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第3話 声を上げて泣けた夜と、あたたかな魔力の手

 パタン、と扉が閉まった音を確認。

 ルゼリアはベッドから身を起こし、真っ直ぐにクッションの上の王冠を見つめていた。


「……ねぇ。さっきの声、あなたなの?」


 消え入りそうな不安げな呟き。

 シーツを握りしめ、すがるような瞳で王冠を見つめている。


『そうですよ。今日はいろいろとお疲れ様でしたね、女王陛下。あんなデカいのが目の前で怒鳴ってたら、普通なら腰を抜かしますって』

「ひゃっ!本当に喋った……」


 メイドにも見せなかった完全な素の顔になり、彼女はベッドから飛び起きて王冠をそっと胸の前に大事そうに抱きかかえた。


「……ぐすっ、助けてくれて本当にありがとう。わたし、どうしていいか分からなくて……」

『大人に言い寄られて怖かったでしょう。とても立派でしたよ。もう誰も見てませんから、今は声を出して泣いていいんです』


 泣いていい。

 その一言で、少女の中で何かが決壊した。


「う、うわぁぁぁん……っ!怖かった、本当はすごく怖かったの……っ!」


 声を押し殺して、歯を食いしばって、ずっとずっと堪え続けていたものが一気に溢れ出す。

 しゃくり上げる小さな肩。声にならない嗚咽。

 王冠を抱きしめる腕に、どんどん力がこもっていく。


 声が響いた瞬間、ルゼリアの瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 部下や貴族たちの前では決して見せなかった、年相応の子供の顔。

 その温もりと、小さな肩の震えが直に伝わってくる。


『よしよし、もう大丈夫。俺がいますからね』


 そんな彼女の頭を王冠が無意識に練り上げた魔力の手が、親鳥の羽のように優しく撫で始めた。

 指の形はない。手のひらでもない。


 だけど、確かに温かくて柔らかい何かが、少女の金色の髪をゆっくりと梳いている。

 ふわふわとした小動物の毛並みの感触が、魔力越しに伝わってきた。


「っ……あたたかい……」


 ルゼリアの声が、ほんの少しだけ穏やかになった。

 まだ涙は止まらない。でも、さっきまでの怯えた泣き方とは明らかに違う。

 安心して泣いている。そう感じた。


「……わたし、お父様がいなくなってから、ずっと怖かったの」


 王冠に顔を埋めたまま、ルゼリアがぽつりぽつりと話し始めた。

 震える指先は今にも壊れそうなほど力なく、だが必死に王冠を掴んでいる。


「みんな、わたしに王冠を被せて頑張れ、しっかりしなさい、泣いてはいけないって。……でも、本当は女王としてどうすればいいか、まだ何もわからないの」

『そうですよね。いきなり放り出されて、あとは任せたなんて言われても、パニックになるのが普通ですよ。……俺だって、さっきまで死ぬほどテンパってましたし』

「……ふふっ、へんな王冠さん」


 頭を撫でる魔力の手の感触に、彼女の呼吸が少しずつ整っていく。

 金髪を優しく梳き、耳の裏の柔らかいところをそっと撫でてやると、ルゼリアの喉から小さく満足げな吐息が漏れた。


 父親がどうしたのか、母親はどこへ行ったのか。

 なぜ、こんな小さな子供に、重すぎる『王冠』を被せたのか。


 聞きたいことは山ほどあった。

 だが、それ以上は何も聞かなかった。


 今は幼い少女を安心して眠らせることが、何よりも優先されるべきだと直感したからだ。

 魔力の手越しに伝わってくる彼女の細い肩の震えが、何よりもその過酷さを物語っていた。


「……あのね、王冠さん。わたし、ずっと思ってたことがあるの」

『はい、なんでしょう?』

「もし明日、わたしがいなくなってしまっても……きっと、みんな女王の代わりを探すのに必死なだけで、わたしのことで泣いてくれる人は、どこにもいないんだろうなって」


 恨みでも怒りでもなかった。

 ただ当たり前のこととして受け入れている、透明な絶望。

 この子はずっと一人でそう思いながら、毎晩この冷たい不安の中で目を閉じていたのか。


『……そんな悲しいこと言わないでください。もしあなたがいなくなったら、俺はこの世界で一番悲しい王冠になる。毎日のように涙を流して号泣しちゃいますよ。そしたら「泣き続ける呪いの王冠」とか言われて、宝物庫か博物館の奥深くに封印されちゃいますって。そんなのまっぴらゴメンですからね』


 王冠の上にある蒼い宝石が、淡い光を灯した。

 魔力の手がもっと深く、もっとゆっくりと、少女の頭を包み込むように撫でる。


「っ……うぁぁぁっ……」


 少女はもう何も取り繕わなかった。声を上げてわんわんと泣いた。

 女王としてではなく、ただの一人の子供として。

 生まれて初めて――本当の意味で誰かに甘えて泣くことが許された夜だった。


 魔力の手は彼女がしゃくり上げるたびに頭を撫で、肩を震わせるたびにそっと背中をさすった。

 体温のない手だった。指の形すらない手だった。

 だけど、誰の手よりもあたたかかった。


 やがて泣き疲れた少女が、まだ赤くなった目で王冠を見つめた。

 ずっと泣いていたせいで目元が真っ赤に腫れていて、鼻の頭もウサギのようにピンクに染まっている。


「あ……あのっ。ごめんね……いっぱい泣いちゃって。ぐすっ……顔、ぐしゃぐしゃだよね……」

『謝らなくていいですよ。泣きたいときは泣けばいい。俺はいつでも聞いてますから。それと泣き顔も可愛いですよ』

「かっ……!?な、なに言って……!」


 不意打ちの一言に、少女は真っ赤になって慌てた。

 今まで泣いていたのが嘘のようだ。


「もう……王冠さんって、すごいこと言うよね……」

『事実を言っただけですけど。ところで、さっきメイドたちがあなたのことを何て呼んでいたか、聞いてましたよ。俺にも改めて教えてくれますか?あなたの名前を』

「……うん。わたしね、『ルゼリア・アークフィリア』って言うの。王冠さんはわたしのことを名前で呼んでくれないかな……?」

『ルゼリアですか。いい名前ですね。俺みたいなよく分かんない奴がそう呼んでも怒らないですか?』

「怒らないよ。それとね……王冠さん、じゃ変だから……クラウンって呼んでもいい?」

『もちろんです。光栄ですよ、ルゼリア』


 名前を呼ばれた瞬間、少女の瞳が大きく揺れた。

 クラウン。たった今、ルゼリアが王冠に名付けた名前。

 その名前で自分の名前を呼び返してくれたことが、言葉にならないほどに嬉しかったのだろう。


『俺がそばにいる間は思い切り甘えてくださいよ。愚痴でもなんでも聞きますから』

「……うんっ。ありがとう、クラウン。わたし……クラウンが現れてくれて、本当に嬉しい……っ」


 今日一番の年相応の無防備な笑顔で、ルゼリアは王冠をぎゅっと抱きしめた。


『ただ、俺はこの世界のことを、自分がなんで王冠になっているのかさえ知らないんですよ。だから、まずはルゼリアのことをいろいろ教えてくれませんか?』

「うん!わたしにわかることなら何でも教えるよ」

『助かります。俺も自分の知ってることなら何でも話しますよ。これからはお互い寂しくないようにたくさんお喋りましょう』

「うん……っ!」


 それから、二人はベッドで静かにお喋りを続けた。

 ルゼリアがこの国のことをぽつぽつと教える。


 王冠ーー星天の王冠は建国の時代から存在する国宝で、歴代の王が戴冠式で被ってきたこと。

 伝説では「王冠が真の王を選ぶ」と言い伝えられていること。


 でも今まで王冠が喋ったことなんて一度もなかったこと。


『へぇ、じゃあ俺が喋り出したのは相当特殊な事例ってことですか。まあ、自分でも驚いてますけどね』

「うん。だからきっと、クラウンは特別なんだよ」

『特別ですか。よく分かんないですけど、ルゼリアのそばにいるために目覚めたのなら悪くないですね』

「えへへ……」


 少しだけ笑ったルゼリアが、ふと思い出したように聞いた。


「クラウンは……自分のこと、何か覚えてないの?」

『まったく。名前も、顔も、性別だって。王冠になる前の知識がうっすらとあるだけですね。ただ一つ分かるのは、小さな子が泣いてるのを見ると胸が痛むってことくらいですね』

「……それで充分だよ。わたしにとっては」


 ルゼリアはそう言って、王冠をぎゅっと抱き直した。


『あと、さっきの食事ですけど……もう少し食べた方がいいですよ。口うるさい親戚のオッサンみたいなこと言ってすみませんけど』

「あ……見てたんだ」

『そりゃ見てますよ、目の前にいたんですから。せっかくメイドさんたちが毒見までして用意してくれた食事なんだから、もったいないですよ』

「……うん。クラウンがそう言うなら、明日はもう少し食べてみる」

『約束ですよ。それに三日後の御前会議には、またあの太っちょ貴族たちが来るんでしょう?しっかり食べて、あいつらの対策も考えないといけませんしね』


 王冠に叱られ、そして前向きな言葉をもらえるとは思わなかったのか、ルゼリアは少しだけ驚いた顔をした後、ほんのりと頬を緩めた。


「……うん。クラウンが一緒なら、わたし、頑張れるかも」

『ええ、任せてください。俺が全力でサポートしますから』


 一緒に戦ってくれる人がいるということは、自分を気にかけてくれる人がいるということだ。

 話しているうちに、少女の瞼がだんだんと重くなっていく。

 返事の間隔が長くなり、声が小さくなり、言葉の途中でふにゃりと途切れる。


「……クラウン」

『はい?』

「あたま、なでて……」


 ほとんど眠りに落ちかけた少女のたった一言のわがまま。甘えたお願い。


『分かりました。寝るまでこうしていますから。おやすみなさい、ルゼリア』


 魔力の手がもう一度、優しく少女の頭を撫でた。

 ルゼリアは安心しきった顔で、静かな寝息を立て始めた。


 それまで彼女にとってこの広くふかふかな天蓋付きベッドは、重圧と孤独に震えるだけのひたすらに冷え切った場所でしかなかった。

 だが、今は違う。

 気さくな喋り相手がいて、あたたかな魔力の手が優しく頭を撫でてくれている。


 その事実は、凍える少女の体と心を包み込む、陽だまりのような温もりへと変わっていた。

 泣き虫な女王の実情を知り、彼女の力になることを決めたクラウンは、眠りについたルゼリアの穏やかな寝息を聞きながら、ひっそりと蒼い宝石の光で満足げに明滅した。


『(こんな小さな子に国を背負わせるなんて……どんな世界だよ、ここは)』


 体を持たない。自由に動くことさえできない。

 けれど、この子のそばにはいられる。


 ──星天の王冠は眠らない。

 この子が安心して眠れるように、ずっと。


『(……さて。この子の寝顔を守るためにも知恵を絞るとしますかね。なんとかなるだろ、いや、なんとかしてやるさ!)』


次回から連載版の新たな話となります。

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