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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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「呪うつもりか」と言われましたが、これは貴方を生かすための結界です。

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2025/11/21

 チクリ、と指先に鋭い痛みが走った。

 滲んだ血が、白いシルクの上に赤い花を咲かせる。

 

 私は慣れた手つきでその血を拭うと、再び針を握った。

 蝋燭の芯が燃え尽きかけ、焦げた匂いが鼻を突く。窓の外では、冬の嵐が唸りを上げていた。

 ガタガタと窓枠が鳴るたびに、指先の震えを抑え込み、ひと針、またひと針と、銀の糸を布に通していく。


「……ソフィア。また、そんなことをしているのか」


 氷点下のような冷たい声が、背後から降ってきた。

 振り返ると、豪奢な軍服に身を包んだ私の婚約者、王太子ライオネル殿下が立っていた。

 その隣には、華やかな香水の香りを纏った男爵令嬢、エミリの姿もある。


「殿下……。申し訳ございません、もう少しで終わりますので」


「終わる? 何がだ。その薄気味悪い布切れを完成させることがか?」


 殿下は、私が縫っていたタペストリーを汚いものでも見るように見下ろした。

 そこには、複雑怪奇な紋様がびっしりと縫い込まれている。常人には不気味な幾何学模様にしか見えないだろう。

 でも、これはただの模様ではない。


「あぁん、怖いぃ。ライオネル様ぁ、その刺繍、なんだか黒いモヤがかかってるみたいに見えますぅ」


 エミリが殿下の腕にしがみつく。

 殿下は彼女を庇うように抱き寄せ、私に軽蔑の眼差しを向けた。


「聞いたぞ、ソフィア。お前、夜な夜な私の髪の毛をこの布に縫い込んでいるそうだな」


「……はい。殿下の枕から落ちたものを、侍女に集めさせております」


「狂気だ! やはり私を呪うつもりだったのか!」


「違います!」


 私は椅子から立ち上がった。

 長時間の作業で強張った膝が悲鳴を上げる。


「これは『守り』です。殿下の周りに漂う……黒い影を、縫い止めるための」


 この国は、古い呪いに蝕まれている。

 王城の壁の亀裂から、絨毯の綻びから、目に見えない瘴気が漏れ出しているのだ。それが見えるのは、「縫製魔術」の素養を持つ私だけだった。

 放っておけば、その瘴気は次期王である殿下の命を蝕む。だから私は、自分の魔力と、媒体となる殿下の髪を使って、瘴気の出口を物理的に『縫い塞いで』いたのだ。


 けれど、私の荒れた指先を見た殿下は、生理的な嫌悪感を隠そうともしなかった。


「言い訳は聞き飽きた。その血だらけの指も、陰気な目も、もう見ていられない」


 殿下は宣言した。


「ソフィア・ベルンシュタイン。貴様との婚約を破棄する。そして、呪術を用いた罪により、この国からの追放を命じる。――今すぐにだ」


 その言葉を聞いた瞬間。

 私の心の中で、張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れた。


 悲しみよりも先に訪れたのは、奇妙なほどの安堵だった。

 

(ああ……もう、縫わなくていいんだ)


 毎日、指に穴が開くほど針を刺し、視力が落ちるほど目を凝らし、自分の生命力を糸に変えて、この城を繋ぎ止めてきた。

 誰も褒めてはくれなかった。

 「陰気だ」「魔女だ」と石を投げられるだけだった。


 私は、作りかけのタペストリーにハサミを入れた。


「……なっ!?」


 殿下が息を呑む前で、私は最後の『結び目』を切り落とした。

 パラパラと、銀の糸が解けていく。


「承知いたしました、ライオネル殿下」


 私は深く、深く頭を下げた。

 これが、私がこの国で見せる最後の礼儀だ。


「私の愛が、あなた様には『呪い』としか映らなかったのなら……それは私の未熟さゆえでしょう。どうぞ、エミリ様と末長くお幸せに」


 私は道具箱ひとつだけを抱え、吹雪が吹き荒れる城の外へと足を踏み出した。


 背後で、城のどこかが「ミシミシ」と軋む音がした気がしたが、私は一度も振り返らなかった。



 国境の峠を越える頃には、足の感覚はなくなっていた。

 粗末なコート一枚では、北国の猛吹雪を防げるはずもない。

 睫毛が凍りつき、吐く息すら喉に張り付く。


(……ここで、終わりかしら)


 雪の中に膝をつく。

 薄れゆく意識の中で、私は懐から一枚のハンカチを取り出した。

 それは、私が唯一、誰のためでもなく、自分のためだけに縫ったものだ。


 漆黒の布地に、金糸で縫い取られた『竜』の紋章。

 隣国、ヴォルガード帝国の紋章だ。


 数年前、遠くから一度だけ見たことがあった。

 皇帝、アレクセイ・ヴォルガード。

 「冷血帝」と恐れられる彼は、外交の場で誰とも言葉を交わさず、ただ一人、バルコニーで月を見上げていた。

 その背中が、あまりにも寂しそうで、美しくて。

 

 誰にも理解されず、ただ責務だけを背負っているその姿が、自分と重なったのかもしれない。

 私は密かに、彼の無事を祈ってこのハンカチを縫った。

 渡すあてもない、ただの自己満足。私の唯一の「恋」の残骸。


「……あの方の国は、ここよりも寒いのね」


 ハンカチを頬に寄せる。

 金糸の冷たい感触が、熱を持った頬に心地よかった。


 視界が白く塗りつぶされていく。

 その白の中に、黒い影が現れた。


 幻覚だろうか。

 黒い馬に跨った、漆黒のマントの男。

 彼は私の前で馬を降りると、雪を踏みしめて近づいてきた。


「……こんなところで、何を」


 低い声。

 男の視線が、私の手の中にあるハンカチに釘付けになった。

 彼は驚愕に目を見開き、私の手からそれを拾い上げた。


「この紋章……。それに、この『縫い目』は……」


 彼は震える手でハンカチを握りしめると、私を抱き起こした。

 冷え切った体に、男の体温と、革の手袋の匂い、そして微かな鉄の匂いが包み込む。


「探していた。ずっと……」


 彼の金色の瞳が、潤んでいるように見えた。

 それが誰なのか認識する前に、私の意識は深い闇へと落ちていった。



 目が覚めると、そこは温かな暖炉の燃える部屋だった。

 ふかふかのベッド。最高級の羽毛布団。

 そして、ベッドの脇の椅子に座り、私の手を両手で包み込んでいる男性がいた。


 黒髪に、金色の瞳。

 アレクセイ・ヴォルガード皇帝陛下、その人だった。


「……気がついたか」


 彼は安堵の息を吐き、すぐに侍医を呼ぼうとした。

 私は慌ててその袖を掴む。


「あ、あの……陛下。なぜ、ここに」


「私が巡回中に君を見つけた。……いや、導かれたと言うべきか」


 彼はサイドテーブルに置かれた、あのハンカチを指差した。

 ボロボロで、血の滲んだ私のハンカチ。

 それが今、淡い金色の光を放っていた。


「君が縫い込んだ魔力が、私を呼んだのだ。……ソフィア嬢、と言ったな」


「はい……。なぜ私の名を?」


「知らぬはずがない」


 アレクセイ陛下は、少し照れくさそうに視線を逸らし、懐から「別のハンカチ」を取り出した。

 それは、数年前の外交パーティーで、私が匿名で彼に贈ったものだった。

 『どうか、安らかな眠りを』というメッセージカードを添えて。


「私は重度の不眠症だった。常に暗殺の気配に怯え、夢の中でも戦っていた。……だが、このハンカチを枕元に置いてから、嘘のように深く眠れるようになったのだ」


 陛下は愛おしそうに、その古いハンカチを撫でた。


「調べさせたよ。この国一番の魔力を持つ刺繍作家は誰かと。だが、王家は『そんな者はいない』と言い張った。まさか、あんな冷遇されていた令嬢が、その人だったとはな」


 陛下は私の手を取った。

 無数の刺し傷が残り、荒れてガサガサになった私の指先。

 殿下には「汚い」と罵られた手だ。


 陛下は、その一本一本に、敬意を込めるように口付けた。


「美しい手だ」


「……っ! 汚いです、やめてください……」


「いいや、美しい。これは、君が誰かを守るために戦い続けた証だ。剣士の傷と同じ、誇り高い勲章だ」


 熱いものが、目から溢れた。

 止まらなかった。

 誰かに認めてほしかったわけではない。ただ、誰かの役に立ちたかった。

 でも、本当は――。

 本当は、ただ一言、「痛かったね」と言って欲しかったのだ。


「我が国に来てくれないか、ソフィア。君を縫子として酷使するつもりはない。ただ、私のそばにいて、私のために笑っていてほしい」


 冷血帝と呼ばれた男の不器用な告白に、私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷いた。

 もう、血の滲む指で針を持つ必要はないのだと、凍りついた心が溶けていくのを感じた。



【一方、その頃の祖国】


 王宮の大広間では、ライオネル王太子とエミリが優雅にダンスを踊っていた――はずだった。


 バキィッ!!


 突然、巨大な音が響き渡った。

 ダンスホールの天井を支える巨大な柱の一本が、何の前触れもなく砕け散ったのだ。


「きゃああああ!」


 貴族たちが逃げ惑う中、異変はそれだけでは終わらなかった。

 玉座の背もたれが真っ二つに割れ、王太子のマントがボロボロに崩れ落ち、城壁のあちこちから「黒い瘴気」が噴き出し始めたのだ。


「な、なんだこれは!? 城が……崩れる!?」


 ライオネルは腰を抜かした。

 今まで城が保たれていたのは、建材が丈夫だったからではない。

 ソフィアが毎晩、城中のカーテンや絨毯、タペストリーに施していた『修復』と『結合』の刺繍魔術が、老朽化した城を無理やり繋ぎ止めていたのだ。


 彼女が去り、最後の『結び目』が解かれた今、魔法は解けた。

 長年蓄積された老朽化と、地下から湧き上がる瘴気が、一気に牙を剥いたのである。


「で、殿下! 見てください、あれを!」


 騎士団長が指差した先。

 ソフィアが縫っていたあのタペストリーがあった場所。

 そこに残された糸屑が、ひとりでに動き出し、文字を形作っていた。


『綻びは、もう繕えない』


 その文字を見た瞬間、王太子は理解した。

 自分が「薄気味悪い」と捨てた女が、この国の屋台骨そのものだったということを。


 数日後。

 屋根が崩落し、寒風吹きすさぶ廃墟となった王城に、隣国ヴォルガード帝国からの書状が届いた。


『我が国の至宝、ソフィア嬢の手を傷つけた罪、万死に値する。

 彼女の指先の傷が癒えるまで、貴国への物資支援および国境の警備を一切停止する』


 それは実質的な、国交断絶と滅亡の宣告だった。

 ライオネルは瓦礫の山となった玉座で、エミリに「あなたのせいでドレスが汚れたじゃない!」と罵られながら、ただ呆然と空を見上げるしかなかった。



【数ヶ月後 帝国】


 陽だまりのような暖かな部屋で、私は新しい刺繍をしていた。

 指先の傷はすっかり癒え、滑らかな肌に戻っている。


「ソフィア、休憩にしないか?」


 執務を終えたアレクセイ様が、部屋に入ってきた。

 その表情は、出会った頃の険しさが嘘のように穏やかだ。


「もう少しで終わりますわ、アレクセイ様」


「……何を縫っているんだ?」


 彼が後ろから覗き込む。

 私は少し恥ずかしくて、布を隠そうとしたけれど、間に合わなかった。


 そこには、可愛らしくデフォルメされた「小さな男の子」の服が縫われていた。

 まだ見ぬ、私たちの未来の子供のための産着。

 そこには、『健康』と『幸福』を願う、温かな魔力がたっぷりと込められていた。


「……気が早いな」


 アレクセイ様は耳まで赤くして、それでも嬉しそうに私を抱きしめた。


「ああ、待ち遠しい。君と私の子供なら、きっと世界一幸せな子になる」


 彼の胸に顔を埋める。

 鼓動が聞こえる。力強く、温かい音。


 かつて私の指は、崩れゆくものを必死に繋ぎ止めるために血を流していた。

 けれど今は、愛する人との未来を紡ぐために動いている。


 もう、指先は痛くない。

 ここにあるのは、ただ溢れんばかりの愛おしさだけだった。

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