母の忘れ物
母は家事のせいか体質のせいか、いつも手が荒れていた。手袋をつけ忘れることも多く、そのせいでスマホがよくワセリンの後だらけになっていた。
「またワセリンだらけにして。たまには画面拭きなよ。スマホの画面って結構汚いんだよ。」
少し攻めるような口調で言うと、決まって「うーん」と軽く笑って流される。それがなんだか癪に障って、機嫌を損ねることもよくあった。
あるとき、母の若い頃の写真を見た。私が小学校を卒業する頃にはもう体が大分丸くなっていたけれど、その写真の母はたぶん30手前くらいだったのだろう。細身で顔立ちも整っていたし、肌も驚くほどきれいだった。シワひとつない美人で、なんなら今は輝く父親の髪もちゃんとあった。
「昔、こんなだったんだ」とつぶやいたけれど、そのときは特に感慨は湧かなかった。
一人暮らしをして久しぶりに帰省した。玄関のドアに触れると、手が滑った。ドアノブに母のワセリンが付いていた。
「また手袋忘れたの?」と苦笑いして言ったが、母もいつものように軽く笑って流した。そのとき、私はもう怒る気にもなれなかった。ただ、それがなんとなく母らしいと思えた。
それからしばらくして、母は亡くなった。帰省する理由も変わってしまい、子供ができた報告をする頃には、家には父親だけが残っていた。玄関のドアに触れたけれど、もう手が滑ることはなかった。
年月が経ち、子供が一人暮らしを始めた。父も亡くなり、実家は売ろうという話になった。
最後に実家ドアを開けようとした。私は玄関のドアに手を伸ばしたが、触れた瞬間手が滑った。
「ああ、私も忘れたのか。」
その感覚が、なんだか無性に嬉しかった。
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