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第6話 震える文字と、王者の重圧

 王城を通り抜ける冬の風は、朝方よりも一層その冷たさを増しているように感じられた。

 物理的な気温のせいではない。

 バレストロ侯爵による私兵の動員という強硬手段が王宮内にも知れ渡り、下働きや兵士たちの間に見えない毒のように不安が広がり始めていたからだ。


『震えている暇はないぞ、ルゼリア。蛇が首を持ち上げたのなら、その先を読まなきゃならん』

「(ク、クラウン……。バレストロ侯爵が私兵を動かすなんて……)」

『現状、ヤツはまだ動かしただけだ。だが、それは次の布石に過ぎない。……騎士団長を呼ぶんだ。ルゼリアの口から彼らに仕事を命じるんだ』


 王冠の重厚な声に背を押され、ルゼリアは震える手で卓上のベルを鳴らした。

 間を置かずに入室してきた騎士団長ルシアンは、苦渋に満ちた表情でルゼリアの前に跪いた。

 彼もまた、自らが送った伝令への返答を、今か今かと待っていたのだ。


「陛下。報告は既にお聞き及びでしょうか。バレストロ侯爵の私兵どもが厚かましくも交易路を目指して移動を開始しております」

「ただの動員だとしても見過ごすわけにはいかない。ルシアンよ、部下を偵察に出し、相手の正確な数と目的を報告せよ。……一刻も早く」


 クラウンの入れ知恵をなぞるようにではあったが、一人の女王として発せられた毅然とした命。

 ルシアンは一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに「ハッ!直ちに!」と力強く応じ、風のように部屋を後にした。


『上手に言えたじゃないか、ルゼリア。相手が誰であれ女王はルゼリアだ。命令を下す権利も、それに応えさせる義務もある』

「(き、緊張したけど、クラウンがいてくれたから)」

『俺も誇らしいよ。さあ次はこっちの戦場だ。覚悟はいいか?』


 騎士たちが動き出す中、ルゼリアは次なる戦場──山積みの羊皮紙へと向き直る。


「……っ、これ、は……っ」


 そこには、膨大な羊皮紙の山に埋もれて目を白黒させている幼き女王の姿があった。


 目の前に積み上がっているのは、シルヴィアが書庫から文字通り発掘してきた過去五年分の東部領に関連する納税、および物価変動の全記録だ。

 几帳面すぎるシルヴィアが整理した資料は一分の隙もないほど完璧だったが、それゆえに情報の密度が幼い少女の器を遥かに超えていた。


「(数字が、数字が頭の中で踊り始めて、何がなんだか分からないよ。バレストロ侯爵の嘘なんてどこに……)」


 半泣きになりながら心の中で助けを求めてくるルゼリアに、俺はクッションの上で微かになだめるような黄金の光を放った。


『落ち着け、ルゼリア。焦りは思考を止める。いいか、まずはなぜを繰り返せ。なぜあのタヌキはこのタイミングでリスクを冒してまで私兵を動かした?逃亡の準備か?それとも、いつでも街道を封鎖できるという脅しか?』

「(……えっ?……ええと、たぶん、両方かな?)」

『それだけなら、わざわざ周囲に見えるように動かさなくていい。ヤツの狙いは実力の行使以上に、時間稼ぎと王宮内のパニックの誘発だ。もし本当に街道が閉じられれば、王都の物価は一気に跳ね上がる。民が飢えに怯え、暴動が起きれば、会議を待たずにヤツの要求──不当な減税を認めざるを得なくなる。つまり、相手はルゼリアを狙っている以上に、この城を包む空気を支配しようとしているんだ』


 俺の声を聞き、ルゼリアがハッと顔を上げた。

 その瞳から、困惑の涙が少しずつ引いていく。


『いいか、ルゼリア。相手がそんな荒っぽい手を使ったのは、それだけ早くルゼリアを屈服させないとマズいと焦っている証拠なんだ。最強のカードを持っている奴は、ギリギリまで武力なんて使わない。つまり、ヤツの手札はもうスカスカのボロボロってわけだ。そう思えばこの数字の山も、ヤツの断末魔の記録に見えてこないか?』

「(バレストロ侯の断末魔……。ふふっ、そう言われると、なんだか数字が怖くなくなってきたかも)」


 ルゼリアは小さな手で自分の頬をパチンと叩き、再び羊皮紙に向き合った。

 今度は、ただ文字を追うのではない。

 なぜここに数字のズレがあるのかという獲物を探す狩人の目で。


 シルヴィアが全体の不自然な数値の変動を大局的に洗い出し、ルゼリアがその中から怪しい日付の周辺を一点集中で精査していく。

 師と弟子のように、あるいは熟練の兵士と新人将校のように、二人はそれぞれの役割を果たしながら情報の海を泳いでいった。

 静まり返った部屋に、紙をめくる音とペンの走る音だけが刻一刻と刻まれていく。


「あった……。シルヴィア、ここ。三年前の三月、東部で不作の報告が上がった月の隣領の小麦価格。他は上がっているのに、ここだけバレストロ侯爵の息のかかった商会が安値で大量に買い叩いた記録がある」

「確認。……左様でございます。当時の市場相場の三割減で取引されています。これは、事前に不作を知っていたか、あるいは不作という偽報を流して値を下げさせた可能性がありますね。流石です、陛下。その特異点をこの短時間で見抜かれるとは」


 淡々と誇らしげに眼鏡の奥の瞳を輝かせるシルヴィア。

 ルゼリアが自力で一つ目の綻びを見つけた瞬間、部屋の隅で手帳を持つアダリンのペンが、再び猛然と動き出した。


『よし、その調子だ。一旦休憩にしようぜ。根詰めても効率が落ちるだけだ』


 ちょうどその時、扉がノックされ、クロエが甘い香りを漂わせるワゴンを押し、スキップでもしそうな足取りで入ってきた。


「んふふ〜、ルゼリア様。お勉強もお仕事もほどほどにしないと知恵熱が出ちゃいますよ〜。このクロエがルゼリア様のために特製のとろ〜り甘い焼き菓子と、リラックス効果抜群のハーブティーを用意しました〜。んん〜、いい香り〜!」


 香ばしく焼けたバターの匂いと爽やかなミントの香りが、張り詰めていた部屋の空気を一気に和ませる。

 ルゼリアは「まだお仕事の途中なのに……」と少し申し訳なさそうに眉を下げたが、甘い誘惑には勝てなかった。

 引き寄せられるように、皿の上で黄金色に輝く焼きたての菓子へと指を伸ばす。


 指先に触れた温もりに、彼女の喉が小さく鳴った。

 それを俺は逃さず、彼女が椅子に深く腰掛けたのを見計らって魔力を練り上げる。


 魔力の手。

 人知れず彼女の凝り固まった華奢な肩を、大きな掌が包み込むように優しく揉みほぐした。


「(ふあぁ……あったかい……。なんだかおっきな手に抱っこされてるみたい)」


 ルゼリアの強張っていた表情がふにゃりと緩み、年相応の子供らしいとろけるような溜息が漏れる。

 重い数字と戦って疲弊した脳が、本能的に休息を求めていた。

 彼女は焼き菓子を両手で大事そうに持つと、小動物のように小さなお口ではむっと一口、慎ましやかにかじりついた。


「……もぎゅ。んふ、あまぁい……」


 口の中に広がる蜂蜜の濃厚な甘みと、焦がしバターの芳醇な香り。

 使いすぎた脳に糖分が染み渡る感覚に、ルゼリアの赤紫の瞳が潤み、リスのように膨らんだ頬が幸せそうに揺れる。

 咀嚼そしゃくするたびに彼女の小さな背中が、心地よい魔力の手の感触も相まってくすぐったそうにピコピコと跳ねた。


「おいしい……。クロエ、とてもおいしいよ。もう一口、たべてもよいか……?」


 だんだんと素の顔と口調を出し始めてきたルゼリアの上目遣いで尋ねるその仕草に、俺の宝石の芯が歓喜の震えを上げたのは言うまでもない。


「んふふ〜、そんな天使のようなお礼を言われたら、クロエ、もう一生このお部屋から出したくなくなっちゃいますね〜。たくさん食べて笑ってくださいね~……汚いことは、わたしたちにお任せくださいね〜?」


 クロエの目が一瞬だけ艶やかで鋭い光を帯びる。

 その忠義は、甘い香りの奥に隠された鋭利な刃のようだった。


 その時。

 ルゼリアの部屋の近くを一人の老臣が通りかかった。


 王国を支え続けてきた厳格な男──宰相である。

 彼は移動中、ふと開いたままの扉の隙間から、室内の様子を認めた。


 そこには、かつてのように虚無の瞳でくうを見つめ、食事すら喉を通らなかったお人形の姿はない。

 慣れない甘味をもぎゅもぎゅと懸命に頬張り、目を輝かせておかわりをねだる、年相応の少女がいた。


「……」


 老臣は足を止めず、ただ一瞬、誰にも気づかれぬよう目尻を拭ってからその場を去った。

 一方、そんな周囲の劇的な変化に気づかぬまま、ルゼリアは王冠に向かって小さく拳を握ってみせた。


「(見ててね、クラウン。わたし、逃げないから。バレストロ侯爵を裁いてみせるよ)」

『あぁ。次はファンドラから届く情報の裏を読む訓練だ。頑張るんだぞ、ルゼリア』


 午後の微かな光。

 王冠の輝きは、迷いを断ち切った女王の意志に呼応するように、より一層深く重厚な輝きを放ち始めていた。


侯爵の字が違う等の修正をしました。

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