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第7話 毒見のスープと、とろける夜のご褒美

 夕刻。

 東の空がゆっくりと赤紫色に染まり始めた頃、ルゼリアの自室からは深いため息が漏れていた。


「もう……むり。数字が、数字が頭の中でぐるぐる回ってるの……。3と8が手をつないで踊ってるよぉ……」

『よく頑張った、ルゼリア。今はもう何も考えるな』


 広々とした執務机の上には、過去五年分の東部領に関連する納税、および物価変動の全記録が雪崩のように散乱していた。

 バレストロ侯爵の巧妙な嘘の綻びを突くために、ルゼリアは半日かけてその途方もない情報量と格闘し続けていたのだ。

 しかし、小食ゆえの体力の無さが露呈してしまった。


 膨大な数字の羅列は、彼女の小さなキャパシティをとうの昔に限界突破させていた。

 机にへにゃあっと突っ伏して目が回っている状態のルゼリアの頭を、俺はなだめるように魔力の手でヨシヨシと撫でる。

 

「んふふ〜、ルゼリア様。難しいお仕事はそれくらいにして、夕食の準備ができましたよ〜。今日は沢山頭を使われたので、特別にファンドラ様からいただいたばかりの茶葉で淹れたお茶もご用意しております〜」


 ワゴンを押して入ってきたクロエの声に、ルゼリアはぴょこんと耳を立てるように顔を上げた。

 部屋の中にふわりと温かな湯気と、ファンドラが献上したという上品な花の香りが広がる。

 ルゼリアはティーカップを両手で大事そうに包み込むと、熱いお茶に小さく息を吹きかけた。


「ふー、ふーっ」


 真剣な顔つきで小鳥のように唇を作って息を吹きかける姿が、あまりにも愛くるしい。

 宝石が微かに歓喜の震えを放ったが、ルゼリアはそれに気づく様子もなく、少し冷ましたお茶をごくりと飲んでほうっと幸せそうな息を吐いた。


「おいしい……。相変わらずファンドラさんってすごい人だなぁ」


 クロエがワゴンから本日の夕食を並べていく。

 パンにとろとろに煮込まれた黄金色のコーンスープ、そして消化の良さそうな温かな野菜のテリーヌだ。


「さあ、ルゼリア様。まずはこのクロエがお味見をさせていただきますね〜。……んん〜!やっぱり料理人が作るスープは世界一美味しいです〜」


 クロエは備え付けの小皿に少しずつ料理を取り分けると、いつものように満面の笑みを浮かべながらそれを順番に口へと運んだ。

 それは、ルゼリアの食卓では毎日のように見慣れた光景だった。

 しかし、今日のルゼリアの瞳には、それが全く違う意味を持って映っていた。


「──クロエ」

「はい〜?どうしましたか、ルゼリア様。お腹が空きすぎて待ちきれなくなっちゃいましたか〜?」

「あのね……クロエにはそうやっていつも、わたしの代わりに毒がないか確かめてくれていたんだよね……?」


 ルゼリアの言葉に、クロエの手がピタリと止まった。


「わたし、今までご飯が喉を通らなくて、いっぱい残してしまってたよね。クロエは毎日、命懸けで味見をしてくれてたのに。……ごめんなさい。そして、ありがとう」


 赤紫の瞳を潤ませながら、申し訳なさそうにしっかりとした声で告げられた感謝。

 王城という悪意と陰謀が渦巻く場所で、毒殺の危険は常に隣り合わせだ。


 クロエの味見は、まさに自分の命を天秤にかけた忠義の証である。

 ルゼリアは王として自立しようと足掻き始めたことで、ようやくその重さに気づいたのだ。


「ルゼリア、様……っ」


 クロエはポロポロと泣き出しそうな顔になり、両手で口元を覆った。

 ルゼリアのあまりの健気さと優しさ、そして成長した姿からの不意打ちの天使っぷりに、クロエの胸の奥で特大の尊さが爆発した瞬間だった。


「も、もったいないお言葉です〜!このクロエ、ルゼリア様にそう言っていただけるなら、どんな猛毒だって笑顔で飲み干してみせます〜!!」

「だ、だめだよクロエ。毒は食べちゃだめだよ……?」


 涙ぐみながら変なことを言い出すメイドをルゼリアが慌てて嗜める。

 そして彼女は、大きな決意を秘めた瞳で目の前のパンを手に取った。


「わたし、これからはちゃんと食べる。クロエの頑張りを無駄にしないためにも!」


 そう気合いを入れたルゼリアは、パンをちぎることもせず、そのままあむっ!と大きくかじりついた。

 小さな口に無理やり詰め込んだせいで、両頬がリスのようにパンパンに膨らんでいる。

 さらに、勢いよくスープをスプーンですくって口へ運び──。


「あふっ、はふっ!は、あふぃっ……」

『ス、ストップストップ!焦るなルゼリア!誰も取らないから!ちゃんと噛んで!熱そうだからもっとフーフーして!ていうかパンをちぎれ!』


 涙目になりながらもぎゅもぎゅと懸命に呑み込もうとするルゼリアの危なっかしい姿に、俺はテンパりながら保護者のように念話を飛ばしまくった。


「(もぐ……クラウンがお母様みたい……ふふっ)」

『誰がお母さんだ!ほら、慌てないでゆっくり飲め!』


 ドタバタとしながらも、ルゼリアは「おいしい、おいしい」と笑顔をこぼしながら、見事に夕食を平らげた。


***


 そして、夜。

 極度の緊張と知恵熱、そして満腹感というコンボを食らったルゼリアは、強烈な睡魔の前にあっさりと陥落していた。


「……こくり。こく、り……」


 シルヴィアに寝間着に着せ替えられながら、ルゼリアは目をとろんとさせてふらふらと船を漕いでいる。

 完全にされるがままの特大ぬいぐるみのようだ。

 彼女の髪を丁寧に梳かしていたシルヴィアの眼差しも、普段の機械的な冷徹さは鳴りを潜め、愛しむような温かさを帯びていた。


「ふわぁ……。シルヴィア、ありがとう……」

「お休みなさいませ、陛下。良い夢を」


 ふかふかのベッドに潜り込んだルゼリアは、王冠を胸に大事そうに抱き寄せ、頬ずりをした。


「きょうも、そばにいてくれて……ありが、とう。クラウンの……おてて……ぽかぽかするぅ……」

『俺もだよ。ほら、もう寝ろ。明日もまた早いんだから』

「やだぁ……まだ、おはなし、したいの……。クラウンのこえ、きいてたいんだもん……」


 ルゼリアの重たげな瞼は、今にも完全に閉じてしまいそうに震えている。

 彼女は抗うように一度だけ大きく瞬きをしたが、すぐにまた指先を王冠の縁に引っかけ、うつらうつらと意識を飛ばし始めた。

 

「……おはなし、して……?クラウンの、思いだせること……とか……」

『いいぞ。……昔々、あるところにとっても寂しがり屋な星たちの国があってな。星たちは地上で一生懸命に生きる人間たちが暗い夜に迷わないよう、ずっと空から見守っていたんだ』

「ふふ……おほし、さま……」

『特にお城の中で、冠の重さに怯えて一人ぼっちで震えている小さな女王様のことが、心配で心配でたまらなくてな。だから星たちは自分たちの光をひとかけらずつ集めて、一個の特別な王冠を作ったんだ』

「……わたし、みたい……」

『星たちはその王冠に、こう約束させたのさ。──その子が泣きそうな時は、お前がその温もりを分けてやるんだぞ。その子が笑った時は、お前がその輝きを誰よりも近くで祝福してやるんだぞ、ってな』


 ──もちろん、そんな御大層な伝説も記憶も、俺の中には欠片もありゃしない。

 この幼い女王が安心して眠りにつけるよう、その場の勢いでデッチ上げたガラクタのデタラメだ。

 だが、宝石の芯から溢れる温かな魔力の光だけは、どんな真実よりも誠実に優しく彼女を包み込んでいた。


「……おてて、ぽかぽか……してるの、も……おほし、さまの……ひかり、なの……?」

『あぁ。だからもう何も怖くない。ルゼリアが目を閉じている間も、空の星たちと俺がずっとそばについていてやるからな。……お休み、ルゼリア。幼い女王様』

「……おやすみ、クラ……ん……」



 最後は消え入りそうな念話が届き、やがて規則正しい寝息へと変わっていく。

 安心しきったその無防備で幸せそうな寝顔を前に、室内はとろけるような優しい空気に包まれた。


 窓の外では、明日も泥沼の政治劇が待ち受けているだろう。

 だが、この夜だけは。

 俺も、そしてメイドたちも、きっと同じことを心の中で固く誓っていただろう。


──明日も必ず、この小さな女王の笑顔を守り抜くのだと。


第8話、第9話は視点が切り替わる予定です。

2話続けてなので、12時前後と20時10分の更新を目指し、1日で済ませようと考えております。

模索しながらの連載ですが、お付き合いいただけると幸いです。


たくさんの反応をしていただき、本当にありがとうございます。(心臓バクバク)

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