アスフール・クラーナ 天竜暦2059年フレイラル
修道女の朝は早い。日が昇るとともに起き、朝の祈りから始まる。
どこの修道院も清貧を宗とする為、夜も日の出とともに一日を終える。特に灯りや暖房の燃料というのは、この北の大地では価値が高いものなのだから。
ここはフレイラル王国の北の果てにある、ヴィータ教会の修道院である。
北の霊峰ラエオラヌに近いこの地は、魔法世界の果てだ。
地竜ダスティライオスが棲むラエオラヌや周辺の森、平野の西には機械人形たちの世界がある。科学という、魔法とは違う技術が支配する世界。鉄で出来た身体を持つ、おぞましい化物たちがいる世界。
科学世界との界境である北西は、北の大地に有名馳せるフレイラル国境騎士団が守っているが、時には戦地になることもあり、科学世界に占領されるようなこともある過酷な地だ。しかし、北東に位置するこの修道院は、戦火に巻き込まれることは多くない。
仮に騎士団を押し込んだとしても、機械人形たちは、王都やスタンレーなどに向けて進軍するからだ。
しかし、安全ではあるが気候が悪く、人が住むのは大変な土地であり、周辺の町や村はあまり栄えてはいない。
ではどうして暮らしているのかというと、この地でも育つ芋を主食に、近隣の町や村から食料や物資を購入して暮らしている。
その資金源は酒だった。
トランという果実から醸造するクラーナという酒は、女神の好む飲み物とされ、王侯貴族も好む高価な酒だ。
芳醇な香りと蜜のような甘さがある、甘味のような酒である。
トランは寒い地域でも育つ。むしろ寒くて地の恵みが少ない土地で作ったものの方が糖度が高く、質のいい実ができる。さらに、クラーナは収穫を遅らせて貴腐菌という菌をつけさせ、実が腐ったトランから作るのだが、その菌が最も酒の味に好影響を与えるのが、この周辺の天候らしい。
故にアスフール修道院が作るクラーナは評価が高い。大量生産というほど作れるわけではないのだが、ヴィータ教の重要な資金源となっている。
今日も朝の祈りと掃除を終え、朝食を済ませた修道女たちが畑に出てきて、トランの世話をしている。
その中に、一際豪奢に輝く金髪をもつ、美しい女性がいた。目つきはやや鋭く、気位の高そうな、あるいは気の強そうな女性である。すらりと細い肢体だが、背が高く、ぴしりと姿勢のよい姿がひどく目立つ。真剣な目でトランの実の状態を確認し、剪定する姿は、トラン栽培の専門家そのものであるが、元は貴族令嬢だった女性である。
少女の名はヴィヴィエンテーラ。かつてはフレイラルの侯爵家の令嬢として生き、第一王子の婚約者だった、やんごとなき身分の娘だった。しかし、次期王妃を巡る陰謀の中で失脚し、王子の想い人に害を成した冤罪を被せられ、このアスフール修道院に追いやられたのである。
一年ほどで容疑は晴れ、身分を戻されかけたが、本人が断固拒否した為、今も修道女として暮らしている。第一王子は冤罪を見抜けずに侯爵令嬢を断罪したことで評価が落ち、侯爵家やその派閥の後ろ盾を失ったことで失脚したという。もしヴィヴィエンテーラが婚約者とて復帰すれば、王子も失脚することなく立太子できる可能性もあった為、王子に対する彼女の復讐と都では言われている。
ただし、実際のところは違う。ヴィヴィエンテーラは昔から一貫して王子に興味もなかったし、貴族社会にも興味がなかった変わり者だったのだ。その興味の対象は酒だった。フレイラルでは十四歳から飲酒が可能になるのだが、誕生日に初めて飲んだクラーナの味に感動し、それからカミェやイェーラを始めとしたあらゆる酒を嗜み、とにかく酒と食にばかり興味を持つ少女だったのだ。
冤罪を被せられた時もどうでもいいと思っていたし、修道院でつくるクラーナが一番好きだったので、その品質において最高の評価があるアスフール修道院に来られるよう操作し、それからというもの、日々美味しいクラーナをつくる為の研究に勤しんでいる。どうせ相手の女も殺されてはいないので、高位貴族の自分が死罪になることはないと分かっていたし、それで面倒な社交界から離れられるなら、それで満足だったのだ。
王子から戻るように言われた時も、心底どうでも良かったので、特に復讐などは考えていなかったが、相手がそれで失脚することもどうでも良かった。
ある日のことである。
新たな修道女が来ると聞いて、少しだけいつもより騒めく食堂。食事を終えた修道女たちの前に、院長に連れられた一人の少女が姿を現した。
淡い水色の、小柄な少女だ。女性らしい起伏に富んだ柔らかそうな身体に、少し垂れた大きな目。既に成人しているだろうに、幼い雰囲気を残す美少女だった。ヴィヴィエンテーラとは正反対の見た目といえるその少女は、気だるそうに食堂を見渡していたが、ヴィヴィエンテーラを見て、驚きに目を見開いた。
「ひぇっ……なんでここに……」
そう、ヴィヴィエンテーラが失脚する原因となった、王太子の想い人だった少女であった。
通常、事件の被害者と加害者が同じ修道院に入れられることなど、当然ながらあり得ない。ヴィヴィエンテーラにかけられた嫌疑が冤罪だったとしても、それは変わらない。なにしろ、どう考えてもお互いにいい印象があるはずもなく、下手をすれば憎しみが高じて揉め事の原因になりかねないのだから。
とはいえ、ヴィヴィエンテーラは彼女にもまた興味がなかったので、内心全く驚かなかったというわけではないが、表情を崩すでもなく、真っ直ぐに相手を見つめるままだった。
二人の視線が交わる間に、院長が少女を紹介する。
「今日から仲間になる、アリエラです。みんな、仲良くしてあげてくださいね。教育係は……そうね、修道女・ヴィヴィ。あなたにお願いしようかしら」
この時初めて、ヴィヴィエンテーラははっきりと不快を現した。眉をぴくりとあげ、口をむっつりと押し上げる。
「院長、わたくしはクラーナ造りに心血を注ぎたいのです」
それは偽らない本音だったが、アリエラはやはり恨まれていると思い、身を縮こませた。
「ヴィヴィ、ここでは皆等しく、様々な仕事をしなければなりません。もちろんあなたの情熱は尊重しますし、酒造りに関わる仕事を多くとることは構いませんが、これもお勤めですよ」
「……承知しました」
そもそも、院長がその辺りの事情を知らないわけがないのだから、何かしら思惑があるのだろう。これ以上抗議しても無駄なことは明白なので、ヴィヴィエンテーラもそれ以上は何も言わなかった。
早速、院内を案内するということで、二人きりにされると、アリエラは勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、ヴィヴィエンテーラ様!……あの、ずっと謝りたかったんですけど、あれ以来お会いすることもできずに……謝って許してもらえることではないと承知しておりますが、本当に申し訳ありませんでした」
実のところ、アリエラは陰謀に関わっていない。元々は田舎の子爵家当主が戯れに侍女と遊んだ際にできた子で、市井で生まれ育った彼女は、素朴で正直な人柄だった。
諸事情が重なり、子爵家に引き取られたのが十二のとき。ろくな教育も受けられぬまま貴族の学園に通うことになった彼女は、少しばかり貴族の常識や礼節に疎く、平民の感覚で人と接してしまい、それが珍しさも相まって、王子の興味を引いただけなのだ。
その後の陰謀については、ヴィヴィエンテーラの生家と敵対する派閥の仕業である。
そして、ヴィヴィエンテーラはそういった裏事情を全て把握していた。
「特に謝られるようなことはされておりませんわ。あの馬鹿王子が馬鹿なことをして、馬鹿な貴族どもが余計なことをしただけ。貴女に咎はないと存じております」
これにはアリエラもぽかんとするしかなかった。なにしろアリエラは、ヴィヴィエンテーラが貴族としての華やかな生活を捨ててでも、王子を引き摺り下ろすほどに憎しみを持っていたと思っていた。その浮気相手が子爵家の平民上がりともすれば、さぞかし恨まれているものだろうと。
「しかし、ヴィヴィエンテーラ様はもう五年も、こんな北の果てでお勤めを果たしておいでです。その原因はやはり、わたしにあるかと……」
「え? 別にあんな陰謀、何の苦もなく潰そうと思えば潰せましたわよ?」
「え?」
「え?」
こうして、二人の少女はお互いの情報をすり合わせたのだった。
「なんだ、じゃあヴィヴィエンテーラ様はお酒が造りたくて、ご自分からここに留まることをお選びになったのですね。よかったぁ〜、あれ以来、毎日ヴィータ様に罪を懺悔して許しを乞う毎日だったものですから……」
「ごめんなさいね、社交界のつまらないことは、さっさと忘れたかったものですから。てっきりあなたのことも、お父様が良きに計らっているものと」
「ああ……。わたしもあの、どろどろとした世界が本当に無理で……。貼り付けたような笑顔で腹の探り合いをして、歯の浮くような台詞でキザな男に口説かれて、一体何が楽しいのかしら……。本当にうんざりして、家を捨てて出てしまいました」
なんと、アリエラも似たような考えでここに来たらしい。とはいえ、どの修道院に入るかまでは自分で選んでいないので、誰かしらの思惑があるのだろうが……。
(ま、どうせ下らないことでしょう)
ヴィヴィエンテーラは興味がなかったので、それ以上考えることをやめた。
「でも、良かったです。これからは畑いじりをして、穏やかな毎日が過ごせそう」
「あら、畑仕事に興味があったの?」
「はい! なにしろ子爵家に引き取られる前は農家でしたから」
「なんですって?」
つまりは、院長は優秀な人材をヴィヴィエンテーラの直属の部下として連れてきてくれた、ということらしかった。
ヴィヴィエンテーラはその日の夜、院長の部屋を訪れ、深い感謝を示し、実家にいつもの分とは別で寄進させるように手配することを約束した。
院長は穏やかな笑顔で、金額を指定したのだった。かなりの高額だった。
トランの実は、ある程度剪定して実を少なくした方がよい。その方が糖分が集中し、品質のいい酒になるからだ。この剪定の良し悪しは、酒の味にかなりの影響を与える。
ヴィヴィエンテーラはこの剪定の感覚も絶妙で、さらに土壌の魔法的栄養分なども事細かに解析し、試行錯誤を繰り返している。彼女が来てからというもの、クラーナの品質はさらに向上していた。
最近ではアリエラも加わり、その試行錯誤は加速している。アリエラは非常に優秀な農業従事者で、ここに来るまでは畑仕事をしたことがない者が大半だった修道女たちより、その知識や経験は深い。
そうして、気付けば季節は冬に入っていた。。厳しい寒さになってきたが、やっと貴腐菌が適度についたところだ。今日は遂に、収穫の日である。
ヴィヴィエンテーラは、今年のトランは本当にいい出来だと思っている。糖度が素晴らしく高いので、酒精の強い酒になるだろう。つまり長期熟成にも耐える。熟成は味に深みを与える。恐らく、果実由来の香りも見事な芳香になるだろう。
今から完成が楽しみだったし、すぐに飲んでも美味しいだろうが、実家に頼んで地下の保存室で数年は寝かせて、何年も味わいたい。
実際、この年のトランで造ったクラーナは、それはそれは素晴らしいものだった。樽から最初に試飲した際は、感動と誇らしさで体が震えた。
さて、瓶詰も終わり出荷の手配をしていた時のことである。修道院に珍しく来客があった。院長の古い知り合いらしく、客室に滞在している。結構な金額を寄進してくれるそうで、くれぐれも丁重に対応して欲しいとのことだった。この修道院には元貴族や貴族に仕える階級の者だった修道女が多い。もてなしは誰がやっても間違いがないものなのだが、何故かヴィヴィエンテーラとアリエラが指名された。
(面倒ですわね……。まぁ、出荷の手配もあらかた済みましたから、時間はありますけれど)
その客は、若い女だった。院長の古い知り合いというからには、壮年か高齢の人を想像していたから、これにはヴィヴィエンテーラも驚いた。いったい、いつの知り合いというのだろう。
「初めまして。あたくしはレイアといいます。今年のクラーナを試飲したくてここまで来たの」
黒く艶やかな髪と真っ赤な瞳を光らせて、女は言った。ふと、伝説の大魔女のことを思い出したが、まさかと思い考えることをやめた。
「そうなのですね。今年は本当に素晴らしい出来になったと自負しております。では、醸造所にご案内いたします」
アリエラは礼だけして、ヴィヴィエンテーラに対応を丸投げした。実際、アリエラは貴族だったとはいえ、あまり教育されていない下位貴族だ。要人であるなら、何故指名されたのかが分からない。面倒ごとを避けるため、ヴィヴィエンテーラもアリエラに何かさせるつもりはなかった。
醸造所にて、木樽からクラーナを注いで渡すと、女はゆっくりと味わい、頬を紅潮させた。
「素晴らしいわ。見事な剪定の嗅覚ね。収穫時期も完璧だし、醸しも見事。これは、二十年後が最高の飲み頃になりそうね」
これに、ヴィヴィエンテーラは驚いた。確かに十五年以上後が最高の飲み頃になると思っていたからだ。二十年という年がどれだけ正しいかは分からないが、かなり酒に精通しているようだ。
女はガレッドの乳から作った乾酪も楽しみ、また来ると言って去っていった。
「院長、あの方って、まさか本当に……」
院長は、笑うだけで答えなかった。
それからも、ヴィヴィエンテーラはアリエラとともに酒造りに邁進した。いつしか二人は親友となった。
ヴィヴィエンテーラは世話になった院長が亡くなってからは自らが院長となり、死ぬまで修道院で生きた。
アリエラはある時、街で出会った青年と恋に落ち、還俗して街へ住んだが、いつまでも頻繁に顔を出した。
大魔女は毎年、新酒が樽に詰められた頃に来るようになった。
初めて会ってから二十年後、あの時のクラーナを最高の飲み頃に開けた時は、ほらね?と言わんばかりの笑顔でヴィヴィエンテーラに笑いかけた。ヴィヴィエンテーラが老いて死ぬ時まで、その美しさは変わらないままだった。
アスフール・クラーナはアリエラが来て数年後の辺りから、世界最高の酒として評価されはじめる。それからというもの、数百年後も変わらぬ伝統を守り、変わらぬ製法で作られ続けた。大魔女の最も愛する酒としても、半ば伝説のように知られている。
魔法世界の酒賢者や科学世界のソムリエという、酒の専門家たちは、アスフール・クラーナについて勉強する時、必ず酒に生き、酒に死んだ『酒の聖女』ヴィヴィエンテーラを知ることになる。