりはせず、仕事を断る事は滅多にない上に料金も他に比べれば安い。依頼する側にとっても彼は有益な取引相手だったのだろう。もっとも、その容姿だけは毛嫌いをされ、中にはその姿形を見ただけで、取引を断って来た相手もいたが。
仕事で成功をしたロナディは、20代の後半になる頃には、一財産を築き上げていた。ただし、酒も煙草も女遊びも無縁な彼には、その金の使い道はなく、その事を少しも喜んでいるようには見えなかった。三十代に入り両親が死ぬと、彼は街外れにある一見、廃墟のように思える屋敷を買った。そしてそこで独りで暮らし始め、犬を三匹飼った。
彼は動物を、特に犬をこよなく愛していたのだ。犬達は、ロナディの容姿など気にせず、彼と一緒にいてくれる。彼に甘え、彼に懐き、彼に依存してくれる。もちろん、ロナディも犬達を必要としていた。
仕事以外では、ほとんど誰もロナディに近付こうとしなかった。彼は他人を拒絶、いや、酷く恐れていたし、彼の姿形は一緒にいる人間を不快にさせたからだ。唯一、医者のパットバット・スタッドだけは例外で、ロナディの腕を認め、その繊細な心を見抜いた上で彼のことを心配し、多少の付き合いをしていたが、それでも一月に一度会うか会わないか程度の関係だった。
そんなロナディが、珍しく人通りの多い中心街にある使用人斡旋の店を訪ねた。その店を教えたのはパットバットで、彼はロナディの健康状態を気にし、食事の世話をしてもらう為に使用人を雇う事を彼に勧めたのだ。パットバットはロナディにこう言った。
「いいかい? ロナディよ。そんなに恐れるな。使用人にとってみれば、お前は金を払ってくれる偉い雇い主だ。雇われている人間は、雇い主には滅多に逆らわないもんさ。特にお前みたいな、気の優しい人間を傷つけるような事はしないだろう」
ロナディは初め、その説得に応じなかった。言葉少なではあるがこんな事を言う。「例え言葉で返さなくても、その目で使用人は僕を傷つけるだろう」。それを聞くと、パットバットは少々呆れ、肩を竦めた。
「なら、目の見えない使用人でも雇えば良いだろう? いいか? お前は栄養バランスを考えて食事を取らない。医者の立場から言うのなら、その方がよほど問題だ。料理の得意な使用人を雇って、健康的な食事を作ってもらうんだ。それくらいの金なら、お前は持っているだろう?」
もちろん、“目の見えない使用人でも雇えば良いだろう?”というのは、パットバットの冗談だった。だがその時ロナディは、それを真面目に受け止めてしまったのだ。それどころか、言葉にこそしなかったが、そんなアイデアがあったのかと、彼に感謝すらしていた。確かに盲目の人間ならば、自分の姿を怖れたりはしないだろう。そして、彼の紹介してくれた店でなら、その盲目の使用人を雇えるのだと、世間知らずの彼はそう勘違いをしてしまったのだった。
使用人斡旋の店に入ったロナディは、店内にいた人間達の視線を浴びて、それに怯えた。その視線に好奇と侮蔑がいつも通りにある事は理解できる。しかし、それ以外の何かも今回は含まれているような気がしていたからだ。
時々いるのだ。性的なサービスを期待して、使用人を雇おうとする不届き者が。そのロナディの姿から、彼の目的がそれなのだと勘違いをした店内の人間達は、警戒心をその視線に忍ばせていたのである。しかし、ロナディにそれが分かるはずもない。彼はそのままカウンターに行くと、
「人を雇いたいんだ」
と、そう言った。
「特に料理。料理が得意な人間を。不健康な食事の所為で、このままでは身体を壊すと医者に忠告をされて…」
ロナディはそう続ける。小さく、聞き取り難い声だった。斡旋人は顔を顰めると、疑わしそうな目つきでファイルを取り出す。そこにはずらりと人の名が書かれていた。もちろん、使用人たちの名簿だ。客がそこから誰かを選び、契約が成立すれば、斡旋人はマージン料を受け取れる仕組みになっている。斡旋人が軽く説明をし始めようとすると、ロナディはそれを手で制した。
「すまない。一つ条件を言い忘れた。目が見えない使用人が良いんだ…」
そして、そう言う。斡旋人はそれに驚いた顔を浮かべた。そして、“これは絶対にやる気でいやがるな”と、そう思った。目の見えない使用人を求めるなど、他にどんな理由があるというのだろう?
斡旋人の驚いた顔を見ると、ロナディは慌てたようにこう言った。
「その、ほら、僕はこんな姿だろう? 使用人が怖がるといけないと思って…」
数度頷いたが、斡旋人はその話を信じなかった。
嘘だ。面倒事は避けたい。
そう判断した斡旋人は、体よく断ってこの醜い客を店から追い出そうと考えた。そもそも盲目の使用人など、いるのかどうかも分からないのだ。「あー、悪いのですが、お客様…」。それで、そう言いかける。しかし、そこで奥にいる店員の一人から彼は呼ばれたのだった。
「おい。ちょっと来い」
斡旋人は煩わしく思いながらも、一応それに応じる。「すいません」と、断ると、ロナディから離れ、店の奥に向かった。
「何だよ?」
そう斡旋人が問うと、店員は「分かったぞ。あの男は、ロナディ・テレハンだ」とそう言った。斡旋人はその名を知らない。
「誰だよ、そいつは?」
煩わしそうにそう言う。店員はそれにこう説明した。
「機械職人だが、噂によると、たんまり金を持っているって話だ。こいつはチャンスかもしれないぞ」
斡旋人にはその言葉の意味が分からない。
「チャンスって何のだよ?」
「金を稼ぐチャンスって事だよ。いいか? あいつに損害賠償契約を結ばせるんだ。使用人に危害を加えた場合、多額の賠償金を支払わなければいけないってな」
斡旋人はそれを聞くと目を丸くした。
「つまり…」
「そうだよ。あいつの望み通り、盲目の使用人を斡旋してやる。もちろん、女だ。あいつはその女に手を出すだろう。それで女から被害届を受け取ったら、あいつに金を出させるんだ。もちろん、迷惑料として、うちもかなり貰う。
騙す訳じゃない。この店を売春宿と勘違いをしたあいつが悪いんだ」
しかし、斡旋人はそれを聞くと首を横に振った。
「駄目だ。盲目の使用人なんて、どうやって探すんだよ?」
ところが、店員はそれにこう返す。
「それが、いるから言っているんだよ!」
「いる?」
「ああ、」
それから店員は真新しい名簿を取り出した。
「本人の希望でな。つい最近、登録したばかりだ。仕事を得られるとは思わないでくれとは言っておいたんだが……」
彼はその名簿の下の方を指で示す。そこには“アンナ・アンリ”とそう書かれてあった。
「彼女は、幼い頃からずっと目が見えないらしい。家で父親と二人暮らしで、家事手伝いをしていたようだが、ちょっと前にその父親を亡くしている…… それで、生活に困ってうちに登録したって訳だ」
そう言い終えると、店員は様子を確認するように斡旋人を黙って見、少しの間の後でこう続けた。
「美人だぜ」
斡旋人はそれに呆れる。
「ちょっと待て。その彼女を犠牲にするってのか? 盲目なんだぞ?」
店員はこう返した。
「言っただろう? 彼女は生活に困っているんだよ。むしろ助かるはずだ」
そう言われも斡旋人は気乗りしない様子だったが、店員が「ボーナスアップだ。欲しいもんが買えるぞ」とそう付け加えると、顔色が変わり、数度頷いた。
「これは、人助けだ」
そして、そう言う。店員も頷く。
「そう。人助けだ。賠償金を払わせれば、彼女はしばらく生活に困らない」
店員がそう返すと、斡旋人はあっさり店員が出した名簿を受け取り、ロナディの元へと向かった。ロナディはそんな二人の様子を不安そうに眺めていたが、斡旋人が新しい名簿を持って来たのを見ると、単に適合者を探していただけだとそう判断した。
斡旋人は言う。
「お客様。幸運な事に、ちょうどぴったりの人材がいます…… 料理を作れるし、美人でして…」
そんな彼らの思惑が分かるはずもないロナディは、全く疑わず、その薦め通りにその盲目の女性を雇う事に決めた。
アンナ・アンリは、使用人斡旋所からの仕事が決まったという話に驚いていた。彼女は数か所に、仕事はないかと声をかけていたのだが、その使用人斡旋所は、そのうちで最も可能性が低い場所だと彼女は思っていたのだ。知り合いのコネも何もないからだ。
盲目の使用人などに働かれたら、却って手間になる。
実際はそうでなくても、そう考える人間は世間にはたくさんいる。それを、アンナは身に染みて分かっていた。
その仕事の内容は、どうやら料理を作って欲しいというものらしかった。彼女はそれを聞いて、問題ないとそう思う。
アンナ・アンリは目が見えずとも料理を作れた。手触りと匂いで食材を判断し、手慣れた台所なら迷う事なく短時間で美味しい料理を仕上げてみせる。初めての台所でも、慣れるまでにそれほどの時間はかからない。それに、一人で買い物にだって行ける。市場の地理は大体把握しているし、彼女の事を知っている人間がこの街にはたくさんいるから、少しも不自由しないのだ。少なくとも、この街にいる限り、盲目である点は彼女にとってそれほどのハンデにはならない。
それでアンナが「問題ありません。仕事を引き受けます」と、そう斡旋人に言うと、斡旋人は安心したような声で、こう続けた。
「もし仮にだが、もし、仮に、今回の雇い主から、君が何か危害を加えられたなら、ちゃんと言うように。我々としては、それなりの支払いを約束する」
その言葉にアンナは敏感に反応した。そして、なるほどそういう事か、と納得をする。つまりは、“問題アリ”の客なのだろう。そうでなければ、自分のような盲目の女を雇おうと思うはずがない。
そう考えて、アンナは一瞬、その仕事を断ろうかと悩んだが、結局はそれを引き受ける事にした。
彼女には金がなかったのだ。
父親の残してくれた財産はそれほど多くはなく、日に日に生活は苦しくなっていっている。アンナは死に際の彼女の父親の、心配そうな声を思い出した。彼女の父親は、彼女に「お前のこれからの生活を支えてやれなくて、すまない。どうか、強く生きてくれ」と、そう何度も言った。彼女はそれに、「心配しなくていい」と返したが、何か当てがある訳ではなかった。それはもちろん、彼女の父親も分かっていただろう。
彼女は父親に感謝していた。今まで自分の生活の面倒を見てくれたのは、間違いなく父親なのだ。一度だけ、彼女は自ら相手を見つけ、結婚する直前まで話が進んだ事があったのだが、相手の家の親戚の誰かの意向で、その話は消えてしまった。もちろん、彼女のハンデを知った者が、快く思わなかった事が原因だろう。
その事があった後、アンナは酷く落ち込んだ。そしてそれ以来、彼女は家を出て行こうとはしなくなった。そんな彼女を父親は黙って見守り続けた。このままではいけない事は分かっていたはずだが、何と言えば良いのか分からなかったのだろう。
父親が死んだ後、アンナは酷く後悔をした。自分が臆病であったばかりに、心配をさせたまま父親をあの世に旅立たせてしまった。そしてだからこそ、こう思っていたのだ。自分は強く生きていかなければいけない。
アンナは決心をしていた。
体を奪われるくらいなら別に構わない。それで大金を手に出来るのなら。具体的な額は分からないが、賠償金というからには、恐らくは普通に売春をするよりも多くの額を手に入れられるのだろう。もしかしたら、数か月は生活に困らないかもしれない。
だから。アンナはロナディに初めて会った時は拍子抜けした。とてもじゃないが、乱暴を働くような人物には思えなかったのだ。話す時の声はとても小さくてしかも震えていたし、その内容はアンナを気遣い過ぎていて、多少、辟易するほどだった。待ち合わせ場所は、例の斡旋所で店の斡旋人も立ち会っていたのだが、そのロナディという人物よりも、むしろ斡旋人の方が態度が大きいとアンナは感じていた。どうも斡旋人はまだロナディがアンナに乱暴をすると思っているようだった。ロナディの態度と、斡旋人の様子が噛み合っていない。
何なのだろう?
そう不思議には思ったが、彼の屋敷に入れば豹変するのかもしれないとアンナはそう予想した。そういう人は珍しくない。
彼の屋敷に着く。多少、獣臭がした。アンナの様子の微妙な変化を察したのか、ロナディは「犬がいるんだ。三匹」とそう申し訳なさそうに言った。どうして、申し訳なさそうにする必要があるのだろう? アンナはそれを聞いてそう思う。
犬はどうやら屋敷内で放し飼いになっているらしい。敷地内に入るなり、その三匹の犬がロナディにじゃれついてきた。それに彼は大喜びする。恐らくは、頭や腹などの撫でてやっているのだろうとアンナは思った。やはり、悪い人間には思えない。
屋敷の中で二人きりになっても、彼のその気弱な態度は変わらなかった。いや、むしろ以前よりも委縮しているように思えた。彼は緊張しながら部屋の配置や用途をアンナに教えていく。仕事場でもある彼の屋敷には、あまり入ってはいけない場所がいくつかあるらしく、その注意もした。
そして、台所。
そこで初めてロナディはアンナの手に触れた。ただし、体を奪う為ではない。
「これが包丁」
彼はどうやら、丁寧に教えなければ、アンナは仕事ができないと思い込んでいるようだった。それで手を取って、いちいちアンナにその場所と調理道具などを確認させたのだ。しかも、遠慮がちな触り方だった。アンナとしては、大体の場所を教えてもらえれば、後は自分で確かめるつもりでいたのだが、敢えてそれを拒絶しなかった。
恐らくは、ここで拒絶すれば、この男は更に自分に怯える。
彼女はそう考えたのだ。
その面倒な作業の所為で、やたらと時間がかかったが、調理道具や調味料の確認が終わると、アンナは腕組みをして考えた。予想はしていたが、この台所には、調理道具も調味料も食材も足らな過ぎる。これでは満足な料理は作れない。それで彼女はこう言ったのだ。
「すいませんが、これでは道具が足りません。自宅から持ってきたいので、一回、取りに帰っていいですか? ついでに、料理の材料も買ってきます」
それを聞くとロナディは驚いた声を上げた。
「なんだって?」
数秒の間の後で、彼はこう訊く。
「一人で?」
今までの経緯から、彼が自分を心配しているだと悟ったアンナはこう返す。
「大丈夫です。この街なら、わたしは迷う事はありません」
ところが、彼はそれに納得をしなかった。「ここは街外れだし」、「まだ慣れていないのに」、「一人きりなんて」といった単語を断片的に発してそれに反対する。それでもアンナがこれでは料理ができない、断固として戻ると言うと、彼はこう提案して来た。
「分かった。なら、僕も一緒に行こう」
アンナはそれに驚く。
「どうせ、家を知る必要もあるし、それに犬達の散歩もまだだったし…」
そう言うロナディを、アンナは止められなかった。使用人を心配して、家まで付き添う主人なんて聞いた事がない。そう思って肩を竦める。そして、少しだけ笑った。この人は本当にいい人なんだ、と。
このロナディの心配性には、彼が初めに結ばされた損害賠償契約も多少は影響していた。彼はそれで、アンナは護ってやらなければいけない存在なのだと勘違いをしてしまったのである。が、それがなくても、あまりその行動に変化はなかったかもしれない。
犬達と一緒に歩くロナディは、彼女と二人きりでいる時よりもよほど楽しそうだった。犬達は彼にとてもよく懐いていた。彼の言う事をちゃんと聞く。
「何回か君の家に行ったら、犬達に送り迎えをさせよう。こいつらはとっても賢いし、頼りになるし、優しいんだ」
道行で、そうロナディは言った。どうにも彼はアンナに一人で自分の家まで通わせるつもりはないらしい。アンナはそれに、やはり多少呆れる。
家から調理道具を持ち帰って市場で材料を買い、ロナディの屋敷に戻ると、彼女はその料理の腕を振るった。少々疲れたが、それは料理自体よりも、料理をしている最中に、ロナディが自分を手伝おうとして必死になるのを抑えた為だった。
「ロナディさん。あなたは、料理を作らせる為にわたしを雇ったのでしょう? 主人が使用人の料理を手伝っていたら、意味がないではないですか。どうか、ご自分の仕事をなさっていてください」
それにロナディはおどおどとした口調で「でも、でも」と返す。どうにも彼は、アンナが心配で仕方ないようだった。
アンナは困ったが、それでも楽しかった。その日仕上げた、久しぶりに他の人の為に作ったその料理の味は、とても美味しかった。ロナディは彼女の料理に子共のように喜んでいた。「まるで、魔法みたいだ」と。「少し大袈裟ですよ」と、アンナはそれに返す。軽く笑いながら。
毎日、アンナはロナディの屋敷に通って料理を作り続けた。昼と夜の二回。初めの日に「犬に送り迎えをさせる」と言っていたにもかかわらず、彼は毎日、アンナの送り迎えをした。もっとも、犬達も一緒に付いて来ていたが。恐らくは、犬達の散歩を兼ねてもいるのだろう。もっとも彼は、例え犬達がいなくても、彼女の送り迎えをしただろうが。そんな彼にアンナは惹かれ始めていた。多少は、アンナを気遣い過ぎていて、多少はそれが煩わしくはあったけど、でもいい人だ。そしてその頃になるとアンナは悟っていた。
この人が自分に気を遣うのは、目が見えない事だけが理由ではない。この人は、とても優しくて、だからこそ他人を怖れているのだ。きっと、今までに人付き合いで酷い目に遭って来たのだろう。だから、それで、自分を気遣っているのだ。でもそれは、同時に彼が彼女を怖れているという事でもあった。アンナにはそれが悲しかった。そして、そんなある日の夕暮れの事だった。
アンナが料理を作り終わり、食事も終わる。アンナが片づけをしている辺りで、突然の雨があった。雨の少ないこの地方には、珍しいことだ。冷たい季節になりかけの時期で、雨に濡れれば体調を崩しそうだった。アンナは少し嫌だと思いながらも仕方がないと、ロナディから傘を借りようとした。雨は止みそうにない。多少は濡れるだろうが無理に帰るより他に手段はない。すると彼はこんな事を言う。
「困ったな。傘は一本しかないんだ」
アンナはそれに驚いた。どうやら彼は、こんな日でも彼女を送るつもりでいるらしかった。しかも、自分が雨に濡れる気でいるようだった。
「大丈夫です。一人で帰れますよ」
アンナはそう言ったが、彼は聞き入れなかった。ロナディを雨に濡らす訳にはいかない。しかし彼女は彼が中々に意固地である事を分かってもいた。恐らくは、納得しないだろう。彼女はしばらく思案した後で、こう言った。
「分かりました。では、今晩はこの屋敷に泊めてください。明日の朝には、雨も上がっていると思います」
ロナディはその彼女の提案に戸惑い、苦悩しているようにすら思えたが、結局はそれを承諾した。そして「この家に、誰かを泊めるなんて考えもしていなかったから、最低限のものしかないけれど」と、そう申し訳なさそうに彼女に言った。
ロナディはアンナの為に客間に布団を用意すると、風呂や洗面台は自由に使って良いと彼女に告げ、「何かあったら、言ってくれ」と言って、早々に自室に引き込んでしまった。夜でも仕事をやっているらしかったが、恐らく理由はそれだけではない。彼はアンナを怖れているのだ。アンナはそれを分かり、とても悲しくなった。そしてだからこそ、彼女は夜中に行動を起こしたのだった。
もしかしたら、これはチャンスかもしれない。
ロナディは、突然部屋に入って来たアンナに驚いた。
「どうしたの?」
と、そう問いかける。それを聞くと、アンナは「“何かあったら、言ってくれ”と言いました」と、そう答える。
「何かあったの?」
「ええ」
そう返した後でアンナは少し止まる。そして一呼吸の間の後で言った。
「少し寒いんです」
ロナディは既にベッドに入っていて、布団から顔を出したままで、それを聞くと数度頷いた。
「うん。そうだね。最近は、少し寒くなって来た」
それを聞き終えると、アンナは彼に向かって近づいて行った。近づいて来たアンナに狼狽しながら彼は言う。
「毛布をもっと出そうか?」
アンナはそれに首を振る。
「いえ、それではこの冷えた身体は、温まらないと思います」
そして、手探りで彼の布団を確かめると、その端をそっと掴んだ。言う。
「入れてください」
「え?」
ロナディはその言葉に驚く。ロナディの返答を待たずに、アンナは彼の布団の中へと入ってしまった。
しばらく、ロナディは緊張で口を開けなかった。しかしやがて慣れ始める。それを察したのか、アンナは彼を抱きしめた。またしばらくが過ぎる。夜の闇に響く雨音が、少しずつ大人しくなっていく。雨が上がり始めたのだ。やがて月明かりが、その部屋に差し込んできた。
満月。
美しい夜空が、彼の部屋の窓から見えた。そして、アンナの姿も彼の目に映る。
「綺麗だ」
ロナディはそう呟いた。軽く、彼の方からもアンナを抱きしめた。それに応えるように、アンナは彼を更に強く抱きしめる。それにロナディは慌てた。腰の辺りにある彼の大きくなった男性が、彼女の身体に触れたからだ。
「あの…」
ロナディはそう言いかける。しかし、言い終える前にアンナは軽く微笑んだ。
「フフ…」
ロナディはそれに少し竦んだ。アンナは続ける。
「良かった。こういう反応をしてくださらなかったら、どうしようかと思っていたのですよ、わたし」
本当に嬉しそうに彼女はそう言い終えた。そして、その言葉が終わると、ロナディは堪えきれず、彼女に身体を重ねていた。
その次の日、アンナは住み込みで、ロナディの屋敷で働くことになっていた。
使用人斡旋所に、ロナディとは直契約になった事を告げにアンナが行った時、斡旋人たちの少し驚いている様子をアンナは感じ取った。
「何もされなかったのか?」
迷いながらもそう尋ねて来た斡旋人に、アンナは「ふふ」と少し笑うと、「“何も”という訳ではありませんが、わたしの方も、何かを彼にしたかもしれませんし」と、そう可笑しそうに答えた。斡旋人の驚いた反応が、彼女には少し面白かった。そして不思議に思う。
どうしてこの人達は、あんなに気の優しい人が、わたしに乱暴をすると考えたのだろう?
その理由を、彼女はある出来事が切っ掛けで知る事になる。
それは、唯一のロナディの友人とも言える、医者のパットバット・スタッドが、彼の屋敷を訪ね、善意でこんな朗報を持って来た事が始まりだった。
「目が見えるようになる、薬?」
ロナディは驚きの声を上げる。パットバットは、彼とアンナとの関係を察していた。だからこそ、パットバットはその話をロナディに伝えたのだ。
「その通り。少々、値は張るが、最近、巷にそんな薬があるという噂が流れているのだよ。原理は不明だが、信頼できる筋からの話だと、実際に効果があったらしい」
そう言い終えると、パットバットは出された紅茶を飲んだ。アンナが買い置きしておいたものを、ロナディが入れたのだ。今は彼女はいなかった。恐らくは、彼はアンナからお客が来た時にはお茶を出すようにと言い聞かせられているのだろう。アンナがこの屋敷に来る前に、パットバットにお茶が出された事は一度もなかった。
「眼球が完全に物理的に壊れている場合は駄目なようだが、どうもその薬は視神経系に作用するらしい。彼女になら、充分に効くと私は考えている」
ロナディはその言葉に戸惑った。もちろん彼は、アンナの目が見えるようになればどんなに良いかと、とそう思っている。彼女はそれをとても喜ぶだろう。しかし、同時にそれは彼にとって恐怖でもあった。
自分の姿が、アンナに見えるようになってしまう。
「もちろん、これを決めるのはお前自身だが、彼女の為を思うのなら、買ってやるべきだと私は思うぞ。お前が欲しいと言うのなら、手に入れてやろう」
パットバットはまったく意識していなかったが、その言葉はロナディを追い詰めていた。そして彼は苦悩しながらも、その薬を買う決断をしたのだった。アンナの為ならば、できる事は何でもしてやりたい。
「目が見えるようになる、薬?」
そう驚きながら言ったのは、今度はアンナだった。まさか、そんな薬が存在するなどと、彼女は夢にも思わなかったのだ。そして、更にそれをロナディから手渡され、彼女は大喜びをした。
パットバットはロナディが薬を欲しいと言うと、大急ぎでそれを取り寄せてくれたのだ。貴重なもので、数は少ない。なくならないうちに、という意味もあったのだろう。ロナディは薬を頼んだ事実を、アンナには言わなかった。
内緒にして驚かせようと思った訳ではない。心の奥底では、“薬が手に入らなければ”と、そう願っていたからだ。しかし、薬は直ぐに手に入ってしまった。大喜びをするアンナから、薬を取り上げる事はもう彼にはできなかった。
薬は目薬の要領で、日に一度目に垂らすことで徐々に効果を発揮するらしかった。一週間、二週間と続けていく。やがてアンナは少しずつ光を感じるようになっていった。もちろん、初めは色の違いなど分からないし、物の形も認識できない。“物を見る”とは、脳を発達させる事ではじめて実現できる能力。そう簡単にはいかない。しかし、それでも毎日の訓練で、“分かる”ものは増えていった。完全にとはいかなくても、ある程度は彼女は光の世界を理解できそうだった。
アンナはその事実に喜んだ。自分が何かを見るなど、有り得ないと思っていたからだ。だが、それと同時に彼女は違和感も感じるようになっていた。ロナディの態度。何故か、自分を避けているような気がする。まるで出会ったばかりの頃のようだった。
どうしてだろう?
初めは分からなかったが、聡明な彼女は徐々に気が付いていく。光を理解し始めたばかりの彼女には、美醜の区別の概念などなかったが、それでもロナディの姿が、特に顔の形が、他の人間とは違う事は分かる。そして周囲の人間の反応から、彼の容姿が決して美しくはないという事も理解していった。そう理解すると、それまでの事の全てが彼女の中で繋がったような気がした。
斡旋人たちが、ロナディを乱暴者だと考えた理由。ロナディが、どうしてあんなにも他人に対して卑屈なのか。そして、今彼がどうして自分を避けているのか。
アンナはそう理解しきると少しだけ悲しそうに笑う。
「本当に馬鹿な人…」
そして、嬉しそうにそう独り言を言った。
ある日、パットバットがロナディの家を訪ねて来た。彼は何故か、物凄く申し訳なさそうにしている。言い難そうにしながら、彼はロナディにこう言った。
「私が薦めておいてすまないが、もうあの薬を使うのは止めた方が良い」
ロナディはその言葉に驚いた。
「どうしてだ? 彼女の目は見えるようになっているぞ?」
そして、そう尋ねる。「それなんだよ」と、パットバットは言う。
「実はそれが悪く作用する事が、最近になって分かってしまったんだ。あの薬を使うと、視神経が成長をする。それで、目が見えるようになる訳だが、完全に“見える”能力を身に付けられる訳ではない。精々が、何かがあると分かるくらいだ。そして、にも拘らず、その代償として、別の神経の接続を失うのだよ」
「どういう事だい?」
「盲目の人間は、本来なら見るのに用いる脳の部分を使って、何かを聞いたり、匂いを判断したりするんだ。そして、聴覚や嗅覚はより鋭敏になる。ところが、視神経が繋がって“見える”ようになると、その力を失ってしまう。結果として、以前よりも不自由な生活を送る事になる。それはとても危険な事だ。彼女には申し訳ないが、薬を使うのは止めた方が良い。薬を止めれば、また徐々に彼女の目は見えなくなるだろうが、同時に他の能力も復活する。
ロナディ。お前にも悪い事をした。余計な金を使わせてしまったな」
それを聞くと、ロナディはアンナを悲しませることを辛く思いながらも、同時に喜んでもいた。
自分の姿を見られなくて済むと。
もちろん、そんな自分を情けなくも思っていたが。
「そんな事は気にしなくて良いよ、パットバット。よく、その話を聞かせてくれた。早速、彼女に事情を説明するよ」
そして、そう応えると、部屋を出て行ってしまった。恐らくは、アンナを探すつもりなのだろう。伝えるのは早い方が良い。彼女に危険があってからでは遅い。
ロナディが部屋を出ると、パットバットは顔を動かさずにこう言った。
「あれで本当に良かったのかな?」
すると、彼の後ろ、部屋の影からアンナが出て来て、こう返した。
「ええ、もちろんです。ありがとうございます。先生」
実は、これはアンナがパットバットに頼んだ事だったのだ。自分が視力を取り戻さなくても済むようにロナディを説得してくれ、と。パットバットは言う。
「断っておくが、訓練をすれば、君の目はもっと色々な物を把握できるようになるのだぞ?」
「そうかもしれませんね」
そう、アンナは返す。
「でもわたしは、今までずっと光を知らないで生きてきたのだし、それほどそれを苦痛だとはもう思いません。それに、あの神経のお話はある程度は本当でしょう? 光が分かるようになってから、わたしの耳も鼻も鋭さがなくなりました」
「確かにそうだが……」
それを受けると、アンナは少し笑った。
「わたしには、彼がわたしを避ける事の方がよっぽど辛いんです。それに、彼がわたしの事を思って、嫌なのに、あんなに高いお薬を買ってくれたのも嬉しかった。本当に、お人好しで馬鹿な人……」
「一応、断っておく。彼には弱い部分もあるが……」
言い難そうにしながら、パットバットはそう口を開いた。何とかロナディをフォローしようとしたのだ。それに、アンナは笑顔で返す。
「大丈夫ですよ。充分に分かっています。
何しろ、わたし、今、自分の目が見えなくて良かったと思っている程なんです。だって、目が見えていたら、彼の本当の姿はわたしにはみえていなかったと思うから」
それから愛おしそうに、アンナは「ロナディ」と彼の名を呟いた。
それから数か月後、アンナとロナディは結婚をして、末永く仕合せに暮らしたのだとか。ロナディの心配性は、何年経っても直らず、アンナはそんな彼を困ったもんだと思いながらも、やはり愛おしく思っていた。
ロナディをもうちょっとだけ悪い奴にしようかとも思ったのですが、自分には無理でした。それもあって、ちょっと甘いストーリーにし過ぎた、という反省もありますが、まぁ、いいや。
なっちゃったんだもん…