「呪うつもりか」と言われましたが、これは貴方を生かすための結界です。
チクリ、と指先に鋭い痛みが走った。
滲んだ血が、白いシルクの上に赤い花を咲かせる。
私は慣れた手つきでその血を拭うと、再び針を握った。
蝋燭の芯が燃え尽きかけ、焦げた匂いが鼻を突く。窓の外では、冬の嵐が唸りを上げていた。
ガタガタと窓枠が鳴るたびに、指先の震えを抑え込み、ひと針、またひと針と、銀の糸を布に通していく。
「……ソフィア。また、そんなことをしているのか」
氷点下のような冷たい声が、背後から降ってきた。
振り返ると、豪奢な軍服に身を包んだ私の婚約者、王太子ライオネル殿下が立っていた。
その隣には、華やかな香水の香りを纏った男爵令嬢、エミリの姿もある。
「殿下……。申し訳ございません、もう少しで終わりますので」
「終わる? 何がだ。その薄気味悪い布切れを完成させることがか?」
殿下は、私が縫っていたタペストリーを汚いものでも見るように見下ろした。
そこには、複雑怪奇な紋様がびっしりと縫い込まれている。常人には不気味な幾何学模様にしか見えないだろう。
でも、これはただの模様ではない。
「あぁん、怖いぃ。ライオネル様ぁ、その刺繍、なんだか黒いモヤがかかってるみたいに見えますぅ」
エミリが殿下の腕にしがみつく。
殿下は彼女を庇うように抱き寄せ、私に軽蔑の眼差しを向けた。
「聞いたぞ、ソフィア。お前、夜な夜な私の髪の毛をこの布に縫い込んでいるそうだな」
「……はい。殿下の枕から落ちたものを、侍女に集めさせております」
「狂気だ! やはり私を呪うつもりだったのか!」
「違います!」
私は椅子から立ち上がった。
長時間の作業で強張った膝が悲鳴を上げる。
「これは『守り』です。殿下の周りに漂う……黒い影を、縫い止めるための」
この国は、古い呪いに蝕まれている。
王城の壁の亀裂から、絨毯の綻びから、目に見えない瘴気が漏れ出しているのだ。それが見えるのは、「縫製魔術」の素養を持つ私だけだった。
放っておけば、その瘴気は次期王である殿下の命を蝕む。だから私は、自分の魔力と、媒体となる殿下の髪を使って、瘴気の出口を物理的に『縫い塞いで』いたのだ。
けれど、私の荒れた指先を見た殿下は、生理的な嫌悪感を隠そうともしなかった。
「言い訳は聞き飽きた。その血だらけの指も、陰気な目も、もう見ていられない」
殿下は宣言した。
「ソフィア・ベルンシュタイン。貴様との婚約を破棄する。そして、呪術を用いた罪により、この国からの追放を命じる。――今すぐにだ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の心の中で、張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れた。
悲しみよりも先に訪れたのは、奇妙なほどの安堵だった。
(ああ……もう、縫わなくていいんだ)
毎日、指に穴が開くほど針を刺し、視力が落ちるほど目を凝らし、自分の生命力を糸に変えて、この城を繋ぎ止めてきた。
誰も褒めてはくれなかった。
「陰気だ」「魔女だ」と石を投げられるだけだった。
私は、作りかけのタペストリーにハサミを入れた。
「……なっ!?」
殿下が息を呑む前で、私は最後の『結び目』を切り落とした。
パラパラと、銀の糸が解けていく。
「承知いたしました、ライオネル殿下」
私は深く、深く頭を下げた。
これが、私がこの国で見せる最後の礼儀だ。
「私の愛が、あなた様には『呪い』としか映らなかったのなら……それは私の未熟さゆえでしょう。どうぞ、エミリ様と末長くお幸せに」
私は道具箱ひとつだけを抱え、吹雪が吹き荒れる城の外へと足を踏み出した。
背後で、城のどこかが「ミシミシ」と軋む音がした気がしたが、私は一度も振り返らなかった。
*
国境の峠を越える頃には、足の感覚はなくなっていた。
粗末なコート一枚では、北国の猛吹雪を防げるはずもない。
睫毛が凍りつき、吐く息すら喉に張り付く。
(……ここで、終わりかしら)
雪の中に膝をつく。
薄れゆく意識の中で、私は懐から一枚のハンカチを取り出した。
それは、私が唯一、誰のためでもなく、自分のためだけに縫ったものだ。
漆黒の布地に、金糸で縫い取られた『竜』の紋章。
隣国、ヴォルガード帝国の紋章だ。
数年前、遠くから一度だけ見たことがあった。
皇帝、アレクセイ・ヴォルガード。
「冷血帝」と恐れられる彼は、外交の場で誰とも言葉を交わさず、ただ一人、バルコニーで月を見上げていた。
その背中が、あまりにも寂しそうで、美しくて。
誰にも理解されず、ただ責務だけを背負っているその姿が、自分と重なったのかもしれない。
私は密かに、彼の無事を祈ってこのハンカチを縫った。
渡すあてもない、ただの自己満足。私の唯一の「恋」の残骸。
「……あの方の国は、ここよりも寒いのね」
ハンカチを頬に寄せる。
金糸の冷たい感触が、熱を持った頬に心地よかった。
視界が白く塗りつぶされていく。
その白の中に、黒い影が現れた。
幻覚だろうか。
黒い馬に跨った、漆黒のマントの男。
彼は私の前で馬を降りると、雪を踏みしめて近づいてきた。
「……こんなところで、何を」
低い声。
男の視線が、私の手の中にあるハンカチに釘付けになった。
彼は驚愕に目を見開き、私の手からそれを拾い上げた。
「この紋章……。それに、この『縫い目』は……」
彼は震える手でハンカチを握りしめると、私を抱き起こした。
冷え切った体に、男の体温と、革の手袋の匂い、そして微かな鉄の匂いが包み込む。
「探していた。ずっと……」
彼の金色の瞳が、潤んでいるように見えた。
それが誰なのか認識する前に、私の意識は深い闇へと落ちていった。
*
目が覚めると、そこは温かな暖炉の燃える部屋だった。
ふかふかのベッド。最高級の羽毛布団。
そして、ベッドの脇の椅子に座り、私の手を両手で包み込んでいる男性がいた。
黒髪に、金色の瞳。
アレクセイ・ヴォルガード皇帝陛下、その人だった。
「……気がついたか」
彼は安堵の息を吐き、すぐに侍医を呼ぼうとした。
私は慌ててその袖を掴む。
「あ、あの……陛下。なぜ、ここに」
「私が巡回中に君を見つけた。……いや、導かれたと言うべきか」
彼はサイドテーブルに置かれた、あのハンカチを指差した。
ボロボロで、血の滲んだ私のハンカチ。
それが今、淡い金色の光を放っていた。
「君が縫い込んだ魔力が、私を呼んだのだ。……ソフィア嬢、と言ったな」
「はい……。なぜ私の名を?」
「知らぬはずがない」
アレクセイ陛下は、少し照れくさそうに視線を逸らし、懐から「別のハンカチ」を取り出した。
それは、数年前の外交パーティーで、私が匿名で彼に贈ったものだった。
『どうか、安らかな眠りを』というメッセージカードを添えて。
「私は重度の不眠症だった。常に暗殺の気配に怯え、夢の中でも戦っていた。……だが、このハンカチを枕元に置いてから、嘘のように深く眠れるようになったのだ」
陛下は愛おしそうに、その古いハンカチを撫でた。
「調べさせたよ。この国一番の魔力を持つ刺繍作家は誰かと。だが、王家は『そんな者はいない』と言い張った。まさか、あんな冷遇されていた令嬢が、その人だったとはな」
陛下は私の手を取った。
無数の刺し傷が残り、荒れてガサガサになった私の指先。
殿下には「汚い」と罵られた手だ。
陛下は、その一本一本に、敬意を込めるように口付けた。
「美しい手だ」
「……っ! 汚いです、やめてください……」
「いいや、美しい。これは、君が誰かを守るために戦い続けた証だ。剣士の傷と同じ、誇り高い勲章だ」
熱いものが、目から溢れた。
止まらなかった。
誰かに認めてほしかったわけではない。ただ、誰かの役に立ちたかった。
でも、本当は――。
本当は、ただ一言、「痛かったね」と言って欲しかったのだ。
「我が国に来てくれないか、ソフィア。君を縫子として酷使するつもりはない。ただ、私のそばにいて、私のために笑っていてほしい」
冷血帝と呼ばれた男の不器用な告白に、私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷いた。
もう、血の滲む指で針を持つ必要はないのだと、凍りついた心が溶けていくのを感じた。
*
【一方、その頃の祖国】
王宮の大広間では、ライオネル王太子とエミリが優雅にダンスを踊っていた――はずだった。
バキィッ!!
突然、巨大な音が響き渡った。
ダンスホールの天井を支える巨大な柱の一本が、何の前触れもなく砕け散ったのだ。
「きゃああああ!」
貴族たちが逃げ惑う中、異変はそれだけでは終わらなかった。
玉座の背もたれが真っ二つに割れ、王太子のマントがボロボロに崩れ落ち、城壁のあちこちから「黒い瘴気」が噴き出し始めたのだ。
「な、なんだこれは!? 城が……崩れる!?」
ライオネルは腰を抜かした。
今まで城が保たれていたのは、建材が丈夫だったからではない。
ソフィアが毎晩、城中のカーテンや絨毯、タペストリーに施していた『修復』と『結合』の刺繍魔術が、老朽化した城を無理やり繋ぎ止めていたのだ。
彼女が去り、最後の『結び目』が解かれた今、魔法は解けた。
長年蓄積された老朽化と、地下から湧き上がる瘴気が、一気に牙を剥いたのである。
「で、殿下! 見てください、あれを!」
騎士団長が指差した先。
ソフィアが縫っていたあのタペストリーがあった場所。
そこに残された糸屑が、ひとりでに動き出し、文字を形作っていた。
『綻びは、もう繕えない』
その文字を見た瞬間、王太子は理解した。
自分が「薄気味悪い」と捨てた女が、この国の屋台骨そのものだったということを。
数日後。
屋根が崩落し、寒風吹きすさぶ廃墟となった王城に、隣国ヴォルガード帝国からの書状が届いた。
『我が国の至宝、ソフィア嬢の手を傷つけた罪、万死に値する。
彼女の指先の傷が癒えるまで、貴国への物資支援および国境の警備を一切停止する』
それは実質的な、国交断絶と滅亡の宣告だった。
ライオネルは瓦礫の山となった玉座で、エミリに「あなたのせいでドレスが汚れたじゃない!」と罵られながら、ただ呆然と空を見上げるしかなかった。
*
【数ヶ月後 帝国】
陽だまりのような暖かな部屋で、私は新しい刺繍をしていた。
指先の傷はすっかり癒え、滑らかな肌に戻っている。
「ソフィア、休憩にしないか?」
執務を終えたアレクセイ様が、部屋に入ってきた。
その表情は、出会った頃の険しさが嘘のように穏やかだ。
「もう少しで終わりますわ、アレクセイ様」
「……何を縫っているんだ?」
彼が後ろから覗き込む。
私は少し恥ずかしくて、布を隠そうとしたけれど、間に合わなかった。
そこには、可愛らしくデフォルメされた「小さな男の子」の服が縫われていた。
まだ見ぬ、私たちの未来の子供のための産着。
そこには、『健康』と『幸福』を願う、温かな魔力がたっぷりと込められていた。
「……気が早いな」
アレクセイ様は耳まで赤くして、それでも嬉しそうに私を抱きしめた。
「ああ、待ち遠しい。君と私の子供なら、きっと世界一幸せな子になる」
彼の胸に顔を埋める。
鼓動が聞こえる。力強く、温かい音。
かつて私の指は、崩れゆくものを必死に繋ぎ止めるために血を流していた。
けれど今は、愛する人との未来を紡ぐために動いている。
もう、指先は痛くない。
ここにあるのは、ただ溢れんばかりの愛おしさだけだった。




