深宇宙より
◆
プリンストン高等研究所。そのオフィスに設置されたディスプレイでは、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)から送られてくる膨大なデータストリームが、まるで宇宙の血管を流れる血液のように脈動していた。
このオフィスは宇宙物理学の世界的権威、ローエン・グリン博士にとって思考の聖域だ。
その名はアインシュタインやホーキングと並び称されることもある。髪はすっかり白くなっていたが、碧眼は今なお少年のように好奇心に満ちている。
「馬鹿げている……」
グリンはうっとりとした声で呟いた。
「だが、この一致は……あまりにも美しすぎる」
彼は首を振り、今日五杯目となるエスプレッソを一気に飲み干す。
彼が発見したのは、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)──ビッグバンの残響とも呼ばれる、宇宙最古の光に残された、奇妙な偏りだった。
これまでの宇宙論の常識は「宇宙原理」──つまり宇宙というキャンバスは、どの方向を見ても同じ色で均一に塗られているはずだ、というものだった。
だが、JWSTの比類なき解像度はその均一性という名の絵の具が乾く間際に、巨大な何かがゆっくりとかき混ぜたような壮大な渦の痕跡を暴き出したのだ。それは局所的な銀河団の動きやダークエネルギーの影響では説明がつかない、宇宙全体を包み込む巨大な流れであった。
まるで宇宙そのものが、より巨大な構造物の中でゆっくりと回転しているかのようだった。コーヒーカップの中のクリームが、スプーンで静かにかき混ぜられているかのように。
さらにグリンを戦慄させたのは、別の研究チームからもたらされた観測可能な宇宙の質量と半径に関する最新の推定値だった。
その数値は恐ろしい偶然を示していた。
「シュヴァルツシルト半径……」
観測可能な宇宙の全質量を一点に凝縮したと仮定した場合に生まれるブラックホールの境界線──光さえ脱出できなくなる穴の直径が、現在の観測可能な宇宙の半径と不気味なほどの精度で一致していた。
まるでこの宇宙という部屋の大きさが、この部屋にある全てのモノを詰め込んでブラックホールにした時の限界サイズとあつらえたようにピッタリ同じだったのだ。
要するにどういう事? という向きもあるだろう、それはつまりこういう事だ。
──我々は、ブラックホールの中にいるのか?
常軌を逸した考えではあった。もしそうなら人類はとうの昔に中心の特異点に引きずり込まれ、圧壊している。
だがグリンの計算は、もしそのブラックホールが我々の認識する三次元空間を超えた超高次元の存在──要するに、紙に描かれた円(二次元)が、実はボール(三次元)の表面だったというようなものであれば、内部での安定した宇宙の存在は理論的に可能であることを示唆していた。
しかしCMBの対流パターンは静的なブラックホールモデルでは説明がつかない。つまり、何かがこの宇宙をかき混ぜている。
数週間にわたる不眠不休の解析の末、グリンは一つの仮説に辿り着いた。
それは彼自身、口にするのをためらうほど突飛なものだった。
彼はそれを「宇宙卵仮説(Cosmic Egg Hypothesis)」と名付けた。
◆
オンラインで開催された緊急の国際宇宙物理学会議。世界中から接続した数千人の科学者たちが、息を呑んで彼の発表を待っていた。グリンは憔悴しきった顔でカメラの前に立った。
「……我々は、自らの存在基盤を再定義しなければなりません。我々の宇宙は無限に広がる解放された空間ではない。それは、より巨大な我々の想像を絶するスケールの構造物の中に内包されているのです」
グリンは一呼吸置き、スクリーンにCMBの対流パターンと、それに重ね合わせた自身のモデル図を表示した。
「私が考えるに、最も近いアナロジーは……卵です。とてつもなく巨大な卵。我々の宇宙はその卵の内部、例えば卵黄のようなものかもしれません。そして観測された宇宙全体の回転運動は、この卵が外部から何らかの力を受けている証拠、あるいは内部で何かが成熟しつつある兆候なのかもしれない」
会議は紛糾した。
「ローエン、君は疲れているのだ」
「まるで神話の世界だ」
そんな風に嘲笑する者もいた。だが、提示されたデータの完璧な一致の前には誰もが沈黙せるを得なかった。
「宇宙卵仮説」は科学界の枠を超え、瞬く間に世界中を駆け巡った。
メディアはセンセーショナルに書き立てた。
「人類は巨大な卵の中で飼われている!」
「宇宙の終わりは『孵化』の時か?」
人々は夜空を見上げる時、星々の輝きが以前とは違って見えるようになった。
あれは本当に無限の宇宙なのか、それとも固く閉ざされた殻の内側に反射した光なのか。
グリン自身、仮説の提唱者でありながらその意味するところに慄いていた。
もしこの仮説が正しいなら、この卵を産み落とした親がいるのか。
そして、この卵が孵化する日は来るのか。
そんな妄想ともつかない想像を、グリンのみならず多くの人々が頭に浮かべた時。
深淵の向こう側から最初の呼び声が届いた。
◆
カリフォルニア州、ゴールドストーン深宇宙通信施設。
広大なモハーヴェ砂漠に巨大なパラボラアンテナ群が夜空に向けて鎮座している。
深宇宙ネットワーク(DSN)の通信技術者デビッド・チェンは、その日、歴史の証人となろうとしていた。
彼の仕事は太陽系の果てを旅する探査機たちとの交信を維持することだ。
特に1977年に打ち上げられ、すでに太陽圏を脱出して星間空間を航行している老兵、ボイジャー2号からの信号は年々微弱になっていた。
信号が途絶えるのも時間の問題だ、誰もがそう思っていた矢先である。
異変はボイジャー2号からのデータの中に奇妙な干渉パターンが混入していることから始まった。
「何だこれは? 宇宙線によるエラーにしては規則的すぎる」
デビッドはスペクトラムアナライザの波形を拡大した。それは自然界のノイズとは明らかに異なり、意図的な構造を持っていた。彼はすぐに他のDSN施設に連絡を取り、信号の検証を依頼。
数時間後、回答が来た。
信号は確かに存在し、その発信源はボイジャー2号の進行方向のさらに先──深宇宙のどこかであることが示唆された。
未知の地球外知的生命体からのメッセージの可能性。
その事実はNASA内部を興奮と緊張の渦に巻き込んだ。
暗号解読チームと言語学の専門家が召集され、極秘裏に解析が開始された。
ローエン・グリン博士も、そのチームに加わった。
信号は断片的で激しいノイズに塗れていた。それはデジタルデータではなく、音声をそのまま変調した原始的なアナログ信号のように思われた。デビッドはAIを用いたノイズ除去アルゴリズムを駆使し、信号の奥に隠された音声を抽出しようと試みる。
そして数週間の試行錯誤の末、彼はついにその音声を復元した。
ペンタゴンの地下深くにある防音会議室で、その音声が再生された。
スピーカーから流れてきたのは、低く、唸るような、それでいて奇妙に抑揚のある音だった。
ザーッというノイズの嵐の中で、その声が繰り返される。
『……ソトニ……デルナ……』
会議室にいた全員が息を呑んだ。
掠れた、合成音声のような響き。
だが、それは意味のある言葉だった。
──外に出るな
たったそれだけ。
それが深宇宙から届いた、人類への最初のメッセージだった。
人類が夢見ていたような友好的な挨拶ではない。
それは、まさに警告だった。
「『外に、出るな』……これはどう解釈すべきか?」
国防長官が、険しい表情でグリンに問いかけた。
「タイミングが良すぎます」
グリンは静かに言った。
「私が『宇宙卵仮説』を提唱し、人類がこの宇宙の閉鎖性に気づき始めたこの時期にこのメッセージが届いた。偶然ではないでしょう」
グリンは続けた。
「もし我々の宇宙が卵だとしたら、このメッセージは文字通りの意味です。殻を破って外に出ようとするな、と。雛が十分に成長する前に外に出れば、生きてはいけない。あるいは──」
彼は言葉を選んだ。
「外で待ち構えている何かが、我々が出てくるのを望んでいないのかもしれない。親鳥が雛を守るために警告している──と考えるのはいささか楽観的に過ぎるでしょうね」
警告か、慈悲か。
発信源も意図も謎に包まれていた。
この事実は最高機密とされたが情報はすぐに漏洩し、世界中をパニックと興奮の坩堝に陥れる。
内容は不気味だ。
ならば人類は縮こまり、その声に従ったのか──否。
人類の探求心が恐怖に屈することはなかった。むしろ、この謎のメッセージは人々の好奇心に火をつけた。もし「外」に出るなと言うのなら、なぜそうなのかを確かめなければならない。この世界が、宇宙が卵だというのならば、殻の外を直接この目で見なければならない。
恐怖は傲慢さによって容易に塗り替えられた。
各国は競って新たな深宇宙探査機の開発を加速させ、新たな宇宙開発競争が勃発した。
その先陣を切ることになったのは、意外にもかつての技術大国、日本であった。
日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、長年の技術開発の成果として、新型の核融合パルス推進エンジンを完成させていた。
それを搭載した深宇宙探査機「オオタカ(OHTAKA)」。
他国を圧倒する性能で最初に完成し、全人類の希望を一身に背負うこととなったその目的は無論未知の信号の発信源を探ることだった。
深淵からの警告は皮肉にも人類を深淵へと駆り立てる起爆剤となったのだ。
◆
種子島宇宙センターは、かつてないほどの熱気に包まれていた。新型のH3ロケットがその純白の機体を南国の太陽に輝かせ、発射台に鎮座している。
その先端には人類の希望と野心を象徴する探査機「オオタカ」が格納されていた。
JAXAのプロジェクトマネージャー、佐伯健一郎は管制室の最前列でコンソールを睨みつけていた。
「佐伯さん、いよいよですね」
隣に座る若手のエンジニア、伊藤理沙が興奮を隠しきれない様子で話しかける。
彼女は「オオタカ」の姿勢制御システム担当だ。
「ああ。さすがに緊張するな」
佐伯は小さく笑みを浮かべながら短く答えた。
でも、理沙が続ける。
「本当に行くべきなのでしょうか。あの警告を無視して……」
不安そうな理沙に、佐伯は深くうなずいて答える。
「行かねばならないんだよ、伊藤君」
まるで自分に言い聞かせるような口調だった。
「もし本当に我々を閉じ込めようとする何かがいるのなら、その正体を見極めなければ。いつの時代も、そんな好奇心が人類全体の推進力となっていたはずだ」
そうして打ち上げの日。
世界中がこの歴史的瞬間を固唾を飲んで見守っていた。
プリンストンのローエン・グリン博士もNASAの要請でコメンテーターとして参加していたが、何か思う所があるのか表情は硬い。
『……Tマイナス10、9、8、7……メインエンジン点火……3、2、1、リフトオフ!』
大地を揺るがす轟音と共に、ロケットは力強く上昇を開始し、蒼穹を一直線に切り裂いていく。
「完璧な打ち上げだ!」
管制室に歓声が沸き起こる。
ロケットは順調に高度を上げ、第一段、第二段と分離を成功させていく。
そして高度100キロメートル、宇宙と大気圏の境界であるカーマン・ラインを超えた。
『現在高度150キロメートル。軌道正常。まもなくフェアリング分離に入ります』
誰もが成功を信じて疑わなかった。
このまま行けば、「オオタカ」は深宇宙への長い旅路につくだろう。
高度160キロメートル──その瞬間だった。
「何だ? テレメトリ異常! 速度が急激に低下しています!」
オペレーターの叫び声に佐伯は弾かれたようにモニターを見た。速度計の数値が急速に減少していく。
「エンジン出力低下か!?」
「いえ、エンジンは正常! しかし、機体が……進んでいません! 速度が……ゼロに!?」
そんな馬鹿な。
映像モニターに映し出されたH3ロケットは、まるで見えない壁に衝突したかのように中空でぴたりと動きを止めていた。
エンジンは最大出力で炎を噴き出しているにも関わらず、機体は完全に静止している。
物理法則を無視した悪夢のような光景だった。
不具合で爆発なら分かる──断じて歓迎はしないが。
整備不良でそもそも発射できなかった、というのも分かる。
だがこれは。
「一体何が……」
佐伯は呆然と呟いた。
プリンストンのスタジオでグリンは目を見開いていた。
次の瞬間、さらに信じがたい光景が展開された。
静止していたH3ロケットの機体がゆっくりと歪み始めた。
まるで空に潜む巨大な何者かがその掌で玩具を握り潰そうとしているかのように。
強固なはずのチタン合金製の機体が飴細工のように捻じ曲がり、圧縮されていく。
「機体構造に限界荷重! 圧壊します!」オペレーターが絶叫する。
そして、限界点を超えた機体は──
ぐしゃり
と、そんな音が聞こえるかのように破砕した。
爆発ではない。衝突でもない。
ただ純粋な圧力によって、人類の希望の象徴が握り潰されたのだ。
種子島の管制室は水を打ったように静まり返った。
佐伯は目の前の光景が信じられず、ただ呆然とスクリーンを見つめている。
理沙も同様だ。
誰一人として、何が起こったのかを理解できている者などいなかった。
◆
「オオタカ」の喪失は世界に計り知れない衝撃を与えた。
同時に「宇宙卵仮説」が、恐ろしい現実味を帯び始める。
──我々は本当に、閉じ込められているのだ
そんな話がそこかしこで囁かれた。
失意と混乱が世界を覆う中、「オオタカ」の破壊から数日後、デビッド・チェンは再びあの深宇宙からの信号を受信した。
二度目のメッセージ。
彼は緊張した面持ちで解析結果を待った。
そしてスピーカーから流れてきた言葉に、耳を疑う。
『……マテ……』
ノイズの中に響く、低く唸るような声。
今度はたった一つの単語だった。
──「待て(Wait)」
それはさらなる行動を制止する明確な命令だった。
では人類は待ったのか? ──否。
人類は待たなかった。
恐怖が怒りと反抗心へと変わりつつあったからだ。
「待てと言われて待つわけにはいかない!」
米国は自国の威信をかけてこの蓋に挑戦することを決定。次世代ロケット「SLS」の打ち上げを前倒しした。それに触発され、ロシアや中国も次々とロケットを打ち上げた。あるものは探査機を、あるものは武装した衛星を、そしてあるものは壁を破壊するための核弾頭すら搭載していた。
しかし、結果はすべて同じだった。
ケープカナベラルから打ち上げられたSLSも、バイコヌールから発射されたソユーズも、例外なく高度160キロで静止し、ぐしゃりと圧壊した。核弾頭ですら起爆する前に握り潰された。
人類は数十回にわたる試みの末、ついに認めざるを得なかった。
──我々は地球という揺りかごに完全に閉じ込められているのだ
と。
そして米国が七度目のSLS打ち上げに失敗した時、三度目の信号が届いた。
『……リカイ、セヨ……』
「理解せよ(Understand)」。
デビッド・チェンは、この言葉の持つ冷酷な響きに戦慄した。
まるで何度言っても分からない子供を諭す親のような、圧倒的な上位者の視点を感じたからだ。
「何を理解しろというのだ! 我々が無力であるという事実をか!」
人々の怒りと無力感が広がる中、未知なる存在からの「懲罰」は、ロケットだけに留まらなくなった。
異変は、ロンドン・ヒースロー空港から始まった。
ニューヨーク行きのボーイング787型機が離陸し、機首を上げた瞬間だった。
高度約300メートル。突如、機体は空中で静止した。
乗客たちが何が起こったのか理解する間もなく、機体は「オオタカ」と同じ運命を辿った。
ぐしゃり
巨大な旅客機がまるでアルミ缶のように握り潰され、滑走路に墜落した。
この惨劇はパリ、北京、シドニー、ロサンゼルスと世界中の空港で同時多発的に発生した。
軍用機も、民間機も、空を飛ぶあらゆる人工物が標的となった。
わずか数時間の間に数十万人の命が失われ、人類は「空」を完全に奪われたのだ。
当然のごとく世界はパニックに陥った。
航空網は寸断され、物流は停止し、国境は閉ざされた。
「『理解、セヨ』……。あのメッセージの意味が、ようやく分かりました」
オンライン会議でグリンは絶望的に語った。
「ロケットの打ち上げは彼らにとって『ルール違反』だった。だから罰を与えた。だが我々は理解せず、違反を繰り返した。だから罰のレベルを引き上げたのです。空全体を封鎖するという形で。我々がこの檻の住人であることを徹底的に理解させるために」
そうして人々は空を見上げることを恐れるようになった。
そこには常に見えない断頭台が待ち構えているのだ。幸いにも船舶に影響はなく、海は人類に残された最後のフロンティアとなった。
まあ人間はよくも悪くも慣れる生き物である。
人々もこの不便で閉塞感のある生活に少しずつ慣れていったが、その心には常に拭い去れない恐怖と無力感が巣食っていた。
◆
空を失ってから三年。
世界はしっかりと様変わりしていた。
空港は閉鎖され、広大な滑走路は雑草に覆われた。
経済のグローバル化は終焉を迎え、物理的な断絶は文化的な断絶をも生み出した。
JAXAの佐伯健一郎は職を失い、故郷の漁村で漁師として働いていた。
そんな生活の最中にも、佐伯は毎晩浜辺で満天の星空を見上げる。
天空にはかつて彼が目指した場所が燦然と煌めいていた。
だが、今は決して届かない場所だ。
プリンストンのローエン・グリン博士は、依然として研究を続けていた。
檻の作動原理は謎のままだったが、唯一分かったことはそれが極めて精密に、人類の「急速な大気圏内移動」と「宇宙への脱出」という行為そのものを標的にしているということだった。
ただ、それ以上はグリン博士を以てしてもわからない。
何か──そう、何かとてつもなく恐ろしい真実に手が届きかけているという感覚はある。
しかし、あと一歩、何かが足りなかった。
それから更に半年後。
運命の日が訪れる。
人類が空を失ってから、ちょうど三年と六ヶ月が経った日だった。
NASAのデビッド・チェンは、もはや習慣となっていたボイジャー2号からのデータチェックを行っていた。
すると──
その日、スペクトラムアナライザの波形が久々にあの特徴的なパターンを示したではないか。
三年半ぶりの四度目の信号受信。
デビッドは震える手で解析ソフトを起動し、ノイズの中からその言葉を抽出する。
スピーカーから流れてきたのは、たった一言だった。
『……トキ……』
──時(Time)
この信号は直ちに世界中に報告されたが、人類は困惑した。
何の時なのか?
その答えは驚くほどすぐに分かった。
信号受信の翌日、中国のゴビ砂漠で秘密裏に開発されていた新型無人飛行機のテスト飛行が行われたのだ。
無人機はカタパルトから射出され静かに空へと舞い上がった。
開発チームは固唾を飲んでモニターを見守る。
機体は順調に高度を上げていき──。
これまでの実験で必ず破壊されていた高度を超えた。
1000メートル、5000メートル、そして1万メートル……。
それでも機体は破壊されない。
無人機は青空の中を自由に飛行していた。
このニュースは瞬く間に世界中を駆け巡る。
人類から唐突に奪われた空が、奪われた時と同じ様に唐突に帰ってきたのだ。
◆
中国の無人機の成功は停滞していた世界に希望の光をもたらした。
「檻」が解除されたのだ。
世界各国で同様の実験が行われ、成功が続く。まるで、あの三年半の悪夢が嘘だったかのように飛行機は再び空を飛ぶことができるようになった。
人類は歓喜に沸き、分断されていた世界が再び繋がり始めた。
「『時』というメッセージは、解放の時を意味していたのだ!」
そんな楽観的な見方が広がった。
あの未知なる存在は、我々を罰していたのではなく、試していたのだ、と。
ローエン・グリン博士はしかし、この急展開に深い困惑とそれ以上の危機感を覚えていた。
「なぜ今なのか? なぜ突然檻を解除したのか? 我々は何も変わっていない。相変わらず無知で傲慢だ」
彼はこの解放には裏があるのではないかと疑っていた。
それはまるで、屠殺場へ向かう家畜の群れに最後の晩餐が与えられたかのようなそんな不吉な予感がした。
だが残念ながら、彼の警告に耳を傾ける者はいなかった。
そして、人類の楽観論は次の段階へと進む。
「空が許可されたのなら、ロケットの発射も『許可』されたのではないか」
そう考えたのは、三年前の失敗で威信を失墜した米国だった。
NASAは、中断していたSLSロケットの打ち上げ計画を再開。
今度のミッションは人類が再び宇宙を目指す象徴として「リバティ(自由)」と名付けられた。
打ち上げ計画は性急に進められる。
グリン博士をはじめとする一部の科学者からの慎重論は熱狂する世論によって黙殺された。
「我々は三年も待った。今こそ、人類の自由を宇宙に示す時だ!」
ロナルド・スランプ大統領は自信満々にそう宣言した。
そして再び訪れた打ち上げの日。
ケープカナベラルには三年前とは比べ物にならないほどの熱気が溢れていた。
『……リフトオフ!』
SLSロケット「リバティ」は、凄まじい轟音と共に空高く舞い上がる。
そして、運命の高度160キロに到達した。
また圧壊してしまうのではないか──そんな不安を抱きながら、人類は固唾をのんで見守る。
だが、何も起こらなかった。
ロケットはまるでそこに何もなかったかのように、その境界線を通過した。
「デッドラインを突破したぞ! リバティは自由だ!」
管制室に大歓声が沸き起こり、世界中が歓喜に包まれた。ついに、人類は檻から解放されたのだと。
そうして「リバティ」は地球周回軌道に乗り、さらに深宇宙へ。
グリン博士は自宅でその中継映像を眺めていたが、彼の心には依然として拭い去れない不安があった。
「なぜだ? なぜ我々は外に出ることを許されたのだ?」
頭に浮かぶのは「宇宙卵仮説」である。
もし人類が卵の中にいるとしたら、外に出ることを許されるのはどんな時か?
孵化の時──そう考えるのが自然だろう。
しかし、グリン博士は何かを見落としている様な気がしてならなかった。
──なんだ、私は何を見落としている
考えても考えても答えはでない。
「卵を見て、私ならどう思う? 何を考える?」
嗚呼、とグリン博士は仰ぐ様にして天井を見た。
自分が何か、酷く単純で悍ましい真実へと近づいているような気がして。
◆
打ち上げから数週間後。
「リバティ」は太陽系の最外縁、冥王星の軌道を超えようとしていた。
だが。
「長官! リバティからのテレメトリが途絶えました!」
NASAの管制室に緊張が走る。最後の瞬間、「リバティ」が送信してきたデータは探査機の周囲の空間が、急速に歪曲していく様子を示していた。
人類が送り出した最後の希望は再び沈黙したのだ。
だが今回はそれだけでは終わらなかった。
「リバティ」の信号が途絶えた直後、それは起こった。
一言で言えば──暗くなった。
まるで誰かが宇宙のスイッチを切ったかのように。
太陽が急に消滅したかのように。
それは夜の闇とは全く異なる光が一切存在しない虚無の闇だった。
驚くべきことに、世界中が同時に闇に包まれたのだ。
星の光さえも届かない。
まるで宇宙全体が光を吸収する黒い布で覆われてしまったかのような。
幸いにも人工の光までもが失われたわけではない。少なくとも電気が通っている地域では生活が全くできないという事はない。
だがそれでも異常事態だ。
朝も昼も昼も、空は漆黒の闇に覆われている。
グリン博士は自宅の窓から外を見たが、何も見えなかったし何もわからなかった。
彼がこれまで見てきた中で最も深い闇が空一面に広がっている。
ぽかんと口を開け、空を眺めるグリン博士は──はっ、としたように口元を手でおさえてワナワナと震え始めた。
「まさか、これは」
◆
絶対的な闇が世界を覆ってか24時間。気温などには変化はない。
人類は段々と落ち着きを取り戻しつつあった。
結局のところ、朝と昼が夜になってしまったというだけの話なのだ。
もちろん由々しき事態であることには変わりはないが。
グリン博士は、プリンストン高等研究所の地下深くにある観測室に籠もっていた。
彼の目の前の重力波検出器が捉えたデータは彼を戦慄させた。
「重力場に歪みがある。まるで宇宙という巨大なゴム毬の上に、外からとてつもなく重い何かが乗せられ、毬全体が潰れつつあるような──」
グリン博士はかすれた声で呟いた。
彼の計算が正しければ、宇宙の曲率が急速に変化しているということだ。
これまでの出来事を振り返るグリン博士──宇宙卵仮説。深宇宙からの警告。偽りの解放。
それらすべてが繋がった時、グリン博士は乾いた笑いを漏らした。
「そうか……そういうことだったのか」
グリン博士は再び重力波のデータを見た。
宇宙全体を包み込むような巨大な質量の接近。
そして周期的な変動。
かちり、かちりと音がなる。
それはグリン博士の歯が打ち合わされている音だ。
恐怖で震えているわけではない。
ただ、確認をしている。
重力波の波形と似通ったリズムであることを。
「我々は今、どこにいるのだ……」
かちり、かちり、かちり。
考えれば考えるほどに、信じたくない、受け入れたくない真実へと近づいて行っているのをグリン博士は認めざるを得なかった。
「いや、私には答えが分かっている」
かちり。
グリン博士は大きな大きな、美味しそうな卵焼きを想像した。
黄金色に輝き、ふっくらと焼き上がった、完璧な卵焼き。バターの香ばしい匂いが漂ってくるような。
それが、彼の最期の思考であった。
それ以上は何も考えられなくなったのだ。
彼だけではない。
漁師として凍てつく海に出ていた佐伯健一も。
NASAの管制室で最後までデータを分析していたデビッド・チェンも。
街角で暴動を起こしていた者も、地下シェルターで震えていた子供も。
世界中の、地球上のありとあらゆる生物が何も考えられなくなった。
なぜなら──
がぶり
むしゃ、むしゃ
(了)
本作は
YouTube動画
①「ボイジャー2号の最終通信が「我々全員の恐れていたこと」を証明──しかも“太陽系内部に潜む知性体”の存在まで浮上!」
②【やっぱり】私たちの宇宙はブラックホールの中にある?最強望遠鏡が見つけた宇宙の真実がヤバい【ゆっくり解説】
の二本の動画を観た際にインスピレーションを得て執筆しました。




