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第8話 老臣と、騎士の苦悩(宰相視点)

 あの日、東部領主・バレストロ侯爵の傲慢な要求を退けてから一夜明け、再び陽が傾き始めた頃。

 王城の奥深く、重厚な扉に閉ざされた宰相の執務室には、ただならぬ緊迫感が満ちていた。


「──報告は以上か」

「ハッ。侯爵は王都にある別邸に留まり、頻繁に早馬を出して各派閥の貴族たちと接触を図っている模様。また、東部領本国では不自然な数の私兵が動員され、交易路の封鎖に向けて動き出したとの情報も入っております」


 執務机の前に真っ直ぐに立つ騎士団長ルシアンの報告に、宰相ヴォルデンは深く嘆息した。


「焦っているな。あの豚め……自分が女王陛下を追い詰めているつもりで、その実、我が身をより深き泥沼へ引きずり込んでいることにも気づいておらん」


 ヴォルデンの白髪混じりの眉間には、深い皺が刻まれていた。

 彼は厳格な老臣として知られ、事実、誰よりも法と秩序を重んじている。


 あの最初の謁見の間でも、ルゼリアが自らの言葉で沈黙を破るのをただ冷徹に待っていたように見えた。

 だが、誰もいないこの密室で見せる彼の表情は、激しい苦悩と自責に苛まれた、ただの疲れ切った老人のそれだった。


「あんなにも小さな幼子に、あまりにも重い冠を被せてしまった。バレストロ如き私利私欲にまみれた魑魅魍魎たちの中にたった一人、何の盾も持たせずに放り込んだのだ。我々は、国を守るという大義名分の下、あの方から無邪気な子供の時間を奪い取った……」


 ヴォルデンの震える拳が激しく机を叩く。


「許されるはずもない罪だ。それでも……それでも、この国を纏め上げるには、あのお方の『至高の血』が必要なのだ……!」

「閣下……」


 血を吐くような老臣の悔恨に、ルシアンもまた剣の柄を握りしめ、己の無力さを呪っていた。

 騎士の剣とは、主君を守るためのものだ。

 それなのに、あのふんぞり返った醜悪な豚腹に向かって彼は、一度も剣を抜くことができずにいる。


「バレストロの言葉は、建前上は飢えた東部の民のため。もし我ら騎士団が法を曲げて武力行使に出れば、奴の思う壺です。それを口実に『王家が民を弾圧した』という汚名が陛下に行き着き、反乱の火種になりかねない」

「わかっておる。だからこそ我々は手出しできぬまま、陛下の小さな肩が震えるのを黙って見ていることしかできなかった」


 ヴォルデンは顔を覆う。

 バレストロやその取り巻きたちは、女子供が王座に座っていると侮り、言葉と数の暴力で圧力をかけている。


 彼らは国や民のことなど欠片も考えていない。

 自分たちの懐を潤すためだけに、あの可憐な少女を言葉の刃で斬りつけているのだ。


「だがな、ルシアンよ」


 顔を上げたヴォルデンの双眸に、爛々とした鋭い光が宿る。


「あの日……『交易路の要求は、却下だ』と言い放った、あの凛々しき瞳を見たか」

「はい。見事なものでした。背中がピンと張り詰め、言葉一つで貴族たちを威圧する……あの姿はまさに、真の女王陛下そのもの」

「あのお方が自らの足で立たれようとしておられる。ルシアン、実は騒ぎのような声を聞き、陛下の御部屋近くを通りがかったのだがな」


 ヴォルデンはそこで、ふっとこれまでに見せたことのない柔和な表情を浮かべた。


「陛下がメイドのクロエが用意した菓子を……あの小食で一口運ぶのさえ苦痛そうにされていた陛下が、それはもう美味しそうに頬張っておられたのだ。あのように活き活きとした御顔を拝見したのは、数年ぶりのことよ……」

「……左様でしたか。それは何よりの吉報でございますな。我ら騎士団も、陛下のその笑顔を守らねばなりませぬ。閣下、私は陛下より直接お言葉を賜りました」

「ほう。直接か」


 ヴォルデンが驚きに眉を上げる。

 ルシアンは噛み締めるように、己の震える拳を見つめた。


「『私兵の動員に際し、直ちに偵察を』と。迷いの一切ない、峻烈なまでのご下命にございました。正直に申せばこのルシアン……武者震いいたしました。あのお声、あのお姿。我ら騎士を真の意味で従わせるという覚悟を、陛下はついに選ばれたのだと」


 二人の忠臣の間を、温かな風が吹き抜けた。

 あの日から、何かが決定的に変わり始めたのだ。


「そして陛下は、商人ギルドの幹部であるファンドラを……」

「左様だ。あの『抜け目のない蛇』と名高いファンドラを真っ先に手駒に選ぶとは。ただの勇気だけでは金で動く商人を真っ先に頼ろうなどとは考えまい。陛下は、この国を巡る金と情報の流れ……その急所を正確に掴み取ろうとしておられる」


 ヴォルデンの声には、隠しきれない震えが混じっていた。

 そこで一度言葉を切り、古びた紙の匂いと冷めかけの茶の香りが漂う薄暗い執務室をどこか遠くを見るような目で見渡した。


「しかし、法で裁けぬ毒虫を潰すには相応の毒が必要だ。こちらからも駒は動かしてある。あの碌でもない老魔術師を一人……侯爵の館へ送り込んだ。上手くいけば三日を待たずして決定的な裏帳簿が手に入るはずだ」

「……左様でございますか。正規の騎士団では立ち入れぬ領域。その影の一手、深く感じ入ります」


 騎士の忠節を見届け、ヴォルデンは短く頷いた。

 静まり返った執務室で、密かに使いを出した腐れ縁の男の不真面目な顔を思い出していた。


『──はぁ?あそこの金庫は面倒な魔力封じが掛かっとる。儂に泥棒稼業を?あー嫌じゃ嫌じゃ、そんな重労働、誰か代わってくれんか』


 文句を垂れながらも、引き受けた仕事は完璧にこなす。

 ギルギアスという男の才は、ヴォルデンが唯一頼りにできる不道徳な一手だった。


「(今頃は、不格好な舌打ちを零しながら潜入している頃合いか。陛下、貴方様を汚泥(おでい)に塗れさせるわけにはいかぬのです。泥を被るのは、我ら老い先短い者の役目――)」


 その決意を噛み締めるように、ヴォルデンは窓の外を見つめた。

 本当はバレストロが不敬な口を開いた瞬間に、その首を跳ね飛ばしてやりたいとさえ思っていた。

 しかし、臣下が先走って敵を排除してしまえば、ルゼリアは一生、老臣たちに操られるだけの操り人形として、味方にすら侮られることになっただろう。


 即位に反発する貴族たちが手ぐすね引いて隙を窺う中、最初の『否定』だけは、彼女自身の唇から発せられなければならなかった。

 それがどれほど残酷な試練であっても、真の女王としての権威を打ち立てるためには、彼女が自ら地獄の門を潜るしかなかったのだ。


「(だが、貴方様は見事にそれを成し遂げられた。ならばここから先、その王道を汚す毒虫は、我らがすべて喰らい尽くしましょう……。どうか、その輝きを失わぬよう。ルゼリア陛下)」


 ──その頃。


 ルゼリア本人は隠密に人を動かし、正規軍が手出しできない完全なる証拠集めへと、大胆にその手を伸ばしている最中であった。

 忠臣たちの心配を他所に、予想を遥かに超えた行動力を発揮しながら。


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