幼馴染の騎士団長に並びたくて、感情を一個ずつ魔力に変換していったら、王国を救っちゃいました。
私は、そこそこの魔術師だった。
いや、正直に言おう。そこそこですらなかった。
宮廷魔術師団第七小隊、末席のリーゼ・ヴァイス。それが私の肩書きだった。才能は中の下。呪文の精度は同期の半分。魔力量は測定器の針がぴくりとも動かないレベル。入団試験は補欠合格で、配属先は最前線から最も遠い後方支援班。
戦場に出たことは三回ある。三回とも足手まといだった。
「ヴァイス、下がれ。邪魔だ」
上官のグレーテル少佐にそう言われた時、悔しいとは思った。でも反論できなかった。事実だったから。
同期のマルタはもうB+ランクだ。リデルはA判定を受けて特務班に引き抜かれた。私だけがC—のまま、書類整理と薬草の在庫管理をしている。
「いてもいなくても同じだな、ヴァイス」
グレーテル少佐がため息混じりに言った日、私は宿舎に帰って泣いた。
——悔しい。
いてもいなくても同じ。その言葉が胸に刺さって抜けなかった。
なぜ強くなりたいのか。理由は単純だった。
「リーゼ、また書類整理か。大変だな」
ユリウス・レーヴェ。騎士団長。幼馴染。金髪に青い瞳。背が高くて、かっこいい。
五歳の時から一緒だった。私が魔術師を目指したのは、彼が騎士を目指したからだ。
「隣に並びたかったんだけどね」
「ん?」
「なんでもない」
ユリウスは鈍感だ。私がどんな顔で彼を見ているか、気づいていない。
——隣に並びたい。
足手まといじゃなく。お荷物じゃなく。対等に、同じ戦場で。
その夢が、もう無理だと分かってきた二十二歳の冬。
私は禁忌に手を出した。
闇市の路地裏。薄暗いテントの中で、皺だらけの老婆が紫色の小瓶を差し出した。
「感情炉心薬。飲んだ者は自分の感情を魔力に変えられるようになる。代償は——使った感情を永久に失うこと」
「永久に?」
「そう。怒りを燃やせば、もう怒れなくなる。悲しみを燃やせば、泣けなくなる。全部燃やせば——何も感じなくなるよ」
老婆は笑った。歯のない口で。
「やめときな。大抵の奴は後悔する」
私は金貨を三枚置いて、小瓶を懐に入れた。
後悔するかもしれない。でも今のまま「いてもいなくても同じ」で終わるくらいなら——。
宿舎に戻って、一人で飲んだ。苦かった。舌の上で何かが弾けて、胸の奥が熱くなった。
翌日。国境に魔獣が出たと聞いて、私は志願した。
Aランクの巨大魔獣。四足の獣。同期のマルタでも単独では相手にならない。
私は右手を掲げた。
胸の中にある『怒り』を探した。
悔しかった日。「邪魔だ」と言われた日。「いてもいなくても同じ」と言われた日。才能がないと笑われた日。ユリウスの隣に立てない惨めさ。
全部の怒りを——燃やした。
指先から放たれた魔力の奔流は、視界を白く染めた。
Aランクの魔獣が、一撃で灰になった。
……嘘でしょう。
周囲が静まり返った。私自身が一番驚いていた。
そして——怒りが消えた。
胸の中で燃えていたものが、すっと消えた。跡形もなく。
グレーテル少佐が何か言っていた。多分、驚いていたのだろう。でも何を言われても腹が立たなかった。「いてもいなくても同じ」と言った人の顔を見ても、何も感じない。
不思議な感覚だった。
理不尽な命令。陰口。嘲笑。何一つ、心に引っかからない。
——楽だ。
驚くほど、楽だった。怒らなくていいというのは、こんなにも軽いのか。
そしてその日から、末席の魔術師の人生が変わった。
Aランク級の戦闘力。一躍、師団の切り札。次々と前線に送られた。
「リーゼ、凄いな。いつの間にそんなに強くなったんだ」
ユリウスがそう言って、笑った。
嬉しかった。
——まだ、嬉しいと思える。
怒りは消えた。でも嬉しさは残っている。悲しさも、喜びも、そしてユリウスを見た時の胸の痛みも。
まだ大丈夫。私はまだ、人間だ。
◇
半年後、国境の砦が魔王軍に襲撃された。
守備隊は壊滅寸前。増援が間に合わない。
「ヴァイス、頼む」
グレーテル少佐の声に、迷いはなかった。もう「邪魔だ」とは言わない。「頼む」と言う。
私は砦に飛んだ。
地獄だった。
門は破られ、瓦礫の中に倒れた兵士たちが呻いている。知った顔があった。訓練で一緒だったハンス。食堂でよく隣に座ったエミリア。
エミリアは——もう動いていなかった。
涙が出た。
目の前で人が死んでいく。仲間が倒れていく。助けたい。でも私の攻撃魔法は怒りの魔力で放ったあの一撃きり。普段の魔力では足りない。
もっと力が要る。
——悲しみを、使えば。
胸の中の悲しみを探った。エミリアが死んだ悲しみ。ハンスが倒れた悲しみ。助けられなかった悔恨。
「ごめんね」と心の中で呟いて——燃やした。
砦を覆うほどの防御結界が展開された。敵の攻撃が弾かれ、味方が態勢を立て直す時間ができた。
砦は守った。
英雄と呼ばれた。
——そして、涙が止まった。
戦いの後、ハンスは一命を取り留めたが、エミリアの遺体が運ばれてきた時、私は何も感じなかった。
葬儀で棺を見つめた。涙が出ない。「泣いてあげなきゃ」と思った。でも悲しくない。悲しいという感情が存在しないのだ。
「リーゼ、泣かないのか」
ユリウスが隣で聞いた。
「——泣けないの」
「え?」
「なんでもない」
仲間の葬儀で一滴も涙を流さなかった私を、周囲はどう見ただろう。
「冷たい女だ」と囁く声が聞こえた。
怒りはもうない。だから怒れない。悲しみもない。だから傷つかない。
——傷つかない。それは楽なのか、それとも。
「リーゼ」
ユリウスが、不安そうな顔で私を見た。
「お前、最近——何かおかしくないか」
「おかしくないよ。強くなっただけ」
笑ってみせた。まだ笑えた。喜びが残っていたから。
ユリウスが笑いかけてくれると、まだ嬉しいと思えた。パンを分けてくれると温かいと思えた。夕日を見て綺麗だと感じられた。
——まだ大丈夫。
自分にそう言い聞かせた。
◇
大丈夫じゃなかった。
数ヶ月後、魔王軍が三方から大攻勢をかけてきた。
北の砦、東の防壁、南の渓谷——三つの戦線が同時に崩壊しかけていた。Aランクの魔術師が三人やられた。宮廷魔術師団の主力が壊滅した。三つの前線を同時に支えられるのは——私しかいなかった。
「ヴァイス。前線を頼む」
グレーテル少佐は、もう当然のように私に言った。
当然。私が強いから。私なら何とかしてくれるから。頼られている。必要とされている。
一年前ならそれが嬉しかったはずだ。
でも今、嬉しさの前に計算が走る。
今の魔力では足りない。三つの戦線を同時に守るには大規模結界が必要で、私の基礎魔力では到底——。
分かっている。何を燃やせばいいかも、分かっている。
喜び。
まだ残っている最後から二番目の感情。ユリウスに「凄いな」と言われて嬉しいと思える心。夕日を見て綺麗だと思える心。温かいパンを食べて美味しいと思える心。
「……ごめん」
誰に謝ったのか分からない。自分自身にか。
喜びを——燃やした。
三つの戦線を繋ぐ巨大な防御結界が完成した。敵の攻勢を一昼夜耐え抜いた。前線は持ちこたえた——王都への侵攻は食い止められた。
世界から、色が消えた。
比喩じゃない。目には見えている。空は青い。花は赤い。でも「綺麗だ」が存在しない。色はあるのに、意味がない。
「よくやった、リーゼ」
ユリウスが駆け寄ってきた。汗と泥にまみれた顔で、笑っている。
「リーゼ?」
彼が笑いかけている。前なら嬉しかった。前なら胸が温かくなった。
——何も、感じない。
「ありがとう、ユリウス」
口では言えた。感謝の言葉は言える。でも気持ちが伴わない。「ありがとう」の温度がない。
ユリウスが私の顔を覗き込んだ。その青い瞳に映っている私の顔は——多分、とても平坦だったのだろう。
「リーゼ。——笑わなくなったな、最近」
笑えない。笑うという行為には「嬉しい」か「楽しい」が必要で、そのどちらも私の中にはもう存在しない。
唇を引き上げてみた。多分、笑顔の形にはなったと思う。でも目が笑っていないことは自分でも分かった。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろ」
ユリウスが私の手を握った。大きな手。温かい手。
——その瞬間、胸が痛んだ。
あ、と思った。
痛い。まだ、痛い。ユリウスに触れられると——まだ何かを感じる。
恋心だ。
最後に残った感情。怒りも悲しみも喜びもない灰色の世界で、唯一色を持ったもの。
この人を見ると胸が痛む。この人の手が温かいと——分かる。この人の声だけが、まだ遠くない。
怒れない。泣けない。笑えない。
でもこの人の前でだけ、私はまだ人間だった。
「——大丈夫。まだ、大丈夫だから」
今度は、嘘じゃなかった。
◇
それから三ヶ月。
私はユリウスの傍にいたかった。
任務がない日、ユリウスの執務室に顔を出すと、彼は決まって困ったような顔をした。
「また来たのか」
「暇なの」
暇なんてものじゃない。この人以外のそばにいても世界が白いまま何も感じなくて、ただこの人の隣にいる時だけ胸が微かに色づく気がして、それをもう少しだけ確かめたくて——。
でもそんなことは言えなかった。
「お前がいると安心する」
ユリウスがぽつりと言った。書類から目を上げず、何気なく。
胸が、きゅっと痛んだ。
——やめて。そういうこと言わないで。
嬉しいと思えないのに、恋心だけがざわつく。この感覚が最後の一つだと知っているから、余計に怖い。感じられることが嬉しいのに、感じるたびに「これを使ったら終わりだ」という恐怖が走る。
「ユリウス」
「ん?」
——好きだよ。
喉まで出かかった。言いたい。言えない。言ったら何が変わるわけでもないけれど、この胸の痛みが本物のうちに、伝えておきたかった。
「……なんでもない」
ユリウスは不思議そうな顔をして、また書類に目を落とした。
間抜けで、鈍感で、何も気づかないこの人のことが、たまらなく好きだった。
恋心だけが、私の最後の色だった。
◇
そして——最後の日が来た。
魔王軍の総攻撃。約一年間の戦いの全てを賭けた最終決戦。
王都の東門が破られた。西門も陥落寸前。残存する魔術師はC、Dランクの後方要員のみ。騎士団も限界。
「ヴァイス。全軍を守れるか」
グレーテル少佐の声が、遠くから聞こえた。
全軍。全ての防衛線を一人で。
できる。やり方は分かっている。残っている最後の感情を——恋心を燃やせば、魔王軍ごと消し飛ばせるだけの魔力が出る。
恋心は、最も強い感情だから。
「——できます」
「頼んだ」
それだけだった。少佐は振り返りもせず、次の指示を出しに行った。
一年前なら怒っていた。半年前なら泣いていた。三ヶ月前なら悲しかった。
今は何も感じない。——いや、一つだけ。
「リーゼ!」
ユリウスが走ってきた。鎧が血で汚れている。他人の血か。自分の血か。
「お前、何をする気だ」
「決まってるでしょ」
ユリウスの顔が強張った。何かを感じ取ったのだろう。具体的に何をするかは知らないはずだ。でもこの人はいつも、肝心な時だけ鋭い。
「行かせない」
「行かないと、あなたが死ぬ」
「——俺が死んでも、お前がこれ以上おかしくなるよりいい」
おかしくなる。この人は気づいていたのだ。私が何かを一つずつ失っていることに。何を失っているか正確には分からなくても——私が壊れていっていることに。
「ユリウス」
「何だ」
最後の感情が、胸の中で燃えている。
この痛みを手放したくない。この人を見て痛いと感じる心を失いたくない。
でも——失わなければ、この人が死ぬ。
「——私、あなたのことが好きでした」
ユリウスの目が大きく見開かれた。
「ずっと好きだった。五歳の時から。隣に並びたかった。強くなりたかったのは、あなたの隣に立ちたかったから」
声が震えた。最後の感情が——溢れそうだった。
「だから、最後にこれだけは言っておきたかった」
「最後って——リーゼ、お前——」
「ごめんね」
右手を掲げた。
胸の中にある恋心——ユリウスに初めて会った日から十七年分の想い。笑顔を見て嬉しかった記憶。手が触れた時の震え。「凄いな」と言われて泣きそうになった夜。「お前がいると安心する」と言われて、壊れそうになった午後。
全部——燃やした。
光が、世界を飲み込んだ。
膨大な魔力。これまでの比ではなかった。怒りの数倍。悲しみの十倍。喜びの百倍。恋心は——こんなにも強かったのか。
光が消えた時、魔王軍は存在していなかった。
そして——世界が白くなった。
ユリウスが何か叫んでいた。私の肩を掴んで、顔を覗き込んで、何かを言っていた。
聞こえていた。でも意味が分からなかった。
声。音。振動。情報として認識はできる。でも——何も感じない。
ユリウスの顔を見た。金髪。青い瞳。涙が流れている。
知っている顔。名前も覚えている。ユリウス・レーヴェ。幼馴染。
それだけだった。
胸が痛まなかった。
何も——痛くなかった。
◇
王国は救われた。
私は英雄になった。
式典に出た。勲章をもらった。拍手があった。何のことか分からなかった。
「リーゼ、戻ってこい!」
ユリウスが叫んだ。涙を流して。
「——何に」
「俺のところに! お前のところに! たのむ、リーゼ——」
「何も感じないの」
事実を述べた。嘘ではなかった。声は出る。言葉は選べる。でも伝えたいことがなかった。
宮廷を離れた。辺境の小さな家に越した。
毎日は同じだった。朝が来た。食事をした。眠った。朝が来た。食事をした。眠った。
春が来ても暖かいとは思わなかった。夏が来ても暑いとは思わなかった。花が咲いていた。色は見えた。赤い花だった。赤いということは認識できた。それだけだった。
時々、玄関にパンが置いてあった。まだ温かいこともあった。
誰が置いたかは分かっていた。でも——分かっていることと、感じることは違う。
白い世界に、季節だけが通り過ぎていった。
◇
何年経ったのか、正確には分からない。三年か、四年か。
ある朝、庭に出た。いつもと同じ朝のはずだった。
小さな花が咲いていた。白い花。何の変哲もない、道端によく咲いている種類。
「……………綺麗」
口から言葉が零れた。
自分で驚いた。今——「綺麗」と思った?
胸の奥で、何かがかすかに震えた。長い間止まっていた振り子が、微かに揺れたような。
——感じた。今、何かを感じた。
翌日、朝日を見た。眩しいと思った。
その翌日、パンを食べた。温かいと思った。
少しずつだった。本当に少しずつ。名前のつけられない感覚が戻ってくる。「心地いい」ともう少しで言えそうな何か。「懐かしい」に似ているけれど違う何か。
色が戻り始めていた。白かった世界に、ほんの少しだけ。
薬の効果が——切れ始めている。
そしてある日の午後、ドアを叩く音がした。
開けると、ユリウスがいた。
白髪が増えていた。目の下に深い隈があった。頬がこけていた。
何年もの間——この人は、ずっと通い続けていたのだ。パンを置いて、返事のないドアの前に立って、帰っていた。何年も。何年も。
でも今日、初めてドアを叩いた。
なぜ今日なのか、分からない。分からないけれど。
「——おかえり」
ユリウスが、笑った。あの不器用な笑い方。
胸の奥で、何かが——痛んだ。
まだ名前がつけられなかった。恋なのか。懐かしさなのか。罪悪感なのか。
でも——痛かった。
何かを感じていた。確かに、何かを。
——温かい。
温かいと思った瞬間、胸の奥で何かが割れた。
涙が出た。
なぜ泣いているのか、最初は分からなかった。悲しいのか。嬉しいのか。それすら判別できないまま、ただ涙が溢れた。数年分の涙が、堰を切ったように。
ああ——これは、悲しいんだ。何年も、一人にしてごめん。
これは、嬉しいんだ。まだ来てくれた。まだ、ここにいてくれた。
これは——怒りだ。自分に。あの日、全部燃やした、馬鹿な自分に。
そして、この胸の痛みは。
ユリウスの腕の中で、私は声を上げて泣いた。みっともなく、子供みたいに。
——やっと、あなたの隣に立てた気がした。




