顔に傷を負わせた令嬢に下僕にされた話。
「1年C組、凪原司くん。あなたは今日から私の下僕よ。異論は認めないわ」
桜が彩る高等部の入学式、新入生代表として登壇した和泉まほらは、代表挨拶を終えると全校生徒の前で高らかに宣言した。教師を含む、体育館に集まる全員がどよめく中、俺は一人ひきつった笑いを浮かべた。
「……了解、女王陛下」
冗談でも、悪ふざけでもない。俺たちはいたって大まじめだ。
こうして、俺とまほらの高校生活は幕を開けた。
だが、それがどれほど重い“始まり”だったのか――それを語るには、少し時間を戻さなければならない。
◇◇◇
「なぁ、爺ちゃんって偉いの?」
「おう、エロイぞ」
「……あれ?ボケちゃった?」
「じゃが、ワシはばあさん一筋じゃからのう。その二律背反によるジレンマが――」
「はいはい、そうですか。人がせっかく真面目に聞いてるのに」
――高等部の入学式から遡る事二年前の十二月、凪原司・当時中学二年。
こたつを囲んだ俺がムッとして口を噤むと、爺ちゃんは茶化した事を反省した様子で、一度ゴホンと咳ばらいをしてから質問に答えてくれた。
「偉いぞ。ワシらの世界では、と但し書きは付くがの」
難しい話は分からないが、話によると爺ちゃんは神社関係のお偉いさんらしい。そして、初耳だったんだけど神社って実はコンビニの数より多いらしい。
とにかく、俺は聞きたかった答えが聞けて一安心。気になったのは、『二人の家の差』だ。俺には気になっている女子がいる。仕事の関係で何度かうちを訪れて、次第に仲良くなっていった。和泉まほら、代々続く政治家家系の一人娘だ。
何度か親に連れられてうちに来たことがあるので、まほらの事はじいちゃんも知っている。俺の表情をみて何を考えたのか、じいちゃんは茶をすすりながら感慨深げに呟いた。
「恋、じゃのう」
「は?ちげーから」
白い目を向けて否定するが、爺ちゃんは構わず言葉を続けてくる。
「愛、かのう……」
「だからちげーって言ってんだろ、くそ爺!」
「じゃあなんじゃ?」
爺ちゃんは無駄に得意げな顔で俺に答えを求める。
「……わっかんねーよ、そんなの」
この当時の俺にはこの気持ちの正体はまだわからなかった。まほらの事を考えると、胸の真ん中がぎゅっと掴まれるような錯覚を覚える妙な感覚。その感情の名前を、この時の俺はまだ知らなかった。
「あーあ、爺ちゃんがうるせーから部屋に戻ろっと」
こたつを離れて部屋に戻ろうとすると、買ってもらったばっかのスマホにピロンとメッセージが届く。送り主はまほらだ。
『明日暇?』と三文字のメッセージ。たった三文字で、なんでこんなに胸が躍るのだろう?
――翌日。
まほらの家とうちは電車で15分の距離。呼び出しに応じてまほらの最寄り駅での待ち合わせだ。黒く長い髪を後ろで束ね、スラリとした長身。子供の俺から見ても高級と分かる茶色いコートを羽織っている。 誰がどう見ても良家のお嬢様。まほらは、整った顔で申し訳なさそうに微笑む。
「司くん、おはよう。ごめんね、日曜日なのに急に呼んじゃって」
「まーね。デートの予定があったけど、キャンセルしたよ」
「でぇと!?」
勿論ただのウソ。だけど、効果は抜群だった。
まほらは、むっと頬を膨らませつつ、泣いていいのか怒っていいのかわからない様子で俺を見る。わざわざ休日に二人で待ち合わせるくらいには仲がいい。けれど、付き合っている訳ではない。だから本来怒る筋合いはないことなんて、頭の回転が速いまほらには0.05秒でわかるだろう。――けれど、感情は理屈ではない。
まほらの表情を見ていると、なんだか急にとてつもなく悪い事をしてしまった気になり、瞬時に種明かしをする。
「あ、ごめん。嘘。全然嘘。真っ赤なウソだから。レッド・ライ。ははは……」
それを聞いて一瞬でまほらに笑顔が戻る。
「ですよねぇ!?嘘に決まってるよね!最初からそうだと思ってたの。もうっ、そんなの引っかかる訳ないじゃない。そーんな、バレバレのウソ!」
ニッコリと満面の笑顔で俺の目の前にピッと人差し指を一本向ける。
「ちなみに、真っ赤な嘘は英語だと『a blatant lie』ね♪」
上機嫌なまほらと対照的に俺の胸には言葉のナイフがぐさぐさと無数に刺さり、もはや黒ひげ危機一髪状態。
「……俺、そんなにモテなそ?」
その言葉でまほらは自身の言葉のナイフに気が付いて慌てて弁解を始める。
「うあっ!?ち、違いますよ?そういう意味じゃなくて、ほら!いい意味!いい意味でだから!」
「あ、あぁ!いい意味ね。なら……ん?」
いい意味で?
待ち合わせてから既に10分は経過したが、俺たち二人は未だ駅前にいた。
「と、取り合えずどっか行く?」
全力で照れを内心に押し込めて、平静を装いつつ提案する。
「えっと。今日は司くんに見てほしいところがあって、呼んだの」
「見てほしいところ?」
不思議なもので、たったそれだけの事で嬉しくなってしまう。
まほらが言うには、そこは駅から歩いて10分ほどの距離にあるようだ。
「私たち、来年は三年生でしょう?そして、その次は高校生。それで、思ったの」
目的地に近づくに連れて、まほらの気持ちが高揚してくるのが伝わってくる。時は十二月。吐く息は白く、時折コートの肩が触れて互いに照れ笑いで謝る。
角を曲がると、そこには学校があった。俺の通う普通の公立中学校とは全く違う、外敵を阻むような壁と白い門。その奥に見える西洋の城を思わせる校舎。一目で名門とわかるその学校は、私立鴻鵠館学園と言った。
「……同じ学校に通えたら、素敵だなぁ……って思って」
両手を身体の前に合わせ、顔を真っ赤にしながらまほらはそう言った。
多分、俺の顔もすでに真っ赤だった。
「んじゃ、そうしよっかな」
真っ赤な顔で素っ気なく答える。『本当!?』と喜び満面を現したまほらを見て、名前のなかったその感情の名がわかった気がした――。
◇◇◇
「じいちゃーん、俺高校私立受けていい?」
帰宅してすぐに爺ちゃんに聞いてみる。俺は今中学二年。どこの高校に行くかなんて考えてもいなかった。
「んお?そりゃもちろん構わんぞ。お前一人私立に送るくらいの蓄えはあるわい。年金もあるしのう。で、どこかいい学校を見つけたんか?どこかのう」
高校名なんだっけ?こたつの天板に頬を乗せつつ、学校名を思い出す。確か――。
「んー、こうこくかん?」
その名を聞いて爺ちゃんはお茶を盛大に噴き出す。
「こーこくかんっ!」
「うわ、何だよ急に。自分で拭けよな」
何度かゴホゴホとむせながら、爺ちゃんは何やら疑いの目を俺に向けてくる。
――彼の中で点と点はつながった。私立鴻鵠館学園は一貫校であり、初等部・中等部の内部入学が9割を占め、一般入試の外部受験は偏差値70を超える超難関。そして、孫は昨日『じいちゃんって偉い?』と聞いてきた。そこから導き出される答えは一つ――。
「……ばあさん、美琴。まさか司が裏口入学をせがんでくるとは、……育て方間違ったかのう、やっぱりジジイ一人じゃ無理じゃったのか」
家が神社であることから、彼らの家には仏壇はなく、祖霊舎(仏教で言う所の仏壇)に手を合わせて孫の悪行を嘆く。美琴とは、典善の娘であり凪原の母。数年前に病で他界している。
「裏口入学!?どっから出てきたその単語。爺ちゃんが聞いたから答えただけだろ!?」
突拍子もない言葉に慌てて弁明をするが、爺ちゃんはまだ祖霊舎に手を合わせたまま、まだ疑い半分の視線で俺を見る。
「……裏口入学では、ないと?」
「決まってんだろ。いくら何でもそんなズルしねーよ」
それを聞いてようやく爺ちゃんは安心した様子で大きく息を吐く。
「じゃよね~。寿命縮まったぞ。ま、ワシは最初っからお前を信じとったけどな」
「どの口が言った?」
白い目を向けて抗議を示す。
一旦お茶を淹れなおして、話は仕切り直し。
「まぁ、お前がチラチラとまほらちゃんからの連絡を待っとるそのスマホで調べりゃわかることじゃが――」
「見てねーよ」
なんですぐに余計な茶々を挟むのか。
「まず、高等部の一般入試は偏差値70越え。学費等掛かるお金は三年間で800万超。国内有数の難関校であり、名門校じゃ」
「……まじか」
門を見た感じから明らかに名門校とは思っていた。偏差値70ってのは、よくわかんないがすごい事なんだろう。俺のテストの成績は中の下。偏差値ってやつはいくつくらいなんだろう?
「金の方はまぁちゃんと貯めとるんで心配はするな。他に自分の学力にあった学校だったらどこでも好きなところを――」
「いや」
俺は爺ちゃんの言葉を遮って、スマホの画面に映る高校を見つめる。見つめたのはきっと、俺とまほらがそこに通う未来。
「もう行くって言ったから。俺、嘘つきにはなりたくないから」
「ほっ」
爺ちゃんは嬉しそうに笑うと、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべた。
「残り一年でどうにかなるのか?」
俺はコクリと頷く。
「あと一年もあるんだろ。死ぬ気でやって見せる」
「よし、ならばワシの財布も火を噴くぞい」
――凪原の言葉に偽りはなかった。一般的な公立中学校でさえ、凪原の成績は中の下程度だった。真面目と言うほどではないが、不真面目でも決してなく、要領の良さは持ち合わせるものの、それは手を抜く方向にのみ発揮される事が多かった。若者の多くにあるように、勉強をする事に意味を見いだせず、何のために頑張るのかわからなかった。
でも、今は違う。まほらと同じ学校に行く。確固として明確な目的がある。傍から見たら軽薄でバカみたいな理由。それでも、あのまほらの嬉しそうな笑顔は、俺の心に熱く火を灯した。まだ名前のない感情は、激しく燃える。2学期の期末テストは、学年180人中108番だった。
朝起きる時間が1時間早くなった。眠る時間が2時間遅くなった。毎日、昨日より成果が出ている事を実感して、勉強が楽しくなってきた。3学期の期末テストは180人中49番だった。
そして、中学三年に進級。季節は春。タイムリミットは、残り9か月。
「司くん、そこ間違ってる」
「まじか。つか一瞬で見つけるのすごいな」
「ふふん、まぁね」
まほらは得意げに笑う。
俺とまほらは時折一緒に勉強をしている。それ以外でも家でビデオ通話を用いて一緒に勉強をしたりしている。今まで勉強をする習慣がなかったけど、まほらの教え方が良いのかだんだんと分かるようになってきた。正直言って、少し楽しい。
茶道や、華道、ピアノ、舞踊。この頃のまほらはたくさんの習い事を行っていた。それでいて成績は当然のように学年1位だ。俺と同じ公立ではない。名門・鴻鵠館中等部で、だ。
忙しいだろうに、まほらは時間を縫って、俺と一緒に勉強をしてくれた。普通の中学生の様に、放課後の図書館で机を並べて、二人でペンを走らせる。
ある日、まほらが消しゴムを取ろうと伸ばした手が俺の手に触れる。
「手」
俺がジッと眉を寄せて照れ隠しに苦言を呈すると、まほらはクスリと笑う。
「うん」
もう一度、『手』と呟く。静寂が基本の図書館の中でギリギリ許容される範囲の、会話と言えないやり取り。まほらは嬉しそうに微笑む。
「手、だね」
嬉しそうに呟いた、そのたった一文字のその言葉は、こんなにも俺たち二人の心を揺らす。
俺も、まほらも、互いへの感情を口に出した事は無い。――でも、きっとこの頃にはもうわかっていた。
かつて名前のなかった感情。その正体がようやくわかった。4か月の間、二人で一緒に勉強をしてきたから。だから、俺にもやっとわかった。
これは、恋なのだと――。
◇◇◇
中学三年、一学期中間テスト――、182人中39位。同期末テスト、29位。凪原司は順調に順位を上げていった。もともと頭は悪くなかった様子で、和泉まほらと言う優秀な家庭教師の存在もあり、みるみる結果を残していく。夜は毎日3時に寝て、朝は6時に起きる生活を続けた対価として得た成果。
「まほらは?」
「ん?普通に一位だけど」
テストの復習がてら凪原が問うと、まほらはまぁ当然とばかりに答え、凪原はパチパチと拍手をする。
「すげぇよなぁ」
「ふふん、ご褒美もらわないとね」
「じゃあ、お茶でいいっすかね」
凪原はあくびをしながら自販機に向かう。平日の睡眠時間は3時間。土日は少しまとめて眠る。ただでさえあり得ない事をしようとしているのだから、そのくらいの代償は当たり前だと彼は考える。
その凪原の様子をまほらは心配そうに眺める。
「司くん、大丈夫なの?……もう少しちゃんと眠ったほうがいいよ?」
「まぁあんまりやばかったら寝るし、割と慣れてきたから平気だよ」
凪原からすれば、幾つもの習い事の類を並行して行っているまほらの方こそなぜ睡眠時間が確保できているのか不思議でしょうがない。もしかしたら彼女の一日は24時間ではないのか?と本気で考えそうになる。
凪原の家とまほらの家は距離にして14キロ程度離れている。互いの最寄り駅だと知り合いにみられることもあるので、会うときは中間地点で会うことが多い。この日もそうだった。図書館だと会話ができないので、その前に公園のベンチで世間話。ビデオ通話は頻繁に行ってはいるものの、やはり直接会っての会話には敵わない。
声や、表情や、匂い、そしてまほらの纏う画面越しでは表せない空気感が今の凪原の動力源だ。
「睡眠不足に慣れはないから。睡眠負債って言葉知らないの?」
「初耳っすね。なんかヤバそうなのはわかるけど……」
凪原の言葉にまほらはコクリと頷く。
「そうよ。だからちゃんと眠れる時に眠った方がいいと思うな」
まほらは一瞬言葉を飲み込みながらも決意を固めて、ベンチに座る自分のスカートをポンポンと叩いて何かを誘う。
「た、例えば……。ねぇ?」
かなり踏み込んだ積極的な行動。
「え」
行動の意図は明白だ。まほらは赤い顔でじっと凪原を見る。
「あ、じゃあ。お言葉に甘えて」
凪原としても当然やぶさかではない。冗談、と言われたり照れて『やっぱり無し!』と言われる前に錆びたロボットのような動きで頭部をまほらの膝の方へと動かす。
7月上旬。制服はしばらく前に半袖に変わり、ベンチを覆う木陰からは少し早い蝉の声が降り注ぐ。
凪原の頭はまほらの膝の上。互いの心音が身体を揺らすほど大きくなる。
「お休み。ちょっとしたら起こすからね」
「ん」
まほらはいつもより距離の近い凪原の顔を見て真っ赤な顔ではにかみ、凪原の目をハンドタオルで覆う。
「見えないんだけど」
「うん、おやすみ」
まほらはクスクスと笑う。
――眠れるはずないだろ。凪原がそう思ったのは束の間、少しして規則正しい寝息が聞こえてきて、まほらは一度凪原の頭を撫でた。
木々に遮られる初夏の光を眺めながら、まほらは凪原の頬を撫でる。頬は少し汗をかいていた。あぁ、自分の人生でこんなにも満ち足りた時間が訪れるのか、と半ば他人事の様な感慨にふける。
政治家の家系として、男子を望まれ、勉強も、運動も、芸事も、どれだけ成果を出したとしてもそんなものは望まれてはいなかった。一番をとっても褒められないが、一番を取れないと蔑まれる理不尽。もし、自分が男子だったら――。母もあの家で、もっと笑って幸せに暮らせたのか?と何度も思った。
すげぇよなぁ、と凪原は素直に褒めてくれた。もしかすると、それは当たり前の事なのかもしれないけれど。
来年からはもっとこんな時間が続くのかと思うと、なぜだか足をじたばたと動かしたい衝動に駆られるが、折角眠った凪原が起きてしまうのでぐっと堪える。
毎日3時間しか寝ていない。そんな生活でこれから9か月もつはずがない。どう考えてももっと睡眠が必要だ。
「……たまに膝枕してあげないとね」
眠る凪原をいいことに、まほらは一人呟きクスクスと笑う。
このままずっと、いい事ばかりが続けばいいのに――。
一時間もしないうちに凪原は目を覚ました。もう少し具体的に言うと、その少し前から目を覚ましていた彼は狸寝入りを決め込みながらまほらの方へと寝返りを試み、彼女に手で制止された。
「……おはよう、司くん」
「はい、おはようございます。まほらさん」
「あのね、そんな事してるともうしてあげないからね」
まほらが苦言を呈すると、凪原は驚きの声を上げる。
「え、……またしてくれんの?」
「……それは、まぁ。頑張ってる、し……」
そっぽを向き、口をとがらせながら小声でまほらはつぶやく。
夏至に至る前、夕暮れ過ぎでも日は長い。凪原は立ち上がり、背伸びをする。
「ん~、おかげ様でぐっすり眠れたよ。さんきゅー」
「無理はダメだからね、本当。まだ先は長いんだから」
「だな。気を付けるよ」
凪原は一度あくびをする。額に汗をかいている事に気が付き、まほらはハンドタオルで汗を拭った。
そろそろ二人は帰宅の時間。互いの自宅からの中間点。それぞれの帰宅となる。
「それじゃ、気を付けて帰れよ」
凪原は駐輪場で自転車を出して、まほらにヒラヒラと手を振り別れの挨拶をする。
――今日はいいことばかりの幸せな一日だった。だから、手を振り返そうとして、名残惜しさを感じてしまう。
「ねぇ、自転車。ちょっと後ろ乗せてよ」
サドルの後ろの荷台を指さして、まほらは言う。もちろん、自転車の二人乗りがいけないことだということは知っている。
「何でだよ、やだよ。普通に危ないだろ」
極めて常識的な反応の凪原。いつものまほらなら引き下がったかもしれない。でも、この日は違った。いつもより、少しだけ彼女は積極的だ。
「私の膝には乗ったのに?」
後ろ手に組みながら、挑発的な表情で凪原の顔を覗き見る。
「それは……、まぁ」
腕を組み、首をひねって少し葛藤した後で、凪原は諦めた様に息を吐く。
「じゃあ、少しだけだぞ」
まほらはにっこりと笑う。
「うん」
サドルにまたがり、バッグを前かごに入れ、まほらは荷台に横向きに座る。
「ちゃんと掴まってろよ」
「はーい」
まほらは凪原の身体に手を回し、自転車はゆっくりと出発する。目的地はまほらの最寄り駅へと向かう駅まで。
道を行く自転車の振動に、凪原は背中に柔らかいものを感じたが、口には出さなかった――。
凪原は自転車の後ろに和泉まほらを乗せ、駅を目指す。二人乗りがよくないことなのはわかっている。――でも、今日は特別な日だった。
今日はいい事ばかりだった。明日もそうだったらいいな。凪原の背に顔を付けて、まほらは一人頬を緩ませる。
――そして、幸せな日常は、突如終わりを告げる。
寝不足、油断、そして不運。原因は一つではなかった。もし一人だったら、防げていただろうか――だが、そんな仮定には、もう意味がない。
一時停止をして十字路を進むと、勢いよく左側から自動車が一時停止をせずに直進してきた。凪原は前を向いている。横座りをしていたまほらが先に気が付いた。だが、気が付いたからと言って何ができる訳でもない。
「司くん!車――」
瞬間、ガン!と鈍い音と衝撃。世界がスローモーションになった。車は、凪原の左足を経て、自転車に激突。二人は壁に投げ出される。まほらを心配した凪原は振り返ろうとするけども、間に合わない。まほらは凪原を見ていた。凪原だけを見ていた。守らなきゃ。ずっと頑張っていた彼を守らなければ、とまほらは思った。スローモーションの世界で抱き着くように凪原に覆いかぶさり、そのまま二人は勢いよく、壁とアスファルトに叩きつけられる。
そして、再び世界は動き出す。
「まほら!」
全身がバラバラになったような痛み。立ち上がろうとすると左足に激痛が走り、一度崩れ落ちる。車も壁にぶつかりフロント部がひしゃげているがそんな事はどうでもいい。――とにかく、まほらを。
どれだけ痛もうがお構いなしに足を引きずりながら、うずくまるまほらに近づく。
「まほら!」
触れていいのか、ゆすっていいのか迷うと、反応が返ってくる。
「んぅ……ぐぐぅ。……司、くん。ケガ無い?。ごめんね、私の、せいで」
まほらは、痛みに眉を寄せながらも凪原を元気づけるように力なく笑う。凪原を庇おうと両手で彼を抱きしめ、身を投げ出し彼の盾とした。だから、彼女には自らを守るすべは無かった。
「……痛いところ、ない?」
微笑むまほらの右頬は、アスファルトにより大きく抉られていた。そして、真っ赤な血がそれを覆い隠すように止めどなく流れ溢れた。
「馬鹿野郎!俺は大丈夫だ!俺の事なんかいいんだよ!まほらが……!」
痛みなどとっくに感じていない。目からは際限無く涙が溢れる。
「誰か、……救急車。救急車呼んでくれよ!救急車ぁああああっ」
悲痛な叫びが住宅地に響き、初夏の夕方、蝉の声をかき消した。
凪原は救急車の中で、祈るように、ずっとまほらの手を握っていた――。
――左足甲部骨折、及び全身打撲。全治2か月。
これが、この事故での凪原の怪我だ。
原因は相手の自動車のわき見運転と一時停止無視との事だった。目撃者がすぐに119通報を実施してくれて、二人はそのまま救急車で運ばれて入院する事となった。
「じいちゃん、まほらは?」
入院先の病院、ベッドの上で虚ろな顔で凪原は典善に問う。
「あぁ……、まほらちゃんも大丈夫じゃ。心配するな。大丈夫」
それを聞いてほんの少しだけ安心した様子。
「あいつは悪くないんだ。俺が乗せたから。危ないってわかってたのに」
この状態でも相手を気遣うわが孫に、典善の目から涙が伝う。
「わかっとる。二人とも悪くない。……少ししたらお見舞いに行こうな。大丈夫じゃから」
救急車で運ばれる前のまほらの顔を思い出す。右頬から血を流しながらも凪原を元気づけるように気遣った笑顔を。
「……治るよな、まほら」
「あぁ、治るさ」
一週間後、二人は同じ病院に入院しているまほらの病室へと呼び出される。ベッドの上には顔の右半分を痛々しく包帯で覆われたまほらがいて、傍らには母・真尋が座り、泣きながらまほらの左手を握っている。父・秋水と数人の親族が険しい顔で凪原と典善を睨んでいる。
かつてのひだまりの様な笑顔で、いつも楽し気に『司くん』と呼んでくれたまほらは、もうそこにはいなかった。生気を感じず、虚ろな目で、笑顔も怒りも涙も失くしてしまったような、人形のような表情のまほらがいた。
「ま、まほら……」
娘の顔に一生残る傷――その事実を受け入れきれずにいた心が、凪原の姿を見た瞬間、理性の堤防を崩した。
「お前が娘の名を呼ぶな!」
まほらを案ずる凪原の声は彼女の父、和泉秋水の声でかき消される。
政治家であり、現役の閣僚でもある彼は自分の右頬を指で触れ、怒気を抑えずに言葉を続ける。
「右頬がアスファルトで大きく削られているんだ。手術をしても痕は残るだろうと、さ」
怒りを抑える為か、増幅するためか。秋水は短く一度息を吐き、再び声を上げる。
「和泉家の一人娘だぞ!?顔に一生残る傷だぞ!?こんな傷じゃ恥ずかしくて表に出せんだろう!どう責任取るつもりだ、お前ら!」
「……あなた、病院ですよ」
「お前は黙ってろ!」
妻・真尋の制止も聞かず、秋水は感情のままに声を荒げる。
「秋水君、申し訳ない。儂に出来る償いは何でもする。まほらさん、秋水君、真尋さん。本当に、申し訳ありませんでした」
典善はその場に正座をすると、床に手をつき、頭をつく。
親代わりである祖父が床に頭をつけて謝罪をしている。それなのに――。
「おっ、俺も!……俺も責任とります。できることは何でもしますから」
凪原はそう言って、頭を下げる。だが、それは秋水にとっては逆効果だ。彼からすれば綺麗な花を傷物にした害虫以外の何物でもないのだから。
「責任?子供に責任なんてとれる訳ないだろ」
秋水は、冷たい瞳で凪原を見下ろす。
「何もしなくていい。君たちは、もう二度と娘の人生には関わらせないからな」
「お父様」
落ち着いた、と言うよりも無感情なその声は、不思議と病室によく通り、父の罵声を遮る。
「それでは私の気が済みません。こんな……、こんな顔にされた恨み。近づくなで済ませられる訳がないでしょう」
「……どういうことだ?」
父の反応を内心伺いつつ、まほらは言葉を続ける。擁護は火に油を注ぐのは明白だ。このままではもう二度と凪原と会うことはできなくなってしまう。あの幸せだった日を最後の思い出になんてしたくない。涙を流すわけにはいかない。本心を父に悟られたら終わりだ。仮面をかぶれ。何も感じず、動じない仮面を――。
「折角責任を取って何でもすると言っているのです。いいですか?それならあなたは――」
包帯で塞がっていない左目でまっすぐに凪原の目を見る。今にも涙があふれそうなその目を見てぐっと口に力を入れる。――どうか、きちんと伝わりますように。どうか、自分を責めないで。どうか、私を嫌わないで。どうか、いつかまた、あの幸せな日々が訪れますように。
願いを込めた言葉を放つ。
「あなたは私の下僕よ」
もし、運命の赤い糸と言うものがあるのなら。どうか、切れないで、と願いを込めた言葉を放つ――。
◇◇◇
「あなたは私の下僕よ」
和泉まほらの提案を父・秋水は大きく気に入った様子で、勝鬨の様に笑い声をあげて、その提案を受け入れた。一生目の前に姿を現さない事よりも、みじめたらしい下僕となり諂う姿を見ることの方が彼の自尊心を満たしたのだろう。
凪原司の祖父、典善はこの事故の責任を取り、7期の長きに渡り務めた最高責任者――統理の役職を退いた。調整力とバランス感覚に優れた彼は対外的に信頼は厚く慰留の声も多かった。そして、それをやっかんだ次期統理により、宮司を務めていた歴史ある大社を剥奪され、氏子もいない古く寂れた神社をあてがわれる事になる。明確な都落ちだ。
生まれ育った家も手放す事になった。代わる新居は古びた神社にふさわしい古びた家屋である。
「じいちゃん、……ごめん。俺のせいで」
家を手放す日、凪原は泣きそうな顔で祖父に頭を下げた。頭を下げてすむ話ではないことは分かっている。自分は、祖父の全てを奪ってしまったのだと分かっている。
だが、典善の反応は想像とは全く異なった。
「はぁ~?お前何様じゃ、クソガキが」
「え……」
典善は険しい顔で凪原の胸倉を掴み、引き寄せて睨む。
「この凪原典善の70年がお前みたいな小僧にどうこうされると思っとるのか?うぬぼれるのも大概にせい!」
「いや、だって」
「いいか?統理7期なんざ、ハッキリ言って異常じゃぞ?ワシはもっと早く辞めたかったんじゃが、周りがやれっていうからやっとっただけじゃ。氏子さんにゃ悪いが、大社だってこの際どうでもいいわい。家もな。まぁ、池の鯉はちっとばかし惜しいが、ワシと同じ道楽者に全部預けたから安心だ。今のワシにはそんなものよりもっと大切な事がある」
掴んだ胸倉をドンと叩く。
「家同士の責任はこれでトントンじゃ。だからあとはお前たちの話よ。約束したんじゃろ?ワシに最後まで見せてみろ」
堪えていた涙がとどめなく零れる。
「じいちゃん」
「今度の神社は割と鴻鵠館に近いぞ。和泉家にもな」
――ありがとう。俺の為に。凪原が呟くと、典善は「正解じゃ」と笑った。ごめん、でなく『ありがとう』。せいで、ではなく『為に』が正解だ。
引っ越しも無事に済んで時は10月。夏はもうとうに過ぎて、秋も中ごろだ。凪原の高校入試まで、残り4か月。まほらとは、あの日以降あっていない。同じ学校に行くと言う約束を果たさずに、どの面下げて会えると言うのだろうか。
毎日6時間の睡眠を心がける。倒れたら元も子もない。下僕でも、何でもいい。まほらが繋いでくれたか細く脆い蜘蛛の糸。それを手繰る様に、凪原は勉強する。
11月、12月と過ぎる。夏までとは違い一日6時間の睡眠は守られ続ける。集中力や効率も上がっている気がして、睡眠時間を減らせば言い訳ではないんだな、と凪原は一人納得する。今は、一人。でもそれは、あの時まほらが教えてくれた事だ。
まほらからのメッセージは来ない。来るはずがない。写真も、メッセージも、連絡先も、全て消されたのだから。けれど、問題はない。今過去にすがったら終わりだ、と前だけを見て進む。
1月、年が明ける。かつて典善が治めていた大社は東京五社にも数えられる歴史ある神社で、正月は初詣に訪れる多くの人たちで賑わっていた。
今の小さな神社は町はずれにあり、長い石階段の上にある。人は滅多に来ない。凪原は白い息をはいて境内にある賽銭箱の前に立つ。おもむろに財布を取り出すと、中の小銭を無造作に全部入れて、手を合わせる。
願うのは、受験のことか、それともまほらのことか。
そして、2月。試験を終えて、合格発表の日――。
合格発表はオンラインで見ることもできる。それでも、凪原は鴻鵠館高等部に赴いた。
受験番号0432番の紙を手に合格発表のボードを見上げる。
「おめでとう」
番号を見つける前にすぐ後ろから聞きなれた声がした。思わず泣いてしまいそうだったが、凪原は全力で何でもないふりをする。数字を探すのが得意な、自らの『主人』に向かって。
「……ネタバレしないでくれませんかね」
振り返ると、まほらはいたずらそうにクスリと笑う。
「生意気ね。下僕のくせに」
「……あんまり人前でそれ言うなよ」
そういう建前。契約の鎖は、人前で見せてこそ意味がある。
半年振りのその短いやり取りに、二人は内心安堵の息をはく。高慢で傲慢な主人の仮面と、軽薄で従順な下僕の仮面越しにではあるが、二人の明日がまだ続くという事実に心が震えた。
赤い糸ではなく、脆い蜘蛛の糸でもない。きっと、それは二人で繋いだ強固な赤い鎖。
凪原の視線は無意識にまほらの右頬に向いてしまう。見たところ、傷などないように見える。だが、あの事故からたった半年で消えるはずがない事は、凪原もよくわかっている。――それを覆い隠す事が、彼女の選択である事も。
「和泉さんは相変わらずおきれいっすね」
嫌味や皮肉なんかではない。単純に、シンプルな、心の底からの感想だ。
まほらは右頬に手を当て、挑発的に微笑む。
「あら、お上手。しばらく見ないうちにお世辞なんて言えるようになったのね、凪原くん」
「えぇ、おかげさまで」
悲しみと喜びが渦巻く合格発表の片隅で、そんな些事とばかりに二人は笑いあった。互いに呼び名は変わったが、そんな事も些事とばかりに楽しそうに笑いあう。
そして、春。例年より寒い冬は、桜の開花を遅らせる事となり、幸運にも今年度の入学生は満開の桜が祝福する中で鴻鵠館の門をくぐる。
「おはよ」
中等部の制服から高等部の制服に変わったまほらが短く呟く。
「おう、おはよう」
嬉しさをかみ殺してぶっきらぼうに答える凪原。まほらはむっとして口を尖らせる。
「おはようございます、まほらサマでしょ?」
「……おはようございます。女王陛下」
へりくだって頭を下げると、まほらは少し楽しそうに笑う。
「ふぅん、やればできるじゃない」
「あ、これでいいんだ」
――そして、入学式。
中等部を主席で卒業したまほらは、新入生代表として登壇する。そして、挨拶を終えると、俺を見て一瞬わずかにほほ笑みむ、
「あぁ、それからもう一つ」
わざとらしく思い出したように付け加えて、まほらはマイクに向かって言葉を続ける。
「1年C組、凪原司くん。あなたは今日から私の下僕よ。異論は認めないわ」
桜が彩る入学式、和泉まほらは全校生徒の前で高らかに宣言した。俺とまほらを繋ぐ赤い鎖を全生徒に見せつけた。ざわめく体育館で、俺は一人ひきつった笑いを浮かべて呟く。
「……了解、女王陛下」
こうして、俺とまほらの高校生活は幕を開けた――。
ご愛読ありがとうございました。
評価・感想などいただけるととても嬉しいです。
二人の物語の続きがもっと見たい!と言う方は、本編もどうぞ。
https://ncode.syosetu.com/n8899kr/